理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

90 ヤマト国の伸張(1)纒向のクニからヤマト国へ

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 今回から数回に分けて、纒向に発祥した中小土着勢力による連合体(纒向のクニ)が 大和盆地内で最大勢力の「ヤマト国」になり、その後、周辺へ、そして広域へと影響力を拡大して、ついには「ヤマト王権」にまで成長していくプロセスについて詳述します(第45回ブログで少々言及したが……)。
 これからの数回で取り上げる対象時期は、おおむね3世紀末から4世紀までとなります。

 「古代の技術と交通インフラ」に着目する古代史において、「ヤマト国の伸張」は核心的な部分に当たりますが、考古学界の多数説と大きく異なる内容でもあります。

3世紀後半から機能し始める地勢上のネットワーク
 2世紀には磯城、宇陀、葛城、春日あたりにもムラがたくさん存在していましたが、纒向は空白地帯でした。互いのムラは接触空間を広げ、水利や土地をめぐる争いが絶えません。
 そのような状況の中で、唐古鍵大集落からはみ出た有能なカリスマ(神武とは言いませんよ)が、過疎地だった纒向の地に移動して周囲のクニ・ムラを取り込み、3世紀半ば過ぎに、この集団はクニ(纒向大集落)に成長します(第82回、85回ブログ)。
 このシナリオは考古学的な裏づけはなく、筆者の仮説なのですが、1~3世紀には、畿内に限らず日本各地で、狭隘化した居住地を捨てて新たな原野を開拓するような動きがあったことが、考古学的にも認められています(気象の激変がもたらしたムラや社会の変動は第39回ブログ参照)。

 纒向大集落は河川や運河で各地と繋がり「対外的に開かれた大集落」です。
 纒向を拠点とする広範なネットワークがあったことは間違いなく、まさに、このことが「纒向のクニ」が「ヤマト国」に、さらに「ヤマト王権」として発展する大きな要因になりました。

 ただし3世紀半ばまでの纒向は、九州北部からの土器や、シナ大陸との交流を示す遺物の出土例が少ないので、これら先進地域との通交はあまり活発でなかったと考えられます。
 当然、この時期の纒向は日本列島の中心的なクニではありませんでした。

 この時期の大和地域に関する考古学界の中心的な捉え方は、『弥生時代の歴史』を著した藤尾慎一郎氏による以下のような表現から知ることができます。

 <3世紀になっても近畿中央部における鉄器の出土量は依然として低いレベルで、九州北部が他を圧倒していた>。

 <したがって生産力発展のあとに政治的な中心が生まれて古墳時代が始まったと考えるのには無理がある>。

 <3世紀半ばと言えば、箸墓古墳が築造され、祭祀・政治の中心が大和盆地東南部(纒向)に完成している時期なので、列島における「祭祀・政治の中心」と「生産・経済の中心」は、ずれていたことになる>。

 <現在の学界は、古墳時代の始まりを経済的な転換ではなく、政治・祭祀的な転換として描く傾向が強くなっている>。
 
 しかし、筆者は思います。
 3世紀半ばにおいて、祭祀・政治であろうと生産・経済であろうと、纒向の地を「日本列島の中心」というように表現することは、まったく相応しくないと思います。
 3世紀の半ばは、すでに列島のあちこちに有力なクニが出現しており、後発の纒向がそれら先進地域を追いかけるという時期です。とても列島の中心といえる状況ではありません。

 考古学界は、「古墳時代の始まり」「纒向」「日本列島の中心」「3世紀半ば」「邪馬台国」という5つのキーワードを科学的な証拠もなく強引に結びつけているだけで、滑稽ですらあります。

 また、3世紀半ばの纒向の地が「日本列島の中心でなかった」ことは是としつつも、その理由として、近畿南部社会は、文明の波が強まる初期金属器段階を迎えても、西方社会とは異なる銅鐸などの青銅器や石製短剣をはじめとする石器を、文明に抗う社会装置として重用して、それまでの社会秩序を維持したと言うのは寺前直人氏です。
 権力集約型の社会統合の流れは、近畿南部を避けるように東へ、北へと拡大し、近畿南部はその流れに一人取り残されたと言います。
 それまでの強い王を生まない平等な社会秩序を維持することに成功したがため、鉄器の過疎地帯になりはてたと……。

