神功皇后伝説が生まれたバックグラウンド
第98回ブログでは、神功皇后の三韓征伐を虚構であると断じました。4世紀半ばという時期に着目すれば、まだメジャーになっていない敦賀から出発する不自然さや、準構造船(第54・55回ブログ)が存在しないのに三韓征討の大軍が渡海できてしまう不思議を指摘できます。
さらに長野正孝氏は、10月から翌年2月までの冬季の新羅遠征はまったく不可能と指摘しています。
『日本書紀』によれば、神功は、秋9月10日に舟と兵を集める号令を発し、冬10月3日に対馬の鰐浦から出発し、瞬く間に三韓を従え、12月14日には宇美で応神を産んでいます。これは、今の暦では10月下旬から翌年1月下旬にあたりますから、確かに対馬海峡がもっとも荒れる時期になりますね(第53回ブログ)。
もっとも、当時の交通事情や渡海能力を指摘する以前に、三韓征伐はお伽噺のようなタッチで記されているので、神功の実在や業績そのものに疑問符をつけざるを得ないという根本的な問題があります。
しかし、そこには目をつぶり『日本書紀』に記された三韓征伐の本筋だけを追いかけてみると……、
仲哀は熊襲征伐のため筑紫に陣を張ったが、「熊襲でなく新羅を攻めよ」というアマテラスらの託宣を疑ったため、神の怒りに遭い筑紫の香椎宮で没した。神功は住吉三神の神託を得て、胎内に子(後の応神)を宿したまま軍船を率いて新羅に向かった。海神や魚たちが協力して新羅を大津波で覆いつくし、新羅王は恐れおののいて降伏、次いで高句麗・百済も軍門に下った、というものですね。
この物語のように、古代日本が朝鮮半島を平定したという史実は存在しません。部分的、局地的な進出ならともかくも......。
一方、広開土王碑(414年建立)の碑文に記された対高句麗戦争を神功の三韓征伐になぞらえる論考も見受けられます。さてこれは?
碑文の大筋は次の通り。
〇 391年、倭が一時的に百済・新羅を臣民とした。
〇 400年に新羅を救援するための高句麗軍が、逃げる倭を金官国まで追い詰めた。
〇 404年に広開土王が倭の水軍に壊滅的な打撃を与えた。
この時期、ヤマト王権が百済、伽耶と結んで朝鮮半島に進出していた事実はありますが、百済・新羅を臣民としたというのは誇張でしょう。
この広開土王碑に記された4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争は、当初輝かしい戦績をあげるも結局のところ一敗地に塗れてしまうことや、『日本書紀』の三韓征伐物語は戦闘相手の主力が新羅であることを考えれば、到底、同一事象とは言えません。
新羅が相手ということは、この物語が7世紀半ば以降に創作された可能性を暗示します。
新羅が朝鮮半島の統一を進めた7世紀半ばは、ちょうど新羅打倒の機運が高まった時期に相当します。斉明天皇は百済救済のため軍船を仕立てて瀬戸内海を航行し新羅討伐に向かうも、途中の九州朝倉宮で亡くなりました。このあと日本は古代最大規模の遠征軍を朝鮮半島に向かわせたが、白村江で大敗を喫します(第58回ブログ)。
この経緯を俯瞰すれば、三韓征伐の背景が浮かび上がってきます。おそらく、7世紀後半から8世紀初頭のヤマト王権が、白村江の敗戦ムードを一掃するために、神功皇后を利用する形で、昔のヤマト王権は強かったという伝承を必要としたに違いない......。
偉大な神功皇后の物語は、斉明の劇的な事績を賛美し、それを偶像化して作られたものと考えられます。
夫の死後に征討軍を指揮することも共通です。
神功が実在した可能性は低いですが、神功は斉明(和風諡号は天豊財重日足姫天皇・あめとよたからいかしひたらしひめ)と同じタラシヒメという名を持っています。
7世紀における半島への出兵を正当化するため、その前例(半島はもともと大王家のもの)としての役割を担ったのではないでしょうか。
神功による三韓征伐のその後は以下の通り。
筑紫に戻った神功は応神を産み、応神を喪舟に載せて瀬戸内海を横断して難波に帰還したとする物語が続きます。
『記・紀』によると、香坂王・忍熊王は帰還する神功・応神に謀反を企てたが強力な軍事力に抵抗できず、反乱は失敗した、というものですね(第95回ブログ)。
