理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

110 4世紀における列島各地の政治勢力

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 前回のブログに関連しますが、4世紀におけるヤマトタケルの全国制覇が虚構ならば、この時期の列島各地は、実際にどんな状況だったのか、今回はその真の姿を確認してみようと考えました。

 第100回ブログの最後に、「3、4世紀の列島全体を見渡すと、今なおヤマト国が突出した時代ではなく、出雲・吉備・筑紫・丹後・近江など各地方に大きな政治勢力が併存した」と記しましたが、この確認作業に実際に取りかかってみると、何と地方の史料が少ないことか。いささか閉口しましたね。

 そこで『記・紀』やネット情報などを援用して推論したのですが、かなり筆者の想像が含まれていることを承知おき下さい。もちろん、奇説・珍説はできる限り排除したつもりです。

 まずは、大和盆地において、「おおやまと」地域の勢力に並び立ったと思われる「かづらき」地域から。

葛城地域
 大和盆地の西側には、水越峠()をはさんで南に金剛山、北に葛城山が聳えています。この連山は金剛山地と呼ばれ、葛城山の北から竹内峠()、二上山を経て大和川()まで続いています。南北に走る壁のような金剛山地をはさんで、その西側は瀬戸内に開けた河内で、東側が「かづらき」地域ということになります。ということは、この2つの峠道と大和川を優先利用できる「かづらき」地域は、さらに南方の紀ノ川の存在も含めて、古代から発展の大きなポテンシャルを有していたことになります。


鴨都波遺跡、纒向遺跡、水越峠、竹内峠、亀の瀬(大和川)、阿田(紀ノ川)

 大和盆地西南部にあたる「かづらき」地域には、鴨都波遺跡が纒向遺跡()よりも早い2世紀から4世紀半ばまで存在しました。
 当遺跡は御所市宮前町にあり、葛城山麓より延びる丘陵状地形の東端で、柳田川と葛城川の合流点に面し、水に恵まれた絶好の場所でした。纒向遺跡からは南西方向へ20キロ弱の位置にあたります。

 現在、当遺跡には鴨都波神社が鎮座しています。
 そもそもこの葛城の地には、後に鴨族と呼ばれる集団が紀元後から大きな勢力を持ち始めました(第79回ブログ)。この集団は当初、現在の高鴨神社付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した鴨都波神社付近に移動して大規模な鴨都波遺跡を形成します。

 彼らは先進的で、優れた能力を持っていたため大和朝廷から厚遇されました。そのような鴨族とのかかわりの中から誕生した鴨都波神社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられています。


 <坂靖氏の著作を改変して転載>

 上図を掲げたついでに、「かづらき」地域の東側に広がる「そが」地域についても少々記すことにします。ちょうど曽我川の上中流域にあたります。

 「そが」地域には、弥生時代からの新沢一遺跡(にいざわかず)、中曽司遺跡(なかぞし)があります。また、新沢一遺跡から6キロほど上流域には曽我遺跡があり、4世紀における日本列島最大規模の玉作り工房が存在しました。

 これらの遺跡には、4世紀以降、東側の隣接地で勢力を拡大したヤマト国の影響が認められます。

 さらに曽我川支流(桜川)と飛鳥川に挟まれた畝傍山一帯には橿原遺跡があり、5世紀から四条古墳群の築造が始まります。当地は7世紀後半には神武天皇ゆかりの地として歴史の表舞台に登場することになります。
 「そが」地域の有力集団は、大伴氏として引き継がれていったようです(第81回ブログ)。

 

