理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

105 なぜ前方後円墳は『記・紀』に描かれていないのか

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 かなり以前のことになりますが、第75回ブログで『記・紀』には銅鐸のことが全く書かれていないと記しました。不思議なことに、それより時代がかなり下るのに、巨大前方後円墳に関する事柄も『記・紀』には描かれていません。さて?

 ヤマト王権をはじめ各地の首長達が、3世紀後半から6世紀にわたって、多大な労力を投入して夥しい数の前方後円墳を築造し祭祀を主宰したのは事実なのに、それについて『記・紀』にはたった一片の記述もないのです。

 いったい何故なのか、この命題に真正面から答えた古代史には、今までお目にかかったことがありません。
 今回は、この不思議について考えてみます。

7、8世紀の人びとが巨大古墳の存在を知らなかったはずはない! 
 古墳時代というのは、350年以上にわたって全国各地に5200基の前方後円(方)墳を築いた時代であり、全国の人びとはそれを確認し続けていたはずです。

 『記・紀』編纂当時も、近畿のみならず全国各地の交通の要所に存在した古墳は、高く盛り上がった特異な小山として大勢の目に映っていたに違いなく、築造や埋葬に関する何らかの伝承があったはずです。

 しかし『記・紀』の中では、巨大古墳の存在についてほとんど触れられていません
 わずかに、崇神紀の中で、箸墓古墳の築造にあたって「その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人びとが連なって手渡しにして運んだ」と、築造に伴なう葺石を敷きつめる労苦を描写していますが……。

 この記述からは、『日本書紀』編纂の時代には、人の力だけで築造するのは難しいと思われていた可能性があります。

 いずれにしても、7、8世紀の王権は、実際に目の前に存在する4、5世紀の巨大古墳や古墳群のことをたったのひと言も触れることのない『記・紀』を編纂したのです。

 前方後円墳祭祀は大和盆地に興ったヤマト国(初期ヤマト王権)のもとで発明され、埋葬の方式、埴輪の作り方など、新しいスタイルや技術が中央から地方へ伝わったことは間違いありません。

 古墳に納められた副葬品、三角縁神獣鏡や鉄製の甲冑、武器や馬具などの多くも、地方からの物産や労働力の提供と引き換えに地方に配布された可能性があります。

 『記・紀』編纂から3、4世紀も遡った時期には、前方後円墳祭祀は王権の最重要な政治的関心事であったはずです。しかし『記・紀』でひと言も触れないということは、7、8世紀には巨大古墳の存在や前方後円噴祭祀が王権にとって重要な関心事ではなくなっていたということでしょう。むしろ忌むべき対象だったのかもしれません。

 まずは前方後円墳祭祀がどのような背景のもとに始まり、5世紀頃までの王権や各地の首長達にとってどのような効用があったのか、確認してみます。

 

古墳築造による統治
 第18回ブログでは、「前方後円墳体制説」の無理さ加減について言及しました。
 都出比呂志氏によって提唱された「古墳の階層性」はいかにも整然としていて魅力的ですが、これは理科系の学問でよく使われる類別法を古墳に当てはめただけであって、これに何らかの政治的意図を感じ、「前方後円墳体制」と命名するのは強引です。

 筆者は、小林道徳氏の以下のような指摘に共感するものがあります。

 「確かに、前方後円墳は、大和を中心に、3世紀後半から5世紀にかけて、南は薩摩や日向、北は奥羽や陸奥にまで及んでいる。しかし、このことは、交易の発達による全国への技術の伝播や文化の普及または流行を意味するだけである。それは、大和政権の政治的支配力が及んで、各地方の首長が大和政権に服属したということを意味するのではない。
 現に、一時代前の弥生時代の例をとってみても、銅剣、銅矛、銅鐸、さらに方形周溝墓の広範囲の普及が見られるが、それを、すぐさま、弥生時代に何らかの政治的統一があったと考える者はいない。
 それと同じように、前方後円墳の普及も、それだけを根拠に、大和政権の政治的勢力圏の拡大とみなすことはできない。でなければ、朝鮮半島南部にまで広がっている前方後円墳網は理解できないであろう」。

 

