理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

104 巨大化する前方後円墳の謎

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 第87回・90回・95回ブログで、大和盆地の巨大古墳について確認しましたが、4世紀末から5世紀末にかけては河内平野でさらに巨大な古墳群が築造されます。
 今回は河内地域も含め、古墳が巨大化した謎に迫ってみます。

古市古墳群と百舌鳥古墳
 おおやまと古墳群では最大が渋谷向山古墳(302メートル)、佐紀古墳群では最大が五社神古墳(267メートル)でした。
 これに対し、河内平野の巨大古墳を並べてみると次のようになり、その巨大さは驚くばかりです。

古市古墳群
370年頃 津堂城山古墳 208メートル
400年頃 仲ツ山古墳 290メートル
420年頃 墓山古墳 225メートル
440年頃 誉田御廟山古墳 425メートル

百舌鳥古墳群
440年頃 上石津ミサンザイ古墳 360メートル
450年頃 大仙陵古墳 486メートル

 松木武彦氏は、巨大さを増していく古墳について次のように説明しています。
 物理的な機能ではなく、心に働きかけることを目的としてつくり整えられた構造物を「モニュメント」という。
 集団の絆が強く個人がさほど傑出していない時代は、縄文時代の環状列石のように、円を基本とし造形も素朴なモニュメントだった。その後、集団の規模が大きくなり、首長の権威や、そのベースとなる宗教的な威信を演出する役割が高まると、モニュメントはより大きく高さを増し、視覚的効果を狙って美的表現を盛り込んだものになっていった(第87回ブログ)、と……。

 

巨大古墳は外国の使節から見えるように造られたのか?
 「古墳はより大きく高さを増し、視覚的効果を狙って巨大になっていった」という松木説に対して、広瀬和雄氏は、荘厳性・威圧性・隔絶性にすぐれた巨大前方後円墳は、相互に連携しながら「目に見える前方後円墳国家」としての威力を存分に発揮することになると言います。

 しかし、次のような説にはこじつけのような無理を感じてしまいます。

 例えば大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は、ヤマト王権の勢力を誇示するために、外国の使節が乗った船からよく見えるように大阪湾に面して築造されたと言うのですが……。
 でも、本当にそういうことが言えるのでしょうか。

 船で瀬戸内海を東進すれば、淡路島の南北どちらの海峡からでも大阪湾に入れます。鳴門海峡か明石海峡かです。
 鳴門海峡を通れば、大阪湾を海岸沿いに北上して住吉津(百舌鳥古墳群のある堺)に上陸することになります。
 広瀬氏によれば、右手に「百舌鳥古墳群」を眺め、さらに東へ歩を進めると「古市古墳群」が圧倒的な量感で迫ってくる。大和盆地に入ると、「馬見古墳群」を右手に、左手遠方には「佐紀古墳群」を望み、はるか正面の三輪山麓には「大和・柳本古墳群」を望むことになり、まさに古墳群が相互に連携しながら「目に見える前方後円墳国家」としての威力を存分に発揮することになる、と言うのですが……。

 しかし、このこじつけのような理屈は後世の学者が考えた後講釈ではないかと思うのです。

 実際には、大和に向かう使節は、大型船で瀬戸内海から明石海峡を抜けて大阪湾に入り、堺には向かわず河内潟から大和川をのぼってしまうことが多かったのでは……。
 堺から大和へ徒歩で向かう場合は、難波大道や大津道、多比道が整備される前(第43回ブログ)なので大変な労苦を伴なったと思われます。

 しかも喫水の深い大型船は、住吉津の停泊は困難なため、当時整備が始まっていた難波津に停泊し、小型の舟に乗り換えて大和川を遡上したか、一部は徒歩で大和盆地に向かったとしか考えられません。

 難波津の工事は5世紀からで、6世紀になって完成しています。難波津がなければ、瀬戸内海は物流ハイウエイになり得なかったでしょう(第57回・第78回ブログ)。

 つまり、難波津から大和川を遡上すれば大仙陵古墳(百舌鳥古墳群)は見えないまま古市古墳群を右手に見ながら大和盆地に至るわけです。当然、外国の使節にとって瀬戸内海からの雄大な眺望は望めません。

 しからば、なぜかくも巨大な古墳を築いたのでしょうか。

 広瀬和雄氏も、次のように述懐しています。
 堺市役所の展望台に登ってみれば、眼下に一望できますが、古墳時代にはかなわないことなので、巨大古墳の見方とすればこれは邪道です。
 天から見た前方後円の形というものは古代人にとってはまったく意味がありません。