 「かづらき」地域に戻りますが、鴨都波遺跡の南方に4、5世紀以降に盛期を迎えるような大規模集住が幾つか見られます。


 <坂靖氏の著作を改変して転載>

 上図において、印は鴨都波遺跡、印は秋津遺跡・中西遺跡、印は南郷遺跡群を示します。

 広大な秋津遺跡・中西遺跡には、紀元前から人の集積が始まり、3世紀後半から盛期となり5世紀過ぎまで存続します。

 紀元前の中西遺跡では緩斜面を利用した広大な水田跡(4万3000㎡)が発見されており、秋津遺跡では多数の竪穴住居跡や祭儀用と思われる独立棟持柱建物跡も出土しています(第85回ブログ)。
 こうしたことから、当地域には纒向遺跡よりも前から先進的な文明があったことは間違いありません。

 4世紀半ば頃、秋津遺跡の南には「みやす古墳」(直径50メートルの円墳)が築造され、5世紀初頭、中西遺跡に大和盆地西南部で最大の室宮山古墳(238メートル)が築造されていることから、4世紀の「かづらき」地域が、「おおやまと」地域に対抗し得る勢力だったのは間違いないでしょう。

 巨大な南郷遺跡群は技術革新が進む5世紀前半頃からの興隆となるので、この先のブログ(古代史本論 5世紀まで)の中で詳述します。

 また、「かづらき」地域や「そが」地域の北側に位置し、高田川と葛下川(かつげがわ)に挟まれた広い地域には馬見古墳群が展開し、4世紀前半には新山古墳(前方後方墳)、4世紀半ば過ぎには築山古墳、さらに巣山古墳という巨大古墳が築造されており、当然、ここにも有力な勢力が存在していた可能性があります。

 この勢力が葛城氏に関わるものなのか、それとも馬見古墳群はヤマト王権に関係する人物の墓域なのか、様々な見解があるようですが、これについてはいずれ言及する機会を持ちます。

 いずれにしろ、葛城氏鴨氏という固有名詞の具体的な事績はこの4世紀という時期にはまだ確認できません。彼らは、4世紀頃までの前身集団の隆盛のうえに、5世紀の歴史の舞台に華々しく登場することになります。4世紀末になると葛城襲津彦の存在と共に葛城氏の実像が見えてきます。彼を始祖とする葛城氏については「古代史本論・5世紀まで」の中で詳述します(『日本書紀』には葛城襲津彦の名が神功・応神・仁徳の三代にわたって登場する場面あり。すべてが同一人物と考えにくい。この謎解きもいずれ……)

 

近江・淀川中流地域
 琵琶湖南岸は、琵琶湖を経由した日本海側との交易、陸路による伊勢湾沿岸との交易の要衝地で、しかも東西日本をつなぐ要の位置でもあります。

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 <国土地理院のデジタル標高地形図を改変>

 紀元後まもなく、琵琶湖南岸の守山市に弥生時代を代表する巨大な伊勢遺跡印)が存在しましたが、続く2世紀以降には彦根市で稲部遺跡が興り、その最盛期は3世紀半ば頃でした。稲部遺跡では大規模な鉄器工房跡が見つかり、大和盆地との活発な通交があったものと思われます。

 守山は、琵琶湖沿岸を北へとれば彦根の稲部遺跡へ、さらに西近江路・東近江路や若狭街道で山地越えすれば若狭へ至ります。
 彦根は陸路で尾張など伊勢湾沿岸地域とも通交できます。
 この地域に鉄やその他物品の交易で栄えた弥生時代の中核的なクニが存在したのは地勢・地形からみて十分に頷けることです(第82回・95回ブログ)。

 「さき」地域の北部の木津川流域には、4世紀前半の築造とされる椿井大塚山古墳や(印)や平尾城山古墳印)があります。
 木津川水系勢力の中心は、この後、4世紀後半から5世紀にかけて、宇治市南方の久津川古墳群印)や桂川西岸の西山古墳群印)に、さらに淀川中流右岸の三島野古墳群印)に移っていくことから、木津川や淀川中流域には「おおやまと」地域とは独立した大きな勢力を想定できそうです。

 3世紀後半から4世紀初めには、この一帯に大和盆地内の政治勢力に匹敵する一大勢力が点在していて、互いに通交していたが、時が下るにつれて各勢力の統廃合が進み、全体の重心が淀川中流域に移動していったと考えることもできますが、考古・文献史料が少なく、実態は詳らかではありません。