 遺跡・遺物の分布は、「人を介した物質文化の広がり」を示すもので、これをすぐさま政治勢力の広がりと読み替えてよいかについては慎重を要します。
 広域にわたって同じような古墳の形が認められても、ただちに支配・被支配の関係にあると断じてしまうのは誤りです。交通インフラが貧弱で過疎であった時代には、広域を支配する統一政権は生まれようがありません。

 大和盆地で出現した前方後円墳祭祀は、確かに革命的なものでしたが、それがヤマト王権による早期の全国支配に繋がったという科学的なエビデンスは全くありません。
 むしろ、前方後円墳の広域分布は、以下に述べるように、各地の首長達が魅力的な首長霊祭祀を能動的に取り入れていった側面が大きいのではないでしょうか。

 近藤義郎氏は、前方後円墳は「首長霊」を継承する祭りの場であり、祖霊から引き継いできた霊力を、新しい首長が受け継ぐものと言います。

 武光誠氏は、「古代シナや朝鮮半島にも贅沢な皇帝陵や王墓はみられるが、そこには王墓を人びとの守り神とする発想はなく、亡くなった皇帝や王を手厚く葬るためだけに、手間をかけて墓づくりをした。そのような墓づくりは、支配者の権威を人びとに知らしめるだけのものだった。これに対し、日本の古墳では、大王や地方豪族の先祖にあたる首長霊が、大王や首長が治める一定地域の守り神とされた。古墳は、最初は首長霊祭祀の場であった」と言います。

 亡き首長が神になって国や村という共同体を守るという信仰ですね。

 広瀬和雄氏に興味深い論考があります。

 朝鮮半島の王墓では、死者の霊魂が墓室で生活できるようにと陶質土器などの食器類が副葬されていたのに対し、4世紀頃の古墳には生活用品が全く副葬されていません。代わりに何が多いかと言うと、個人の所有にしては多すぎるほどの威信財や権力財など、共同体的色彩を帯びた製品が副葬されているわけです。

 それらは、個人の財というよりは、首長が統治していた共同体をいつまでも繁栄させるための、鏡などの威信財、政治権力を維持するための武器・武具などの権力財、食料生産や耕地開拓のための道具類などです。

 「死後も道具を手にしてもうひと働きしてほしい」と言わんばかりです。これは、東アジアの同じ時期の墳墓と比べると、まるで逆で、はっきり違う点だそうです。

 この説に従うと、前方後円墳は、亡くなった首長が神となって再生するための舞台装置で、共同体の再生産が念じられた場ということになります。人々は古墳を見上げながら、安全・守護を祈りつつ、生活し往来していたということでしょう。

 

 古墳の築造には大勢の民衆が動員されましたが、一方的な労務提供だけでなく、墳丘上で行われたであろう「神祀り」を眺めることで、首長一族らを中心とする心理的な共通基盤がつくられたと思われます。公共工事ともいうべき古墳築造に民衆を駆り出しても、大王や王(首長)は感謝されたのではないでしょうか。運命共同体の一員として一体感が培われるわけですから。
 こんなに素晴らしい統治手段があるでしょうか。

 でも、古墳での一連の儀礼が終了すると、その古墳から人の気配が一切なくなってしまうことが、古代シナの皇帝陵とは大きく異なります。
 大変な労力をかけて造ったモニュメント(記念的建造物)ですから、当面は、亡き首長の威光を伝える場として機能したものの、定期的な祭祀の対象とはならず、祖霊の依代(よりしろ)とはならなかったようです。

 ですから被葬者の名は伝承されず、古墳は荒れ放題になってしまったのでしょう。
 それに輪をかけたのは、当時は墓碑の建立や墓誌を副葬するという葬送儀礼がなかったことです。

 飛鳥時代になると、ヤマト王権や各首長にとっての、古代シナの廟のような場は他に求めることになります。急速に広まった仏教が祖先供養の有力なツールとして機能し始めます。
 そして、天武の時代になると、祭祀の場は古墳から神社へと置き換わります。寺院をまねる形で、神々の祭祀の場とされた神聖な地に神社が建てられていきます(第16回ブログ)。
 飛鳥時代以降の経緯については、このブログの最後に言及します。

