前回のブログで埴輪の起源に触れましたが、折角なのでもう少し掘り下げてみます。
論考の重点を「古代の交通インフラ」に置いている筆者にとって、もっとも身近な埴輪は舟形埴輪です。第54回ブログの中で、二股構造形式の準構造船埴輪(高廻り2号古墳出土)と、ゴンドラ形式の準構造船埴輪(西都原古墳群で出土)を紹介しました(写真付)。
もちろん、これらの舟形埴輪は、数多の埴輪の中の一つのジャンルに過ぎません。もっともポピュラーなのは人物埴輪で、他にも武器・武具の埴輪、家形埴輪、動物埴輪などいろいろあります。これらは形象埴輪と呼ばれています。
しかし、人物埴輪が出現するのは5世紀後半と、もっとも後発であって、家形や武器・武具であっても4世紀後半以降です。
当ブログで重視してきた舟形埴輪も4世紀末から5世紀前半に副葬されたものが大半です。
それ以前はというと円筒埴輪の世界になります。埴輪はすべて土管型をした円筒埴輪からスタートしているんですね。今まで膨大な数の埴輪が見つかっていますが、埴輪の作られた期間は、3世紀半ばから7世紀初めまでのおおよそ350年間に限られています。
埴輪の役割
埴輪の性格について、若狭徹氏は、「古墳の飾り」として人々の目に晒された展示物だったと言います。
以下、主として若狭氏の著作から纏めてみます。
当時の村びとたちが古墳にお参りした際には、濠の向こうに立ち並んだ人や動物の埴輪、墳丘の縁に列を成す土管型の円筒埴輪、はるか頂上に並んだ家形や盾形の埴輪が目に飛び込んできたはずです。
なかでも人物埴輪は、王が儀礼を行なっている様子や、狩猟の様子などを表現した数十個体の埴輪群像として配置されていました。祀られた王の治世の様子を絵巻物のようにビジュアル化したもので、王の治世の正当性を、古墳づくりに従事したり葬送儀礼に参加した共同体の者たちや近隣首長にアピールするものに他なりません。埴輪は人に見せることを意図してつくられた政治的な存在です。
古墳の築造は、被葬者の生前から始まっていたと考えた方が良いでしょう。6世紀頃からとされる「氏族」の成立以前は、王の世襲制は未確立で、王が死んでからの着工では、築造を担う集団をまとめる求心性やエネルギーが維持できなかったと思われます。巨大な墳丘は初葬者のために完成しており、次代の王は墓の仕上げと前王の葬礼を行なったあとに、自らのために別の古墳の築造に着手したと考えられます。埴輪は、この墓の仕上げの段階で配置されたのでしょう。
前方後円墳の築造は集団の秩序形成や経済的飛躍に資するものですが、それを飾る埴輪は、古墳が持つ社会的な力を一層強調するためのツールとして大量に並べられたのです。
埴輪の起源と変遷
第87回ブログで、巨大な箸墓古墳の墳丘上には、吉備で多く見られる特殊壺・特殊器台と呼ばれる特徴的な土器が飾られていた可能性があると記しました。
現在では、墳丘斜面全面に貼り付けられた葺石は山陰や讃岐地域の技法を受け継ぐが、埴輪は吉備の特殊壺・特殊器台の系譜に連なるという考え方が、考古学界の大勢を占めています。
吉備では、紀元前後に、王の儀礼や祭祀に用いるための飾り立てた壺と、それを恭しく高く掲げるための器台が出現しました。
最初、特殊器台は高坏のような形状でしたが、弥生後期になると高さを増し、脚部が太く筒のように巨大化します。特殊壺も連動して装飾度を増し、供物を収納するというよりも、壮麗な壺を置くことの方が優先されていきます。
この特殊壺・特殊器台のセットは出雲の西谷墳墓群でも出土しています。吉備から持ち込まれたものと考えられています。
特殊器台は、胴部にあしらわれた文様の変遷によって、立坂型⇒ 向木見型⇒ 宮山型と推移することが知られていて、これによって特殊器台が収集できれば、古墳の築造時期をおおよそ推定することができると言います。
宮山型以降の特殊器台は、畿内の古墳にも立てられるようになります。
さらに、特殊器台の特徴である裾開きの脚部が失われて寸動化し、重量感のある型になり、この段階から円筒埴輪(都月型円筒埴輪)と呼ばれるようになります。これは特殊壺を載せるという本来の機能をまったく捨て去り、器台の筒型部分のみに特化した装飾具です。
<特殊器台から埴輪へ(橿原考古学研究所史料より)>
初期の前方後円墳が築造された「おおやまと」地域は、ヤマト王権発祥の地ですが、ここで円筒埴輪が採用され進化していったようです。
<西殿塚古墳出土の円筒埴輪>
やがて、円筒埴輪を列状に配置することで、食物供献という葬送儀礼の道具としての機能を失い、さらに墳丘を取り囲むことで被葬者を外部から守護するツールとして生まれ変わります。
その後、4世紀半ば頃から、円筒埴輪以外の様々な形象埴輪がつくられ並べられるようになっていくわけですね。
埴輪も様々な形に進化し、これによって「おおやまと」地域の巨大古墳が、箸墓⇒ 西殿塚⇒ メスリ山⇒ 行燈山⇒ 渋谷向山の順に築造されたと推定されています。ヤマト王権は代替わりするたびに新しいアイデアを円筒埴輪に注いだことになります。
でも、これだと、箸墓古墳の築造時期は3世紀後半になってしまうのか……。当ブログにとってはかなり不本意!