 それでも筆者は、琵琶湖から流れ出る瀬田川が京都府内では宇治川と名を変え、京都盆地から流れ出る桂川、北行してくる木津川と合流して淀川となる、これら河川が織りなす広い流域は古代より一体的に繋がっていたのではないか、と考えています。

 4世紀までのヤマト王権はどこから鉄の供給を受けていたのでしょうか。
 瀬戸内海や大和川を経由する交易が未熟だった4世紀には、おそらくこの近江から木津川流域が鍵を握っていたと思います。ヤマト王権の鉄の調達に関して、供給基地としての役割や、出雲・丹後方面からの中継基地の役割をはたしていたと考えたい。

 第103回ブログでは、植田文雄氏のつぎのような言葉を掲載しました。
 「少なくとも3、4世紀代の大和勢力は、情報と交通掌握の点で優位に立っていたわけではない。むしろ、瀬戸内海を河内や吉備勢力に押さえられたと想定され、もうひとつの日本海ルートを掌握する北近畿・北陸および近江勢力を軽視できなかっただろう」。

 4世紀後半になると、ヤマト王権(「さき」王権)との間で、紛争(通称、忍熊王との抗争)が起きたという伝承があり、さらに6世紀頃まで下ると息長氏継体大王が登場し、当地は政局の舞台の中心となっていきます。

 淀川中流域の三島野古墳群は淀川右岸地域(大阪府高槻市・茨木市)に広がる古墳群で、4世紀から5、6世紀までの大規模古墳など500基以上の古墳が確認されていて、継体陵といわれる今城塚古墳もこの中にあります。

 近江は、尾張・美濃地域とともに前方後方墳の発祥地ともみられていて、多方面交易路によって各地に先進文化や先進技術を伝播したことでも注目されます。

 

尾張・美濃地域
 東征から戻ったヤマトタケルは、尾張の地でミヤズヒメに草薙剣を託し、近江・美濃にまたがる伊吹山で、山の神に敗れてしまいます(前回のブログ)。このようにヤマトタケルが全国制覇の最後に立ち寄ったと伝わる尾張・美濃ですが、実際の4世紀にはどのような状況だったのでしょうか。

 熱田には、6世紀前半築造の断夫山古墳(東海地方最大の前方後円墳)があります。ヤマトタケルへの思いをいだいて死んだミヤズヒメの墓で、夫を断つ山という意味で命名されたという説もありますが、4世紀のヤマトタケルとは時代が合いません。

 清州の近くには弥生時代の大規模環濠集落「朝日遺跡」があります。この他にも伊勢湾沿岸部の各台地や濃尾平野の各地に小規模集住が見られ、それらが3世紀に向けて部族連合としてまとまっていきますが、そこで築造されたのは前方後方墳という墳形です。

 濃尾平野の古墳は、3世紀後半から4世紀前半を中心として、岐阜県養老町の象鼻山古墳群や、木曽川中流域の犬山一帯の東之宮古墳ひがしのみや)など、ほぼ全域で前方後方墳からはじまっています。近江・濃尾に特徴的な前方後方墳とはいえ、埋葬物・埋葬様式は畿内様式を採用していることから、畿内と関係のあったことがうかがえます。
 第89回ブログで述べたように、ヤマト王権の軍事力や巨大古墳の築造に要するマンパワーのかなりの部分は、濃尾地方をはじめとする東日本に負うところが大きかったという傍証になるのかもしれません。

 やがて古墳は、4世紀半ばまでに前方後円墳に変化していき、5世紀にかけては濃尾平野山麓から北部の美濃・邇波・加茂地域に多くの前方後円(方)墳が造成されますが、5世紀半ばから6世紀にかけては一変して、熱田台地(名古屋台地)・庄内川水系に大型の前方後円墳造営が集中します。そして他の地域ではほとんど築造を停止するようになります。

