理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

120 古市古墳群と百舌鳥古墳群


 <田野倉の棚田>

 河内平野の変遷については、第78回ブログで神武東征を論じる時に言及しました。5世紀頃までの河内には、大阪湾から切り離された河内湖がまだ存在していましたね。

 河内は上町台地を除いては概して低地で、河内湖に向けて、北東から淀川・桂川・鴨川・瀬田川・宇治川・木津川の水が、南から石川・大和川の水がすべて流れ込んでいたため治水が悪く、頻繁に起きる洪水で、低地には人が住むことができませんでした(第102回ブログ)。

 それでも、2、3世紀頃の中河内の微高地には、弥生時代では最大規模の中田遺跡群久宝寺遺跡群が、纒向遺跡を上回る集落規模で存在していました(第82回ブログ)。
 当地は、吉備以東の瀬戸内海、中でも播磨・讃岐、そして山陰との通交にきわめて有利だったからと思われます。

古墳時代の河内
 4世紀初めから半ばにかけては、南河内の石川下流部には玉手山古墳群松岳山古墳群(まつおかやま)が築かれます。
 南河内の勢力が衰退した後、4世紀末頃から5世紀末には、古市古墳群と百舌鳥古墳群が、石川と石津川の間に広がる南河内・和泉の段丘上に陸続と築造されていきます。両古墳群ともかつてはそれぞれ100基もの古墳がひしめいていたと言います。


 <坂靖氏の著作から改変転載>

 5世紀の代表的な巨大古墳はこの地域に集中しており、ヤマト王権の河内進出の象徴と言われますが……?
 河内湖や河川の洪水対策をし、河内湖を埋め立てて農耕などの産業適地を拡大させ、新たな手工業生産拠点を配置して産業を興隆させた5世紀のヤマト王権の偉大な足跡を、これら巨大古墳群が象徴的に物語っているということでしょう。

 河内の産業興隆については、「5世紀の技術革新」として、稿を改めていずれ詳述したいと思います。
 今回からしばらくの間は、巨大古墳の様相を紐解きながら王権のありよう(かたち)を探ってみます。
 前述した通り、当地域には弥生時代から大きな集住があったので、地政学的な観点も含めて検討してみます。

 

古市古墳群
 この古墳群は羽曳野市・藤井寺市にまたがり、石川が大和川に合流する西岸段丘上に展開しています。
 かつては100基を超える古墳が、東西3キロ、南北4キロの範囲に集中して築造されていたが、現在は87基の古墳が確認されています。


 <古市古墳群(武光誠氏の著作から転載)>

 200メートル超の巨大古墳を大きさの順に並べると次のようになります。
〇 誉田御廟山古墳(425メートル、応神天皇陵に治定)
〇 仲津山古墳(290メートル、仲津媛陵)
〇 岡ミサンザイ古墳(242メートル、仲哀天皇陵)
〇 市野山古墳(230メートル、允恭天皇陵)
〇 墓山古墳(225メートル、応神天皇陵の陪塚)
〇 津堂城山古墳(208メートル)
〇 軽里大塚古墳(200メートル)

 古代史に関心を持つ読者には既知のことですが、『延喜式』に記された陵墓名は、律令国家が天皇や皇族の陵墓を国家として守護し祭紀を行うことを定めた際に決められたもので、必ずしも確かな根拠を持つものとは考えられません。
 現在の天皇陵は、それを基に明治新政府が治定したものです。

 おかしな点も多く、例えば墓山古墳は応神天皇陵の陪塚とされていますが、今では墓山古墳の方が応神天皇陵よりも古いとされています。

 古市古墳群を築造した勢力は、「さき」の王権からの分派と考えます(第101回ブログ)。
 最初の古墳と考えられるのは津堂城山古墳(4世紀後半)で、被葬者は、副葬品などから朝鮮半島と活発な交易をおこなった人物と思われます。『日本書紀』では応神の年代に該当します。

 津堂城山古墳には、前方部両側の周濠内に、四角形の島が見つかっています。その一辺の湾入した部分に水鳥の形象埴輪が置かれていました。

 ちょうど同じような時期に、馬見古墳群の一つである巣山古墳からも似たような島と水鳥の埴輪が見つかっています。また、巣山古墳の周濠からは大型船の木製部材が出土し大きな話題となりました。部材から復元された全体フォルムは全長8メートル超のまさしく二股構造形式の準構造船のよう。
 ただ、魔除けを意味すると思われる直弧文が刻まれていたため、海上で使われたものではなく、遺体や魂を天に運ぶ「喪舟」だった可能性を指摘されています(第54回ブログ)。