 

巨大古墳の築造は圧政の象徴か?
 巨大前方後円墳の築造は、高度な土木技術が大前提ですが、それに加えて多くの民衆を動員できるだけの政治的安定と経済力の蓄積が絶対的な条件です。4世紀以降のヤマト王権は大和・河内や伊勢・東海などの近隣地域を影響下に置き、多くの動員を要請できるだけの力を蓄え、民衆からも一定の信頼を得ていたと思われます。
 各地域国家においても同様な図式のもとで古墳が築造されたことでしょう。

 もしもこれが民衆を奴隷のように扱い、搾取するだけであったならば、数百年もの間、熱病に取りつかれたかのように、日本中で数多の古墳を造り続けることなどあり得ません。
 首長から民衆まで、運命共同体としての一体感がベースにあったに違いありません。民衆は労務提供だけでなく、墳丘上で行われたであろう神祀りを眺めることで、首長一族らを中心とする心理的な共通基盤がつくられたのでしょう。

 もちろん農作業を放り出して土木工事を行なうわけですから、 何らかの経済的な給付(稲束・稲藁など?)はあったでしょう。

 ヤマト国は、そういう全体的な仕組みまで含めた前方後円墳祭祀を開発し、それが日本各地に伝播したと思われます。そうでなければ数百年もの間、続くわけはありません。

 実際、古代の日本にも奴婢や奴隷らしき存在が認められるようですが、それは単に特定の人に所有され保護下にあることを意味するだけであって、ピラミッド築造で酷使された奴隷とはまったく質が異なるものという見解があります。

 

古墳築造の立地
 河内の大仙陵古墳は、大和盆地に向かう外国の使節が瀬戸内海からよく見えることを意識して造られた(前回のブログ)というもっともらしい説(?)はひとまず横に置きます。
 古墳時代の巨大古墳は、人里離れた奥地にひっそりと造られるのではなく、人々の視覚に訴えるように、多くは海や川を眼下に臨み、あるいは交通の要衝地に築造されました。

 立地から見る限り、大勢に見せることが最大目的であり、これも築造に大勢の民衆を動員できたひとつの要因でしょう。繰り返しになりますが、公共工事ともいうべき古墳築造に駆り出されても、なお大王や王(首長)は民衆に感謝されていたと思われます。

 古墳築造は、威信の維持であると同時に、巧まずして民衆を感情面から統治できるという、為政者にはまことに都合の良い手段だったのでしょう。大和の地で発明されたこの統治方式は、地域国家の首長たちに歓喜をもって迎えられたに違いありません。

 地域国家の王たちは、大和の王が壮大な前方後円墳を築造し神祀りすることに羨望の気持ちを抱きます。
 それから100年くらいの間に巨大古墳が瞬く全国に広まっていきます。

 吉備の造山古墳・作山古墳、磐井の岩戸山古墳、丹後の網野銚子山古墳、福井の六呂瀬山古墳群の1号墳など、いずれも畿内に劣らぬ巨大古墳です。

 辻田淳一郎氏は、「三角縁神獣鏡が近畿から地方へ拡散したことが、そのまま近畿中央政権による地域支配を示すとは限らない。実際には列島各地から人びとが大和盆地へ参集して鏡を入手し、各地に持ち帰る「参向型」の授受(第88回ブログ)であったのではないか」と言います。

 これと同様に、前方後円墳の築造についてもヤマト王権が主導して地方に広めたというより、むしろ地方の方から詳細情報を入手することで広まったのではないでしょうか。

 彼らはヤマト王権にならって、魅力的な首長霊祭祀を取り入れ、みずからの意思で巨大古墳を築造したと思われます。

 中小まで含めれば、おびただしい数の古墳が造られ続けました。そのエネルギーの凄まじさが、わずか3世紀ほどのあいだ、日本中がとりつかれたかのように古墳の築造に狂奔するという、世界史にもまれな異常な時代をつくり出したのです。

 あらためて繰り返します。前方後円墳の短い時間幅での広がりを、ヤマト王権の全国支配とからめて論じる向きがあるが、筆者はこの立場をとりません。

 

