第84回ブログでは、箸墓古墳の築造時期が、必ずしも通説である3世紀半ば頃とは限らず、4世紀前半までの可能性があることに触れました。
どちらを採るかで、古代日本における統治のプロセスに天と地ほどの差が生じてしまいます。
前回(第91回)のブログを記していて、古墳のあやふやな築造時期を根拠にヤマト国・ヤマト王権の版図拡大プロセスを論じる難しさを感じました。大きなストレスですらあります。
4世紀のヤマト王権の状況を執筆するにあたって、筆者の古墳築造時期への向き合い方を明確にしておかないと、大きな混乱を招くと思ったので、今回のブログで整理してみます。
古墳設計思想の伝播について
全国には、同一設計や相似形の古墳がたくさん存在します。
箸墓古墳に関しても、類似または同一設計の古墳が近畿・吉備・讃岐地方に幾つも存在することが確認されています。
箸墓古墳の2分の1が浦間茶臼山古墳、3分の1が元稲荷古墳(京都府)と五塚原古墳(京都府)、6分の1が車塚古墳とされているようです。ほかにも箸墓古墳と同一設計で規模だけが縮小された可能性の高い古墳が各地に存在しているといいます。
さらに、箸墓古墳よりも早い時期とされる纒向型前方後円墳(前方部が未発達)と同様の形状を持つ前方後円墳が、東は千葉県から西は福岡県の那珂八幡古墳まで、広く存在しています。大和盆地のすぐ北にある椿井大塚山古墳(京都府)も前方部が撥形をした古墳です。
最近は、航空機やドローンで空から「三次元航空レーザー測量システム」により、木々に覆われた古墳の形状を正確に把握することが可能になり、前方後円墳が次々と発見され、その数はどんどん増えているようです。
例えば、福島県の会津坂下町で、箸墓古墳の1/6サイズの杵ガ森古墳が見つかっています。出土品から箸墓古墳から間もない時期の築造だといいます。
また、国土地理院が公開している立体地図を活用することで、日本各地でいくつもの前方後円墳が新発見されている様子がテレビで放映されていました。
箸墓古墳と相似形の古墳が東北から九州までわかっているだけで22基存在しているようです。
テレビの解説では、それらの古墳が、箸墓古墳築造から数年以内に各地で築造されたという極論まで流されていました。
そんなバカな!常識で考えて、交通インフラが不十分な3世紀にそんなマジックみたいなことがあり得るのでしょうか。
相似形の古墳が広域に散在するというのは科学的な事実ですから是認できますが、ほとんど同時期と思えるくらいの短期間に広域で築造されたという理屈はどういう事実を積み重ねて導き出されたものなのでしょうか。
第一、 築造時期と言うものがそんなに正確に推定できるものなのでしょうか。
筆者は、この種の議論にまったくついていけません。
このように、ヤマト王権のお膝元に存在する古墳と各地の古墳の形状が酷似しているため、纒向遺跡の古墳が最も遡る時期にあって、列島各地に影響を与えたとか、ヤマト王権が各地の首長に古墳の築造許可を出し築造指導をおこなったのではないか、極めて早い時期からヤマト王権は広域を支配していたのではないか、という説の根拠にされるわけです。
いったい、同じような時期に、広範囲に同じような形状の古墳が存在するという理屈を、どのように考えたら良いのでしょうか。
大和盆地内の箸墓古墳などと各地の古墳とが、互いに何らかの影響関係にあったことは間違いなく、各地の統治者との交易などにおける密接な交渉を示してはいるのでしょう。しかしこのことは統治の範囲を示すものとは言えません。
第34回ブログで、「独立発達か伝播か」と言う命題に言及しましたが、同じ日本列島内であることから、3世紀といえども貧弱ながらも交通路は存在し、人の移動は可能でした。したがって、同じような形状の古墳が広く存在することは、交易などを通じた伝播の結果に違いありません。
それでは、情報はほとんど同じような時期、短期間のうちに遠隔地にまで伝播するのでしょうか。
果たして、古墳築造情報や築造技術が、数十年と言う短時間のうちに遠隔地にまで広まるものでしょうか。
しかし、3世紀という交通インフラや交通手段が脆弱な時期でも、例えば300キロ離れた遠隔地でも、5、6ヵ月もあれば十分に移動可能だったわけです。
