理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

111 4世紀における列島各地の政治勢力(その2) 

 前回の続きです。

吉備地域
 古代、吉備の穴海が存在した吉備地域は、地政学的に陸上・海上交通の要の位置にありました。このため、紀元前から人が集住し独自の文化を築いてきました。

 水田稲作の開始(第60回ブログ)は、九州北部が最も早く紀元前10世紀頃で、瀬戸内海沿岸地域では紀元前8世紀末頃とされているようです。岡山市の旭川右岸に広がる津島遺跡では、弥生時代の集落遺跡と共に水田跡が見つかり、最初期の水田跡ではないかとされています。

 早くから稲作がもたらされた吉備地域には、独自の一大文化圏が生まれます。
 紀元前後に、特殊器台・特殊壺という吉備特有の土器(第108回ブログ)が出現したことがそのことを物語っています。大和盆地に伝わった後、円筒埴輪と形を変え、近畿一円をはじめとして急速に広がります。紀元前から吉備と大和の間にはそれなりの通交があったのです。

 しかし、実際にヤマト王権が吉備地域を重要視するのは、西へのアクセス確保に本腰を入れる5世紀以降のことです。ちょうど吉備氏が瀬戸内海地域の雄として勢力を拡大する時期にあたります。

 第45回・78回ブログでは、日本海側と比較的容易に通交できる吉備三川の存在を取り上げました。

 三川とは吉備の穴海に注ぐ吉井川旭川高梁川のことですが、これに足守川を含め、3、4世紀頃には各河川の流域ごとに個別の生産基盤をもつ集団が存在しました。そのそれぞれが、日本海側から文化・技術を吸収し、大和を含む他地域とも通交して、主体的に前方後円墳、前方後方墳、方墳などを採用しています。

 これは、坂靖氏によれば、権力者同士の競争原理が働いていたとみるべきで、3、4世紀までの吉備地域に全域を支配し海外とも通交した吉備の王は存在しなかった傍証になると思われます。

 主な遺跡を確認すると、足守川流域には3世紀前半までの墳丘墓としては国内最大規模の楯築墳丘墓(双方中円形墳丘墓で全長は80メートル)が出現します。

 また、箸墓古墳と類似する後円(一部、後方)墳が各河川流域に存在します。
 箸墓古墳の2分の1の規模とされる浦間茶臼山古墳(吉井川流域、前方後円墳)は3世紀末~4世紀前半の築造と推定されています(第92回ブログ)。
 この他、4世紀前半には6分の1の備前車塚古墳(旭川流域、前方後方墳)や、中山茶臼山古墳(足守川流域で「吉備の中山」山上にある前方後円墳)など多くの古墳が築造されています。


 <坂靖氏の著作から改変転載>

 4世紀後半には、各集落が衰退して人口減少がおきますが、5世紀には3基の巨大前方後円墳(造山古墳、作山古墳、両宮山古墳)が出現し、吉備氏が歴史の表舞台に登場したと推測できます。
 吉備地域には始祖を異にする複数の地域勢力が並立していたが、この時期に、彼らは連合を成立させてひとつにまとまったのではないかと考えられます。

 吉備氏は、5世紀のヤマト王権と連携する一方、多くの反乱伝承もあり、特に星川皇子の乱(463年頃)では、実際は大伴氏がサポートするヤマト王権と葛城氏がサポートする吉備氏が覇権を競ったという大胆な説も存在していて大変に興味深い展開となります(「古代史本論 5世紀まで」の中で詳述予定)。

 吉備は、瀬戸内海交通の要衝と言う側面の他にも、鉄鉱石を原料とした箱型炉による製鉄(第30回ブログ)が5世紀末頃から始まって日本の鉄自給の先鞭をつけるなど、その後も重要な地域としてクローズアップされていくことになります。

 

紀ノ川下流域
 第79回ブログで述べたように、和歌山市名草地区の伝承では、古代、名草を中心とする紀ノ川下流域を支配していた土豪は、名草戸畔(なぐさとべ)と呼ばれる女性で、統治形態は3世紀頃まで見られるヒメヒコ制だった模様。

 名草戸畔のあと、紀ノ川下流域には、海の民をルーツとし、後の紀氏につながる勢力がすわったと思われます。
 紀ノ川下流域が本拠であったことが、その後の紀氏の隆盛に繋がります。
 紀ノ川は南大和を水源として西に流れ、紀淡海峡に注いでいるため、河口の「紀伊水門」(きのみなと)は、物資輸送の重要な基地としてヤマト王権や葛城勢力に重視されていくわけです。

  神武東征神話では、紀ノ川河口の雄水門(おのみなと)でイツセノミコト(神武の兄)を失ったとされ、神功の三韓征伐では、神功は越前の敦賀から、仲哀は紀伊の徳勒津(ところつ)から九州へ向かったとされています(第98回ブログ)。

