理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

103 もっと光をあてたい前方後方墳

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 第91回ブログで、布留遺跡には日本最大の前方後方墳「西山古墳」があると記しました。ヤマト王権のお膝元で、しかも大王家と最も親密に連携して一心同体であるかのような「ふる」地域の勢力(物部の前身集団)が前方後方墳を築造する摩訶不思議。

大和盆地にも多くの前方「後方墳」が存在!
 「ふる」地域には驚くほど多くの前方後方墳が存在しているんですね。

〇 波多子塚古墳(290年頃、全長140メートル)
〇 ノムギ古墳(300年頃、63メートル)
〇 下池山古墳(320年頃、120メートル)
〇 フサギ塚古墳(340年頃、110メートル)
〇 西山古墳(360年頃、183メートル)

 いずれも天理市に築造されたものですが、同じ天理市には前方後円墳も存在しています。

 東海地方から関東地方にかけての範囲に、有力な前方後方墳がいくつか分布しています。これらの地域には、後世、物部氏の同族と称する地方豪族が多くみられるので、そのことと関係があるのかな。

 いずれにしても、前方後円墳が登場した3世紀末から4世紀半ば頃までとほぼ同時期に、しかも隣り合わせのような場所に、無視できない規模の前方後方墳が多く存在するわけです。

 今まで、古代史の中心的な論調では、前方後方墳は、前方後円墳を頂点とするヤマト王権のつくりあげたヒエラルキーの中に組み込まれているとされてきました。前方後方墳は纒向に出現した初期の前方後円墳から派生したと信じられてもいました。
 しかし、「ふる」地域の状況を考えれば、そのように言い切るのは無理そうですね。

 通説の代表例として、山川出版社『詳説 日本史図録』の中に次のような記事があります(第18回ブログ)。

 <出現期の前方後円墳の分布は、近畿大和を中心に瀬戸内海沿岸から九州北部におよび、ここに広域的な政治連合(ヤマト政権)が成立したことを物語る。一方、古墳時代前期前半、東日本では前方後方墳が多くつくられるが、その規模は前方後円墳に比べはるかに小さい。前方後円墳は、ヤマト政権の成立当初から政権を支えてきた地域の首長がつくり、前方後方墳は遅れて政権に加わった地域の首長がつくったものと考えられている>。

 明らかに3世紀後半から国家権力としてのヤマト政権が成立していたかのようですが、筆者はこのような論調に大いなる疑問を感じると同時に、考古学界のかたくなな姿勢にあきれ返ってしまうのです。
 いったい「ふる」地域に多く存在する前方後方墳はどう説明するのでしょうか。

 さらに付け加えれば、3世紀半ば以降にヤマト王権が全国的支配を確立したというならば、先進的な横穴式石室がまず4世紀後半に九州北部で造られ、その後、徐々に東に広がり、6世紀にかけて全国的に伝播する現象をどう考えれば良いのでしょうか。

 当ブログでは今まで、3世紀の後半からヤマト王権が日本列島の広域を支配したとする通説に疑問を呈してきましたし、都出比呂志氏が提唱した「前方後円墳体制説」は整然とし過ぎていて、現実の世界ではあり得ないとしてきました。

 「人・モノ・情報のネットワークと古代の技術・交通インフラ」の状況(第25回~第58回ブログに連載した)を根拠に、ヤマト王権の列島支配はもっとゆっくり進んだに違いないと想定したわけです。

 しかし、いまだに、ゆっくり進んだとする論考は少数派なのです。心細い限りでしたが、このたび植田文雄氏の著作を読み、今まで筆者が思い描いてきた3、4世紀までの古代史に大きな誤りはないと確信を持ちました。

 今回は、同氏の著作から抜粋して以下に要約してみます。
 いきなり、次のような同氏の文言に接し、都出氏の論考に反発している筆者としては小躍りする思いです。

 都出比呂志さんは、「定型化した前方後円墳」が成立する段階で「身分制的秩序」ができ、箸墓古墳の成立をもって「倭の社会」が古代国家に到達していたとして、「前方後円墳体制論」を発表したが、都出さんがいう「倭の社会」の範囲は特定できない。大和を中心とする小さい範囲で成立した「体制」は認めても、3世紀の後半では今の近畿地方でさえ統率されていたとは考えがたい
 すくなくとも3世紀代の列島には、さまざまな形の墳墓があり、都出説ではこれらの解釈が充分にできない。東日本のみならず西日本でも前方後方墳が先に築造されるところが多い。しかし都出さんは、列島の古墳時代は前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳の順に序列化され、なおかつ規模の大小で格付けされていたとまで言いきった