ということは、20年、30年単位で考えれば、大和盆地の情報は「刻々と」各地に伝わっていたことになりますね。もちろん、大和盆地内に方形周溝墓や円墳しかなかった時代から、纒向型前方後円墳が出現したり、巨大な箸墓古墳の築造が始まった時期までを、地方の首長は「数十年という時間幅」の中で知り得たといえましょう。「数年以内」ではなく......。
そういう意味では、次のような事実は納得できます。なぜなら、4世紀半ば以降は、交通インフラの整備も進み、各地との交易もより活発になり、何よりもヤマト王権の勢力が拡大している時期ですから。
〇 東京芝の芝丸山古墳が、4世紀(330年頃)の行燈山古墳と相似形。
〇 京丹後の網野銚子山古墳(墳丘長201m)が、4世紀後半の佐紀陵山古墳と相似形。
〇 宮城の雷神山古墳(東北最大規模)が、5世紀の宝来山古墳と相似形。
〇 宮崎の女狭穂塚古墳(176m)が、古市古墳群の仲津山古墳と相似形。
〇 明石海峡を望む五色塚古墳が、佐紀陵山古墳とほぼ同一。
筆者は、あくまでも文化・技術情報の伝播と統治の範囲とは切り分けて考えたいと思います。
古墳築造時期の不明確さ
初期の前方後円墳とされる箸墓古墳は、当初は4世紀の築造と考えられていたようです。
その後、1968年、近藤義郎氏によって、それまで4世紀前半の築造と考えられていた箸墓古墳前方部の平面形に、吉備の浦間茶臼山古墳(3世紀末)、備前車塚古墳(前方後方・4世紀初め)と同じような特徴があることから、箸墓古墳の築造年代が繰り上げられたといいます。
現在は、炭素14年代法による結果などから、3世紀半ば(260~280年)の築造説が大勢のようですが、4世紀初め築造の桜井茶臼山古墳や椿井大塚山古墳と同じ年代幅の中に含まれるという見解もあります。
古墳の築造年代を確定するに際しては、第84回ブログで記したように、炭素14年代法の適用には細心の注意が必要とされますし、周濠から出土する土器を根拠にするのは無理があるし、実際、纒向遺跡内にある古墳は築造年代が明確でないものが大半なのです。
でも、巨大古墳である箸墓古墳は最古の前方後円墳と位置づけられている現実があります。
もしかしたら、箸墓古墳の築造時期が最も遡り、古墳時代の幕開けを告げるエポックメイクとして位置づけされているのは、そうありたいという考古学界の願望から出てきたものであって、真に科学的な意味での合理性がないのではないでしょうか。
私たちは、大和盆地から生まれた勢力が8世紀に律令国家を築くという後世の歴史を知っているから、その後、前方後円墳が巨大化して、4~5世紀にかけて、シンボリックなモニュメントに仕立て上げたヤマト王権が、3世紀の時点からイニシアチブを握っていたと考えたいバイアスが働いているのではないでしょうか。
しかし、3世紀後半の時期を切り取って各地の古墳や遺跡を横並びにしてみれば、大和盆地が、特に纒向の地が最先端であって、ここから全国に、前方後円墳の築造許可を通じて、ヤマト王権が支配領域を広げていったとはとても考えられないでしょう。
3世紀半ば頃は、九州北部や出雲、丹後地方の方が大和盆地よりも先進地域でしたし、古墳の形状にしても前方後円墳が優位と言う状況ではまったくありません。
むしろ、当時は円墳よりも方墳の方が幅を利かせており、四隅突出型や前方後方墳の方が優位ですらあったわけです(いずれ前方後方墳について集中的に論じてみたい)。
このように、全国各地の同じような古墳の築造時期が、ある程度の時間幅の中にはまってしまうということは、極論してしまえば、前方後円墳(纒向型前方後円墳)の築造が必ずしも大和盆地初発ではなかった可能性すらあるのではないか、ということです。
各地で築造されて一般化しつつあった前方後円墳の情報を仕入れてきて、富の蓄積に拍車がかかりつつあった「纒向のクニ」「ヤマト国」が磨きをかけて前方後円墳祭祀として大成し、4世紀以降に各地の首長がそれを積極的に取り入れたのかもしれないと……。
以上は、科学的な裏づけのない単なる当て勘に過ぎませんが……。
筆者は、以上のような懸念から、不明確な古墳築造時期にとらわれることなく、むしろ政治勢力の拠点だったと考えられる遺跡の盛衰を重視して、4世紀の古代史を綴っていこうと考えます。
参考文献
『ヤマト王権の考古学』坂靖
『邪馬台国大和説』関川尚功
『誕生 ヤマト王権 いま前方後円墳が語り出す』3/27 NHK ETV放映