 この2つは史実とは言えませんが、5世紀後半のヤマト王権が国土統一や外征にあたって、紀ノ川河口部の「紀伊水門」を拠点としていた歴史的事実をモチーフとしていることは間違いありません。

 4世紀も後半になると、紀氏一族のうち北岸勢力は、紀ノ川河口部から沿岸にかけて多くの海部(あまべ)をかかえ、「紀伊水門」は瀬戸内海交易の外港として発展し始めます。
 ヤマト王権を強力に支える大伴氏(の祖)が瀬戸内海各地に勢力を伸ばしたいという思惑を持っていたため、彼らの支援を得たことも「紀伊水門」の発展に大きく影響しました。その大伴氏は摂津から和泉の大鳥地方、紀ノ川下流地域、そして大和の磯城・十市にも拠点がありました。


 <紀氏、大伴氏の勢力分布(菱田哲郎氏の著作を改変転載)>

 5世紀半ばになると、紀氏は葛城・吉備と連携して瀬戸内・紀淡の海人集団と密接な交流をもち、朝鮮半島交易を担っていきます。瀬戸内海航路を重要視したヤマト王権もこれらの勢力に依存せざるを得ない状況があったと想定できます。それが、やがて雄略大王時代の確執(ヤマト王権と葛城・紀・吉備連合との対立)となって表面化するわけです。

 『日本書紀』雄略紀の新羅征討(465年)の記事には、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、紀大磐宿禰(きのおおいわのすくね)の名が華々しく登場します。
 大阪府泉南郡には、彼らの力を誇示するように淡輪古墳群(たんのわ)に約200メートルの巨大前方後円墳が2基築造されています。淡輪ニサンザイ古墳西陵古墳で、いずれも5世紀後半の築造です。
 ほぼ同時期に、北岸勢力が関与した木ノ本古墳群も存在します。


 <紀ノ川下流域の古墳群(坂靖氏の著作を改変)>

  この先の状況は、「古代史本論 5世紀まで」の中で詳述しますが、ヤマト王権が葛城氏を排除し、物資輸送の力点を河内や淀川水系に移すようになると、紀氏の地位は低下します。さらに6世紀、大伴氏が任那四県割譲問題で失脚すると、今度は紀ノ川南岸勢力が河口域を掌握し、岩橋千塚古墳群(いわせせんづか)の時代につながっていくのです。

 しかし、4世紀の段階では、紀ノ川下流域は5世紀に華々しく表舞台に登場する前の雌伏の時期でもありました。

 

筑紫地域
 第98回ブログで述べたように、4世紀における景行の九州征討やヤマトタケルの熊襲征伐は虚構です。4世紀の交通事情を無視したうえで、5~7世紀におけるヤマト王権の勢力拡大や軍事進攻の歴史を遡らせ、天皇家の権威を高める意図で7~8世紀頃に創作されたものです。
 では、4世紀頃の九州は実際にどんな状況だったのでしょうか。

 4世紀になると九州北部の伊都国や邪馬台国の勢力が後退して、玄界灘地域には後に宗像氏を名乗る集団が、博多湾から有明海に至る筑後平野一帯には後に筑紫氏となる集団が、九州中部では後の火君(ひのきみ)が、それぞれ勢力を拡大したと想定されます。

 このうち宗像氏については、第99回ブログで言及したように、海の民から成長した豪族で、現在の宗像市・福津市を中心とする地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配しました。九州北部の海人族は、沖の島を航路とした宗像一族の他にも、志賀島を拠点として壱岐・対馬を航路とし対馬海峡を支配した安曇一族がありました(第67回ブログ)。

 4世紀前半頃までの大和の勢力は、博多湾沿岸や出雲勢力の顔色を窺いながら「博多湾交易」のおこぼれを得ています(第64回ブログ)。

 4世紀半ばになると、ヤマト王権は宗像の勢力範囲であった玄界灘地域に着目して、沖ノ島を経由する新たな「海北道中ルート」を確保し、朝鮮半島交易において優位に立ったと想定できます。
 「海北道中ルート」の中継点にあたる沖ノ島の祭祀が盛んになるのも、4世紀半ばから5世紀以降のことで、その後のヤマト王権は宗像へ相当な肩入れをしていきます(第99回ブログ)。
 沖ノ島祭祀は7世紀以降まで続き、宗像大神は海北道中という航路の守り神として尊崇されるのです(第67回ブログ)。

 4世紀後半以後に地域国家の首長となる火君一族は、熊本平野の白川より南の宇土半島から八代平野あたりを根拠地とし、玄界灘沿岸とは異なる独自の文化圏を形成していました。火君の文化は、筑紫氏が基盤とした筑後の古墳文化と近似するので、合わせて有明文化圏とも呼ばれています。
 狗奴国と関連があるのかどうかはまったく分かりません。