 

植田文雄氏の前方後方墳に関する論考
 続けて植田氏の著作から抜粋する形で列挙します。

 弥生時代は弥生土器、古墳時代は土師器(はじき)という土器を使っているが、土器編年で重要な土師器の型式には庄内式・布留式がある。庄内式はおおむね200年から300年まで、布留式は300年から470年までと考える。

 円形の大型墓は主として階級社会に達していない縄文時代に、また方形の大型墓は人が人を統治しはじめた、いわゆる階級社会(首長制・初期国家)につくられたように思われる。ここに円と方の根本的な違いがひそんでいるように思う。円形は自然的・融和的なかたちであり、方形は人工的・排他的かつ統治構造的な一面を持っている。

 弥生時代はどちらが多いかというと、圧倒的に方形墓である。全国で見つかっている方形周溝墓や方形台状墓は数十万基をくだらないが、円形周溝墓はその千分の一の数百基程度である。稲作によってうまれた富める者の墓は主に四角だった。

 円形周溝墓は、一部が備讃瀬戸内で弥生前期のものが見つかっているが、本格的な展開は方形周溝墓におくれること数百年、弥生中期頃のことである。

 前方後円墳の源は、弥生時代の円形墓に突出部がついたもので、同様に前方後方墳は弥生時代以来の方形墓に突出部が付いたのであり、弥生時代からの系列でみるべき。「前方後円墳の思想性」などというものは後世の学者があとづけた理屈であり、重要なことは祭祀の場、前方部の形成なのである。

 律令期の地域区分「畿内」のもつ優位性が、かたよったイメージを浸透させてきたことは否定できない。しかし昨今の発掘成果は、これら「畿内優位」の先入観をくつがえす勢いである。

 前方後方墳を子細に調べると、「前方後円墳体制」のできる以前、すなわち庄内式期(主として3世紀代)に大きな規模と高さをもった古墳がうまれている事実がある。

〇 都出さんは、「古墳の階層構造」にもとづく支配体制が、江戸時代に徳川将軍家が諸大名を支配した、いわゆる幕藩体制に近いものだったとまでいう。一見聞こえの良い分かりやすい話であるが、はたしてそうだっただろうか。このような支配構造が、律令(法律・制度)のできる400年も前の、しかも文字を使わない社会にできあがっていたのだろうか。

 前方後方墳は近江ないし濃尾平野ではじめに出現した。その後、前方後円墳より先に日本各地に広まって首長墓に採用された。どうやら古墳時代のはじまりを解く鍵は、前方後方墳にかくされているようである。

 近江より東国では、3、4世紀にいったん前方後方墳を首長墓とするものの、早いところでは4世紀前半に、おそくとも4世紀末~5世紀初頭までに前方後方墳は姿を消し、前方後円墳ないし円墳にとってかわる。

 西日本のうち、吉備では浦間茶臼山古墳など一部を除いて、植月寺山古墳・備前車塚古墳など、4世紀前半代は前方後方墳が非常に多い。しかし4世紀後半には前方後円墳が多くをしめ、前方後方墳はまったくつくられなくなる。

 瀬戸内では、わずかに前方後方墳が認められるが、もともと前方後円墳中心の地域である。

 北部九州でも、3世紀後半の吉野ヶ里遺跡など古墳は前方後方墳からはじまるものの、4世紀中頃には前方後円墳となる。

 西日本で特異な地域は出雲である。4世紀前半~中頃に斐伊川内陸部で前方後方墳の松本古墳がつくられるが、別流域では方墳や円墳が首長墓とされる。しかし5世紀以後も宮山1号墳や6世紀では山代二子塚古墳など前方後方墳が継続する。新しいものでは6世紀後半の岡田山古墳などがあり、列島で最後まで前方後方墳をつくり続けた地域といえる。出雲は、弥生時代の四隅突出墓から前方後方墳ないし方墳をつくりつづけており、まさに方形の墓をかたくなに守った、頑固な地域といえる。

