理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

118 「倭の五王」は誰のこと?


 3回にわたって古代朝鮮半島の状況を確認してきましたが、三韓やシナの史料には「倭」「倭王」という言葉が頻出します。
 筆者は「倭」という言葉が嫌いなので、「日本」「日本列島」「九州北部」「ヤマト王権」などと適宜置き換えています。そして海外の史書で使われている倭王・倭王権と言う言葉の実態はどのようなものだったのか、文字通り日本を代表するような王権だったのか、常に思案しています。
 この先のブログでその謎を紐解く予定ですが、朝鮮半島やシナとの活発な交渉が始まる5世紀に、日本列島の大半を制した単一の王権が存在しなかったことは恐らく間違いないでしょう。

 一方、5世紀は「倭の五王」の時代とも言われます。ヤマト王権の使者は、百済の支援のもと、九州から朝鮮半島西岸を北上し、黄海を横断してシナ大陸に渡ったのでしょう。
 「倭の五王」については、第113回・114回ブログで「九州王朝説」や「謎の4世紀」に関連して若干言及しましたが、今回は真正面から「倭の五王」の謎に迫ってみます。

 6世紀初頭に成立した『宋書』には・珍・済・興・武と呼ばれる5人の倭国王・倭王の名が記されていて、これを「倭の五王」と称しているわけですね。
 「倭の五王」は、南朝に宋が建った直後の421年(413年説もあり)から宋の治世下の478年までの間に遣使した大王を指します。
 『記・紀』の皇統に当てはめてみると、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略までの7人が該当(第19回ブログ)しそうです。応神は該当するか否か時間軸ではギリギリ。
 そこで古代史学界では、該当するなら具体的に誰が誰に当てはまるのか、百家争鳴の論争が繰り広げられています。

 最近、河内春人氏の著書を読んで「我が意を得たり」と感じました。そこで今回は同氏の論考を中心に「倭の五王」について纏めてみた次第です。

 一般的には、「倭の五王」は『記・紀』に記された大王の誰かに「必ずあてはまる」ということを前提として、では誰に当てはめるべきかという議論が重ねられてきた。

 当てはめる方法としてもっとも多く試みられたのが、名前の音韻から考える方法だ。5世紀当時、漢風諡号(第19回ブログ)は存在しなかったので、和風諡号の音韻を根拠に下記のような幾つもの説が提示された。

 「讃」は訓読みで「ほむ(誉む)」と読み、『記・紀』では応神のことを「ほむだ、ほむた」と記すので、「讃」は応神を指す。

 「讃」の音読みは「さん」なので、「さ」に注目すると、仁徳は「おほさざき」、履中は「いざほわけ」と「さ(ざ)」の発音を含むので、「讃」は仁徳か履中を指す。 

 「珍」は訓読みで「うづ」または「みづ」と読むので、「みづはわけ」と呼ばれる反正を指す。

 「済」の音読みは「せい」だが、当てはまる天皇の名はない。そこで「済」の字義が「海や川をわたる」なので、港を意味する「津」の字が用いられている允恭(雄朝津間稚子宿禰)に比定。

 「興」は「こ」という発音が「ほ」と似ているので、「あなほ」と呼ばれる安康を指す。

 「武」は「たけ」「たける」と読むので、「わかたける」と呼ばれる雄略を指す。

 以上のような塩梅ですが、強引なこじつけのようで無茶苦茶。後味の悪さを感じてしまいます。
 和風諡号は、6世紀前半の安閑期以降に、殯宮儀礼の挙行の際、捧呈されるようになったという説もあり、そうだとするとそれ以前の天皇の和風諡号も存在しなかった可能性がある、という根本的な問題もあります(第19回ブログ)。

 しからば、ということで天皇家の系譜との一致を試みる研究もあります。と珍は兄弟なので履中・反正・允恭の三兄弟、または履中・反正に当てはまる。
 済と興・武の親子については允恭と安康・雄略の親子に当てはまる。しかし、珍と済の関係が不明確なまま残ってしまう。

 そもそも信憑性の低い『記・紀』の系譜に、伝聞記録をもとにした『宋書』の系譜を当てはめて古代天皇の系譜を復元するという試みに疑問がある。

 「倭の五王」の名は意図的に一文字で表そうとした節があります。
 百済も高句麗も、王の実名の一字をとってシナの正史に記されている例が多い。シナと外交関係を結ぶときに、王の名を異民族風に見えないように本来の名前の中の一文字をとって名乗っていた可能性が高い。
 しかし、その一文字の名乗りがどの天皇に当てはまるかについては、ルールが一貫しておらず、訓読み・音読み・字義・系譜による推測が混在し、なんでもありの状態。
 第一、5世紀に訓読みが存在したのでしょうか。
 とても学術的な論証とは言えません。

 雄略であることが確定的とされる「武」については、5世紀後半に「たけ」と訓読みした証拠はありません。漢字の訓読みは、漢字の意味を理解したうえで、同じ意味の和語をあてた、その和語の読みです。7世紀頃にならないと訓読みは一般化しません

