理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

100 ヤマト国の伸張(8)その後のヤマト王権

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 先走りしますが、4世紀後半から5世紀にかけてのヤマト王権の態様について簡単に述べておきます。
 ヤマト王権の権力基盤は5世紀に大きく強化されます。技術革新がそれをもたらしたと言えましょう。
 ともすれば古墳時代というと「古墳づくり」にばかり目が向いてしまうのですが、それでは古代史として片手落ちです。むしろ5世紀以降は、技術革新により、多様で旺盛な経済活動、社会活動が行われた側面を評価していくべきです。


河内への進出と交通ルート
 4世紀末にヤマト王権は、朝鮮半島との外交・通交に便利な河内に進出しました。

 応神は難波に行幸して大隅宮(おおすみのみや)を設け、一説ではそこで崩御
し、仁徳は5世紀初めに難波高津宮を本拠としたと言われています。

 3、4世紀における大和盆地の最重要路は山の辺の道でしたが、王権の河内進出により、山の辺の道のうち北半分の春日~石上の間は衰退してしまいます。
 大和盆地と河内をつなぐ道は、春日から河内の間は竜田道が、纏向から河内の間は、穴虫峠を越す大坂道と竹内峠を越す当麻道が使われるようになります。
 このルートの長所は、大坂道・当麻道が合流した丹比道(竹内街道)と竜田道が、難波道と接続する河内一帯が王権を支える物部氏の本貫地だったことです。

 物部氏の拠点は石上神宮のある「ふる」地域と思われがちですが、本貫の地は河内の八尾に広がる久宝寺遺跡・中田遺跡・池島福万寺遺跡(第82回ブログ)のあたりで、弥生時代の遺跡・遺物が多数見つかっており、また物部氏の居館と思われる古墳時代の大規模集落跡も確認されています。
 つまり、大和川の上流域(石上)と下流域(河内)の双方を物部氏が押さえていたことになります。

 物部氏が竜田道・丹比道という陸運、大和川という水運の水陸双方のルートを握っていたため、5~6世紀にかけて、ヤマト王権は、親密な連携関係にあった物部氏の力に大きく支えられて勢力を拡大していきます。

 それに飽き足らず、ヤマト王権は、河内に出る手段として、物部氏の本拠を流れる大和川ルートに加え、北部の木津川を経由して淀川に至るルートと、南部の紀ノ川ルートの二方面から回り込むルートを構築します。
 皮肉にも、その紀ノ川ルートは、舞台裏で葛城氏の隆盛に寄与していたのですが(後述します)。
 5世紀末に王権に深く関与し続けた葛城氏が衰退すると、ヤマト王権は巨勢道を啓開して紀水門から大和に至る最短ルートも造りました。

 こうして河内進出後、約1世紀を経て、瀬戸内へ向かう2つの物流ルート、「大和~河内」、「大和~紀」を完全掌握するのです。

 河内平野への進出によって、ヤマト王権は産業基盤を強化し、瀬戸内海東部を含む広範囲への影響力を確保することになります。
 しかし、この河内への進出は、決して大和盆地からの決別を意味しないことに留意すべきです。ヤマト王権は大和盆地内の本拠を放棄したわけではないようです。三輪山祭祀は4世紀半ば頃から本格化しています。

 なぜ河内地域へ進出したかについては、またまた先送りになりますが、次回のブログで「さき」地域の王権との関連を確認する中で掘り下げていきたいと思います。

 

3世紀~4世紀の大和地域のまとめ
 さて、もっとも大切なことを再確認して「ヤマト国の伸張」の論考を閉じることにします。

 他の地域国家と同レベルか、むしろ後発だった大和地域が、この時期に至ってスタートダッシュを切れたのは何故なのか、についてです。

 それは第86回ブログで言及したように、大和の地が交通至便な列島の中央に位置したことによります。
 河川を利用した流通ネットワークを駆使することで、鍛冶技術などを取り入れ、土木や農耕などの産業を進化させ、人口が流入し富の蓄積を図れたわけです。