 死の穢れを清めるために、被葬者の遺体を舟に乗せて、水鳥の埴輪のある島に送る儀式があったのでしょうか。水鳥は魂をあの世に連れていく鳥だとされていたわけですから。

 最大の古墳は5世紀半ばの誉田御廟山古墳ですが、ここに祀られているのは、長い間、応神とされてきました。しかしそれはあり得ません。年代が違いすぎますから。

 平安時代に、大和や河内に応神を祭神とする八幡信仰が広まった後に、巨大な誉田御廟山古墳を応神の陵墓と考えるようになったと思われます。誉田御廟山古墳のすぐ南には誉田八幡宮が建てられています。

 誉田御廟山古墳は二重の濠と堤を備え、墳丘と内外堤には葺石が施され、円筒埴輪列がめぐらされていた模様です。
 誉田御廟山古墳はいくつかの陪塚と呼ばれる中小古墳に囲まれています。陪塚は巨大古墳の被葬者を祀るために造られたもので、近臣の遺骸が副葬品とともに納められています。

 しかし『日本書紀』に記された大王の中で、陵墓に関する記載がまったく見られないのは応神だけ。重要な大王であるはずなのにこれは何とも不思議。

 古市古墳群の大きな謎は、誉田御廟山古墳のあと巨大な古墳が造られない長い空白期間があり、5世紀末頃になって、市野山古墳軽里大塚古墳岡ミサンザイ古墳という200メートル超の古墳が築造されていることです。この間にいったい何があったのか……。

 

百舌鳥古墳群
 百舌鳥古墳群があるのは和泉です。
 古市古墳群から西に10キロほどしか離れていない石津川東岸の段丘上に展開し、当時は大阪湾に面していました。4キロ四方の区画内に現在44基の古墳が確認されています。

 和泉には、寺田遺跡や大園遺跡があり、4世紀にかけて有力な地域集団が存在していた可能性があります。鍛冶関連や埴輪集積の遺構が出土しており活発な生産活動が行われていたと思われます。
 しかし、古市古墳群で巨大前方後円墳の築造が始まる4世紀末以降、和泉の勢力は衰退し、そこを埋めるようにヤマト王権(筆者は「さき」王権の分派と考える)が進出した模様です。彼らが百舌鳥古墳群を築造したのです。

 ちなみに古市古墳群の端緒となる津堂城山古墳(墳丘208メートル)が築造された4世紀末には、百舌鳥古墳群の方は影も形もなかったのでしょうか……。
 実は、津堂城山古墳に対峙するように、やや小振りながら乳岡古墳(ちのおか、墳丘150メートル)や大塚山古墳(現在は宅地開発で消滅)が存在していました。そのような前史があって、5世紀前半の巨大古墳(上石津ミサンザイ古墳)の出現となるわけです。

 ヤマト王権は大阪湾沿岸まで直接支配地域を拡大したことで、交通インフラの面からも百済・伽耶諸国とより強いつながりを持つようになったと考えられます。


<百舌鳥古墳群と河内(坂靖氏の著作を改変転載)>

 上図から大仙古墳が、当時大阪湾の海辺にあった様子が見てとれます。

 大仙古墳の埴輪や葺石は、石津川や大津川の上流から採取したと想定されています。第107回ブログでも述べましたが、当地には土師氏の同族(百舌鳥土師氏、毛受腹)も居住していたはずです。そして石津川上流には陶邑窯跡群が存在しています。

 百舌鳥古墳群のすぐ北方には住吉津があり、そこは朝鮮半島との通交で活躍した津守氏の本拠地です。津守氏が奉斎したのが「住吉大社」で、反橋のかかる神池は、まさに古代のラグーン(潟湖)の名残。ラグーンから独立した池に変わったのは14世紀半ば以降のことです。

 百舌鳥古墳群の中で200メートルを超える巨大古墳は、大きさ順に次のようになっています。
〇 大仙古墳(486メートル、仁徳天皇陵に治定)
〇 上石津ミサンザイ古墳(360メートル、履中天皇陵)
〇 土師ニサンザイ古墳(288メートル、反正天皇陵墓参考地)
〇 百舌鳥御廟山古墳(203メートル、応神天皇陵墓参考地)

 宮内庁によるこの治定で解せないのは、『記・紀』では履中は仁徳のあとの大王のはずですが、実際は上石津ミサンザイ古墳の方が大仙古墳より古いことが考古学的に判明していることです。

