理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

96 ヤマト国の伸張(5)南山城・丹後に影響力拡大

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 「纒向のクニ」が大和盆地内で「ヤマト国」として隆盛する時期を経て、「ヤマト王権」は周辺(盆地の外)へと版図を拡大します。ただし、明確な王権への取り込みと言うよりは、交易を通じて周辺に影響を及ぼし圧を強めたというくらいの方が実態を言い当てているのかもしれません。
 ヤマト王権による版図拡大で真っ先に浮かぶのは「四道将軍の派遣による広域支配」ですが、はたしてそれは史実なのかどうか、まずはそこから確認してみます。

 

四道将軍の物語
 崇神という名称の是非は別として、そのような王が大和盆地東南部の3世紀末頃に存在していたことは確実でしょう。ただし、『記・紀』にあるような崇神の事績は大半が伝承によるもので史実ではないと思われます。

 四道将軍(しどう)の遠征物語についても史実の可能性は低いです。
 四道将軍という言葉は、『日本書紀』崇神10年の「オオヒコを北陸に、タケヌナカワワケを東海に、キビツヒコを西海に、タニワノチヌシを丹波に遣わす」、「四道の将軍たちは今すぐに出発せよ」というフレーズの中に登場します。

 しかし、そもそも「四道」という概念は、崇神の頃の3世紀後半~4世紀には存在しません。
 5世紀の雄略の頃までは、国家統治の地域区分は「東西」を基軸としていました。東西軸は弥生時代から続く日本の伝統的な観念です。

 それに対して「四道」という言葉は、「東西南北」を意味する中華思想的な概念です。「五畿七道」が成立する前の6世紀になって導入された概念であって、少なくとも4世紀まではなかったと思われます。

 実際のところは、タケヌナカワワケを祖と仰ぐ阿倍氏が、6世紀頃になって四道将軍の物語を作り上げたという説があり、おそらくこれが真相なのでしょう。

 さて、『古事記』の四道将軍の物語からは、ヤマト国の軍隊が、東海道から福島県の会津まで、北陸道から会津まで、丹波道は丹後地方まで、山陽道は吉備まで進軍したかのように読み取れますが、崇神が存在したとされる3世紀末から4世紀初め頃に、軍隊がこのように広域に移動できるルートは存在しません(第44回・45回・46回ブログ)。

 これらの中では、丹波だけは日本海と大和盆地を結ぶ比較的容易な交易ルートが想定できるので、小規模なら進軍できた可能性があります。それほどの長征ではなく、派遣地も具体的に丹波と絞り込まれています。

 北陸道に関しては、大和から敦賀までは琵琶湖経由の交易ルートがあったので、小規模な部隊なら移動できた可能性があります。
 しかし、その先の越前に向かうには木の芽峠が立ちはだかっています。今ではJR北陸トンネルで一瞬のうちに通過できますが、トンネルが完成する前の北陸本線はスイッチバック数段階で乗り越えていたのです。
 さらにそのはるか昔、ひとは木の芽峠を歩いて越えましたが、軍隊のような大集団が踏破するのは不可能でした。
 ましてや、その先の越後や会津は、当時の大和の人たちにとっては異界の地であって、何の利得もなく想像すらできなかったでしょう。
 実際、継体が過ごした可能性のある越前は別として、加賀から越中、越後、能登までがヤマト王権の支配下に入るのは7世紀以降のことになります。

 東海道は静岡、箱根などに山越えの難所が多く、また大きな河川も障害となり、海岸沿いを一気に進める状況ではありませんでした。白砂青松の砂浜(第39回ブログ)など存在せず、せいぜい東海地方までが限界だったと思われます。
 ましてや東北には進めず、会津でのタケヌナカワワケとオオヒコの再会はあり得ません。
 関東に向かうなら、大河を渡渉せず深山を縫う東山道ルートの方が合理的ですが、どの道、軍隊のような大集団が進軍できるものではありません。

 古代、各クニは分散立地しており、国境という概念はなく国境警備もありません。
 細々とした交易路があれば、少人数の部隊は容易に隣国を通過できたでしょう。

 四道将軍の物語は後世つくられたものですが、当時は鉄器や鉄素材の入手の必要性をかぎつけたヤマト国が、四方に向けてアンテナを張っていたと捉えるくらいが妥当なのではないでしょうか。
 3世紀後半のヤマト国には、長距離を遠征し征服するだけの環境(交通インフラ)と実力(権威と武力)は備わっていなかったと考えるのが、古代史の正しい理解です。