 しかし、これはいささか考え過ぎではないでしょうか……、いくら縄文文化を引きずった弥生末期であろうとも、先進的文明やその象徴である鉄器が目の前にぶら下がれば、近畿南部の人びとは躊躇なく飛びついたであろうと筆者は思うのです。

 寺前氏自身も、「磨製石斧をつかった場合、切り倒すのに12分かかった樹木が、鉄斧をもちいた場合、3分で伐採できた」と、伐採実験の結果から引用しています。鉄器を入手できた集団は、それまでの4倍の面積を開墾したり、4倍の量の建築部材を入手できるわけです。このことを実見すれば、むしろ弥生末期の人びとはことごとく鉄器を欲したのではないでしょうか。

 近畿南部が鉄器の過疎地帯であったのは、彼らが鉄を欲しなかったからではなく、大和盆地が地勢面で閉鎖的であったという理由から、情報のキャッチにタイムラグがあり(主たる情報入手ルートは近江方面に限られていた)、先進文化に対する感受性が働かなかったからではないでしょうか。
 当然、天与の、地勢上のネットワークを機能させるモチベーションも起こりません。 
 第35回ブログで「文明の流れが西から東への一方通行ではなく、東から西への流れもあった」という寺前氏の切り口を面白く感じた旨記したのですが、この論考だけはいただけません。


 ともあれ、3世紀半ば過ぎに「クニ」に成長した集団は、3世紀末には「ヤマト国」という大規模集団に成長します。やがて3世紀後半から4世紀にかけて、ヤマト国はこの地勢上のネットワークを駆使して周辺に影響力を拡大していきます。


大和盆地東南部で相次ぐ巨大古墳の築造
 巨大前方後円墳の出現と統一国家の成立はイコールではありません。このことはまったく証明されていないし、前方後円墳の分布をヤマト王権の版図に結びつけることにも無理があり、4、5世紀になっても列島各地に独立した勢力が分立していたというのが正しい理解でしょう。そういう認識の下で、大和盆地を眺めてみます。

 大和盆地の東南部に展開したおおやまと古墳群(纒向古墳群・柳本古墳群・大和古墳群)には、後円部径が50メートル以上の古墳が22基もあり、100メートルを超えるものが10基前後あります。


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<おおやまと古墳群(坂靖氏の著作から改変転載)>

 これについて松木武彦氏はかつて、「ここに6~7の首長の系譜に符合する古墳の集合が確認できる。この地域の人口や生産力からみて、この地域だけで多くの首長系譜が存在することはできないので、大和盆地内の他地域にとどまらず、広く近畿各地の首長系譜を想定した方がよい」と述べています。

 が、筆者は大反対です。
 4世紀半ばまでに大和盆地の外にあたる近畿各地の王たちを政権内に取り込んだとはとても思えません。
 4世紀半ば頃まではヒメヒコ制が続いていた可能性があり、男の王もいれば女の王もいる双系であったことを考慮すれば、それら古墳の集合は、およそ3~4世代にわたる王と巫女、王の近親者たちを祀った古墳群であると考えます。


 ここには、4世紀半ばまでの50~60年ほどの間に200メートル超の巨大古墳が陸続として築かれていきます。

 古墳の築造時期は不確定要素が大きく、研究者による様々な見立てがありますが、一例を示せば下記の通り。

〇 4世紀初め、西殿塚古墳(墳丘長234メートル)
〇 320年頃、桜井茶臼山古墳(207メートル)
〇 330年頃、行燈山古墳(242メートル)
〇 350年頃、メスリ山古墳(224メートル)
〇 360年頃、渋谷向山古墳(302メートル)
〇 箸墓古墳(278メートル)の築造も、通説では260~280年頃とされますが、3世紀末から4世紀前半頃まで繰り下げて考える方が真実に近いようです(第84回ブログ)。
 