 興味深いのは大和で、意外にも前方後方墳が遅くまで残ることだ。新山古墳は4世紀中頃、西山古墳は4世紀後半の古墳で、西山古墳は列島最大の前方後方墳であるが、段築の2段目より上は前方後円墳となっている。

 前方後円墳と前方後方墳をあわせると、一説に約5200基あるといわれる。今のところ、そのうち約1割の500基程度が前方後方墳と考えられるが、かずかずの前方後円墳が本当に前方後円墳なのかどうか、再吟味が必要だ。江戸後期の蒲生君平による「前方後円墳」命名は影響力が強く、明治以後の研究の中で「古墳」といえば安易に「前方後円墳」とされてきたきらいがある。近年いくつかの前方後円墳が前方後方墳に訂正されている。定型化した前方後円墳として知られた、すばらしい副葬品をもつ西求女塚古墳が発掘調査の結果、前方後方墳と判明した例もある。

 前方後円墳についても、突如、箸墓古墳のような巨大な前方後円墳がうまれ、一気呵成にひろがったわけではない。列島に広範囲で、定型化した前方後円墳が受容されるまでのタイムラグは小さくはない。広範な地域にくまなく受容されるのは、5世紀代に巨大古墳が河内でつくられて以後、遅いところでは6世紀代に入ってからのことである。

 海に面し、湖や沼に大小の河川が注ぎ、山や丘陵が複雑に入り組んだ列島において、同じ河川でも上・中・下流で前方後円墳の導入される時間差が生じている。ここを埋めるのは前方後方墳や方墳・円墳で、地域の独自性がここにある。かりに、大和や河内および畿内の一部でピラミッド構造の社会が成立していたとしても、小盆地や河川の流域単位では、テーブル構造あるいは小型ピラミッド構造の社会が長く持続したと考えられる。

 都出さんは、「前方後円墳体制」を基軸にした初期国家論の根拠の一つに鉄の掌握をあげ、「倭の中央権力は3世紀中葉には、鉄を中心とする必需物資流通体制を掌握して日本列島主要部の首長達に覇権を及ぼした」と言うが、考古資料からはこの説に否定的になる。

〇 少なくとも3、4世紀代の大和勢力は、情報と交通掌握の点で優位に立っていたわけではない。むしろ、瀬戸内海を河内や吉備勢力に押さえられたと想定され、もうひとつの日本海ルートを掌握する北近畿・北陸および近江勢力を軽視できなかっただろう。

 すでに文献史学の立場からは再三、この初期国家論に否定的な見解が発せられるが、考古学の側からも「前方後円墳体制論」について再考する時期にきている。

 ポイントになりそうな点をざっと抜き書きすると、以上のような塩梅です。

 筆者は第92回ブログで「不明確な古墳築造時期にとらわれず、政治勢力の拠点とされる遺跡の盛衰を重視したい」と宣言したのに、古墳の分析から重要な事実が解き明かされるとは、実に皮肉なものですね。もう少し古墳について分析をしていきたいものです。

 筆者は、「人・モノ・情報のネットワークと古代の技術・交通インフラ」を詳細に分析することで、3世紀後半からヤマト王権が日本列島の広域を支配したという通説に疑問を持ちました。理系的視点から導き出した結論です。

 筆者は考古学者でもなく文献史学の専門家でもなく、在野の自称「古代史研究家」です。専門知識の幅や奥行きは劣りますが、しかし直感としても通説はあり得ないと長いあいだ考えていたわけです。今回、考古学面からもそのことが証明された感じで、大変心強い思いです。快哉!

 ただし、植田氏が著作の最後の方で、前方後方墳が発祥した近江・濃尾地方を狗奴国に比定する乱暴な試みをしていることには失望してしまいます。それまでの興味深い論考が台無しです!

参考文献
『前方後方墳の謎』植田文雄
『古墳解読』武光誠