前回のブログで述べたように、『記・紀』に記された景行の時代は、奇妙な物語が多いですね。
景行自身の征西は妙だし、子のヤマトタケルによる全国制覇もロマンあふれる物語ですが、古代史としては虚構でしょう。
しかし、この時代にヤマト王権が九州進出に向けて、さまざまな動き(支配ではない)を開始したことは史実と言えそうです。いろいろと傍証があります。
ヤマト王権(「さき」の王権)による九州進出の狙いは、鉄や先進的な文物を受動的ではなく、自ら進んで確保することです。
3世紀は、西日本全体が鉄の争奪戦をするような状況ではありませんでした(第24回ブログ)。
しかし4世紀になると、産業振興や軍事面でのニーズが急速に高まり、鍛冶の技術革新も進んだため、ヤマト王権だけでなく各地域国家も鉄素材を調達するため半島との関わりを強めることになります。
ちなみに6世紀以降には鉄の国産化が進み、日本は朝鮮半島から距離を置くようになり、8世紀初頭に、日本における鉄の輸入はピリオドを打ちます(第30回ブログ)。
九州進出の正しい解釈
3世紀末頃から物部勢力と一体化したヤマト国は、九州北部が鉄や先進文物入手の重要地であると認識し、西への進出に関心を持ち始めました。その後、南山城から丹波、丹後にまで自らの交易圏を拡大します。
そして丹後進出を足掛かりとして、「日本海ルート」で西に向かうことを選択したと思われます。この想定は、ヤマト王権が瀬戸内海を西進して九州に向かったとする通説とは大きく異なるのですが……。
瀬戸内を経由したアプローチでは、播磨・吉備・安芸の勢力が関所のように存在します。
そのうえ、瀬戸内海ルートは技術面からみても船団航行は難しく、ヤマト王権が安定的に、安全に、継続して瀬戸内海経由で九州に至ることは困難だったと、筆者は考えています。鉄のような物品の大量輸送については、数隻から成る船団航行が必須で、この点でも4世紀の瀬戸内海ルートは成立しません。とすれば日本海ルートしかあり得ないというわけです。
4世紀半ば頃に、大和の地から九州北部まで影響力を行使できたのは、ひとえに日本海側で潟湖をつなぐ地乗り航行が可能だったことによります(第38回・第40回ブログ)。ヤマト王権は出雲西部に中継基地を設けて「日本海ルート」で九州の筑紫に到達したとしか考えられません。
山陰ルートの途中には古代の雄である出雲勢力が構えています。
出雲地域は、弥生時代の2世紀半ばから3世紀半ばまでは他の地域よりも優越し、まさに全盛期でした(第65回・第98回ブログ)。
しかし4世紀になっても出雲西部を統括する単一勢力が存在しなかったため、ヤマト王権は出雲西部を籠絡し、出先ともいうべき拠点を設けたと思われます。
それは交易拠点のような性格であって、出雲西部を政治的な支配下に置いたということではありません。
この時期は、『日本書紀』に見る崇神末期(3世紀末、出雲振根と飯入根による内紛)ほど早くはなく、「海北道中ルート」(うみのきたのみちなか)にヤマト王権の影響(大和盆地北部の「さき」王権)が見られる4世紀半ば頃であったと推定されます。
ちょうどヤマト国がヤマト王権に変貌し全国展開を始める一方、出雲が没落し始める時期に相当します。
筆者は、海人族を含むヤマト交易団(物部や和珥の先祖筋の集団など)が、大和から山城、丹後、出雲西部まで向かい、各地と交易したと考えますが、このうちの一部がさらに長門まで向かい、響灘(ひびきなだ)から直接、九州北部に渡ったものと推定しました。
