理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

117 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(3)


 前回からの続きです。

栄山江流域の前方後円墳
 朝鮮半島南西部の栄山江流域(えいさんこう)には、日本の古墳と酷似する前方後円墳が13確認されています。これらの前方後円墳は突然出現して、急速に姿を消しています。5世紀後半から6世紀前半に成立したものとされています。

 この流域は伽耶諸国の一部ではなく、もとから馬韓の領域でしたが、4世紀半ばになっても百済の影響が及びにくく、言うなれば馬韓の小国が分立して残っていたともいえる地域です。

 一方、百済と日本は4世紀末頃から軍事的・政治的同盟関係にありました。

 これらの古墳からは、日本のものと酷似する埴輪や日本固有の直弧文をもつ副葬品が出土しているので、日本国内と同じような祭祀が挙行されていたとみられます。
 なかでも、横穴式石室の形態から、九州北部、特に有明海沿岸地域の前方後円墳との類似性が指摘できるので、筆者は、これらの古墳の被葬者は、たとえ百済領で生活していても、九州北部からの移住者か滞在者であった可能性があると考えます。
 おそらく、前方後円墳築造にかかわる人・モノ・情報のやりとりや築造に当たっては、栄山江流域と有明海沿岸地域の間を往来した日系の渡来人が深くかかわっていたと思われます。
 本件、「古代史本論・6世紀まで」の中で、継体・欽明に言及する時にさらに詳述します。

 都を南方の熊津(ゆうしん)に遷し百済を再興した文周王(在位:475477年)や、その後継の東城王(在位:479501年)は高句麗と戦うために、軍事力をもつ九州北部の豪族が栄山江流域に居住することを許容していた可能性もあるのではないか。しかし伽耶西部を勢力圏に組み込みはじめた武寧王(在位501523年)の時代になると、伽耶地域と関係の深い栄山江流域の日系勢力の動きを懸念し、牽制するようになったと思われます。

 一方、被葬者を馬韓時代からの在地の豪族とみる見解もあるようです。百済に完全に編入されることを嫌い、みずからの主体性を維持するため、あえて日本とのつながりを百済にアピールしたというのですが……。ちょっと無理筋に思えます。

 『日本書紀』によれば、百済は、大伴金村(おおとものかねむら)に対して任那の西半分を譲るよう頼みます。
 それに対して、大伴金村はこの要請を受け入れ、任那の西半分の四県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)は百済のものになります。このことを任那四県割譲事件(512年)と言うわけですが、その際、大伴金村は百済から賄賂を受け取ったとされています。
 ただ、大伴金村は任那割譲の見返りとして、百済から、五経博士(ごきょうはかせ)という当時最先端の知識人を日本に渡来させています。五経博士の来日によって、日本の文化知識レベルが大きく向上したのは間違いありません。

 ところで、この任那四県割譲事件の舞台は、ちょうど日系豪族が居住する栄山江流域とその南方に当たります。その翌年、日本が伴跛(はえ、高霊伽耶国、加羅国とも?)から奪還して百済に与えたとされる己汶(こもん)、帯沙(たさ)は蟾津江(せんしんこう)東岸にあります。

 『日本書紀』では、いずれも日本が主導権を握り、任那四県は日本の領土であったものを百済に割譲し、己汶、帯沙は百済の領土であったものを伴跛国から奪還して百済に与えたと記しています。

 しかし、実際に栄山江流域が日本の支配下にあったことはありません
 史実は、百済が南下して小国が分立していたこの地域に支配権を及ぼしたということです。武寧王の百済が日本に対し、日系勢力の色濃い栄山江流域へ干渉しないよう求め、金村がそれを受け入れ、武寧王と良好な関係にあった継体大王が黙認した可能性はあります。
 このことを、後の『日本書紀』では任那四県が日本領であったという架空の話に仕立て上げたと思われます。

 翌年以降の己汶、帯沙の奪還についても、日本が援軍したかどうかは定かでなく、南進した百済武寧王の勢力が、在地勢力(百済に包含されなかった馬韓諸国の残余勢力)や、西進してきた高霊伽耶(加羅・伴跛など)と激突したというのが史実です。
 つまり、蟾津江(せんしんこう)の交通アクセスをめぐる争いだったと考えるべきですね。

 

任那四県の割譲と大伴金村の失脚
 532年には新羅が金官伽耶を併合する事件があります。百済の聖名王と任那復興についてやりとりしていた欽明大王が諸臣を集め、新羅を攻撃するかどうか諮った場で、金村は物部尾輿から外交政策の失敗(512年の任那四県割譲と、その際、百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚してしまいます。四県割譲の要請にたやすく応じたことが新羅の積年の反感を買っているとして批判されたのです。
 失脚は、なんと四県割譲から28年後、継体崩御後の540年のことになります。