 

 6世紀半ば、ヤマト王権と筑紫氏の間で争われた磐井戦争の後、ヤマト王権のバックアップを受けた宗像の勢力は、筑後地域まで影響を及ぼすようになります。
 宗像氏については第67回ブログで述べたように、中世に向けて大宮司家が次第に武士化し、戦国時代には九州北部の戦国大名としても活躍し、16世紀後半まで勢力を維持します。

 筑紫氏について少々補足します。
 『日本書紀』が筑紫国造だったと記す筑紫磐井について、『古事記』は竺紫氏(姓は君)だったと記します。古代の筑紫氏はよく分からないことが多く、火君と同族と見る説もあります(有明豪族連合)。
 古代の筑紫氏と同名の氏族には、中世以降の武家で筑前・筑後・肥前の広域に勢力を張り、筑紫神社を氏神とする筑紫氏がいますが、古代の竺紫氏との関連はよく分かっていません。

 八女丘陵に展開する八女古墳群は、前方後円墳12基・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなっています。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫氏一族の墓に相当すると推定されています。
 このうち5世紀以降の筑紫君関連の墓としては石人山古墳(せきじんさんこふん、磐井の祖父の墓か)、岩戸山古墳(筑紫磐井の墓か)、鶴見山古墳(磐井の息子・葛子の墓か)が有名ですが、磐井戦争を論じるときに再度詳述します。

 なお、九州南部の日向には後の諸県君につながる勢力が興っています。次項に記します。

 

日向地域
 宮崎中央平野一帯の小丸川、一ツ瀬川、大淀川の流域には極めて多くの古墳群があります。前方後円墳は140基近くにものぼり、「西都原古代文化圏」とも呼ばれています。

 これらの古墳群にも独自の栄枯盛衰の歴史があったようで、大規模な前方後円墳の築造は、まず4世紀始め頃に大淀川流域の生目古墳群(いきめ)で始まり、次いで5世紀を中心に西都原古墳群(さいとばる)、5世紀末頃からは新田原古墳群(にゅうたばる)に移行します。

 生目古墳群の中の3基の前方後円墳は全長が100mを超える規模を誇り、4世紀の九州では最大の古墳群でした。ここに埋葬された人物は不明ですが、かなりの有力者であったと考えられます。
 九州南部の独特の墓である地下式横穴墓も多く発見されていますが、地下式横穴墓が前方後円墳の下から見つかったことは注目に値します。これは、近畿地方からの影響のもと築かれた前方後円墳と、南九州独特の地下式横穴墓の関係を知る上で非常に貴重な発見といえます。

 西都原古墳群は300基を超える国内最大級の古墳群で、4世紀前半から5世紀半ば頃までの31基の前方後円墳が集中しており、この中には諸県君一族が関係する墓もあるようです。
 それにしても前方後円墳が約5年にひとつ築造されるペースは謎であり、最近の研究では、西都原は8つほどの異なる系列をもつ集団の共同墓地だったという説が有力なようです。
 こうしたことから、この地域には、前代の2、3世紀頃から大きな集住があったことが想定できます。3世紀の宮崎中央平野は伊予・吉備・讃岐など瀬戸内系の搬入土器が豊富で、低湿地開発用の吉備系の農具もみられます。

 ただし、諸県君牛諸井が登場する前の4世紀の九州南部は、ヤマト王権や吉備地域、九州北部の筑紫地域と肩を並べるほど日本各地への影響力があったとは考えられず、一地方における繁栄に終始ています。

 古代史を語る上で状況が一変するのは5世紀です。
 5世紀前半には男狭穂塚と女狭穂塚という大規模古墳が築造され、当地域の最盛期を迎えたと考えられますが、古代史では、九州南部ほぼ全域に勢力を拡大した諸県君が娘をヤマト王権の大王妃にする物語とセットになって語られます。

 『記・紀』には仁徳が日向の髪長媛を娶る物語があり、その後、日向の勢力が王権内で一定の影響力を確保する様が描かれています。

 考古学的にも、女狭穂塚古墳(墳長176メートル)の規格は上石津ミサンザイ古墳、仲津山古墳と、男狭穂塚古墳(墳長154メートル)の規格は誉田御廟山古墳と近似していて、ヤマト王権と深い関りがあるという指摘があります。

 しかし、筆者は判然としないのです。
 古墳や遺物の状況から、日向の地は瀬戸内海地域と濃密に通交していたと考えられるので、ヤマト王権と関係していた可能性も否定はできません。しかし不可解なのは「日向に国中の美人と言われる髪長媛がいる」という話を聞いて、応神が召しあげる経緯です。