 加えて天然の要害地であったことから、ヤマト国、葛城国のほか、平群・大伴・物部・和珥・巨勢など、後に有力豪族となる先祖筋が揃って当地を本拠としたことが大きかったと考えられます。彼ら豪族層の切磋琢磨によって、総合力で九州北部や吉備をしのぐ先進的な地域になったのです(第89回ブログ)。
 多くの人口を養える大和盆地の広さがそれらを可能にしました(第86回ブログ)。

 このような土台の上に纒向のクニ、その後にヤマト国が誕生した。そしてシンボリックな巨大集落をつくって威信を誇示したわけです(第85回ブログ)。
 営々と蓄積した財力と先進的な技術力が、水面下から顕在化したのが3世紀後半から4世紀でした。

 しかし3、4世紀の列島全体を見渡すと、今なおヤマト国が突出した時代ではなく、出雲・吉備・筑紫・丹後・近江など各地方に大きな政治勢力が併存しました。

 畿内および周辺を押さえ、出雲西部や九州北部に足がかりを確保したヤマト国が本格的に全国へ進出していくのは4世紀半ば過ぎから技術革新の世紀といわれる5世紀以降のことになります。

 通説とは異なりますが、製鉄をはじめとする技術が進歩し、海と陸の交通路、特に瀬戸内海交通路が整備されて、はじめてヤマト王権が広域に打って出られるようになるのです。これについては「古代史本論・5世紀まで」の中で言及する予定です。

 

 その内容をかいつまんで記せば、おそらく以下のような経過を辿るのではないでしょうか。

 3世紀半ば以降に定型化した前方後円墳が出現した後も、地方がそれ一色に染められたのではなく、東日本では前方後方墳が広まり、出雲では方墳が続き、丹後や吉備では大型の前方後円墳が築造されるなど、地域の個性が豊かに残ります。そうした実態から、むしろ4世紀の段階では、地域国家は独立を維持し、ヤマト王権による統合化は進んでいなかったと考えた方がよい。
 さらに、大和の古墳の規模は図抜けて大きいが、前方後円墳という墳丘の形は同じであり、同時期の古墳の中でナンバーワンではあるがオンリーワンの要素はない。
 このことは、大王(おおきみ)の地位が完全に独立・確立していなかったというヤマト王権の状況を何よりも物語っているのではないか。

 4、5世紀におけるヤマト王権の優位性は疑わないものの、ヤマト王権と地方首長との関係は多様であって、また日本列島内の地域社会の進化の筋道もいろいろあったと考えるべき。
 5世紀頃までにヤマト王権は畿内をおさえ、鉄や須恵器などの製造の集積を図り技術面で突出する。一方、地域国家をみると、それらの技術を筑紫・吉備・葛城などは朝鮮半島から直接入手したのに対し、山陰や北陸はヤマト王権に依存しつつも朝鮮半島からも直接入手し、近畿以東の近江・伊勢・尾張・関東などの勢力はヤマト王権に依存する度合いが大きかった。
 日本中が大和地域を向いて一色に染まっていたわけではない。

〇 5世紀半ばまでのヤマト王権は、鉄器生産・造船技術・古墳祭祀などでリードしたものの、それを独占できる立場になかったし、網の目のようにからみあった分業体制も存在した。大和地域も他の地域国家から多くの分業の成果物を得ていた。
 地域国家同士の間も同様で、言うなればヤマト国も含めた各地域国家は、複雑な多極的流通ネットワーク・分業ネットワークで結ばれていたといえる。

 3、4世紀の古代日本においては、地域ブロック内での戦闘はともかく、広域に大規模な戦争や権力の移動が起きたという痕跡は発見されていない。
 日本に統一国家的な動きが見られ始めるのは、鉄の国産化によって陸路・海路の開発が飛躍的に進む5世紀後半の雄略以降。
 また、瀬戸内海路の整備については、雄略が、あたかも関所のように構えていた吉備の勢力を押さえたことも大きな要因といえる。

