2019年2月14日付 西日本新聞朝刊に興味深い記事がありました。以下に抜粋して要約します。
古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳「那珂八幡古墳」(福岡市博多区)の形状が、九州北部独自のものであることが福岡市の発掘調査で明らかになったようです。
最古級とされる同古墳の形状が大和地域のものと違うことから、「ヤマト王権に服属した証しとして、地方の勢力が大和の古墳をまねて前方後円墳を築造した」とする古墳時代の構図に一石を投じることになりそう(第62回ブログ)。
これまで那珂八幡古墳は「纒向型前方後円墳」とみられていました。
纒向型(第87回ブログ)は、3世紀前半から半ば頃に纒向で築造された纒向石塚古墳のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指し、これが全国に分布していることから、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきました。
しかし、今回の発掘調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3であることが確認されました。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型の形状とは明らかに異なっています。
福岡市埋蔵文化財課では、「大和の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話しています。一帯は奴国の中心部で、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられるようです。
これに似た前方後円の古墳は、九州北部の戸原王塚古墳(福岡県粕屋町)や赤塚古墳(大分県宇佐市)などがありますが、いずれも那珂八幡古墳よりも新しいとされています。香川県に分布する古墳時代初期の前方後円墳も大和とは形が違い、「讃岐型」と呼ばれることがあります。
こうしたことから、古墳時代初期には大和と各地の首長たちの間に(交易に付随した)多極的情報ネットワークが存在したが、大和が地方を支配していたわけではなく、各地域の古墳には独自性があったと考える方が良さそうです。