 一方、地上からの眺望では巨大すぎて全容を把握しがたいのも事実です。やはりある程度離れた場所から眺めないとその巨大性は確認できません。ただ、大和盆地に入れば「馬見古墳群」を右手に、左手遠方には「佐紀古墳群」を望み、はるか正面の三輪山麓には「大和・柳本古墳群」を望むなどというのは、互いに遠方過ぎて、高さがせいぜい40メートルくらいの古墳はとても視認できるものではありません。

 

 巨大な日本の古墳について松木武彦氏が次のような謎解きをしています。

〇 まずは材質の違い。高句麗と百済の王墓は、石材を自由な形に切り出す加工技術と、それを組み合わせて積んでいく構築技術のレベルが高く、日本列島の古墳ほど巨大ではないが、整然とした精緻な姿に王の威信が感じられる。

 一方、日本列島の古墳は、土を盛りあげて表面に葺石を貼るという、ローテクの量的な集積によって築造された。多くの人工を投入して質より量で勝負という後進性の現れが、日本の古墳が巨大であることの一つの要因と考えられる。

 高句麗と百済の王墓は、石を組み上げていく途中に石室を設ける。新羅と伽耶の王墓は、古代シナの皇帝陵と同様にまず地面に墓室を造って王を埋葬し、その上に礫や土を盛りあげて墳丘を完成させる。これに対し、日本列島の古墳は墳丘の完成後、その頂上に浅い墓穴をつくり、その中に石室をつくって王を埋葬する。

 世界の多くの墳墓では王たちの遺体は墳丘の下に深く埋め込まれる形になるのに対し、日本列島では王たちの遺体は天に接する高い場所に祀り上げられる。王たちは死後に天にのぼるという思想が反映しているのではないか。葬られる人物が偉いほど、その遺骸を高く祀りあげなければならず、墳丘を高くすれば裾の寸法も大きくなっていく。

 日本列島では国境警備のために多くの労力とコストを割く必要がなかったので、それらをもっぱら墓の築造に注入することができた。

 鏡でも銅鐸でも、どんなものでも、大きく立派に仕立て上げてしまう民族性。モノを破格の大きさに作ってその心理的機能を増幅し、映したり鳴らしたりする当初の役割よりも、権威の誇示や秩序の反映など社会的関係を表すメディアとなって機能する。これは日本列島ではモノに頼らず制度に根ざした権威や秩序の形成が遅れたためか。

 蛇足ですが、松木氏は認知考古学を提唱するなど、考古学の新たな方向を模索していて好感が持てますが、纒向を邪馬台国の地と主張したり、都出氏の前方後円墳体制を支持するなど、筆者にとっては残念な一面もあります。都出氏を師と仰ぐ立場なので仕方ないのでしょうが……。

 

巨大古墳築造と言う膨大なエネルギー消費の謎
 北條芳隆氏の興味深い論考から謎解きのヒントを探ってみます。

 氏は、常識的かつ合理的な政権運営を想定した時、東アジア全体でも異様な巨大古墳の築造は、次のような5つの説明のしようのない矛盾を抱え込んでいると言います。

〇 墳丘規模の拡大
 3世紀後半から5世紀半ばにかけての巨大前方後円墳は、しばしば前代の古墳より規模を拡大させているが、これは僭越の極みで、始祖王を神格化させることで支配の正当性を表明し王統の確立を図った古代諸王朝の展開とは異質の事象であって、同一政権の王陵とは解釈しにくい。

〇 過剰な労働力の投下
 巨大前方後円墳は、その支配領域に不相応な過剰な労働力が投下されたと考えざるを得ず、古代シナが最優先で取り組んだ祭礼空間としての宮都の造営を欠く状態のまま、王墓の築造に偏り過ぎる政権は異色と言わざるを得ない。

〇 富の浪費
 一代の王を祀るだけで終わる巨大前方後円墳の築造は疑問の余地なく富の浪費で、社会からの不満を増幅させる。本来は治水や利水などの公共事業に傾注すべきであり、許容されるのは祭礼空間としての永続を前提とする宮都造営であるはず。

〇 中央集権とは異質な共有関係
 各政体間で、前方後円墳を造るというイデオロギーに沿った共同歩調をとりつつも、そこに参画した勢力同士で優劣を競い合ったという理解に帰結するので、これら古墳の築造に邁進した社会は、中央集権化を志向する王権とは異質な部族同盟ないしは部族共和制と考えざるを得ない。

〇 階層序列の固定化を阻む作用
 浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出だから、次世代の親族に資産を残せない。その結果、成層化や身分序列の固定化とは真逆の平準化や均等化に流れるはず。巨大前方後円墳の築造は蓄財を完全放棄に近い状態で結末を迎えることを承知のうえで、古墳時代の300年間にわたって前方後円墳づくりに熱心だったことになる。

 