 「武」の音読みは「ぶ」「む」であって、訓読みは「たけ」「たけし」「もののふ」です。

 雄略の名は、『日本書紀』では「大泊瀬幼天皇」(おおはつせのわかたけのすめらみこと)と表記され、「武」を「たけ」と訓読みさせています。

 基本的に『日本書紀』は純漢文(一部を除く)で書かれていますが、7世紀後半から8世紀前半になると、訓読みを交えた変体漢文が当たり前に使われているので、『日本書紀』で「武」を「たけ」と読ませていたとしてもおかしくはありません(第9回ブログ)。
 しかし、「武」が朝貢した5世紀後半に「武」を「たけ」と訓読みさせたとは到底考えられません。

 「武」は雄略に違いないという結論がまずあり、その結論をもっともらしく見せるために、都合の良い論証をあてはめていったというのが実情なのでは……。
 学界では、雄略だけは「武」に一致するとする識者が大半ですが、訓読みがたまたま一致しただけなのかもしれず、他には何も証拠がないのです。

 稲荷山鉄剣や江田船山古墳の太刀に記された「ワカタケル」の表記は「一文字・一音」の「獲加多支鹵」であって、「タキ(タケ?)」は「多支」で「武」という語ではありません(第109回ブログでは、鉄剣に記された「辛亥年」を471年とする考古学界の解釈について疑義を呈した)。いずれ雄略の時代の版図を確認する時、再度、問題提起したい。

 これまでの議論は、『記・紀』に記された天皇の系譜が名前や系譜関係を正確に記録しており、『宋書』の五王も正確な伝聞を基にして記されたことを前提としているわけですが、肝腎の前提に疑問符がついてしまうのでは、何の議論をしているのか分かりません。ましてや、『宋書』に続く『梁書』まで土俵の上に載せてしまえば相互の齟齬はさらに拡大するので、考えるエネルギーすら湧かなくなり思考停止に陥ります。

 倭の五王の実在を疑う必要はないが、それを『記・紀』に登場する大王に当てはめようという作業そのものは、現在のところ、意味のあることとは考えられませんね。

 ただし、『宋書』に記された五王の遣使年については、『記・紀』の大王のそれぞれに確実に比定できなくても、頭に入れておきたいと考えます。

〇 讃  421年、425年
〇 珍  438年
〇 済  443年、451年
〇 興  462年
〇 武  478年、479年(斉)、502年(梁)

 当ブログでは、個々の大王の実在性云々は横に置き、仁徳の時代、履中の時代、雄略の時代というような使い方は直感的で分かりやすいので、大王名は、その時代のヤマト王権のトップリーダー(複数かも)の代名詞として、今後も使っていきます(第19回ブログ)。

 

ウクライナのひまわり畑
 今回のブログは、アイキャッチ画像に「ウクライナのひまわり畑」をかかげてみました。少々季節外れかな?
 ロシアのウクライナ侵攻は言語道断で、いくら非難してもしきれるものではありません。対するウクライナの徹底抗戦・奮闘には頭が下がります。コサックの血が流れているせいなんでしょうか。

 一方、戦争を長引かせてロシアを弱体化させるというアメリカの目論見は、半年が経過した今、計算通りには推移していませんね。こんなに多くの返り血を浴びるとは予想しなかったことでしょう。
 バイデンもゼレンスキーも、自由・秩序・人権などという聞こえの良い言葉で、ウクライナに加勢するよう国際社会に迫ったわけですが、国益のぶつかり合いの前にそのメッセージはあまりにも無力でした。

 侵攻の抑止に失敗し、しかも戦況が膠着状態に陥ってしまったことで、今後、このウクライナ戦争がどのような決着を見ようとも、世界にとって結果は悲惨です。

 この戦争は人道的にどちらが正しいかという観点でいくら断じてみても、そういう評価軸に乗ってこない専制的大国には空念仏でしかありません。ひとえに抑止が出来たか出来なかったかという観点で評価すべきではないでしょうか。

 専制的大国にも(認めたくはないが)彼らなりの価値観があり、国益というものがあります。ロシアの国益は国境の保全なので、せめて当初からの要請であるウクライナの中立化を不承不承ながらも受け入れていれば、これほど性急な侵攻はなかったはずです。
 しかし抑止力も不十分なまま、ゼレンスキーは、ロシアの国益や面子はお構いなく、みずからの理想のゴールに向けて突っ走ってしまいました。

 理想のゴールとは、ミンスク合意を反故にし、クリミヤ奪還を企図し、東部ドンバス地域へ軍事介入し、NATOやEUに加入することでした。これらを掲げて、実力もない(軍事力が劣り同盟もなし・経済は破綻・目を覆う政治腐敗)まま走り出してしまった……。

 これに対し、アメリカはロシアを叩きたい一心で、ウクライナを煽り、中途半端にちょっかいを出してしまった……。

 最も悪いのはロシアに違いないのですが、あえて一歩引いて冷静にこの戦争を振り返ってみたい!
 筆者は、抑止の失敗という一点で、ゼレンスキーとバイデンの大失策がこの戦争を呼び込んでしまったという視点を強調したい。日本が学ぶべきはそこでしょう。

 ウクライナ戦争については、古代史のブログから外れると思いながらも、今まで第106回・109回ブログでも言及してきました。実質的にロシアとアメリカの戦闘(経済戦争を含む)と化し、ロシアもアメリカも引くに引けない状況に陥ってしまったウクライナ戦争の帰趨はいったいどうなるのでしょうか。

 

参考文献
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『新説の日本史』SB新書
『倭の五王』河内春人