理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

101 複数の王が並立したヤマト王権

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 令和4年が明けました。
 昨年後半は、4世紀の古代史の中から、主として「ヤマト王権の勢力伸張プロセス」について確認してきました。本年末には雄略の時代まで進みたいものです。

 さて、年初の試みとして今回は、もやもやとしている王権継承の実態について整理してみます。

 第90回から98回で言及した「3~4世紀のヤマト国・ヤマト王権」は、一系でつながった王が統治する政権だったのか、それとも第83回ブログで言及したように王権には複列の流れがあったのか、或いは王権そのものが複数のまったく異なる勢力から成立していたのか、という懸念点について掘り下げてみます。
 主として、坂靖氏、清家章氏、武光誠氏の論考をベースにまとめてみました。

 

大和盆地における主要遺跡の盛衰
 まずは、今までの論考で確認した大和盆地関連の主要遺跡の盛衰について振り返ってみます。

 
 「おおやまと」地域では、紀元前から3世紀初めまで繁栄した唐古鍵遺跡(環濠集落)の衰亡と入れ替わるように、3世紀前半に興った纒向遺跡が3世紀後半から隆盛し、4世紀半ばには衰退する。纏向遺跡はヤマト国(ヤマト王権)の発祥地と考えられる。

 「ふる」地域では、環濠を持つ平等坊岩室遺跡が3世紀半ばまでに衰退し、その後は、2世紀頃から存在していた布留遺跡が5世紀から6世紀にかけて盛期を迎える。4世紀頃から「おおやまと」地域(ヤマト国)と一体化し、その延長線上に5、6世紀からの物部氏(本貫地は河内の久宝寺遺跡付近)の隆盛があったと想定できる。

 「わに」地域の集落は、2世紀頃の弥生集落を起源とする和爾遺跡群が4世紀頃から隆盛し、5世紀初めにかけて盛期を迎える。当地域は5、6世紀頃から和珥氏が主導したと考えられる。

 「さき」地域の集落は、弥生時代から続いていた佐紀遺跡が3世紀には衰亡し、4世紀前半から菅原東遺跡・西大寺東遺跡が隆盛し、纒向遺跡の盛期とラップする。4世紀後半には王の居館も存在するが4世紀末までには衰退する。また4世紀から興った第2次佐紀遺跡は5世紀半ばにかけて隆盛する。4世紀半ば頃には、当地域の王が「おおやまと」地域の王と併存した可能性がある。


 つまり、大きな遺跡(拠点集落)は大和盆地内で盛衰を繰り返していたわけです。

 

 いままで触れていませんが、「かづらき」地域でも、2世紀から鴨都波遺跡が、3世紀前半から秋津遺跡・中西遺跡が盛期となり、5世紀まで存続します。また5世紀には南郷遺跡群が隆盛します(「かづらき」地域についてはいずれ「古代史本論・5世紀まで」の中で詳述予定)。

 ついでに河内平野を眺めてみると、紀元後から4世紀前半にかけて、環濠を持たない加美久宝寺遺跡群・中田遺跡群が、纒向遺跡を上回る規模で隆盛します。久宝寺遺跡では6世紀頃の大型建物群跡が出土し、物部氏の居館跡と想定されています。丁未(ていび)の乱(587年)で物部宗家が滅んだのもこの地です。


 一方、王墓と思われる巨大古墳の築造時期は……。
 おおやまと古墳群では、箸墓古墳を除けば、4世紀前半(第90回ブログ)から4世紀半ば過ぎ。
 佐紀古墳群西群では4世紀半ばから4世紀後半(第95回ブログ)。
 佐紀古墳群東群では5世紀中心(第95回ブログ)。
 古市古墳群では4世紀末から5世紀中心。
 百舌鳥古墳群では5世紀後半中心。

 

 このように、大和盆地・河内平野で巨大古墳群の築造地域が移動することは、考古学的にも重視され、王朝交替論を支える大きな根拠にもなりました。ここに様々な謎解きが存在します。

 

