理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

91 ヤマト国の伸張(2)大和盆地内の連携

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 「纒向のクニ」を起点に、大和盆地東南部の「おおやまと」全域に勢力を拡大した「ヤマト国」は、3世紀末頃から、盆地北部の有力集団との連携に動き出します。

「ふる」地域集団との同盟関係
 「おおやまと」地域のすぐ北は、石上神宮(いそのかみ)のある「ふる」地域になります。
 大和川支流の布留川下流部(天理市)には、弥生時代の大規模環濠集落「平等坊岩室遺跡」がありました。3世紀には環濠内に方形区画が出現し、「ふる」地域を支配した王の居館があったと想定されています。

 3世紀半ばまでに「平等坊岩室」の環濠は消失し4世紀に集落全体が衰退すると、入れ替わる様に布留川上流部に「布留遺跡」が出現します。
 この遺跡は布留式土器の命名の由来となった遺跡としても有名!

 布留遺跡内には、4世紀半ば過ぎに日本最大の前方後方墳である西山古墳(墳丘長183メートル)が出現します。「ふる」地域を支配した王の古墳と想定されます。
 布留遺跡は、5世紀後半にかけて巨大集落(規模は3㎢)に成長し、大和盆地における有力集団の支配拠点となります。

 
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 <ふる地域>

 この有力集団は、石上神宮とつながりの深い物部氏の集団と言いたいところですが、話はそう簡単ではありません。

 当地に3、4世紀頃から、後にヤマト王権を強力に支えることになる物部氏が住んでいたという証拠はどこにもありません。
 第80回ブログでは「物部氏の活動が実態を伴なうのは6世紀代以降」と記しました。
 また、「布留地域に構えた物部氏(の先祖筋)のもとに4、5世紀頃から武器が集積され、それを6世紀の物部氏がみずからの祖先のものとみなし、天武天皇以降に後裔の石上氏が石上神宮の神宝として管理するようになった」とも記しましたが、これに少しばかり補足します。

 物部氏の「先祖筋」というのは、必ずしも血統的につながっている先祖を意味するわけではありません。実は文字記録のなかった5世紀より前のことはほとんど分かっていないのです。
 そもそも物部氏は、「物部」と名乗る多くの豪族の集合体であったようでもあり、現実に多くの支族が存在します。

 第80回ブログでは「先住の神ニギハヤヒ」として、物部氏とニギハヤヒの関係を記しましたが、ニギハヤヒやウマシマヂを祖とする伝承は後世、加上されたもので、物部氏ないしはその前身集団の事実上の祖はイカガシコヲトチネであったのではないかとされています。

 さらに言うならば、石上神宮は物部氏が当初から関係したわけではなく、春日氏系の支族が祀っていた神社に、後から物部氏が(本貫地である河内から?)乗り込んできたという説も存在します。その時期は5、6世紀以降とも、継体が大和入りした時期とも言われます。

 「おおやまと」地域との関係については、「平等坊岩室遺跡」の環濠が3世紀半ばまでに消失することから、当地の王(物部氏とは言い切れませんが)と「おおやまと」地域の王が、3世紀末までには緊密な同盟関係に入ったのではないでしょうか。

 「おおやまと」地域の古墳から出土した遺物の中には、シナや朝鮮半島で生産された大型の鉄製品や、シナの文化を受容したうえで新たなアレンジを加えたものがあります。
 4世紀前半までのヤマト国が、自力でシナ大陸や朝鮮半島と直接交易できたとは考えられないので、この交易には、「ふる」地域集団や、このあと言及する「わに」地域の集団が介在したことが考えられます。

 ヤマト国は彼らと同盟関係を結び、次第に服属化させて、先進的な文物を入手する一方、経済基盤を強化し、大和盆地内において盤石な体制を築いたものと考えられます。
 「ふる」地域との親密な同盟関係は3世紀末頃までに築かれたと考えて良いでしょう。

 5、6世紀以降は「ふる」地域を拠点とした物部氏が、河内の物部氏と連動して、大和川水運を押さえ、ヤマト国の首長霊祭祀(三輪山祭祀)で鎮魂(みたましずめ)の呪術を主導し、ヤマト王権内で重きをなします。
 大伴氏とともに、物部氏が6世紀以降のヤマト王権発展に貢献したのは史実と言えましょう。


石上神宮に伝わる「七支刀」
 物部氏にゆかりの深い石上神宮の宝庫には七支刀(しちしとう)などが神宝として所蔵されて伝わっています。
 これらは4世紀後半の遺物で、百済からの舶載品とされています。
 七支刀の銘文からは、泰和4年(369年)につくられ、百済王世子が倭王に贈ったものと判読できます。

 一方、『日本書紀』神功皇后摂政52年には、
<百済人の久氐(くて)等、千熊長彦(ちくまながひこ)に従ひて詣り、則ち七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び種々の重宝を献る>