 大きな謎とされる以上5項目に対する北條氏の解答は次のような塩梅となっています。

 日本の古代が首長制社会だったとすると、首長は民衆に向けて惜しみない富(稲束・稲籾など)の分配を強いられた。このような営為を人類学ではポトラッチと呼ぶが、それを繰り返すことで民衆からの支持を取りつけられた。

 大王を輩出した部族は次世代に資産を引き継ぐことのないよう各方面から注視され、地域においても、首長と民衆との間で同様な関係にあった。

 地域首長層は大王が惜しみなく富を放出し続ける限りにおいてその政権を支持するという構造があった。

 ヤマト王権内部では、前代の大王および彼を支えた有力な諸部族と、次世代を担う諸勢力との間の世代間競合があった。

 大王位が世襲制のもとで継承された可能性はないので、部族首長間の同盟に立ち、実力主義のもと各世代の大王が擁立された。だとすれば新たに擁立された大王の権威は常に先代との比較に晒される。こうしてポトラッチをめぐる競争が世代間で発生したのではないか、としています。

 

 このことをもっと直接的に表現している坂靖氏の次のような論は分かりやすく納得しやすいです。

 考古資料の分布を検討するだけで、早々に中央政権の覇権が及んだとか、地方の首長が中央政権に集結したとかを立論することに、さしたる根拠はない。ヤマト王権が地方に向け将軍を派遣したという考えにいたっては、もはや暴論に近い。
 あくまで、前方後円墳の大型化には、古墳の規模や墳形に一定の価値をもとめた権力者相互の競争原理がそこにはたらいているとみるべきである。

  第101回ブログで引用した清家章氏も、やはり次のように言っています。
 政治体制の確立と前方後円墳の大型化が関連しているわけではなく、権力者相互の覇権争いが、前方後円墳の大型化の背景にあると考えられる。近畿地方の大型前方後円墳においては、兄弟による王位継承の争いもその一因かもしれない。

 結論として、当時は制度に根ざした権威や秩序の形成が遅れていたため、熾烈な覇権争いに晒されていた権力者たちは、その権威を「見える化」するため、少しでも天に近い場所に遺体を祀り上げるべく古墳を高く(結果的に大きく)築造し、そのための膨大な労働力については、国境警備に振り向ける必要がなかった分を宮都造成・公共事業にも振り向けず、もっぱら墓の築造に投入したということに尽きそうです。これは中央、地方にかかわらず各地に当てはまることです。

 第18回ブログで言及した「前方後円墳体制」は机上で作られた理屈であって、ヤマト王権の許可や指示で各地の古墳の大きさが決められたわけではありません。3、4世紀の「人・モノ・情報のネットワークと交通インフラ」の実態からみても、「前方後円墳体制」を全国規模に適用するのは無謀です。

 

弥生墳丘墓から前方後円墳への形態変化について
 前方後円墳祭祀が発明されるまでの歴史は、第87回ブログで言及したので、今回は前方後円墳への形態変化について確認してみます。

 前方後方墳の特異なかたち(鍵穴型)がなぜ生まれたのか、宮車説、楯型説、御霊・壺起源説、円丘と方丘の合体説などがあるようですが、墳丘に向かう通路が巨大化・象徴化したとする説が妥当のようです。

 前方後円墳は大和盆地において、ある日突然生まれたものではなく、弥生墳丘墓から徐々に変化したと考える方が実態をよくあらわしているようです。

 弥生墳丘墓として発見されているものの多くは方形周溝墓や方形台状墓です。いずれも墓の周りに溝がありますが、溝を越えて墓の上に行くための陸橋のような通路が残されており、それが時の経過とともに長大化して前方部へと張り出し、埋葬に伴なう儀礼の場(祭祀空間)となったと考えられます。

 前方後円墳も前方後方墳も、弥生墳丘墓の展開の結果として生み出されたと考えるのが自然です。

 このような観点でみると、円形の墳丘の両側に2ヶ所の突出部がある楯築墳丘墓(吉備)や方形の四隅に突出部のある四隅突出型墳丘墓(出雲の西谷 )なども、古墳と言えないことはありません。

 しかしこられも古墳に含めてしまうと際限がなくなるので、考古学界では、墳丘が巨大で段築工法で造られているとか、葺石や埴輪の存在などの要素を勘案して、3世紀後半の箸墓古墳をもって古墳時代の開始、すなわち大王を頂点とする首長連合体制の出現としているようです。

 筆者はこのあまりにも恣意的な線引きに意味を感じません。

 

参考文献
『前方後円墳の世界』広瀬和雄
『古墳解読』武光誠
『前方後円墳はなぜ巨大化したのか』北條芳隆
『前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか』吉村武彦他編集
『古墳と政治秩序』下垣仁志
『はじめての考古学』松木武彦
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『前方後円墳とは何か』和田晴吾
『日本の古墳はなぜ巨大なのか』清家章
『倭国の古代学』坂靖
他多数