 とすれば、大和盆地東南部で200メートル超の巨大古墳が陸続として築造されるのは、纒向集落が発祥した3世紀初めから約100年以上経ってからということになります。

 『記・紀』に記載される三輪山三代の天皇の在位は諸説ありますが、仮に第19回ブログに記した高城修三説から抜き出すと、崇神が西暦284~290年、垂仁が290~307年、景行が307~336年となり、これら巨大古墳の築造時期と大きな違いは見られません。

 これによって、これらの天皇の実在が証明されるわけではありませんが、いずれにしろ有能でカリスマ的な王の連続出現で、「纏向のクニ」の勢力圏は、下図に示す「おおやまと」地域という広い範囲に拡大し、ここにはじめて「ヤマト国」の姿が現れたと考えられます(第85回ブログ)。

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<おおやまと地域(ヤマト国)>

 3世紀末から4世紀初め頃と想定されますが、もちろん、この時点で唐古鍵をはじめとする環濠集落は解体されていて「ヤマト国(おおやまと地域集団)」の一部に組み込まれています。

 その後、ヤマト国は、大和盆地内の有力地域集団との合従連衡に動きます。
 「おおやまと」地域のすぐ北、石上神宮のある布留に構えた「ふる」地域集団さらに北、春日大社や東大寺のある春日を地盤とする「わに」地域集団、大和盆地南西部の葛城地方に展開した「かづらき」地域集団との連携です。
 この連携により、ヤマト国は、大和盆地内の実質的な盟主になります。


山の辺の道
 下図に示すように、「おおやまと」地域集団(纒向・柳本・大和)、「ふる」地域集団、「わに」地域集団を結んで南北に「山の辺の道」朱線)が通じています。

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<武光誠氏の著作を改変して転載>

 

 纒向から北へ延びる「山の辺の道」は、いつ頃から存在したのか不明ですが、4世紀のヤマト国による大和盆地統一に大きな役割を果たしたことは間違いありません。ヤマト国の王が物部集団や春日集団と連携するために必須の古代ハイウエイだったと言えるでしょう。
 5世紀になるとヤマト王権の中心が河内平野に移り、それ以降、山の辺の道のうち、石上神宮から北の部分は衰えてしまい、現在では正確に辿ることは出来ません。おおやまと地域と春日地域を結ぶ道の必要性が薄れたためと思われます。

 JR桜井線の三輪駅の東南に海石榴市跡があります。そこから北に延びる山の辺の道を辿ってみると、まず三輪山をご神体とする大神神社(おおみわ)があり、狭井神社檜原神社と続き、すぐ西には箸墓古墳があります。柳本に入ると景行天皇陵、崇神天皇陵があり、さらに進めば大和神社(おおやまと)というように、わずか4キロほどの間に多くの重要な史跡が集中しています。
 さらに北にとると、布留の石上神宮へ、なおも北進すれば東大寺のある春日の地へと続くわけです。古代史愛好家にとっては垂涎の地ですよね。

 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)は、明治より前は神坐日向神社(みわにいますひむか)だったことから、古代の三輪山では、太陽崇拝をベースにした原始的な祭祀が行われていたことが考えられます(第16回ブログ)。
 また、大神神社にまつわる疾病よけの祭は有名で、摂社の狭井神社で4月に行われる鎮花祭(はなしずめのまつり)と、春日の地にある率川神社で6月に行われる三枝祭があります。山の辺の道を介して三輪と春日が古くから密接につながっていた証しとされています。
 古代史愛好家には実に魅力的な祭といえますが、一口に「古くから」と言ってもいつ頃からの行事なのでしょうか。奈良時代や平安時代には始まっていたようですが、3、4世紀の頃から続く行事と考えるのは無理があるようです。