 5、6世紀になると、熱田台地周辺部で大型前方後円墳の築造ラッシュが続き、この現象は尾張連氏の隆盛と重なっています。

 熱田台地は名古屋市中心部にある南北に細長い台地で、北西端には名古屋城が、南西端には熱田神宮があり、今は周囲が沖積平野となっていますが、この時期は台地の際まで伊勢湾が入り込んでいました。


 <熱田台地(ネット記事から転載)>

  濃尾平野最大規模の前方後円墳は、熱田台地の先端部で伊勢湾に面して築かれた断夫山古墳(だんぷさんこふん)です。この6世紀前半を中心として、熱田台地周辺部に大型の前方後円墳が次々に造営されていきます。
 そしてその多くには尾張型埴輪(前々回のブログでは猿投埴輪とも呼称)と呼ぶ須恵器生産法による独自の埴輪が見られます。埴輪が須恵器と同じ窯で焼かれると、高温の還元焼成により灰色で硬く焼き締まるので、赤い色をした埴輪のイメージとは相当に異なる仕上げになります。それを生み出した中心人物こそ、断夫山古墳に眠る王で、名は尾張連草香でしょう。
 尾張連草香は継体大王の最初の妃である目子媛(めのこひめ)の父であり、当時の尾張・美濃地域は継体大王を擁立した最大の支持基盤と考えられます。尾張氏については「6世紀の古代史」のなかで詳述する予定。来年になるのかな?

 丹後地域・出雲地域については今まで述べてきたので、復習にとどめます。

 

丹後地域
 第96回ブログで記したように、弥生時代から発祥した「クニ」を母体に、竹野川流域・川上谷川流域・野田川上流域には継続した王の存在が認められ、3世紀の終わりから5世紀にかけて、王国とも呼ぶべき一大勢力が確かに存在しました。

 その丹後地域も5世紀中頃からやや輝きを失ってしまいます。
 準構造船の登場(第54回・55回ブログ)により、交易中継点としての役割が薄れて丹後・若狭がスキップされたこと、6世紀の継体の登場で政治の中心と交易の流れが敦賀から近江・尾張・淀川流域重視に変わってしまったこと、さらには瀬戸内海航路へのシフトなどによると思われますが、4世紀の時点では、今なお大和盆地と拮抗する、ないしは上回る勢力を維持していたと考えます。
 4世紀半ばから、大和では海外志向の強い「さき」地域の集団が強大化してヤマト国を代表する集団に成長し、南山城から先進的な文物を求めて丹後地域へ積極的なアプローチをします。

 

出雲地域
 第65回ブログで述べたように、出雲地域の最盛期は様々なクニ・ムラが並立した2世紀から3世紀初め頃でした。しかし2世紀以降の出雲西部には単一権力による支配はなく、3世紀末から4世紀前半にかけて権力の空白が続いたと考えられます。

 そこで、4世紀半ば頃、統制が弱くまとまりに欠けた西部に、ヤマト王権(「さき」の王権)が物部や和珥の先祖筋の勢力を派遣して日御碕(ひのみさき)辺りに交易拠点を設けます(第65回ブログ)。

 しかし4世紀の時点でも、ヤマト王権が日本海交易路を優先的に利用できるほど出雲が弱体化していたわけではなく、なお日本海文化交流圏の雄として、ヤマト王権と対峙し得る勢力を有していました。

 出雲地域は徐々に弱体化が進みますが、7世紀まで出雲として独立して繁栄し、完全に大和政権の支配下に入るのは、結果的に最も遅かった地域ということになります(第98回ブログ)。出雲の国譲りは神話上の話です。

 

 疲れた!今回はここまで。紀ノ川下流域・吉備・筑紫・日向については次回に回します。

 

参考文献
『考古学から見た4・5世紀の尾張と大和政権』赤塚次郎
『地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『倭人伝、古事記の正体』足立倫行
『倭国の古代学』坂靖
他多数