とあり、百済と倭国の同盟を記念して、百済から七枝刀・七子鏡が贈られたとの記述があります。
 この年が紀年論では372年にあたるので、年代的に『日本書紀』の記述と七支刀の銘文の対応関係は一致するようです。

 4世紀半ば過ぎ、高句麗の攻勢に危機感を抱いた百済はシナ東晋と結びつき、一方、先進的文物の存在を知った4世紀前半のヤマト国は、海外の諸勢力との通交や連携を強く求めるようになっていました。
 360年代にはヤマト王権(ヤマト国が成長)と朝鮮半島南端部にある伽耶諸国との交易が盛んに行なわれていた可能性があります。

 さらに、ヤマト王権は、シナの先進文化を取り入れた金銅製の装飾品や上質な工芸品をたくさん持っていた百済との交流を強く求めており、一方、百済と交流のあった伽耶の卓淳国(とくじゅんこく)から日本の意向を伝えられた百済王が、高句麗と対抗するために日本と同盟を結ぼうと画策したものと考えられます。
 百済が、勢力を高めつつあったヤマト王権とのさらに強い同盟を求め、七支刀を贈ったということでしょうか。

 4世紀後半のヤマト王権の中核拠点は大和盆地東南部ではなく、奈良山越えや木津川経由の交易に有利な大和盆地北部(さき地域)に存在した可能性が考えられます。
 七支刀が物部氏ゆかりの石上神宮に所蔵されていたことから推すと、北部にあった王権とともに「ふる」地域の集団(のちの物部氏)がその外交的役割を負ったものと考えられます。

 前例のない七枝の剣の形式は、369年の日本軍による比自㶱(ひしほ)など七国の平定を記念するため、献上品として選ばれたという見解もあり、面白い見立てです。

 また、一般的に七支刀は百済王が服属の証として献上したと解釈されますが、銘文のどこにも献上を意味する文言はありません。
 献上説に対して百済王からの下賜説も主張されています。
 なぜなら高句麗の攻勢に四苦八苦だった百済は、369年の頃は勢力を盛り返し、371年に百済軍は平壌に侵入し、高句麗の故国原(ここくげん)王は戦死しています。そうした百済側の高揚した状況も考慮する必要があるでしょう。

 「百済王が倭王に贈った」との解釈が定説とされていますが、これについても製作の主体が「百済王」ではなく、「百済王世子」であったことも見逃せません。

 七支刀本体の製作についても、泰和4年(369年)に百済で製作されたという解釈が定説となっていますが、他にも様々な解釈があります。
 もともと東晋から百済に贈られた原七支刀があり、それをもとに百済で鋳造されたものがヤマト王権の王に贈られたという説や、表の銘文は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれたという説など……。
 このように解けない謎はたくさんあります。

 ただ、明確に言えることは、このような経緯で、4世紀半ばには百済と日本との国交が始まり、日本(さき地域の王権)は百済の求めに応じて、しばしば百済に援軍を送ったと思われます。4世紀半ば頃から存在感が際立つ「さき」地域の王権については、この先のブログで言及します。


「わに」地域集団との同盟関係
 「ふる」地域をさらに北に進むと、春日大社や東大寺のある春日地域を含む「わに」地域に入ります。
 当地域の有力集団は、弥生後期の集落を起源とする和爾遺跡群を拠点とし、菩提仙川下流部の農業生産と背後の丘陵の林業生産を経済基盤にしながら、5世紀に向けて継続的な生産活動を続け、ヤマト王権の外交を担ったと考えられます。

 当地は和珥氏の拠点ですが、当地の集団が当初から和珥氏と呼ばれたわけではありません。
 5世紀以前には血縁的系譜をもとにした政治的活動は認められず、(物部氏と同様に)当地の有力集団を祖と仰ぐ新たな氏族が6世紀頃から和珥氏と呼ばれるようになったと思われます。

 「わに」地域は、大和川の支流である菩提仙川の中流域沿いに2~4世紀の和爾遺跡群(3㎢の巨大集落)があり、近くには4世紀中頃の東大寺山古墳和爾下神社古墳があります。
 「わに」地域集団の勢力範囲は、木津川の支流である白砂川一帯まで広がっていたようです。笠置山地の西側に沿う白砂川上流部には林業・製材にかかわる矢田原遺跡があり、木津川を経由して近江・南山城方面との通交が盛んでした。