前方後円墳祭祀と築造技術の伝播
 前方後円墳祭祀は2、3人の技術者や伝道者(例えば土師氏)がいれば容易に伝播したと考えられます。しかも、築造技術や祭祀の新たな地への移転は、トップランナーが完成に要した時間よりもはるかに短時間で可能となります。単純に模倣するだけですから、わずかな技術者や伝道者がいれば可能です。
 ヤマト型の前方後円墳がわずか100年くらいの時間幅で全国へ波及したのも、ヤマト王権の支配や統制ではなく、伝播という手段だけで十分に可能だったと考えます。

 巨大古墳の築造には長期間を要します。大仙陵古墳では約16年かかることを前述しました。一定規模以上の古墳築造にも10年以上はかかったでしょう。

 当時は海陸ともに貧弱な交通インフラでしたが、これまで見てきたように、地域国家は、様々な工夫で自然の障壁を乗り越え、頻繁な交易を行なっていました。したがって「巨大古墳築造という特異な情報」は、進行中であっても刻々と遠隔地まで伝わっていたと想定されます。
 遠く離れた地域国家は大和の地で何が起きていたか、ほとんど常時把握していたのです。
 古代を理解するにあたって、この認識は大変に重要です。

 伝播の力は凄い。文化・宗教・技術だけでなく、権力のあり方や統治の方式、徴税法などの政治経済的な事象であっても、交易路に乗って伝播しました。

 前方後円墳が、ヤマト王権による門外不出の専売特許のように扱われるのはきわめて不合理です。土師器(はじき)や製鉄や造船の技術が瞬く間に各地に広まっていったのと同じ理屈だと考えればよいわけです。もちろん、すべてが大和発ではありませんよね。逆も然り、です。

 以上のように、古墳築造は、大王や王の威信を維持できるのと同時に、巧まずして民衆を感情面から統治できるという、為政者にはまことに都合の良い手段だったと言えそうです。

 

6世紀頃までの神祀り
 第87回ブログ「弥生墳丘墓から前方後円墳へ」では、前方後円墳祭祀が発明されるまでの歴史を確認しました。
 紀元前後から3世紀にかけては祖霊信仰の祭場弥生墳丘墓が存在しました。
 弥生墳丘墓はもっぱら一族の指導者たち(複数)を祀る宗教的な意味合いで、祖霊信仰そのものといえます。

 やがて古墳時代を迎えます。
 一般的に、古墳は墳丘墓と異なり、基本的にはリーダー1人(単数)のための墳丘墓と定義されるようです。実際には、近親者の追葬など、複数の埋葬が行われた古墳もたくさん存在しますが……。

 そもそも地域国家の首長は、なぜ古墳を造ったのでしょうか。
 古墳が現われたのは、それまでの純粋な祭祀が変質し、亡き首長の葬送儀礼を行なう際に、大きな古墳を築いて力を誇示し、一族の威信を広く誇示したものといえるでしょう。

 魂を鎮め邪鬼を払うために副葬された鏡や刀剣も、同様に威信を誇示するものでした。古墳は、首長が神に等しい存在として祀られる首長霊祭祀とセットで広く受け入れられていき、弥生時代に存在した大きな祭場は次第に姿を消していきます。
 そして、首長霊祭祀の象徴が前方後円墳による祭祀と言うことになるわけです。

 ここでもう少し深掘りしてみます。
 アミニズムは世界中の民族に普遍的に見られた信仰で、それを引きずる弥生時代から古墳時代にかけて発見されている神殿や建物の機能を、その後の神祇信仰と関連づけるのは好ましくありません。

 そもそも纏向遺跡の主祭殿、吉野ケ里や唐古鍵の主祭殿、登呂遺跡の祭殿は、今の神社からの類推で復元されていますが、本当はどういうものだったのか実は不明なのです。また、大神神社や宗像沖津宮の祭祀遺跡は4世紀後半のものとされていますが、これらが後の神社にどのようにつながるのかは明確ではありません(第16回ブログ)。

