理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

107 古墳の築造技術

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 第87回ブログでは「古墳造営キャンプ」について言及しました。そして大仙陵古墳は、当時の技術で直接労働力3千人を16年間にわたって投入して完成させたこと、しかもこの集団に食住を提供する「後備え」まで含めれば5~6千人になることも確認しました。ピーク時は1万人くらいにのぼったのかも。
 その他の多くの巨大古墳も推して知るべし。

 今回は、膨大な人工(にんく)を動員して、数多の巨大古墳をどのように築造したのか、そこにはどのような技術があったのか確認したいと思います。

古代における土木技術は権力の象徴
 土木技術は様々な技術の中でも、もっともベーシックなものと言えます。対象構築物が巨大であるため、土木技術は組織化された大集団の活動を前提として進歩してきました。

 巨大古墳をはじめ、大規模集落、環濠などの防衛拠点、井戸や水路の掘削、水稲稲作を支える灌漑、道路、堤防、津(港湾施設)などの構築・築造は、いずれも土木技術の進歩によって可能となりました。

 言うまでもなく、組織化された大集団を統率する強力で安定的な権力の存在が不可欠です。

 

古墳の築造方法
 古墳の墳丘は、適当に土砂を盛りあげたわけではなく、円と直線を組み合わせた整然とした規格で造られています。おそらく、築造の基本設計図のようなものがあったのでしょう。
 基本設計図があったと考えられるのは、各地に同型同大、同型、相似形などの古墳が数多く見られるからです(第92回ブログ)。

 6、7世紀頃に製紙法が日本に伝わるより前、すなわち3、4世紀頃までの日本には紙がありません。古墳の平面図は、紙の代わりに布地、板、獣皮などに描かれたのではないでしょうか。平面図は縦横の線で碁盤目のように区割りされていたはずです。

 古墳を築造する場所を選定した後、そこを平らに整地し、設計図の縦横線の間隔を等倍して地面に縄張りをします。
 要所に杭を立て、杭と杭の間を縄で結ぶ方割という方法で、縄を張って正確な形をつかみ、縄張りに従って墳丘を盛りあげていったと考えられます。

 墳丘のまわりには堀や堤をつけますが、堀を掘るときに出た土のほとんどは中の墳丘を高くするための盛土に使いました。
 単に土を盛るだけでなく、砂利の多いさらさらした土や、粘土のような土を交互に積んで、崩れない工夫をしました。

 古墳は、水平面と斜面からなる立体構造物なので、水平面は溝や木槽に水を張って求め、斜面の角度は底辺と高さからなる三角形により求めたと思われます。

 掘削には鋤と鍬が使われました。ほとんどは木製ですが鉄製のものも混じっていた可能性があります。 土の運搬には、背負子やもっこを使いました。また、重い石棺の運搬には修羅というそりが用いられました。

 

遠方の土砂を運搬する大規模プロジェクト 
 古墳を築造する労働量は、運搬し盛りあげる土砂の量にほぼ比例します。大仙陵古墳をモデルにした大林組の試算では墳丘1㎥あたり4.8人が動員されたとされます。古墳の総体積は140万㎥なので、延べ674万人を要したことになります。

 第87回ブログでは、きわめて大雑把ですが、土砂の量は墳長が2倍になれば8倍、3倍になれば27倍、10倍になれば1000倍が必要と記しました。

 この仮定に従えば、箸墓古墳(墳長278メートル)は、大仙陵古墳(墳長486メートル)の5分の1の人工(にんく)投入で築造可能、3世紀の纒向型前方後円墳(墳長90~100メートル)であれば、箸墓古墳の25~30分の1の人工で済むことになります。

 しかし、弥生墳丘墓や小さな初期の古墳を5世紀頃の巨大古墳と同じように考えることは出来ないとして、植田文雄氏は、小さな初期古墳の労力の基準値は、墳丘1㎥あたり2.4人(大仙陵古墳の墳丘1㎥あたり4.8人の半分)とすべきと言います。

 この二つを組み合わせれば、多くの古墳や弥生墳丘墓の築造労力が概算できそうです。

 巨大古墳と弥生墳丘墓とでは、土砂の採取地までの距離も異なります。
 弥生墳丘墓や小さな古墳では、周溝を掘削した土砂は墳丘の盛土にまわし、それだけで充足できたとみられます。
 それに対し、巨大前方後円墳の墳丘や外堤の盛土は、周溝など墳丘周辺の採土だけではとても充足できません。古墳周辺だけでなく遠方からも土砂を運搬できるよう、広域物流整備を要する大規模プロジェクトとなります。当然、そこには権力による強い指導力・強制力がありました。