 大仙古墳は、言わずと知れた日本一の規模を持つ巨大古墳です。
 墳丘は486メートルもあり、その墳丘を三重の周濠が囲んでいます。墳丘には葺石が施され、膨大な数の円筒埴輪列が並べられていたと見られます。周囲には15基前後の陪塚が付属しています。

 当古墳は長い間、仁徳天皇陵とされてきましたが、これは仁徳自身が百舌鳥耳原に自らの御陵を造らせたとする伝承があるためです。
 『日本書紀』には、仁徳が自らの陵墓を定めるため、河内の石津原におもむき、百舌鳥耳原に陵を築いたとあり、次の履中についても百舌鳥耳原陵に葬られたとしています。また、允恭については河内の長野原陵に葬ったとしています。

 一方、平安時代の『延喜式』では、百舌鳥耳原中陵を仁徳陵に、百舌鳥耳原南陵を履中陵に、百舌鳥耳原北陵を反正陵に比定し、これら百舌鳥耳原の三陵が中、南、北の位置関係にあるとしています。どうしてこのような比定になったのか、まったくもって謎としか言いようがありません。

 しかしながら、『日本書紀』を根拠とするこのような伝承の存在とともに、仁徳が5世紀の有力な大王であるという刷り込みが加味されて、長い間、日本最大の古墳は仁徳陵であるに違いないとされてきたわけです。
 一方、考古学の面から大仙古墳は5世紀末の古墳とされていた時期もあり、当然ながら雄略陵だろうという説も提示されたことがあります。

 しかし、考古学で実年代の研究が進んだ結果、最近では大仙陵の築造時期が450年頃とされたため、仁徳の治世とは合致せず、大仙古墳が仁徳の陵墓ではないことは確実とされています。

 大仙古墳は5世紀の技術で延べ680万人を投入して16年かけて築造したという試算もあります(第87回ブログ)。
 5世紀頃の王家の古墳の多くは、大王自身が生前にそれだけの年数をかけて造った寿陵です。だとすれば仁徳の真の陵墓には420~430年頃に築造された古墳を当てるべきでしょう。

 なぜ5世紀にこのような巨大な古墳が築造されたのか、その答えとなるヒントは、当ブログの第104回で言及しました。ヤマト王権の勢威を外国の使節に誇示するためというような単純な理由ではなく、そこには王権内部、王族間の熾烈な競争意識や覇権争いが働いていたとみるべきでしょう。

 

 森浩一氏はまったく異なる観点から百舌鳥古墳群の形成を推理しています。

 今日でこそ和泉国の百舌鳥古墳群と河内国の古市古墳群を別個の古墳群として分けているが、古墳時代には和泉国はまだなく河内国に属していた。つまり同一の国のなかの、東にあるのが古市古墳群で西にあるのが百舌鳥古墳群である。これは広範囲の一大墓地域が予め設定され、その内部で次々に古墳が造営され、両古墳群のほぼ中央の空白部に河内大塚古墳を造営して約200年に及んだこの広大な墓域での造墓活動が終わったとも考えられる。現に次のような対比ができる。

〇 最大規模の盟主墳として誉田御廟山古墳と大仙古墳が東西に位置している。

〇 応神陵という伝承のある誉田御廟山古墳に対して、百舌鳥古墳群にも御廟山古墳がある。そして誉田八幡宮があるように、御廟山古墳のかたわらにも百舌鳥八幡宮がある。

〇 上石津ミサンザイ古墳と、古市古墳群の誉田御廟山古墳や仲津山古墳の墳丘には相互の関係があり、築造年も接近している。

 森氏はこのような観点から、ふたつの古墳群を別のものと考えず、一大古墳群となるはずの同一墓域だったという仮説を展開したわけです。

 うーん、なるほど!
 スケールの大きさに思わずうなってしまいますが、今は引き出しに入れておくことにします。ただ、この美しい対称性を語る推論の中に、「外国使節に誇示するための古墳群」というような皮相な文言が登場しなかったことに、とりあえず安堵しています。

 

両古墳群の立地に関する地政学的意味
 朝鮮半島との通交については、4世紀半ば以降、ヤマト王権(「さき」の王権)は丹後・出雲経由で九州へのルートを確保しましたが、その後4世紀末までには、「さき」の王権の一部が河内に進出します。