 おそらく古墳時代の前半、つまり4世紀頃までは各地のさまざまな神が横並びで共存する八百万神の祭祀が続き、ヤマト王権の覇権確立が進む6世紀以降に、八百万神が「ヤマト王権の神々」の世界に包摂されていったのではないでしょうか。

 5、6世紀頃から、神々の世界に最高神が作られ、ヤマト王権の時代(5世紀~7世紀)には最高神がタカミムスヒだったが、律令国家成立(8世紀)以降に最高神がアマテラスに置き変わるわけです(第14回ブログ「アマテラスの来歴」)。

 大雑把な物言いですが、4、5世紀は、各地の首長が(ヤマト王権が発明した前方後円墳祭祀を利用して)自ら信奉する神(八百万神)を祀り、自らの地域の統治に勤しんだ時代と言えそうです。

 6世紀後半以降は、ヤマト王権が列島規模で政治的関係を制度化し地域支配を強化するという中央集権的統治へと移行していくので、当然のように前方後円墳の役割も減退していくことになります。

 

道教的発想や仏教伝来の影響などで神祀りの内容が変質
 吉野裕子氏は、日本の信仰は、古代より太陽の運行にもとづき、神の去来を東西軸上に想定していたが、7世紀になり、星の信仰であるシナの陰陽五行が渡来すると、神への信仰は、南北軸にとって変わり、日本宗教に大きな変化をもたらしたと言います。

 三輪山で、太陽崇拝をベースにした原始的な祭祀が行われていたことは間違いありません。玄界灘の沖に浮かぶ沖ノ島にも巨岩祭祀遺跡があり、4世紀後半には祭祀が始まっていたようです。しかしその内容は、その後のアマテラスを頂点とする神道とは一線を画すものなのです(第67回ブログ)。

 各地で行われていた古代の祈祷は素朴な人間的な感情を吐露するもので、航海の安全、天候、病気、収穫などの祈願が主でした(第16回ブログ)。

 弥生時代の墳丘墓や、5世紀以前に前方後円墳で行われたかもしれない祭祀と、7、8世紀以降に始まる神道との関連はよく分かっていません。と言うより、まったく関連がないと言った方が当たっているでしょう。

  同じ「古墳」と言う言葉で括っても、実は7、8世紀以降の神々は5世紀以前の祭祀には登場しません。
 継体・欽明期以後になると、「神」の考え方がまったく異なったものになってしまいます。

 さらに、古代の氏族の系譜が整いはじめるのは、5世紀後半以降とされています。古代氏族が代々直系で伝わったとは到底考えられないのです。とすれば、豪族の祖神も原初の時代から不変だったとは考えられませんね。豪族の祖神も伝承も、アマテラスを頂点とする神々の世界へと組み込まれていきます。

 6、7世紀以降の中央史観は、古代からの伝承を変質させてしまいました。

 古代シナの道教的発想や伝来した仏教が、7、8世紀の政治や神祇祭祀の中に急速に組み込まれてしまい、『記・紀』の中にも色濃く投影されてしまったのです(第3回ブログ)。
 4、5世紀頃の古墳で行われた首長霊祭祀は色あせたものになってしまったと思われます。

 

文字の出現・定着で、古墳祭祀による統治の必要性が薄れる!
 第87回ブログで言及した内容を再掲してみます。

 弥生墳丘墓の時代を経て、集団の規模が大きくなり、首長の権威や、そのベースとなる宗教的な威信を演出する役割が高まると、古墳はより大きく高さを増し、視覚的効果を狙って美的表現を盛り込んだものになっていった。

 巨大古墳は、築造や祀りに直接参加し、実際に目にすることのできる限られた人数と空間に対しては、その威信を表示することができるが、日常的な行き来のない遠隔地にまで威信の内容や支配の論理をゆき渡らせるには限界がある。

 ところが文字が出現すると、首長の威信のベースとなる思想や複雑な身分制度を、多くの人々に論理的情報として共有させ、広い範囲に正しく伝え、世代を超えて蓄積、拡充していくことが可能になり、巨大古墳の必要性は薄れていった