 古墳を築造する土木技術には地域差があるようです。以下に確認してみます。

 

古墳築造技術の東西地域差
 青木敬氏は、古墳時代の前期古墳には、東日本地域と西日本地域で、墳丘の造り方に顕著な差異が認められるといいます。

 東日本地域では、墳丘の中心付近から盛土を開始し、その後、墳丘外縁や墳頂まで順次肉づけして、墳丘全体を膨らませていきます。言うなれば墳丘の内側から外側へと盛土していく工法です。

 西日本地域では、まず墳丘の外表付近にめぐらす土手状盛土を造り、その後、その内側の空間に土手状盛土と同じ高さまで盛土します。あとは同じ工程を繰り返し、順次墳丘を高くして完成させていきます。

 この2つの工法は、小規模な古墳ではなく、有力者を祀る古墳で採用されたと考えられています。

 このようにある程度の大きさの古墳では、築造技術に東西地域差があるため、東西それぞれの地域内において、独自の古墳築造技術がシェアされていた可能性があるようです。

 古墳時代前期には、東西の工法がクロスする境界が日本海側は越、太平洋側は濃尾平野あたりでした。こうしたことから尾張付近に、近畿地方とは政治的立場の異なる勢力が存在していた可能性を指摘する論考もあります。

 また3、4世紀には、近畿地方で出現した前方後円墳、東海地方以東に見られる前方後方墳というように、古墳の形に顕著な差異が見られます。
 したがって、前方後方墳を前方後円墳の下位に単純に位置づける研究者が多いのですが、これは西日本地域に偏った見方であって、東日本地域では前方後方墳の階層的位置づけは異なります。

 その一つの論拠として、同時期の東日本には、盛土量において前方後円墳をはるかに凌駕する前方後方墳が数多く存在することが挙げられます。

 一方、同時期の西日本では、前方後方墳の盛土量は、前方後円墳に比べてかなり少ないという事実が確かにあります。

 列島の東西では、前方後方墳に関する限り、東の方が優位といえます。

 都出比呂志氏は3世紀半ばから6世紀にかけての政治的秩序について「前方後円墳体制」という概念を適用しましたが、古墳には地域差があり、列島全体を、つまり東西を一つの概念で括ってしまうのは疑問です。古墳築造技術に限らず、葬制という文化について過度に政治的側面ばかりを強調するのは危険です(第103回ブログ)。

 

巨大古墳築造技術
 大仙陵古墳などを代表とする5世紀頃の古墳は、交通路を意識した立地がとられるようになります。第104回ブログで言及した「古墳の巨大化」に貢献した技術をさらってみます。

 5世紀頃の古墳には、新たに土嚢・土塊積み技術が採用されます。今のところ、津堂城山古墳の(墳丘ではなく)外堤に採用されたのが最初の例とみられます。
 土嚢・土塊積み技術の大きな特徴は、放射状あるいは列状に土嚢ないしは土塊を積み重ねていくことにあります。

 6世紀頃になると、土嚢・土塊積み技術が墳丘そのものにも適用されていったようです。また、墳丘の盛土を硬くするために、版築に近い土を薄く重ねた盛土技術を導入した可能性もあるようです。

 墳丘盛土が硬質になったため、それまで多くの巨大古墳で用いられてきた葺石を採用しない古墳が増えたとも言われます。

 また、墳丘下部においては敷粗朶工法(しきそだ)・敷葉工法(しきは)が使われていたのかもしれません。敷粗朶・敷葉工法は、シナか朝鮮半島から伝わった築堤技術で、6、7世紀頃までには使われたことが分かっています。

 敷葉工法とは、盛土の下に植物の枝や葉を敷きつめて、土を滑りにくくしたり、土中の水を逃したりする技術です。『古事記』に登場する狭山池は、実際には616年頃の築堤と考えられますが、その堤防には敷葉が使用されていました(第102回ブログ)。

 粗朶は、直径数センチ程度の細い木の枝を集めて束状にした資材のことで、木杭などと組み合わせて河岸侵食の防止などに用いられました。

 築堤では膨大な貯水圧に耐える強固な構造が求められたわけですが、古墳築造についても、墳丘を高大化させるため、この築堤技術が採用されていたのではないでしょうか。

 