 何しろ、アマテラスを祀る檜原神社でさえ、相当古くから鎮座していると思われますが、実は江戸時代初めに伊勢神宮の神官、荒木田氏が「崇神が笠縫邑で初めてアマテラスを祀った」という『日本書紀』の記述にちなんで創始したものなのですから(第15回ブログ)。

 肝心の大神神社については、創始や歴史にまつわる興味深い多くの情報があるので、いずれ「有名古社シリーズ」として言及する予定です。はっきり言えることは、3、4世紀の頃の祭祀と、現在まで続く祭祀はまったく異なるものだということです。


崇神の登場と版図の拡大
 大和盆地の東南部には、東側に纒向、西側に田原本(たわらもと)や三宅、東南側に三輪、北側に柳本の各集落があります。
 纒向を中心としたヤマト国の王宮は、『記・紀』によれば、崇神は磯城瑞垣宮、垂仁は纒向珠城宮、景行は纒向日代宮とされています。
 しかし、確実な王の居館をはじめ大勢の取り巻きたちの住居の存在も、今日まで確認されていません。
 この時代の王宮は、歴代遷宮と言われるくらい、代々あちらこちらと移動していますし、王宮(もっとも、宮という概念は後世のもので、これらの王宮名も6世紀中頃に作られたものですが)そのものも、竪穴住居と家来の住居が幾つか、それに少しばかりの倉庫がセットになって方形区画のなかにおさまったような小規模なもの、藤原京や平城京とはまったく異なります。


 また崇神・景行の陵とされる前方後円墳(行燈山古墳・渋谷向山古墳)は、纒向のすぐ北にあたる柳本古墳群の中にあります。
 これらの比定が正しいとは思えませんが(むしろ崇神陵は当時の最大古墳である箸墓と言いたい誘惑に駆られます)、まずは『記・紀』の記述を素直に受け取り、3世紀末以降の纒向には、(大王の固有名は別として)三輪山三代の存在を認めるべきと思います。雄略の在位が457年から479年とされていることからみて、この時期における崇神のような王の存在もほぼ妥当なものでしょう。シナの文献を曲解してまで邪馬台国に拘るのは滑稽です。

 ちなみに、崇神・景行の陵は、後世、すでに大和盆地東南部に存在していた古墳をこれにあてたのであって、実際にどの古墳であるかは別としても、『記・紀』が記す陵の位置にはある程度の整合性が見られます。
 現在、行燈山古墳は崇神陵、渋谷向山古墳は景行陵ということで落ち着いていますが、江戸時代には崇神陵は行方不明、景行陵は御墓山古墳とされていた経緯もあります。

 ここでは仮に崇神と言う名を使っているわけですが、その崇神の時代に産声を上げたヤマト国は、3世紀末までに、大和盆地東南部から盆地内全域へ膨張を始めたと考えられます。
 『記・紀』には、四道将軍による長距離遠征の記事が見られますが、ヤマト王権によるこの時期の広域支配は史実ではありません。

 ヤマト国が飛躍できた要因のひとつは、大和盆地の有力集団であった物部氏や春日氏の先祖筋集団との親密な連携でした。
 3世紀末には「おおやまと」地域の北に拠点のあった物部集団と、4世紀初頭にはさらに北方の春日集団と緩やかな同盟関係を構築し、4世紀半ばには従属させたと考えられます。
 物部氏・大伴氏や、春日集団から派生した和珥氏は、5、6世紀以降のヤマト王権を強力に支える有力豪族に成長します。

 春日集団には多くの支族が存在するようです。
 和珥氏、柿本氏、大宅氏、櫟井氏、小野氏、粟田氏などで、一族の勢力圏は後に、大和盆地東北部の「わに」地域から南山城を経て近江の付近にまで広がります。
 なかでも有力だった和珥氏は、『記・紀』の描くところでは、政治的に突出することなく、王権(大王家)に多くの妃を出して、親密な関係を築いたようです。