神功皇后の三韓征伐と難波への帰還の物語は謎が多すぎます。これをもって「さき」地域の王権が滅び、応神を始祖とする新たな王朝が河内に開かれたとする論考(河内王朝説)には大きな問題があると筆者は考えます(第95回ブログ)。
これらの物語は、7世紀後半当時、ヤマト王権内で大きな影響力を持っていた息長氏の主導で作られたのでしょう(第98回ブログ)。
しかし、神功皇后伝説が大きなうねりとなって中央の政治に影響を及ぼすのは、むしろ、8世紀前半以降です。
新羅との緊張関係が高まったことで、「宇佐神宮」は対新羅神として国家鎮護や軍神としての性格を明確にしていきます(第99回ブログ)。
平安時代の823年、「宇佐神宮」はそれまでの二座の祭神に加えて、神功皇后を祀り三座とします。1世紀以上も前の『記・紀』の中で三韓征伐の英雄として描かれた神功を、「宇佐神宮」の神としたのです。
そして平安時代以降に、「筥崎宮」をはじめとして、神功・応神に所縁の地が各地にたくさんつくられていきました。
明治以後になって、この動きは加速しています。
当時、南下するロシアへの対応戦略として、朝鮮半島が日本の生命線となり、いにしえの物語(朝鮮半島はもともと天皇家のもの)が「亡霊のごとく」表舞台に躍り出ます。ちょうど、大東亜戦争のとき、考古学専門家や郷土史家らが、神武東征の聖跡の比定にエネルギーを注いだのと似た「歴史の創作」と言えましょう(第99回ブログ)。
このように神功皇后伝説はまことにややこしい存在で、数百年以上、否、千年以上経った後の世にも大きな力を及ぼしているのです(第68回ブログ)。
4世紀における日本列島と朝鮮半島の間の交渉・衝突について
『記・紀』に記された神功皇后の三韓征伐(主たる敵は新羅)はお伽噺のようなタッチで記されていて、神功の実在や業績に疑問符がつくわけですが、第98回ブログで予告した通り、『日本書紀』神功皇后紀の後半(摂政紀)には、4世紀における日本列島と朝鮮半島の間の交渉や衝突に関して史実と思えるような記事もあります。
神功皇后紀の記事や、そのもととなった『百済記』などを照らし合わせてみると、4世紀の日朝間の史実がある程度は見えてくるのです。
そこに至る前の朝鮮半島古代史については、すでに第97回ブログで、313年に高句麗が楽浪郡と帯方郡を滅ぼし半島北部を確保し、346年には百済が、356年には新羅が興ったと記しました。
この間、弁韓(弁辰)は統一されないまま、加耶諸国として小国が分立したまま比較的平和に推移しています。この地域は鉄資源に恵まれていたので、それぞれが小盆地に囲まれていた地形も幸いし、小国でありながらも独立を維持できたわけですが、日本は鉄を求めてその伽耶にアプローチをするようになります。
高句麗の南進に対抗するため、百済は日本(主体はヤマト王権か)に接近を試みます。
このような状況下で、4世紀の後半を迎えるので、今回は4世紀半ば以降にヤマト王権と百済の間で交わされた通交や、ここに分け入る新羅との小競り合い?について整理してみます。
『日本書紀』によれば、神功が新羅に進攻し、三韓に内官家屯倉(うちつみやけ)を定めた後、葛城襲津彦が新羅の欺計を咎めて草羅城(さわらのさし)を攻略する記事(史実か、疑問大)がありますが、以下は、その後の経緯になります。
<武光誠氏の著作から改変転載>
〇 364年 百済の近肖古王が日本と国交するため、久氐(くて)ら3人を卓淳国(とくじゅんこく)に派遣。
〇 366年 斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳国に派遣。斯摩宿禰は爾波移(にはや)を百済に派遣して近肖古王をねぎらわせた。百済の近肖古王は彼らを歓迎した。爾波移は卓淳国に戻り、斯摩宿禰に従って帰国した。
〇 367年 百済王が久氐(くて)ら3人を派遣して日本に朝貢した。新羅による貢物取替事件で新羅に不信を抱いた神功は、千熊長彦(ちくまながひこ)を派遣して新羅を責めた。