 この進出した勢力は軍事的色彩が強く、朝鮮半島との交易や先進的文物の獲得に強い志向を持っていました。高句麗との戦争(400年、第116回ブログ)を敢行したのもこの勢力ですが、葛城の勢力にサポートされていたのかもしれません。
 そして5世紀中頃には外征・交易の主体は葛城氏や紀氏となり、瀬戸内海航行の鍵を握っていた吉備氏も大きな関与をしました。

 一方、王権による河内平野での土木工事や産業基盤の整備、手工業生産の推進を担ったのは、物部氏・大伴氏・忌部氏・土師氏など王権傘下の豪族でしょう。
 また、河内の開発には、和泉地域との関りが深い大伴氏繋がりで紀氏の役割も浮かび上ります。

 地政学的にみると、河内には瀬戸内海という大動脈につながる利点があります。なかでも讃岐・淡路島や瀬戸内海東部とさえ繋がれば、即、海外との交易で優位にたてます。

 5世紀になると、瀬戸内海東部から河川や川沿いの道を利用して伯耆、出雲方面との通交が活発になります。瀬戸内海と日本海を結ぶ「南北ルート」の利用です(第45回ブログ)。
 河内から姫路経由で揖保川を遡り、中国山地を越えて因幡へ至るルートや、陸路であっても龍野から佐用を経て北行する今の因幡街道、佐用から西行する今の出雲街道なども交易路として利用できた可能性があります。

 もちろん5世紀になると、瀬戸内海航路の本格的な活用も、関所のように構えていた吉備氏との連携により大きく進みました。

 こうして王権の河内進出で陸路・海路のルートが複線化し、大和・河内に鉄素材を始めとする様々な文物が大量に流入することになったのです。

 このような流通ネットワークの結節点は港津ということになりますが、自然の潟湖を改良した住吉津はすでに5世紀頃には存在していましたが、新たに、瀬戸内海を航行する大型船が停泊できるよう難波津が建設されました。

 河内湖畔は低湿地が多く頻繁に洪水をおこしていたので、上町台地の途中を開削し、滞留する水を大阪湾へ排水するようにしました。難波堀江の開削と呼ばれています。
 そして河内湖の内から大阪湾を深く浚渫して水路をつくり、澪標(みおつくし)を立て、人の移動に不便な干潟や小流は埋め立てて、喫水の深い大型船が航行・寄港できるようにしていたのではないか。
 堀江から船で大和川河口へ直接向かえるようになったので、水運が隆盛し河内と大和は潤うことになります。もちろん、河口では交易の品を平底舟に積み替えて大和盆地へ向かったはずです(第45回ブログ)。

 難波堀江の開削と連動した継続的な工事により、国際港としての難波津は遅くとも6世紀までに完成していたと思われます(第57回・102回ブログ)。

 古市古墳群は、ヤマト王権の外港である難波津と大和盆地を結ぶ交通路のそばに位置しています。また、百舌鳥古墳群は住吉津のそばに位置しています。

 筆者は、ヤマト王権(「さき」王権)の分派が外征・産業興隆・物流改革に向けて大和川を本格的に利用すべく、その下流域に広がる河内に進出したと想定します。
 さらに想像を膨らませれば、「さき」西群を築造していた王族たちが、「河内進出グループ」と「東群を築造したグループ」の2つに分かれたのかもしれません。「さき」西群の古墳は次第に衰退するが、「さき」東群はむしろその後に隆盛を続けるわけですから。

 勘違いしてはならないのは、河内への進出といっても、地政学的な重要性を感じた王権が軸足を大和盆地から河内平野に移しただけであって、百舌鳥古墳群と古市古墳群の時代も、王権の基盤は大和盆地にあったということ。

 したがって、王権の河内進出後も、大和盆地の重要性は継続するので、大和盆地と河内の双方を結ぶ交通路の整備がより重要となります。

 双方を結ぶ交通路としては、大和川水運の他にも多くの陸路があったと想定できます。


 <武光誠氏の著作から転載>

 ただし、上図に記された丹比道、大津道、上ツ道などは、いずれも7世紀に造られた可能性が高いと思われます(第43回ブログ)。
 ではそれ以前は何も通っていなかったのかというと、大和盆地と河内の間には、舗装はされていなくとも踏み固められた小道が何本か通じていて利用されていました。

 飛鳥時代より前の日本の道路は基本的に歩道で、馬車・牛車などが通れる石畳の舗装路はありません。車輪を使った輸送手段が実用化されるまでは重いものは船で運んだのです。日本には舗装路の整備と軌を一にして車輪の技術が伝来し、その後、陸上輸送は飛躍的に進歩しました(第43回ブログ)。