 先進文物の入手に執心する3世紀末以降のヤマト国にとって、この地域はとても重要で、やがて南山城の木津川左岸一帯はヤマト国の影響下に入ります。


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 <3~4世紀頃の「わに」地域>


和爾遺跡から出土した紀年銘太刀などの遺物
 東大寺山古墳で発見された鉄刀には「中平」年間(184~189年)に鋳造された旨が記されています。
 長さが1メートルを超えるような太刀は、4世紀までの日本列島で製作できる技術がないので、シナで製作されたものと考えて間違いないでしょう。ただし、環頭の装飾は日本製のものに付け替えられたようです。
 2世紀末頃、シナ(漢)で製作された鉄刀が日本列島にもたらされ、約160年間、伝世された後、4世紀半ばに築造された東大寺山古墳に埋葬されたと考えるのが自然ですが、伝世のプロセスはまったく分かっていません。


「さき」地域集団
 奈良市と木津川市との境界には東西に走る低丘陵(奈良山)があり、その東半分は佐保丘陵と呼ばれ、ちょうど奈良市街地の北側に当たります。西半分は佐紀丘陵と呼ばれ、すぐ南には平城宮跡や秋篠寺、学園都市がひろがる「さき」地域が展開しています。
 佐保丘陵を越えるのは「奈良坂越え」、佐紀丘陵を越えるのは「歌姫越え」と呼ばれていたようです。

 古代豪族の本拠地を示した下図のような絵が古代史にはよく見られます。
 佐保川、秋篠川上流部の方まで和珥氏のテリトリー(逆L字形)になっています。本来そこは佐紀古墳群が存在する「さき」地域のはずです。
 本当に「さき」地域も和珥氏の勢力範囲だったと言えるのでしょうか。筆者は「さき」地域を和珥氏の勢力範囲とする説には賛成できません。


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 <ネット情報から転載>

 「さき」地域は、弥生時代からのムラ(小規模集落)が散在していました。中でも佐紀遺跡は拠点集落だったのですが、その後、衰退し、4世紀半ば頃からはヤマト王権がみずから関与する地域になったと考えます。
 ヤマト王権を支えた和珥氏系の拠点地域ではなく、王権みずからの関与地域と考えるに足る考古資料は数多存在します、回をあらためて詳述します。


「かづらき」地域集団
 「わに」地域、「ふる」地域、「さき」地域の他にも、大和盆地には「そが」地域、「かづらき」地域があり、それぞれ独自の勢力が存在しました。詳しくは「5世紀のヤマト王権」のなかで言及します。

 

物部氏・和珥氏の対応と異なる葛城氏のスタンス
 6世紀以降、石上を拠点とする物部氏は、物流の要である大和川の水運を押さえ、首長霊祭祀(三輪山祭祀)で鎮魂(みたましずめ)の呪術を主導し、ヤマト王権内で重きをなしました。
 和珥氏の勢力範囲は、4世紀半ば以降に、大和盆地から南山城・近江付近まで広がりますが、それを物語るかのようなタケハニヤスヒコの反乱伝承(後述する予定)があります。

 交通インフラという観点でみると、山城・近江付近は、日本海や大阪湾、伊勢湾に至る要衝の地といえます。
 南山城・近江が接する琵琶湖は「日本のへそ」です。
 地政学的に見れば淀川流域や南山城・近江一円の方が、大和盆地よりもはるかに優れています。加えて、近江は鉄製品の鍛冶などでも大和に先行していました。
 ヤマト国も早くからそこへ進出することに注力していたに違いありません。この一帯は、6世紀の継体が飛鳥に入る前に、20年もの長きにわたって滞留したという曰く因縁の場所でもあるのです。

 和珥氏は、石上から南山城、近江を経由して日本海側に至る交易路の確保に大きな役割を果たしました。4世紀末までのヤマト国にとって、物部氏・和珥氏(の先祖筋)の存在は、勢力拡大の大きな後ろ盾となりました。
 加えて、地道にヤマト国の基盤を支えたのは、高市・葛城・十市・磯城・山辺・曾布などの交通の要衝地に構えた中規模豪族たちでした。

 大和盆地西南部の広い地域に強大な勢力を構えたのは葛城氏ですが、ヤマト国と対等の関係を維持しながら4世紀末には、婚姻などで結びつきを強め、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が有力臣下としてヤマト国の首長を支えた模様です。
 葛城国はヤマト国を脅かす存在でありながらも共存する関係を維持しました。

 物流の動脈となる大和川は、河内を本貫地とする物部氏が支配していたため、ヤマト国は物流ルートの複線化を企図し、葛城の本拠地を迂回する紀ノ川流域から紀淡海峡に出るルートの確立に腐心しました。
 こうして一つの地域国家に成長したばかりの「ヤマト国」が、大和盆地から周辺へ影響力を拡大し、「ヤマト王権」として機能し始めるのです。

 

参考文献『古墳解読』武光誠
「倭の大王と地方豪族」『古代史講義』須原祥二
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『物部氏の拠点集落 布留遺跡』神泉社
『奈良盆地の遺跡が語る有力豪族の実像』坂靖
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
他多数