タケハニヤスヒコの反乱伝承
 四道将軍物語の中には、タケハニヤスヒコの反乱伝承があります。
 崇神(3世紀末?)に反乱を起こしたタケハニヤスヒコを、北陸に向かう前のオオヒコが、和珥氏の祖であるヒコクニブクを従えて、南山城付近で征圧したというものです(第94回ブログ)。

 これはもう少し下る4世紀半ばになってから、ヤマト国の中心となる「さき」地域の政治勢力やそれを支える和珥氏の祖が南山城に進出した史実を伝承化したものと思われます。
 これによって、ヤマト国は、山城南部の木津川から淀川中流域まで勢力圏に置くことになります。

 当時の海路・陸路を考えれば、3世紀末から4世紀初頭のヤマト国は、後に物部・和珥氏となる勢力と結びつくことで大和盆地のほぼ全域と南山城一帯までを制したが、その外には出られなかったということです。

 また大和盆地の南西部を拠点としていた葛城国とは、主従関係ではなく対等の関係だったと考えるべきでしょう。
 以上のように当ブログの見立ては、崇神の時代(3世紀後半)にヤマト王権が日本の広域を支配したという通説とは大きく異なります。

 前回のブログで言及したように、木津川流域から淀川まで下り、左へ向かえば河内に通じます。
 木津川左岸ルートは、山城盆地、亀岡盆地を経由して丹後にも通じており、大和盆地の勢力にとって、自身が発展するために死活的に重要な交通路でした。
 実態は謎に包まれていますが、3~4世紀に木津川流域に存在したクニ・ムラは海外の文物入手を希求するヤマト国にとって重要なパートナーでした。
 確かに3世紀後半から大和盆地と丹後の間には相対的に濃密な交易が存在したと考えられる証拠があります。
 この時期のヤマト国は、木津川一帯を足掛かりに、山城を経由して丹後まで足を延ばしていたのです。


丹後と結びつき、王権の影響は畿内から周辺へ
 『記・紀』には、第9代開化から第11代垂仁の時代、ヤマト国と丹後国(丹波)との間にいくつかの婚姻譚が見られます。
 『記・紀』の婚姻譚は、次のようなものです。

 丹波の大県主(あがたぬし)由碁理(ゆごり)の女(むすめ)竹野媛(たかのひめ)が第9代開化の妃となっています。
 大王家に妃を出しているのは、この時代、大和の県主以外では丹波の大県主のみ。したがって丹波の大県主の勢力がヤマト国と格別の関係にあったことが推測できます。

 開化と竹野媛の子が日子坐王(ひこいますのきみ)。

 日子坐王の子である丹波道主命(たにわのちぬし)が、丹波の河上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)との間にもうけた狭穂比売(さほひめ)は、垂仁の皇后となり、ついで狭穂比売の遺言によって丹波道主命の女、日葉酢媛(ひばすひめ)が第11代垂仁の皇后となり、第12代景行を生んでいます。

 『記・紀』の間で記述に差異があることを無視して適当に纏めましたが、以上のように日子坐王を祖とする一族はヤマト国と深い姻戚関係をもち、丹波で勢力を伸ばしていたと想定できますし、先に述べた四道将軍の物語によれば、タニワノチヌシ(丹波道主)はヤマト国が派遣した後に丹波に定着したようにも思えますが、これらを単純に史実とすることはできないでしょう。

 むしろ、「丹波道」という名を冠していることから、もともと丹波土着の有力な首長だったタニワノチヌシをヤマト王権の勢力拡大ストーリーの中に取り込んだものと考えた方が理屈にあいますが、真実は藪の中です。

 そもそも筆者は、闕史八代(けっしはちだい)の存在に否定的(第81回ブログ)ですので、開化から始まるこれらの系譜にも疑問を持っています。

 ただ、開化との関係は横に置くとしても、この土着の一族は丹波氏族といい、この流れは3~5世紀の丹波・丹後・但馬にわたって大きい勢力をもっていたと思われます。タニワノチヌシはそのような丹波勢力の伝説的な祖先と言えるのではないでしょうか。

 『日本書紀』には彦坐王(日子坐王)の系譜は記されていませんが、『古事記』では、日子坐王は春日・沙本・山代・淡海・旦波ら諸豪族を血縁で結ぶ位置にあるため、日子坐王の系譜は和珥氏や息長氏を中心とする畿内北部豪族らにより伝えられたとする説があるほか、そうした畿内北部における広域的な連合勢力の存在を暗示しているようでもあります。