 継体の時代に権勢を誇った大伴金村ですが、宣化から欽明の時代に入る頃、蘇我稲目が台頭するにつれ、金村の権勢は衰え始めます。金村失脚の直後、蘇我稲目は欽明に娘の堅塩媛(きたしひめ)を嫁がせるなどして、欽明の時代をリードしていきます。

 これ以後、大伴氏は衰退していくのです。
 大伴氏は、5世紀半ばに葛城氏が没落してから約100年間にわたって活躍しましたが、6世紀半ばに蘇我氏が興隆することで頭を押さえられてしまうのです。
 しかし、その後、壬申の乱672年)で大伴吹負が大活躍する(第81回ブログ)などして、一族として復権し、平安時代には伴大納言も現れています(第81回・102回ブログ)。

 それにしても、任那四県割譲から28年も経ってから金村が失脚するというのは解せません。
 その間、金村は、失脚はおろか、新羅にも出兵しているし磐井戦争にも参戦しているのです。
 実際は、「任那四県割譲と賄賂」の一件は、権勢の衰えた大伴金村を追い落とすための決定打として大義名分に使われ、『日本書紀』の上で、百済が高霊伽耶国から己汶、帯沙を奪い併合した年の前年に置かれだけのことと言えそうです。

 偉そうに金村の失策をなじった物部尾輿だって、先代の物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の不名誉な(?)過去を抱えているのです。任那四県割譲を百済の使者に伝達する勅使として、麁鹿火が難波の館に向かおうとした時に、妻に強烈に諫められて、やっとのことで思いとどまったというのですから。

 今となっては、任那四県割譲事件が単なる収賄事件だったのか、それとも政治的な思惑があったのかは分かりませんが、欽明元年(540年)に金村が失脚したことだけは事実でしょう。

 

任那日本府について
 任那日本府という言葉は、『日本書紀』の雄略紀464年に初めて登場します。
 この他、『日本書紀』には、比自㶱・南加羅など7国の平定(369年)、任那四県割譲(512年)、己汶・帯沙の奪還(513年)などの記事もあり、ヤマト王権が4世紀半ば頃から朝鮮半島に進出し、5世紀半ばから6世紀にかけて「任那日本府」なる直轄地を設けたかのように読みとれます。

 しかし、「任那日本府」という存在はあり得ません。「任那」を朝鮮半島南部の広域を指す呼称として使用しているのは『日本書紀』だけです。
 6世紀までのあいだ、この地域に存在したのは、小地域を支配した部族国家群です。 シナの史書や金石文では「任那」は小さな金官国を指す呼称として使われています。

 ただし、任那日本府の存否にかかわらず、4~6世紀に、大和盆地の「ふる」「わに」「かづらき」などの勢力や、「紀」「吉備」など日本各地の王や新興勢力が朝鮮半島南部で積極的な活動を行ったことだけは事実です。

 

 6、7世紀の話になりますが、589年、シナで南北朝時代が終焉した後、高句麗は隋・唐から繰り返し攻撃を受けるようになります。高句麗は、長年これに耐えたが、660年には百済が唐に併合されたことで、唐、新羅と南北から挟まれることになり、国内の内紛もあって668年に唐の高宗によって併合されてしまいます。その後、併合地の大半を新羅領とすることで決着し、統一新羅が誕生するわけです(676年)。

 6世紀以降の朝鮮半島との交渉・通交については、継体・欽明を取りあげる時に言及したいと思います。

 

 

朝鮮半島の各国割拠の変遷(イメージ図)
 3回シリーズの最後に、3世紀末頃から6世紀末頃までの朝鮮半島について、勢力分布がどのように変遷したのか、分かりやすい模式図をネットで見つけたので転載します。

 前回のブログに掲載した武光誠氏の図とも微妙に異なっていますが、クニの境界線や呼び名については、研究者によってさまざまな捉え方があるので、これはイメージ図としてみればよいのでは。

 3世紀末には、紀元前108年に興ったシナの植民地、楽浪郡と帯方郡が存在している。半島南部には弁韓・辰韓・馬韓の三韓、東部には濊が存在し、南端部には倭人が居住していた。

 4世紀に入り、シナの西晋が弱体化すると、高句麗が南下して、313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼす。高句麗は朝鮮半島北部の支配を確立。

 高句麗の南下に対抗すべく、346年に馬韓を統一して百済が建国、356年に辰韓を統一して新羅が建国。

 370年頃、百済の近肖古王が高句麗から帯方郡のあった地域を奪う(故国原王は戦死)。百済が有力な国家の一つとして台頭すると同時に日本との通交も始まる。この頃、新羅と伽耶は弱小であった。

 5世紀になると、広開土王を擁する高句麗が勢力を拡大、子の長寿王が427年に平壌に遷都、475年に百済の漢城を落城させたため、百済は熊津に遷都する。この時期、高句麗の版図は最大になる。

 6世紀になると、百済は南下し、新羅は西進して、それぞれ伽耶諸国を侵食することになります。

 

 

参考文献
『ヤマト政権と朝鮮半島』武光誠
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『倭国の古代学』坂靖