 美人ならこんな遠隔地でなくても、畿内で大勢見つかるだろうに、なぜわざわざ応神は、息子である仁徳の王妃に、蛮族(『記・紀』が編纂された7、8世紀は完全に蛮族扱い)の住む僻地であった日向の髪長媛をあてたのでしょうか。

 5世紀に日向の勢力(日下宮王家)がヤマト王権中枢と一定の関係を築いていた可能性は否定しません(証拠が少ないので、実は少々疑問あり)が、この時期、途中には吉備や筑紫の勢力が存在しています。

 日向とヤマト王権の関係構築の発端が応神・仁徳による髪長媛の獲得にあって、そこから日下宮王家が展開するというのはいかにも物語が出来過ぎます。髪長媛は本当に実在したのでしょうか。さらに言えば、諸県君一族は『記・紀』以外には伝承がない謎の一族でもあります。

 このような疑問を呈した古代史には今までお目にかかったことがありません。

 神功の物語が怪しげなら、その一代後の応神の物語が怪しくても不思議ではないでしょう。本件、さらに熟考を続け、「古代史本論・5世紀まで」の中で謎解きをしてみたいと思います。

 九州南部は古くは熊襲国と記され、また7、8世紀の政権中央の認識においても、隼人の人びとが居住する蛮族の地域とされてきました。
 しかし薩摩国・大隅国を分立した後の日向国(狭義の日向地域)では、3世紀末ないし4世紀初め頃から古墳が築かれていたため、狭義の日向地域に隼人は関係せず、ヤマト王権とはその初期から結びつきがあったという説も存在します。

 しかし、この場合でも、ヤマト王権の影響を受けたと思われる古墳群は、沿岸部に近い地域に分布していて、大きな広がりとはなっていません。ヤマト王権中枢に大きな影響力を与えるほどの一大勢力であったとは考えにくいのです。

 隼人は、7世紀末頃、大和政権(天武の時代)によって創り出された異民族であって、古代南九州の人びとの自称ではありません。
 800年12月に、薩摩国・大隅国に班田を実施し、翌年以降に隼人の朝貢が停止されると、南九州の人びとを隼人と呼ぶ制度はなくなります。南九州に隼人が存在したのは天武の時代から9世紀にかけての120年間ほどでしかありません。

 このような顛末が後世の歴史認識においてもさまざまな捉え方となって伝わり、真実を分かりにくくしていると思われます。

 

 以上、2回に分けて、4世紀頃までの列島各地の政治勢力について眺めてきました。全体を総括してみます。

 

4世紀は今なおヤマト国が突出した時代ではなかった!
 畿内および周辺を押さえ、出雲西部や九州北部に足がかりを確保したヤマト王権ですが、このように見てくると、4世紀の丹後・出雲・筑紫などには依然として強大な勢力が健在です。

 小林道徳氏は著書の中で次のように述べています。

 4世紀から5世紀の間に、日本列島が大和朝廷によって統一され、古代の統一国家が形成されたという従来の考え方は、大きく修正されねばならない。4世紀から5世紀にかけては、各地域が、それぞれ自主性を保ちながら、歴史的発展を遂げていたのである。その点、『記・紀』など、大和政権によって編纂された史書を支配する大和中心史観からは、離脱する必要がある。

 大和政権も日本列島各地に存在した地域国家のうちの一つにすぎなかった。せいぜい、シーレーンの確保のために、各地域国家の周辺に存在する小首長国を勢力圏に収めていた程度であった。

 

 以上をまとめると、ヤマト王権が本格的に全国へ進出していくのは4世紀半ば過ぎから技術革新の世紀といわれる5世紀を経て6世紀にかけてのことになります。

 

 ヤマト王権の4世紀は語るべき材料が豊富ですが、地方の4世紀については考古資料も少なく、また文献史料は皆無に等しいため、4世紀だけを切り取ってみても隔靴搔痒の感がありました。

 今回、2回に分けて言及した葛城・近江淀川中流域・尾張・丹後・出雲・吉備・紀ノ川下流域・筑紫・日向などの王権・王国あるいは有力豪族の状況については、この後、「古代史本論・5世紀まで」を記す中で、弥生末期から6世紀前半頃までを、もう少し通史的に掘り下げてみたいと思っています。乞うご期待!

 

参考文献
『西都原古墳群』北郷泰道
『倭人伝、古事記の正体』足立倫行
『一大勢力「吉備氏」はどこへ消えたのか』湊哲夫
『地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『倭国の古代学』坂靖
『古代日本海文明交流圏』小林道徳
『古代を考える 吉備』門脇禎二他編
『筑紫と南島』吉村武彦他編
他ネット情報など多数