 6、7世紀以降は、制度や法典、神話や歴史書などの文字に根ざした、言葉による「知」が文化の中での比重を高め、古墳は、それと歩調を合わせるように小型になり、埋葬空間内部の装飾に凝り、限られた人々を対象とした内向きのメッセージとして働くように変質し、やがて現代の「墓」に近いものになっていった。

 大化の改新直後の646年には「薄葬令」が出され、それまでの古墳築造第一主義を排し、天皇家の墓制についても前方後円墳の形式は継承しなくなります。古墳時代の玉飾りや金冠・金色装飾もなくなります。古墳時代の文化を大きく否定するような変化です。

 7、8世紀の政権中央は、流入した道教的な思想仏教の教義先進性を見出し、4、5世紀頃の巨大古墳祭祀を前時代的なものと感じたことでしょう。

 6世紀末の用明大王は、四角形を重んじるシナの思想に基づいて大型方墳を採用し、以後の蘇我馬子の墓なども方墳が採用されています。寺院を建立して仏教を広めることが王権の権威づけになると考え、古墳の祭祀よりも寺院を介してシナ由来の有益な文化を得ることが有益と考えたようです。

 また、飛鳥時代前半に流入した陰陽五行説に基づいて、大王をシナの皇帝になぞらえて権威づけする動きも現れました。八角墳という新たな形式の古墳は陰陽五行説をふまえたものです。
 そう言えば、飛鳥の牽牛子塚古墳(けんごしづか、斉明天皇陵)も石張り八角墳です。復元工事が完了して間もなく公開されるらしい.....。

 こうした巨大前方後円墳祭祀からの移行の動きに輪をかけたのが、中央からの直接統治を容易にした文字の出現・定着です。(第9回ブログ)。

 6、7世紀以降にとられた新しい制度・統治機構は、部民制に基づく統治、国造制を軸とする在地の有力者の再編成でした。地方統治だけでなく、中央における官位・官職制度も整備し、ヤマト王権は豪族支配を強力に進めました(第22回ブログ)。そして王権を支える記紀神話の成立がこの動きを加速します。これらはすべて「文字使用による情報伝達技術の革新(第26回ブログ)」がベースになっています。

 各地の首長が思い思いに巨大古墳を築造してみずからの地域国家を治める時代から、強力な中央政権が直接、全域を支配する統治方式に変わっていったわけです。

  和田晴吾氏の論考をもとに、以下のような言葉で今回のブログを結ぶことにします。

 前方後円墳の築造は6世紀末には終焉し、社会を律する原理が血縁的なものから法制的なものへと転じたことを意味すると考えられます。仏教やシナの政治制度を含む新しい文化の伝来・受容を契機に、新たな時代が始まったわけです。前方後円墳の消滅は、それが体現していた古墳的な他界観の衰退をも意味します。古墳の表面に他界を表現することもなく、古墳は墓そのものに近づいたのです。

 当時の社会では、前方後円墳に代わって、仏教文化を体現する巨大な寺院が造営され、仏像をまつる金堂の内部には仏教的他界が表現されました。仏教は鎮護国家思想に加え、祖先信仰をも包摂したため、古墳的他界観は徐々に仏教的他界観へと変わっていった、ということになります。

 結局、古墳祭祀をベースとした世界観が、『記・紀』編纂の7、8世紀には変質してしまったということですね。

 第75回ブログで言及したように、銅鐸はすでに過去のものとなっていて7、8世紀の王権には伝承もされず忘却の彼方へと消え去ってしまいました。それと同じように、5世紀、あれだけのエネルギーを注ぎ込んで築造した巨大前方後円墳についての言及が『記・紀』にまったくないのも、祭祀の考え方の変質統治方式の変化によるものと思われます。

 7、8世紀の政権中央は、流入した道教的な思想仏教の教義に先進性を見出し、4、5世紀の巨大古墳を前時代的なものと捉えて郷愁すら感じなかったのではないでしょうか。

 

参考文献
『進化考古学の大冒険』松木武彦
『隠された神々』吉野裕子
『前方後円墳の世界』広瀬和雄
『古代日本海文明交流圏』小林道徳
『古墳解読』武光誠
『前方後円墳の時代』近藤義郎
『前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか』吉村武彦他編集  
『前方後円墳とは何か』和田晴吾
他多数