 筆者は、この系譜は最終的に神功(息長足姫命・おきながたらしびめ)につながるため、神功皇后伝説も含め、7世紀後半のヤマト王権内で大きな影響力を持った坂田郡出身の息長氏の主導で作られたものと考えます。


 判然としないことが多くやや無理筋とも思えるのですが、丹後にまつわる婚姻譚を全否定するだけの積極的な理由もありません。これらは大和と丹後との古くからの結びつきを象徴する物語と言えそうです。6、7世紀頃の政権中央には、両地域の通交に関する古くからの伝承があったと考えられます。

 おそらくヤマト国は、3世紀末までには「わに」地域や「ふる」地域の集団を介して、丹後方面との交易で得られる文物の重要性に気づいていたと思われます。
 丹後国は大和盆地以外では、最も早くからヤマト国と結びついた地域国家といえるのではないでしょうか。
 やがて、4世紀半ばから海外志向の強い「さき」地域の集団が強大化し、ヤマト国を代表する集団に成長します。
 実質的にヤマト国のリーダーとなった「さき」地域集団は、前回のブログで記した通り、軍事・交易・先進文化に強い志向があり、南山城から丹後へのアプローチに積極的だったと考えられます。


大宮売神社と大宮売神
 ヤマト国と丹後国との強い結びつきを物語る考古資料としては、丹後半島の大宮町に鎮座する「大宮売神社」おおみやめ)があげられます。

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 <大宮売神社の参道>

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<大宮売神社境内に建つ「古代祭祀之地」碑>

 大宮売神社は竹野川中流部の大宮町に鎮座する古社で、弥生末期の遺跡の上に建つ神社であり、ひと言でいえば弥生遺跡を母胎にできた神社です。
 本殿の背後には禁足地があります。

 大宮売神社の弥生遺跡からから出土した遺物の中には、桜井市三輪の「山ノ神遺跡」や「馬場古墳」から出土した遺物と酷似しているものがあるようです。弥生時代からの大和盆地と丹後地方との活発な通交を物語っているのではないでしょうか。

 大宮売神社は大宮売神という女神を祀っていますが、この神は、859年の『三代実録』のなかで従五位上の位を与えられたと記され、927年の『延喜式神名帳』のなかでは「大宮売神二座」と記されています。
 おそらく、丹後国の本来の国魂の神、地主神という位置づけだったのでしょう。
 丹後国の中核的な神というだけでなく、大和朝廷の宮殿にも「宮中の奉斎八神」として祀られるほどの神威があったようです。
 八神とは、神産日神(かみむすひ)、高御産日神(たかみむすひ)、玉積産日神(たまつめむすひ)、生産日神(いくむすひ)、足産日神(たるむすひ)、大宮売神(おおみやめ)、御食津神(みけつ)、事代主神(ことしろぬし)を指し、古来天皇を守護する神々とされてきました。
 これらは、大和と丹後の強い結びつきを暗に物語っているのではないでしょうか。

 

旦波
 丹後国は713年に丹波国から分離しますが、その丹波もこの時代は旦波(たにわ)と呼ばれていました。ここでは大宮町を中心とする一大勢力範囲を丹後国と呼ぶことにします。
 丹後には、弥生時代から発祥した「クニ」を母体に、3世紀から5世紀にかけて、王国とも呼ぶべき一大勢力が確かに存在しました。その勢力範囲を確認するには下図が分かりやすいと思います。

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<丹後地域関係図(金久与市氏の著作に追記)>

 

 竹野川流域や川上谷川流域から野田川上流域にかけて、独自の神話や文化が存在し、由碁理(ゆごり)から始まったかのような継続した王の存在が認められます。
 丹後の文化は、例えば四隅突出型墳丘墓が存在しないなど、西の出雲や東の越の文化とはかなり異なっており、独立した王国であったと考えても間違いありません。

 門脇禎二氏は、一つの地域の体制を「王国」と呼ぶには、その地域の中心をなす独自の王統が証明されることが必要と述べていますが、丹後には三ないし五代の伝承が認められ、地域独自の神話や文化が存在することを含めて、丹後王国と呼ぶべき勢力があったと考えられます。


大和盆地から丹後地域へのルート
 3、4世紀に丹後と大和の間に存在したと思われる交易ルートを辿ってみましょう。
 大和盆地から木津川、京都盆地、保津川と進み、亀岡盆地を過ぎると、園部付近(船阪・船井という地名が残る)で由良川の上流部に出られます。
 由良川を下れば福知山を経て宮津に至ります。
 ヤマト国の交易部隊は、宮津よりも先の日本海を目指し、阿蘇海・野田川から山越えで竹野川を下りました(船曳道、第44回ブログ)。