土師氏とは
 土師氏は、土師器(はじき)を作る土師部という工人集団を率いた氏族で、野見宿禰(のみのすくね)を始祖とする伝承があります。

 『日本書紀』垂仁紀には、土師氏の祖先である野見宿禰が、殉死に代わって陵墓に埴輪を立てることを思いついたという伝承が記されています。しかしこれは史実ではなく、後世つくられた埴輪の起源伝承に過ぎないと第95回ブログで述べました。

 近年の考古学の研究では、人・動物・モノなどをかたどった形象埴輪は、円筒埴輪から発展したもので、そのルーツは弥生時代、吉備地域の墳墓に供えられた特殊壺とそれを載せる特殊器台にあるとされています。
 ましてや古墳時代に殉死の風習があったこと自体が明らかでないので、まさに埴輪の起源伝承はフィクションと言えそうです。

 ちょうど良い機会なので、形象埴輪、円筒埴輪、特殊器台・特殊壺については、できれば次回のブログで簡単に触れることにします。

 

 埴輪の起源伝承は、大和盆地北部の菅原の地が舞台ですが、そこには4~5世紀の佐紀古墳群が展開し、また6世紀前半の菅原東遺跡からは6基の埴輪窯が見つかっています。
 この菅原の地は当然、土師氏(正確には前身集団)の本拠地と考えられますが、他にも河内平野の古市古墳群のある地域、さらに百舌鳥古墳群のある地域にも土師氏の本拠地があり、そのそれぞれが4~6世紀の陵墓築造・埴輪生産・鍛冶などの「造墓コンプレックス」に関与していた可能性が高いとされています。

 土師氏には古墳の設計担当、築造の現場監督、埴輪のデザイナーなど様々な技術者がいたと思われます。大規模古墳の築造にあたって、様々な生産分野が複合する事業にひろく関与していたということですね。

 古市古墳群のすぐ東方の近つ飛鳥の地域には、渡来系の豪族が居を構えていたため、彼らのもたらした先進文化・先進技術が古市で広まったことと、古墳築造技術を担う土師氏の隆盛とは関連がありそうです。

 百舌鳥古墳群にも土師氏の一派があり百舌鳥土師氏と呼ばれているようです。允恭の時代、5世紀半ばより少し前のことですが、土師氏の一部を古市から百舌鳥に移住させたとも言われています。

 

 3世紀以降、近畿のみならず地方の前方後円墳築造に関しても、その中心を担ったのは畿内の勢力で、その代表的な存在が土師氏(の前身)のような集団だったと考えられます。

 大きさが十数メートル程度のシンプルな円墳・方墳ならいざ知らず、墳長100メートル超の大型で複雑な形状の前方後円墳は、実見するだけで築造するのは困難です。基本設計図をもとにして、かなり詳細な築造プロセスのアドバイスを受ける必要があります。

 「前方後円墳祭祀による統治」(第105回ブログ)の情報は常時、地方に伝わっていたと思われます。3世紀であれば、太くはないものの多極的流通ネットワークが発達していましたからね。

 そこで、築造の指南を受けるために地方から畿内に参向する(第88回ブログ)ことになるわけですが、中には畿内から地方へ指導に赴くこともあったと思われます。

 墳丘築造や祭祀催行については、まずは土師氏のような技術集団が全体的な指揮・指導をし、その後は各地域内で横展開したり、代々継承したのでしょう。その間には、当然のようにいろいろな亜流も生まれることになります。

 

 以上、一部、筆者の想像を交えて記しましたが、おそらく、ヤマト王権と地域国家の王との間には、築造の許認可を出したり受けたりというような政治的な結びつきはなかったと思います。

 

 土師氏は8世紀後半になって改姓し、菅原氏、秋篠氏などに分かれました。
 「土師氏に四腹あり」という言葉がありますが、これは土師氏に4つの系統があることを意味します。
 781年に土師氏から菅原氏に改姓した一派、782年に秋篠氏に改姓した一派、百舌鳥古墳群(堺市)周辺に住み毛受腹(もずはら)と呼ばれたが、790年に大枝姓に改姓(後に大江氏)した一派、古市古墳群(藤井寺市・羽曳野市)周辺に住んでいた古市土師氏の4つの系統です。

 土師氏は、7世紀半ば頃まではもっぱら天皇の葬送儀礼をおこなっていましたが、この状況を不本意として土師氏の中から改姓を願い出る者が現れ、居住地にちなみ菅原、秋篠を名乗ったという経緯が『続日本紀』に見られます。

 