以上のような塩梅ですが、現在、円筒埴輪の起源が吉備にあることに疑いをもつ研究者はいないようです。
埴輪の生産と流通
埴輪は、全国各地の古墳にあまねく立てられたわけではなく、主として東海・畿内周辺から九州までの範囲ですが、埴輪の流行を主導してきたのは終始、畿内です。
埴輪は当初は古墳の隣接地で焼かれていましたが、巨大前方後円墳に並べられる円筒埴輪は数千本から数万本に及ぶため、粘土の採取地に製作拠点を設け、そこから複数の古墳に運ぶ体制が整えられていきます。
5世紀前半に窖窯(あながま)の中で須恵器を焼く技術が導入されると、それに連動して埴輪も窖窯で焼成する方式を採用するようになります。窯での焼成が始まると、焼きむらがなく、全体を均質な赤褐色に焼き上げることが可能になり、損耗率も下がり、大量生産体制が整いました。
若狭氏の論考に、埴輪の製作に要する労働量に関する興味深い試算があります。
埴輪の製作を1万本と仮定すると、すべての埴輪を焼き上げるのに、1窯30本とすれば330~350回の稼働が必要です。10基の窯を使用すれば、1窯あたり33~35回の稼働となります。
埴輪1本の粘土量を10キロとすれば総粘土量は100トンに達し、次のような一連の作業の総労働量は大変なものとなります。
・ 粘土の採取と遠距離運搬
・ 粘土の混和、土練りによる原材料の調整
・ 埴輪個体の製作
・ 窯への搬入と焼成
・ 窯の築造と頻繁な修繕
・ 膨大な薪を確保するための森林伐採と現地搬入
・ 完成品の古墳までの運搬と配列のための動員
以上のように総労働量は大変な量にのぼります。
埴輪を古墳に並べるにはこのように膨大なコストがかかるので、同じ規模の古墳であっても、埴輪を並べる古墳と並べない古墳の総労働量はかなり違うものになります。
若狭氏は、窯出しされた埴輪は古墳に運ばれる時までストックされるが、一つの古墳の埴輪の中に大きな時間差が認められないので、複数の窯から供給されたと推定しています。一方、一つの古墳の副葬品と埴輪の時期を比べると、副葬品は被葬者の生前に入手され、埴輪は被葬者の葬送に近い時期につくられたと言います。
古墳の墳丘そのものは生前から着工されていたが、埴輪は築造活動の最後にまとめて製作され搬入されたことになります。被葬者の葬送に合わせて急造されたのでしょう。
そのような経緯からか、円筒埴輪はさほど丁寧に作られていないことが注目されます。質より量というわけです。
さて、焼成された大量の埴輪は古墳までどのように運ばれたのでしょうか。
一人が埴輪1本を背負うとすれば、1万本の埴輪の運搬には延べ1万人を要します。 距離が近ければ1日に何往復かできますが。
6世紀になると馬を使用(第48回ブログ)した可能性もあります。早ければ5世紀から駄馬が担ったかもしれませんが、最も効率的なのは舟に載せて運ぶ水運です。埴輪の他にも膨大な数の葺石や重い石棺などの運搬も必要なわけですから。
巨大古墳の近辺に河川がない場合でも、これらを効率的に運ぶため、なにがしかの運河・水路が造られていた可能性があります。
埴輪の製作地としては、当初は大和盆地東南部の「おおやまと」地域が主体だったと想定されますが、4世紀後半には大和盆地北部で規格性に富んだ円筒埴輪が製作されるようになり、西日本各地や東海・北陸に規格化された埴輪が広まります。
5世紀になると、大阪府の陶邑窯(大伴氏が関与か?)で大量生産が始まり、そこから技術者を迎えて発展した名古屋市北方の猿投山西麓の須恵器窯でも5世紀末頃から埴輪(灰色の尾張型埴輪)がつくられ、滋賀・山城・福井などに広がります。猿投(さなげ)埴輪の分布は6世紀の継体大王の勢力圏に広がっているのがポイントと言えましょう。また、同じ5世紀には三島野古墳群(この先のブログで詳述予定)に連動するように新池埴輪窯が隆盛し、6世紀前半まで稼働しています。
陶邑窯、新池埴輪窯については、いずれ深掘りする機会があろうかと思います。
最後に、準構造船の研究をしている筆者が、もっとも素晴らしい造形と思っている舟形埴輪の写真を載せておきます。宝塚1号墳出土のもので、左に太刀、右に蓋、中二つが儀仗を表現しているようです。
参考文献
『埴輪は語る』若狭徹
『ヤマト王権の考古学』坂靖
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
他