朝鮮半島南部の2、3世紀の遺跡からは、 九州北部で製作された弥生後期の遺物が出土するのに対し、4世紀の遺跡からは畿内で製作された遺物が出土しています(第97回ブログ)。
したがって、この時期に九州北部の伊都国や邪馬台国の勢力が後退して、 出雲経由で九州に足掛かりを設けたヤマト王権が半島との交易に積極的な関与を始め、交易ルートの確保において優位に立ったと想定できるわけです。
しかし、実態は王権本体が交易の利権を独占的に確保したのではなく、物部・紀・吉備・葛城(の先祖筋)の勢力が混然となって、あるいは競合するような形で交易に関与したと考えられます。
「海北道中ルート」の中継点にあたる沖ノ島の祭祀が盛んになるのも、4世紀半ばから5世紀以降のことで、その後のヤマト王権は宗像へ相当な肩入れをしています。
沖ノ島祭祀は7世紀以降まで続き、宗像大神は海北道中という航路の守り神として尊崇されるのです(第67回ブログ)。
百済との直接交易が始まった4世紀末になると、ヤマト王権が入手する鉄器の量は膨大なものとなります。博多・唐津の「倭人伝ルート」は大きな打撃を受けることになりました。
4世紀半ば頃に九州北部に地歩を築いたヤマト王権ですが、肝心の大和盆地の方はどのような状況になっていたのでしょうか。
『記・紀』を併せ読むと、4世紀半ば以前の在位とみられる景行は、晩年の3年間を「高穴穂宮」(滋賀県大津市)で過ごし、子の成務も高穴穂宮で政務を行なうが、それ以降の王宮は河内へ移り、纏向は役割を終えたかのようにも読みとれます。
通説でも、ヤマト国の基盤となった大和盆地は4世紀末には地域国家の中心地としての役割を終え、5世紀のヤマト王権は新地をもとめて河内地方へ進出したとされていますが、その説の正否も含めて、この後の「5世紀のヤマト王権」のブログで言及します。
九州北部に橋頭保を築く
もともと出雲西部は、日本海交易を通じて九州北部と緊密な交易がありました。
したがって、出雲西部に拠点を設けたヤマト王権(中心は物部の勢力か?)が、この時代に九州北部に向けて多少の派兵をした可能性は否定できないでしょう。
大軍の派兵ではなく制圧のレベルでもない。九州北部全体を政治的に支配するのではなく、交易・情報収集のレベルだったと思われます。
これはちょうど、大英帝国がインドのカルカッタやボンベイに、またシナの香港に交易拠点を設けたようなものです。九州での拠点は宗像や岡水門(おかのみなと)に限られたと思われます。
前回のブログで述べたように、景行が佐波から国東半島に渡ったとする『記・紀』の記述は事実ではありません。
国東半島のつけ根に位置する宇佐が、ヤマト王権と親密な関係になるのは奈良時代になってからのことです。
それまでの宇佐は、シャーマニズムを出発点とする信仰が栄えた単なる一つの地方に過ぎません。当時の宇佐は、応神や神功とは縁もゆかりもなく、ましてや景行とは何のつながりもなかったわけです。
むしろ豊前には、瀬戸内の海人集団と連携した吉備や、吉備と良好な関係を結んだ葛城勢力がアプローチしていた可能性があることを前回のブログでも述べました。
景行、ヤマトタケル、神功という固有名詞や、彼らの伝奇じみた九州遠征にまつわる行動は横に置くとしても、彼らが在位したとされる時期(4世紀後半)に、ヤマト王権が九州北部の宗像や岡水門にまで影響力を拡大したことは認めてよいと思います。
4世紀の遠征物語があまねく広まったのはなぜか?