 土師氏関連で、現在につながる地名・人名や旧跡をいくつか並べてみます。

 菅原と秋篠は、奈良市に現在でも菅原町秋篠町として地名が残っています。

 「菅原伝授手習鑑」に登場する道明寺は、もともと土師寺と呼ばれていました。道明寺と名を改めたのは菅原道真の死後、947年のことです。菅原道真が道明寺を去る際に別れを惜しみ「鳴けばこそ 別れも憂う けれ鶏と りの音の なからん里の 暁もかな」と詠んだ時、そこは道明寺とはよばれていませんでした。土師寺は594年に聖徳太子の発願により土師連八嶋が屋敷の土地を寄進して、氏寺として建立したと伝わります。

 桓武天皇の母である高野新笠の母、つまり桓武天皇の祖母(土師真妹、はじのまいも)の一族はこの毛受腹を本拠地とする土師氏であったとされます。現在でも堺市中区には土師町(はぜちょう)という地名が残っており、このあたりに住んでいたのかもしれません。堺市戎町には菅原神社があり、菅原道真と共に、土師氏の祖先とされる天穂日命と野見宿禰を祀っています。

 菅原・秋篠氏よりも遅れて改姓した大江氏ですが、大江氏は改姓をみずから願い出た訳ではなく、桓武天皇が縁戚関係にある土師氏に与えた姓です。当初は「大枝」と書いており、現在も京都市西京区大枝沓掛町としてその名を残しています。

 土師氏の末裔で特筆すべきは主に9世紀に活躍した菅原氏三代の存在です。すなわち清公・是善・道真の三代は年少の頃から学業に優れていたと伝わり、律令政治の中で、三代続けて文章博士や式部輔に任じられ、菅原道真に至っては右大臣までのぼりつめています。

 

クフ王型ピラミッド建設のスタディ
 第87回ブログで少々触れましたが、各地の巨大古墳の近傍には、古墳築造に従事する大勢の人が居住するための「古墳造営キャンプ」なるものが存在した可能性があります。次に述べるような事例はこれを裏づけるものではないでしょうか。

 大林組が1978年に試みた「クフ王型ピラミッド建設計画」です。実に興味深い……。
 大林組のプロジェクトチームが3か月間にわたってスタディしたもので、クフ王の大ピラミッド建設には当時毎日20万人が働き30年を要したということです。

 しかし、筆者がより強い関心を持ったのは、 次のようなレポートです。

 現代工法で施工したとしても、5年間にわたり3500人もの労働者の動員が必要ですが、それにとどまらず、家族も考慮すれば、およそ1万人が築造現場に居住することになるようです。
 つまり現代でも、1万人が5年間にわたって居住する新しい街づくりから始めなければならないことがわかったというのです。

 準備工事としてニュー・クフタウンの建設に着手する必要があるわけです。 実際、古代エジプトではピラミッド建設のための巨大なニュータウンがつくられたといいます。むしろこちらの準備工事の方が、本体工事をスムーズに進めるための最重要課題で、エジプト国王の腕の見せ所であったと思われます。

 近年の調査で、大ピラミッドを作った際、建設に携わった人たちの住居跡や彼らの墓地、通称「ピラミッドタウン」が発見されました。この遺跡を子細に調査した結果、約2~3万人が従事したと推定されています。現代人の想像を超える大ピラミッドの建設は、古代人の知恵と工夫に加えて、膨大なマンパワーで建設されたことが裏づけられたのです。

 こうしてみると、巨大古墳の他にも運河・灌漑池・道路建設などの大規模土木工事には、労働者の住まいの確保が必須の前提条件となるはずですが、このことは、4、5世紀の古代史のなかで意外にも盲点になっているようです。

 

巨大古墳築造に必須の管理技術
 古墳築造などの大規模土木工事と切り離せないのが、人・モノ・財・時間をシステマチックに組み合わせて運用する管理技術、なかでも大規模人員を運用するための労務管理能力です。そして日常の衣食住の提供なども含め、これらすべてが巨大古墳築造に関わる広義の技術と言えそうです。

 古墳時代、大和盆地をはじめ日本各地の古墳所在地には、最盛期、広大な古墳造営キャンプが広がっていたと考えられます。人工の計算をするまでもなく、天文学的な数の民衆が古墳築造に従事し生活を営む、まさに驚きの景色がそこにはありました。

 学界はこのような重要なポイントに無関心です。不思議、まことに不可解!

 

参考文献
『土木技術の古代史』青木敬
『前方後方墳の謎』植田文雄
『古墳解読』武光誠
「古代史講義 氏族編」『菅原氏(土師氏)』溝口優樹
『ふじいでら歴史紀行』広報ふじいでら2021年2月号
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
『クフ王型ピラミッド建設計画』大林組
他多数