〇 369年 日本と百済が卓淳国に集結し、千熊長彦が荒田別、鹿我別を将軍として新羅を撃破。比自㶱(ひしほ)・南加羅(ありしひのから、金官伽耶)・㖨国(㖨己呑、とくことん)・安羅(あら)・多羅・卓淳(とくじゅん)・加羅(高霊伽耶)の7国を平定。千熊長彦と百済王は辟支山(へきのむれ)・古沙山(こさのむれ)に登って誓盟。
〇 370年 千熊長彦が久氐らを伴なって百済より帰国。多沙城(たきのさし)を百済に増賜。
〇 371年 百済王が久氐らを派遣して再度、朝貢。百済王父子は誓盟。
〇 372年 百済王世子が七支刀・七子鏡などを日本に献上(第91回ブログ)。
<百済人の久氐等、千熊長彦に従ひて詣り、則ち七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び種々の重宝を献る>。
〇 375年 百済の肖古王死去。
〇 382年 新羅が朝貢しないので葛城襲津彦が新羅を攻める。
〇 391年以降 『好太王碑』碑文によれば、高句麗との戦闘が勃発し日本は大敗したとされるが、『日本書紀(応神紀)』には記載なし。
以上ですが、残念ながら369年の比自㶱・南加羅など7国に及ぶ広域の平定(●印)などは、史実とはとても考えられません(第91回ブログの「七支刀」に関連)。
これら一連の交流は細部にわたって記されているので、まったくの出鱈目とも言えず、日本(ヤマト王権)が関与したことは間違いないものの、軍事行動の主体は日本ではなく、あくまでも百済であった可能性があります。
ヤマト王権は伽耶に足掛かりを得る、あるいは利権を維持するために、朝鮮半島に確かに出兵していますが、どれも部分的な戦闘(むしろ小競り合いというべきか)であって神功の遠征物語で描かれたような大規模なものは皆無です。当時の交通インフラから考えても、大量の軍勢で渡海したとは考えられないからです。
ところで、372年に百済王世子が七支刀・七子鏡などを日本に献上した時の「倭王」はいったい誰なのでしょうか。『日本書紀』では神功ということになりますが、仲哀や神功は架空の存在と考えるしかありません。
応神をあてる説もありますが、応神と仁徳は仮に実在したとしても、『記・紀』を見る限り河内地域の方に親和性があり、七支刀が伝わる石上神宮とは接点がありません。
第19回ブログに示した高城修三氏による天皇在位時期では、応神の在位(368~407年)が当てはまりますが、これは万世一系の歴代天皇がすべて実在したと仮定しての試算です。
雄略より前の天皇については、『記・紀』に記載された血縁系譜と即位順序、さらに個々の人物の実在にも疑問があり、5世紀半ば以前の天皇に高城説を適用するのはまったく意味がありません。
七支刀は石上神宮に伝わっているので、「ふる」地域の勢力が入手にあたって重要な役割を果たしたと推定できます。4世紀前半までのヤマト王権の構図は「ふる」や「わに」の勢力を介在させながら朝鮮半島と交渉していたとみられるので、この時期の王権の中核拠点は「さき」地域だったと考えたい。
この王権は、「おおやまと」地域の王権よりも軍事・交易・先進文化に強い志向があったと考えます(第91・95回ブログ)。当然、百済とも活発に交渉していたことでしょう。
で肝心の「倭王」の名は?ということになりますが、その時の「さき」地域の王の名は応神ではなく、ましてや崇神や景行でもなく、残念ながらまったく不明と言うしかありません。
ただ、古墳に目を向けてみれば、370年代に活躍した王の墓で該当するのは、「さき」地域の宝来山古墳や五神社古墳なので、その被葬者が「倭王」なのかな?と思ったりもするのです。
任那日本府という言葉が初めて見られるのは『日本書紀』雄略紀464年のことです。この後、任那をめぐる半島とヤマト王権の確執が『日本書紀』欽明紀に頻出します。それは「6世紀の古代史」に譲るとして、今回は4世紀における半島とのやり取りを整理してみました。
参考文献
『クーデターを起こした神功皇后』吉田龍司
『古代の技術を知れば「日本書紀」の謎が解ける』長野正孝
『ヤマト政権と朝鮮半島 謎の古代外交史』武光誠
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『倭国の古代学』坂靖
『古代日本~朝鮮半島交流略史』玉川千里
他多数