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<野田川から山越えで竹野川に至る船曳道(長野正孝氏の著作から転載)>

 

 竹野川流域には大宮・周枳(すき)の地があり、大宮売神社(おおみやめ)が鎮座しています。
 そのまま竹野川を下れば竹野神社神明山古墳のある河口付近至ります。古代はここに大きな竹野湖(潟湖、第40回ブログ)があり、一帯は古代丹後の交易の中心地として栄えていました。
 竹野川河口付近の海中には高さが20メートルの巨大な一枚岩「立岩」が屹立しています。山陰海岸ジオパークを代表する景観で人気の観光地ですね。

 峰山を左にとれば網野銚子山古墳に至り、そこはもう浅茂川という地で日本海が広がっています。
 早い段階から丹後国とヤマト国が結びつくのは、交通インフラから見ても自然な流れだったと思われます。

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<日本海に続く竹野神社参道。右端は丹後古代の里資料館と立岩>

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 <神明山古墳から立岩を望む>

 5世紀に入ると、丹後国の中心は竹野川流域から野田川上流域の加悦谷(かやだに)に移り、籠神社にゆかりの海部氏が、ヤマト王権の一翼を担う勢力に成長します。
 海部氏は海人族であって、『海部氏系図』『勘注系図』などが残されていて興味深いですが、既に第69回ブログで詳述したので、ここでは割愛します。

 その丹後国も5世紀中頃からやや輝きを失ってしまいます。
 準構造船の登場(第54回・55回ブログ)により、交易中継点としての役割が薄れて丹後・若狭がスキップされたこと、6世紀の継体の登場で政治の中心と交易の流れが敦賀から近江・尾張・淀川流域重視に変わってしまったこと、瀬戸内海航路へのシフトなどによると思われます。

 6、7世紀以降の丹後国は若狭まで含めて、凡海連(おおしあまのむらじ)として大和政権内に完全に組み入れられてしまいます。

 これは丹後に限らず全国的な動きの一環で、5世紀後半の頃に、ヤマト王権が「人制」を導入して海人として海の民を組織化し、6世紀以降、「部制」成立とともに海部に改組され、ヤマト王権の直属組織となって政権に取り込まれていったものです(第67回ブログ)。


丹後への別のアプローチ
 第45回ブログでは、東部瀬戸内海へそそぐ加古川と、若狭湾に注ぐ由良川は、氷上(ひかみ、丹波市)の地で山越えすることもなく繋がっている、と記しました。
 
 そこには「氷上回廊水分かれフィールドミュージアム」があります。本州で最も低い谷中の中央分水界(分水嶺)がある氷上回廊について、35万年前から人・モノ・コトが交流した道というコンセプトの展示があるようです。
 以前から、機会があれば訪ねてみたいと思っている場所ですが、なかなか果たせていません。
 氷上の地が、弥生時代から4世紀後半にかけて、日本海側と大和盆地や河内平野を結ぶ重要な中継地であったことは間違いないでしょう。

 大和盆地北部の勢力は、木津川、京都盆地、保津川と進み、園部付近から由良川を経由して宮津に至り、野田川から山越えで竹野川を下り、日本海にアクセスしました。

 これとは別に、葛城氏や紀氏など大阪湾沿岸付近にアクセスが容易だった勢力は、大阪湾から瀬戸内海東部を航行して姫路に至り、加古川を遡上して氷上などの分水嶺の地を越えて日本海に至ったと考えられます。ただしこれは4世紀後半までのルートです。 

 瀬戸内海を横断するルートが九州と畿内を結ぶメインルートにとなるのは、吉備勢力が衰退する5世紀後半まで待たなくてはなりません。

 大和盆地の勢力が、最初にアプローチした地域は近江、続いて丹後と推定します。
 その後、瀬戸内海東部から河川や川沿いの道を利用して伯耆、出雲方面と通交したと考えます。瀬戸内海と日本海を結ぶ「南北ルート」の利用です。

 いずれも、先進的な文化の吸収、文物の入手に有利な「海に出る」ことが狙いでした。

 

参考文献
『古墳解読』武光誠
「倭の大王と地方豪族」『古代史講義』須原祥二
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代豪族』洋泉社編集部
『地形と水脈で読み解く! 新しい日本史』竹村公太郎
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『よみがえる古代の港』石村智
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『神話から読み直す古代天皇史』若井敏明
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『古代日本誕生の謎』武光誠
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』神泉社
他多数