王朝交代・交替論
 大東亜戦争後、一世を風靡した騎馬民族征服説(第37回・48回ブログ)が契機となって、ヤマト王権が単一の王権ではなく王権交替が繰り替えされたという様々な学説や、それに対する反論が盛んに提示されました。

 有名な崇神・応神・継体の三王朝交替説

 王朝交替説のひとつに「近江王朝説」がある。三輪王朝と河内王朝に挟まれた景行、成務、仲哀の3代にわたって近江の高穴穂宮に本拠とした王朝があったとする学説で、諡号に「イリ」を持つ三輪王朝、「タラシ」を持つ近江王朝、「ワケ」を持つ河内王朝の3王朝から成る。

 百舌鳥古墳群は大和盆地東南部勢力が侵入して成立、古市古墳群は在地勢力を核として成立したとする説。

〇 「おおやまと」地域の王権以外の豪族による王権簒奪があったとする政権交代説。

 九州の王権が河内平野に襲来して新たな王権を樹立したとする説。

 ヤマト王権内の勢力が権力抗争により分裂したとする説。

 5世紀以前の「倭の五王」段階には王位を継承する集団が複数存在したとする説。

 ヤマト王権は連合政権であり、連合政権を構成する有力勢力の間で盟主権が移動しているだけなので、政体としては一貫していて王朝交替とは言えない。

 3世紀後半から4世紀前半は大和盆地東南部に集中する大王墓群の築造地域が、4世紀後半には大和盆地北部(「さき」地域西群)に移動し、5世紀には河内と和泉に移動するのは、大王の本拠地の移動を意味するので、王族集団が交替したと想定する説。

 大王墓は王の政治的拠点を示すものではなく宮」こそが政治的拠点を示すので、巨大古墳群ではなく宮(大規模集落と王の居館の存在)の興亡に注目すべき。

〇 王墓群の移動とともに、鏡や甲冑などの威信財の副葬が変化するので、それまでの王墓群と異なる新勢力が存在したと考えるべき、という論理に対して、威信財の変化は単なる時期差を示しているに過ぎないとする説。

 地政学的移動があったに過ぎないとする説。すなわち、「さき」地域は淀川・近江地域との交流優位、百舌鳥古墳群と古市古墳群を擁する河内地域は瀬戸内海東部地域との交流優位から大王墓群が移動しただけで、百舌鳥古墳群と古市古墳群の時代も、政権の居所は大和盆地東南部にあった。

 祭祀の形態が継続しているのでヤマト王権として継続しているとする説。

 

 以上のように王墓群の移動が単なる墓域の移動なのか、政治的変動を伴なうものなのか判断に苦しむわけですが、清家章氏は古墳群の埋葬原理から説得力ある論理を展開しているので、後述します。


王墓の移動について
 近年、考古学の進歩は目覚ましく、特に埴輪編年の研究が進み、巨大古墳の築造時期がかなり詳しく分かるようになってきました。すなわち、新たな王墓群は従来からの王墓群と入れ替わる様に出現するのではなく、両者は一定期間併存していることが明確になってきたわけです。

 第95回ブログで言及したようにさき」地域における4世紀半ばからの巨大古墳群と菅原東遺跡・西大寺東遺跡の存在をどのようにとらえるべきか、考えてみます。

 まずは、巨大古墳の築造時期と場所について客観的に事実を把握してみます。清家章氏の著作にあった下図が分かり易いので転載します。

 

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<清家章氏の著作から転載> 
 

 従来は、おおやまと古墳群の築造が停止した後、新しく佐紀古墳群が出現すると考えられていました。
 しかし、上図からは、おおやまと古墳群の最後の頃と、佐紀古墳群の初代古墳の時期が重なっています。そして佐紀古墳群の最後の時期と百舌鳥古墳群の初代の時期、百舌鳥古墳群と古市古墳群の時期も重なっています。

 

 佐紀古墳群が出現した後も、おおやまと古墳群の大王墓は築造が続いていたわけです。そして佐紀古墳群が最盛期を迎えている最中に、和泉・河内で巨大古墳の築造が始まっているわけです。
 まさに新旧古墳群が併存しているわけですね。