 ヤマト国(ヤマト王権)はやがて4世紀末には葛城氏をヤマト王権に取り込むことになります。


先進的な文化・技術を求め、膨張を始めた4世紀のヤマト国
 3世紀になっても、近畿中央部における鉄器の出土量が依然として低いレベルだったのは間違いありません。
 3世紀末の纒向遺跡の鉄器生産は鏃などの小型鉄製品に限定されますが、「おおやまと」地域の4世紀の古墳には大型の鉄製武器が副葬されています。
 これをもってヤマト王権が列島の広範囲を支配下に置き、朝鮮半島やシナと直接的に交易するようになった証拠とする論考が見受けられます。

 しかし、4世紀半ばになってもなお、ヤマト国は大和盆地からその外縁へと足を踏み出し始めたばかりというのが古代史の正しい理解です。
 大型の鉄製武器はシナや朝鮮半島からの舶載品で、それがヤマト国の古墳に副葬されていることは、そこに介在した勢力があったと考えられます。

 大和盆地東南部のヤマト国と海外を結びつけたのは、「ふる」地域の勢力、「わに」地域の勢力であって、4世紀後半になれば、ここに「さき」地域の勢力(もう一つの王権かも?)や「かづらき」地域の勢力が加わります。
 次回のブログでそのプロセスを確認します。

 

ちょっと脱線、「アフガン崩壊」に思う!
 菅総理が退陣を表明されました。
 コロナ渦の中、途中で政権を放り出し無責任だという声もあるようですが、ロックダウンのような強力な武器を持たない限り、誰がトップであってもそう簡単にはコロナ騒動の収束はないでしょう。むしろ菅総理はワクチン接種のスピードアップの他、様々な改革をよくやった、あるいはやりつつあったと思います。

 そんな中で、アフガニスタンからの日本人と現地スタッフの救出失敗は菅政権最大の失策だったと思います。韓国からは「カブールの恥辱」と揶揄されてしまいました。
 本来、危険地域での活動は自衛隊が担うべきなのに、自衛隊の海外派遣に対する(マスコミ、左翼が主導する)国民のアレルギーが強く、菅政権は速やかな派遣に躊躇してしまったということでしょう。非常時にこの体たらくでは外交官や国民は安心して海外拠点での活動に勤しむことが出来ません。
 ギクシャクしたコロナ対応をはるかに上回る最大の汚点!

 これについては、アフガン国軍の崩壊が想定を超えるスピードであったという弁解がありますが、もともとアフガンでは中央集権的な国軍が機能しなかったというのが事実のようです。アメリカの期待に反して、ガニ政権の国軍部隊はタリバンに打ち勝てるだけの戦闘能力に欠けていたといいます。
 アフガンはいまなお「前国家状態」にあり、パシュトゥン族やタジク族など、それぞれの部族への帰属意識はあっても「アフガン人としての国民意識は希薄」ということが現在の惨状を招いたようです。
 アフガンのような国ではむしろ、部族ごとの連隊を編成すべきで、部族の結束を基盤とする組織にすれば、高い戦闘力を発揮できたともいわれます。

 3、4世紀の古代史を紐解いている筆者としては、当時のヤマト王権の権力構造は、形だけ見れば今のアフガンに似ているような気がします。アフガンの「部族」とヤマト王権時代の「豪族」とは学術的な意味ではかなり異なるのでしょうが……。 

 この時期の日本列島はまさに「前国家状態」で、ヤマト王権は、大和盆地内の豪族(アフガンに照らせば部族)たち、さらには各地の首長(部族)と巧みに手を結び、彼らの統治力や軍事力を利用しながら徐々に版図を拡大していったという構図が浮かんできます。

 

参考文献
『古墳解読』武光誠
「倭の大王と地方豪族」『古代史講義』須原祥二
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代豪族』洋泉社編集部
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『古代日本誕生の謎』武光誠
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
『物部氏の拠点集落 布留遺跡』神泉社
『前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか』吉村武彦他編集
『文明に抗した弥生の人びと』寺前直人
他多数