理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

94 ヤマト国の伸張(3)和珥氏とは? 

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 第91回ブログの補足として、文献上から確認できる和珥氏について言及します。
 和珥氏は、古代ヤマト王権を強力に支えた豪族とされていますが、その実像はあまりよく分かっていません。
 ただ、ヤマト王権の軍事行動に際しては、外征に従事して版図拡大に貢献した可能性が高く、軍事氏族であったとも思われます。

 天皇家との結びつきは強く、葛城氏に並ぶ勢力がありましたが、政治的には表に出ていません。和珥氏の後裔とされる春日氏とその同族の勢力圏は、大和盆地東北部から広く山城・近江にも及んでいますが、葛城氏や蘇我氏のような外戚氏族とは異なり、ヤマト王権の政治的権力者として栄えた形跡は認められないのが大きな特徴です。

 和珥氏は、和邇(櫟本一帯)を本拠地とした豪族、『記・紀』では、応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の7代の天皇に后妃を送り出したとされています。
 特に葛城氏の没落後、多くの天皇に11人の后妃を出し勢力を広げたと伝わります。


和珥氏の後裔、春日氏と多くの支族
 和珥氏の祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)とされています。
 『古事記』孝昭記には、アメオシタラシヒコの子孫として、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣など16氏族の名が記されていますが、肝腎の和珥氏の名が見えません。
 岸俊男氏によれば、孝昭記に和珥氏の名がないのは、『古事記』が編纂される前に春日氏に改姓してしまい、和珥氏自体が消滅してしまったためとしています。
 春日氏は、和邇から春日の地へ本拠を移した際に、和珥氏の嫡流として春日氏(大春日氏)に改姓したということでしょう。

 5世紀頃に和珥一族は分岐し、大和盆地内の各地に分散居住し、6世紀になって支族が大宅氏、粟田氏、小野氏、柿本氏、櫟井氏など別姓を名乗る頃から、和珥春日氏が和珥一族の中心となり、やがて和珥春日氏から春日氏に改姓したようです。

 春日氏となったのち、蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し政治の表面から消えますが、一方、それまでに分岐していた小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏、布留氏(社家)などが、各方面で活躍します。 
 布留氏が社家とあるのは、4、5世紀頃から武器(一千口の剣など)が石上神宮に集積(第80回ブログ)された時に、春日一族の市河氏が神宝を管掌するようになり、その子孫が物部首となり、のちに布留宿禰と改姓したという故事があるから。

 7世紀初頭になると、春日氏は蘇我氏・阿倍氏・大伴氏の下に置かれるも、古来の名門豪族として朝廷内では重んじられたようです。
 684年の「八色の姓」制定では52氏が朝臣姓を賜与されたが、大三輪氏に次いで春日氏嫡流の大春日氏が推挙されています。

 和珥一族からは、607年に遣隋使になった小野妹子、7世紀半ば頃の歌人である柿本人麻呂、大宝律令編纂に関わり702年には遣唐使として活躍した粟田真人などの学者や文人を輩出しています。 

 

軍事氏族としての和珥氏
 和珥氏の祖には武将として活躍する伝承が多く見られます。彦国葺(ひこくにぶく)と武振熊(たけふるくま)の伝承をとりあげてみます。

 これらの伝承をそのまま史実とすることは出来ませんが、和珥氏がヤマト王権を軍事面でも支えていたことは、おそらく間違いないでしょう。

 四道将軍のオオヒコが北陸に向かう前に、孝元天皇の皇子、タケハニヤスヒコとその妻、吾田媛が反乱を起こします。崇神はイサセリヒコ(吉備津彦)を遣わして吾田媛軍を討たせ、オオヒコと和珥氏の祖であるヒコクニブクを遣わして南山城付近でタケハニヤスヒコ軍を征圧したといいます。

 垂仁紀25年には、五大夫として、阿倍氏のタケヌナカワワケ、中臣氏のオオカシマ、物部氏のトチネ、大伴氏のタケヒと並んで、和珥氏の祖であるヒコクニブクの名が記されていることから、和珥氏はヤマト王権の五大氏族のひとつであったようです。

 神功・応神の時代には、タケフルクマが神功・応神側の武将として武功をあげています。
 『日本書紀』によれば、香坂王・忍熊王の反乱で、犬上君の祖クラミワケと難波吉師部の祖イサチノスクネに守られた香坂王は猪に食い殺されてしまい、神功に討伐を命じられたタケノウチノスクネと和珥氏の祖タケフルクマが忍熊王を成敗したことになっています(この伝承は重要なのでいずれ詳述する予定)。

 また、『日本書紀』仁徳紀には、善悪双方の顔を持つ両面宿儺(りょうめんすくな)の物語が記されています。
 飛騨国には古くから両面宿儺に関する伝説があります。宿儺は奇妙な怪物の姿をしていて当地の村人を略奪して楽しんでいたので、仁徳がタケフルクマ(難波根子武振熊)を派遣して宿儺を殺させたというものです。
 この伝承は何故か、『日本書紀』の仁徳紀に詳述されています。面白いので以下に記してみます。

 <飛騨国に一人有り。宿儺と日ふ。其れ為人、体を壱にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を椋略みて楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遺して誅さしむ>。

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 <円空作、両面宿儺像>

 しかし、宿儺は悪者かと思いきや、地元の伝承ではそうではなく、宿儺が毒龍を退治して村人を救ったという説話や、むしろ天皇が宿儺に命じて、人々を苦しめる七儺という鬼を退治させたというものもあるようです。
 このことから、宿儺は飛騨の地主神として飛騨国一宮「水無神社」(みなしじんじゃ)の最初の祭神だった可能性があります。その後、天つ神系の支配者が乗り込んできて当地を制圧し、祭神が(大歳神に)入れ替わってしまったということでしょうか。

f:id:SHIGEKISAITO:20211014174509j:plain <水無神社拝殿>

 

和珥氏が関係する遺跡・遺物
 和珥氏は、大和盆地東北部一帯に広く勢力がありましたが、本拠地は和爾下神社のある和邇で、弥生後期の集落を起源とする和爾遺跡群を拠点とした有力集団です。中平年間(184~189年)の紀年銘をもつ鉄刀(第91回ブログ)を出土した東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されています。
 東大寺山古墳は、ヒコクニブクの墓とされているようですが、和邇下神社古墳をタケフルクマの墓とみなす説には賛否両論があるようです。

 近江の大規模な鉄器工房「稲部遺跡」彦根市)は3世紀半ば頃が最盛期とされていますが、その近江に大和盆地から一番アクセスが良かったのが木津川からアプローチできる「わに」地域です。「おおやまと」地域で興ったヤマト国が成長発展できたのは、鉄器の製造などで当時の先進地域であった近江と通交ができた「わに」地域の存在が大きかったと考えられます。