4世紀の遠征物語は謎に満ちています。歴史時代の出来事なのに、その描写は珍妙で神話じみています。
したがって、『記・紀』の記事は史実でないとされるわけですが、編纂時期がわずか十数年ほどしか遅くない九州の『風土記』にも、景行・仲哀・神功の九州遠征、応神の生誕、朝鮮征伐の記事が具体的に詳細に書かれているのは不思議です。
また九州各地には仲哀・応神・神功を祀る神社も数多く、彼らにまつわる伝承も広範囲に存在しています。
『風土記』の記事は 『記・紀』をなぞったにちがいないと思っても、はたしてわずか十数年という短期間にあまねく広まるものでしょうか。
『日本書紀』の天武10年(681年)3月に「帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ」という記事があり、これは普通、同書の編纂開始の時期とされていますが、『古事記』の編纂開始とする説も存在します(第83回ブログ)。
どちらにしても『古事記』の完成が712年、『日本書紀』の完成が720年で、しかも681年以前にオリジナルの『帝紀・旧辞』が存在したならば、『風土記』の編纂までには相当長い学習期間があることになります。
王権神話の確立に向けた中央の動きや先行史料を踏まえて、それに沿うように『風土記』が編纂された可能性は十分にあるでしょう。
なにしろ、ヤマト王権の力が九州をはじめ、 列島の広域に及んだ7、8世紀の頃のことです。中央の意向(王権神話)を地方は無視できなかったに違いありません。
現に『豊後国風土記』の記述は、『日本書紀』景行紀の熊襲征伐に酷似した内容に終始しているのです。なぞったとしか思えません。
九州一円に広がるさまざまな遠征物語についても、その後の千数百年の経過の中で広く深く浸透していったものと言えるのでは。
なぜ九州に神功皇后の伝承が多いのか
それにしても、九州を旅すると、あちこちで神功皇后や応神天皇ゆかりの地に遭遇します。
宇佐神宮、宇美八幡宮、香椎宮、鎮懐石八幡宮……、など枚挙にいとまがありません。異常と思えるくらいの伝承地の多さです。
九州における彼らの実在に疑問符が付くのに、なぜこれだけ流布したのでしょうか。
筆者は、「宇佐神宮」の存在が大きいとみています。
同社は『続日本紀』737年に初めて「八幡社」の名で登場し、短期間のうちに中央の政治を左右するまでになります。もともと、宇佐神宮の祭神は八幡大神と比売大神(ひめおおかみ)の二座だけでした。
8世紀初めに、数度にわたり八幡神(この時点では応神でない)の神威で隼人を制圧しています(前回のブログ)。
その後も多くの神託で中央政府に貢献します。
やがて新羅との緊張関係が高まったことで、宇佐神宮は対新羅神として国家鎮護や軍神としての性格を明確にしていきます。
平安時代の823年、二座の祭神に加えて、神功皇后を祀り三座とします。1世紀以上も前の『記・紀』の中で三韓征伐の英雄として描かれた神功を、宇佐神宮の神としたのです。
その後、神功との母子つながりで、宇佐の地になんの所縁もなかった応神を八幡大神と同一視するようになっていったのです。
神功・応神所縁の地の多くが『記・紀』編纂から相当経過した平安時代以降につくられています。
彼らを祀る筥崎宮の創建は、920年代前半とされ、意外にも新しい。
日本三大楼門の一つとされる豪壮な楼門の右手前に「筥松」と呼ばれる御神木の松があります。近くの宇美八幡宮で神功が応神を産んだ時に、胞衣を筥(箱)に納め、当社の「筥松」の場所に埋めたという伝承があり、それが筥崎宮の名の由来になっているようです。
しかし当社の本宮は飯塚市の大分宮なので、筥松の所在には一貫性がありません。
この他にも九州には多くの応神・神功の伝承地や神社が存在しますが、いずれも後づけで、早いものでも奈良時代後半以降に比定されたようです。
中央政権の力が卓越し、なおかつ神話が歴史であるかのごとく信じられていた時代、このようなことは極めて簡単なことで、以後、歴史の真実であるかのように語り継がれていったわけです。
実は明治以後になって、この動きは加速しています。
香椎宮の名は明治になってからのことです。それまでは仲哀を祀り、724年につくられた神功皇后の宮を併せて、香椎廟と呼ばれていたに過ぎません。
宇美八幡宮は、神功が応神を産んだ地とされるが、なんの証拠もありません。
平安時代から石清水八幡宮の末社と位置づけられていただけで、長く光は当たらず、明治以後に脚光を浴びるようになったのです。