 『日本書紀』の雄略紀(475年頃)には、
 <呉の客の道を為(つく)りて、磯歯津路(しはつのみち)に通ず。呉坂(くれさか)と名(なづ)く>
とあり、住吉津から東へと向かう、今の国道479号に相当する道を敷設したようです。

 475年といえば、技術革新の5世紀です。
 国産鉄器も相当量が出回るようになり、渡来人によって進んだ土木技術が伝えられ、道路建設も進んだのではないかと想定されます。したがって、この雄略紀の道路建設が絶対になかったとまでは言えません。
 ただ、文献上の記述を証明する道路の遺構というのはなかなか発見されないので、その頃の実像はなかなかつかめないのが実態です(第44回ブログ)。

 大和盆地にも本拠を置きつつ河内にも進出した5世紀のヤマト王権は、石川と石津川の間の段丘にある広大な未開拓地に目をつけ、そこが双方の拠点を結び往来が頻繁な場所であることを重要視して、みずからの墓域を古市と百舌鳥原に設けたということでしょう。
 これが、大和盆地から遠く離れた河内・和泉に大規模古墳群を設けた理由ではないか。筆者の見解はシンプルです。

 

古市古墳群・百舌鳥古墳群出現の国際的背景
 両古墳群出現の背景として、まずは、第115回~117回ブログで確認した東アジアの国際情勢が挙げられます。
 以下は、繰り返しになりますが、もう一度総括してみます。

 4世紀になると、東アジアでは北方遊牧騎馬民族・高句麗の南下という大きな波が起こります。
 これは朝鮮半島南部の百済や新羅にとって、国家存亡の危機でした。この時、高句麗に従属して生き延びようとした新羅に対し、百済はあくまでも対抗すべく日本に接近し、一方、日本も鉄資源や先進的文物などを朝鮮半島に頼っていたことから百済の要請に応じ、本格的に半島に関与するようになります。

 このような国際情勢の変化に「おおやまと」の王権では対応できず、それ以前からヤマト王権内部で、朝鮮半島との外交や交易を担い、軍事・交易・先進文化に強い志向があった「さき」の王権が、南山城、摂津、河内北部を含む木津川・淀川水系の広域政治集団と連携し、朝鮮半島に関与するようになります。

 さらに、4世紀初めから半ばにかけて存在した玉手山古墳群と松岳山古墳群を築造した南河内勢力が衰退したあと、4世紀末頃から、「さき」王権の分派が、朝鮮半島との通交にあたって、瀬戸内海東部と大和川を本格的に利用すべく河内に進出したと思われます。

 そして、河内にも拠点を築くとともに、5世紀を通じて河内平野の開発に全力を挙げます(第102回ブログ)。

 王権の所在地(王宮)が河内に存在したのは一時的と思われますが、この地域では土木工事や生産基盤の整備が精力的に行われ、先進地域として5世紀の日本を牽引していきます。

 

技術革新・文明化の進展
 東アジアの国際情勢の大きな変化に伴い、ヤマト王権が河内・和泉に進出することになったが、その影響は単に政治的な変化に止まりませんでした。

 先進技術・文化の流入
 この時代には朝鮮半島から多くの人材が渡来し、鉄器生産、織物、皮革、土木、須恵器生産、さらには文字の使用を はじめ多様な文化・学術・思想などが伝えられた。

 馬の導入
 高句麗戦争に臨んで、騎馬文化を持たない日本は、騎馬戦術や馬具の生産技術・ 馬の生産などを一から学ぶ必要を痛感した。百済は自国の存亡にも関わる問題なので影響下にある加耶諸国も含めて積極的に技術者を送り、馬に関する技術や情報を日本に伝えた。

 渡来人の集団定着
 4世紀後半以降、多くの渡来人が日本にやってきたことは、彼らが持ち込んだ 韓式系土器が広く分布していることからも確認できる。その分布が最も濃密に見られるのは河内平野。
 まさに多くの渡来人を受け入れ、先進文明の先端を担っていたのは河内平野だった。葛城から飛鳥付近にもその痕跡が多く残されているが、大和盆地の西部や北部ではそれほどの顕著さは見られない。

 以上の内容は、「技術革新の5世紀」を語る核心でもあるので、以後のブログで詳細に言及するつもりです。

 

参考文献
『倭国の古代学』坂靖
『古墳解読』武光誠
『倭国 古代国家への道』古市晃
他多数