複列だった(かもしれない)ヤマト王権
 清家章氏は、古墳時代の埋葬原理に着目して独自の論考をまとめています。
 同氏によれば、首長層の埋葬原理として、兄弟が独立して新たな墳墓を営むことがあり、兄弟間で首長位が継承されることもあり、兄弟のそれぞれの子が首長位継承候補者ともなり得るといいます。

 5世紀になれば首長層が父系化するが、父子の間で安定して首長位が継承されるとは限らず、兄弟間の格差が小さいので、兄弟間で首長位が継承されることもあり得たといいます。

 ついでながら、平安前期に成立した海部氏の本系図(第69回ブログ)は、歴代の祝部の名前が縦に並び、名前の前に「児」の文字が記されています。
 義江明子氏によれば、この縦系図は単に祝部の地位を引き継いだ歴代の人物名表であって、父子の関係にある者もいればそうでない者もいると言います。

 第69回ブログでは、「縦に継いだ料紙の中央に薄墨一線を縦に引き、線上に適宜間隔を置いて始祖以下直系の子孫のみ掲げ」と記したのですが、ちょっと考えを改めなければと思いました。

 稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にしても、親から子、子から孫へという直系原理が八代も続くとは考えられず、実力者が首長位を継承することはあり得るといいます。

 また、佐紀古墳群は墳墓の要素として三角縁神獣鏡が出土しないなどの独自性もあるが、大和盆地東南部の「おおやまと」地域の勢力から引き継いだ要素もかなり認められるので、「おおやまと」地域の勢力とまったく関係ない新勢力の出現とは考えられないとしています。

 おおやまと古墳群の大王墓と佐紀古墳群の巨大古墳は一時期ではあるが、同時に築造されていて、二つの勢力が併存したことは間違いないと考えられます。
 この巨大古墳の併存は、佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の間でも見られます。

 これら二つの事象を敷衍すれば、兄弟から兄弟へと王位が継承されるだけでなく、兄弟が分派して新たな古墳群を創出した可能性が考えられるわけです。
 王族の分派活動であれば、おおやまと地域に大王墓が築造されている時期に、佐紀古墳群の形成が新たに始まり、しかも、おおやまと古墳群の王墓の要素が多分に引き継がれていることも理解可能です。

 旧勢力からの墳墓要素を多分に引き継いでいることは当然であるし、新たに加わる墳墓要素を分派の証と考えれば合理的に全体を説明できます。
 さらに、佐紀古墳群の場所に、その前身となる勢力が存在しないことも、清家説でうまく説明できます。

 清家氏の結論を筆者流に記せばおおむね以下のようになるでしょうか。

 「おおやまと」地域にヤマト国主流派の王族が存在し、3ないし4集団の中で実力者が順次擁立されたとみられ、彼らの王墓が箸墓、西殿塚、行燈山、渋谷向山というように、点在する形で分布します。

 行燈山から渋谷向山古墳の頃には、その中の王族一部が分派して「さき」地域に移動して佐紀古墳群を形成します。

 佐紀古墳群とおおやまと古墳群は一時期併存しますが、分派した勢力は4世紀後半(宝来山古墳から五社神古墳の頃)になると主流派だった本家を上回って隆盛し、ヤマト国を率いる王となる一方、大和盆地東南部にあった本家の方は衰退してしまったと考えられます。

 筆者は、以上のような清家氏の論考に共鳴するものがあります。

 古市古墳群・百舌鳥古墳群については、この後に続く「5世紀のヤマト王権」の中で詳述する予定ですが、可能性としては4~5世紀には一時期に複数の王が並立したのかもしれません。しかしそれが王権の断絶を意味するとも断定できず、たとえ生物学的に繋がっていなくても、広義のヤマト王権として何とか繋がっていたと考える方が理屈に合うように思われます。何となれば、祭祀の形態がおおむね継続しているからです。

 一系を確実に主張できるのは6世紀の継体以降でしょう。

 

 

 

参考文献
『古墳解読』武光誠
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『佐紀盾列古墳群の謎をさぐる』塚口義信