境内には、応神誕生にちなむ湯蓋の森、衣掛の森などがありパワースポットとして人気を集めていますが、もちろん史実とは何の関係もありません。
明治時代、対ロシアで朝鮮半島が日本の生命線となったことで、いにしえの物語が表舞台に躍り出ます。ちょうど、大東亜戦争のとき、考古学専門家や郷土史家らが、神武東征の聖跡の比定にエネルギーを注いだのと似た「歴史の創作」と言えましょう。
<宇美八幡宮の「湯蓋の森」>
<香椎宮(日本唯一の「香椎造」の神殿)>
<筥崎宮(異色の筥崎鳥居と豪壮な楼門)>
ヤマト王権と海人族(安曇族)の関係
ヤマト王権が畿内から広域へ影響力を行使し、さらには朝鮮半島へと通交を拡大していくうえで、無視することのできないのは海人族の存在です。
海人族については、生来の漁撈活動や王権に対する水産物供給の機能が注目されますが、もっとも重視すべきは外洋航海の技術だったといえましょう。
第67回・68回ブログで詳述しました。
日本の近海は世界でもっとも厳しい荒海の一つとされます。沿岸に沿って進む地乗り航法であればともかくも、外洋航海は簡単ではありませんでした。
それでも海の民は、旺盛な好奇心やチャレンジ精神という優れた特性で、シナや朝鮮半島の先進文化・先進技術の獲得に大いに寄与してきたのは事実です。
海の交易に関与した船乗りは、当初は航海者ではなく海洋漁撈者だったと思われます。
原初の交易は漁撈者自ら舟を操って物品を届けていたと思われます。彼らは次第に遠距離航海に挑むようになり、航海の専業者が生まれ、そこから広域交易者が分化していきます。舟という移動手段を持つ海人族が交易を独占する立場になっていったのです(第62回ブログ)。
有力な広域交易者はみずから古代豪族に成長し、またヤマト王権や地域国家の首長クラスと結びつき、彼らの遠距離交易に大きな役割を果たします。
大阪湾岸の阿波・淡路・明石・紀伊などの海人族(安曇族)はヤマト王権や葛城氏・紀氏などとの濃密なつながりがあったとされます。
海人族の役割分担が進み、安曇は漁撈や航海に従事する航海民・海民たち・海産物の神としての性格を強めていったのに対し、航海神の役割は宗像神や、ヤマト王権が庇護した住吉神が担うようになります。
安曇氏が海部の統制という役回りを担い王権に貢献したのはそのためでしょう。
やがて海民集団の海部は各地で政治的な力を蓄え、日本各地に足跡を残すようになります。
5、6世紀にはその一部が、宗像氏、尾張氏、津守(つもり)氏、丹後海部(あまべ)氏など、クニや地域国家を取り仕切る豪族に成長します。地域国家も彼らの協力なくしては交易することができなかったわけです(第67回ブログ)。
4世紀におけるヤマト王権版図拡大の実像
前方後円墳・三角縁神獣鏡・布留式土器の分布圏がほぼ一致することから、3、4世紀のヤマト王権が、これらが分布する広範囲に支配権を確立した......とする見解が多く見られます。しかし3、4世紀までの古代日本においてそのような事実はありません。
しからば5世紀以降はどうでしょうか。
埼玉稲荷山古墳の鉄剣や熊本江田船山古墳の鉄刀(いずれ詳述の予定)に雄略との繋がりがうかがえることから、ヤマト王権がそれらを含む広域に支配権を確立していたとも言われます。
しかしヤマト王権は5世紀頃までかけて徐々に版図を拡大していったが、6世紀になってもなお、盤石な政権基盤は確立されていなかった……というのが版図拡大の実像でしょう。
4世紀末の状況は、物部・和珥・大伴・葛城・紀・吉備などの先祖筋とも言うべき勢力が西日本各地に交易拠点を確保していて、まったく独自に、あるいはヤマト王権(「さき」の王権)と協調して、あるいは争うようにして、朝鮮半島と通交していたと考えられます。
さらに言えば上野や若狭・越前あたりの豪族も独自に半島と通交していた可能性が高いです。
つまり、ヤマト王権一色に塗りつぶされた版図は考えられないわけです。今後のブログで言及します。
参考文献
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代豪族』洋泉社編集部
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『よみがえる古代の港』石村智
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『天孫降臨の夢』大山誠一
『倭王の軍団』西川寿勝・田中晋作
他多数