 あたかも点在する島々のように、自然の障壁によって隔てられていた地域国家が、陸路・海路という太い線で結びつき、ついには面を接するようになる。交易や局地戦争を通じて相互の関係を深め、その中で突出したヤマト王権が統一国家に成長していった。
 理系の視点で眺めると、ヤマト王権の統治は、長い時間をかけてゆっくりと進んだとしか思えない。筆者は、3世紀から4世紀前半のヤマト国に格別の卓越はなく、中央集権の完成には数世紀もの長い年月を要したと考える。

〇 最近、「前方後円墳体制説」を主唱する考古学者たちの間でも、「3世紀末から、前方後円墳が大和から九州、東北まで広がったという旧来の説に対して、実際はきわめてモザイク状で、領域的にそのすべてが卑弥呼政権ないしはヤマト王権の領域になっていたとは毛頭考えられず、ヤマト王権は後の律令制の国府になるような重要な場所を狙って、点的に押さえたに過ぎない」として、ややトーンが後退してきている模様。

 

 第82回から第99回ブログまで記してきて、箸墓古墳の築造時期が3世紀半ばなのか、4世紀以降にずれこむのかと言う点が、最も大きな懸念点として残っています。
 筆者は関川尚功氏やその他の何人かの識者の論考をもとに、4世紀前半までの築造であることを前提に3~4世紀半ばまでの古代史を綴ってきました。
 その裏づけとしては、3世紀前半の大和盆地に先進的な集落をうかがわせる証拠が皆無であること、大和盆地に通じる交通インフラが未成熟であったこと、などを論拠としました。

 この時期のヤマト王権の版図については専門家による様々な論考があることは承知しています。
 それらの中から可能性が高いと考えられる論考をつなぎ合わせて、筆者が考える「理系的視点を重視した骨太の古代史」を綴ってきました。
 今後、これらの大前提が崩れる考古的大発見があれば、当然、筆者の論考は破綻をきたします。

 なお、今までは「纒向のクニ」「ヤマト国」「ヤマト王権」という言葉を結構いい加減に使用してきましたが、第22回ブログで定義した区分けを再掲して整理してみます。

ムラ(小規模集落)・・・数十人~数百人で部落のようなイメージ。
 大和盆地の東南部では、大和川支流の交通要衝地に、中小のムラが存在していたと考えられます。高市、葛城、十市、磯城、山辺、曾布、磐余のムラなどで、纒向にも6つのムラが散在していた時期に当たります。

纒向のクニ(小国)・・・1000人~数千人の規模。
 吉野ケ里(佐賀県)、原の辻(壱岐)、池上曽根(大阪府)、唐子・鍵(奈良県)などと同様に、「纒向のクニ」の時代に当たります。

国(地域国家)・・・古墳時代の代表的な政治勢力集合体で、王家で言えば、大和盆地東南部の「おおやまと」地域全域を勢力範囲に治め、物部や和珥と手を結び、実質的に大和盆地内の盟主になったフェーズ。
 列島各地には、西から順に、筑紫国、出雲国、伯耆国、因幡国、吉備国、丹後国、葛城国、ヤマト国、近江国、尾張国、若狭国、越前国、毛野国などが存在した。

ヤマト王権・・・ヤマト国が大和盆地から広域に版図を拡大していくフェーズ。

 今後、5世紀以降の大和の権力集団を語る場合には、大和盆地の外からさらに広域へと版図を拡大していく局面になるので、当ブログでは「ヤマト王権」という言葉に一本化して記すことにします。
 

参考文献
『古墳解読』武光誠
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代豪族』洋泉社編集部
『地形と水脈で読み解く! 新しい日本史』竹村公太郎
『よみがえる古代の港』石村智
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『古代日本誕生の謎』武光誠
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
他多数