理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

123 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(2) 

 前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。

5世紀の大王の政治拠点
 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ)ので、念のため、それぞれの政治拠点を確認してみます。

 仁徳は、難波高津宮を本拠にしたと記されているので河内に親和性が高いものの、大和盆地の磐余(倉橋山)にも拠点があったらしいことは前回のブログで述べました。つまり河内の高津宮だけが仁徳の居所ではなかったと思われるのです。陵墓は百舌鳥野または毛受之耳原と記されています。

 履中は、『日本書紀』によれば磐余稚桜宮で即位し、磐余に都をつくり、磐余池をつくり、石上溝を掘ったとあります。磐余池は、第54回ブログで述べたように、履中が両枝船(ふたまたぶね、両股船)を浮かべて遊宴した市磯池のことです。やや時期はくだるが、6世紀に築造されたダム式溜め池の堤の遺構が発見されていて、これが桜井市池之内から橿原市池尻にかけて存在した市磯池と推定されています。
 また、住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)と戦った際、石上神宮を軍事拠点としたことから、履中の拠点は「ふる」地域にあったと考えられます。ちなみに『日本書紀』は磐余稚桜宮で亡くなり、百舌鳥耳原陵に祀られたとも記しています。

 反正は履中の次に皇位を継承したとされ、河内の丹比に都(柴籬宮)をつくったと記されています。ただし現時点では、丹比の地で5世紀代の遺構・遺物の出土がほとんどないのが懸念事項です。陵墓は百舌鳥にあり、『延喜式』では百舌鳥耳原北陵としていて、それは田出井山古墳(墳長148メートル)という規模の小さな古墳に該当するらしい。

 『日本書紀』には、允恭がたびたび茅渟宮(ちぬのみや、大阪府南部)に行幸したという記載があり、允恭は百舌鳥と親和的と言えそうです。
 一方、同じ『日本書紀』からは允恭の王宮は飛鳥一帯にあったことが見てとれ、允恭が盟神探湯(くがたち)を行なった場所も飛鳥甘樫丘です。『古事記』にも遠飛鳥宮という記載があり、王宮は飛鳥にあったと思われます。
 その飛鳥の藤原宮下層遺跡からは5世紀後半の独立棟持ち柱をもつ大型建物が確認されています。6世紀に同地で表舞台に登場する大伴氏の祖先筋との関連があるのかもしれません。陵墓は南河内郡の長野原と記されています。

 安康は物部氏の居宅で木梨軽皇子を殺害した後、即位して都を石上に遷し、穴穂宮とした。木梨軽皇子の始末(自殺か?)に功のあった物部氏(この時点では物部氏というよりは「ふる」の勢力と称すべきか)の招きに応じて布留遺跡内に支配拠点を構えたとも考えられます。陵墓は奈良市の菅原伏見。

〇 雄略の拠点は大和の磯城にあり、泊瀬(初瀬)朝倉宮で即位。陵墓は丹比。

 こうしてみると、『記・紀』で王宮と陵墓がともに河内に存在するのは、仁徳と反正の二人だけなので、『記・紀』編纂の時点では政治拠点と埋葬地が必ずしも一致しないという伝承が残っていたのでしょう。
 ということは、大和盆地に拠点をもつ大王が河内平野に巨大古墳を築くこともあったことになります。河内王権論(第102回ブログ)は根拠を失ってしまいますね。

 一方、以上の政治拠点を前提に、その近くの古墳を埋葬地とする説があります。
 例えば、上町台地に拠点があった仁徳の陵墓を大仙古墳に比定、反正は仁徳の外交を引き継いだことから、仁徳と同じ百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳に比定、政治拠点が石上であった安康の陵墓は、近くの佐紀盾列古墳群のヒシャゲ古墳に比定するといった塩梅です。

 しかし、そうすると大王位を継承するたびに古墳の所在地があちこちに動いてしまいます。
 筆者は思うのです。4キロ四方など一定の範囲に、数十年間にわたり継続して築造された古墳群は、同一勢力の代々の墓域ではないのかと……。

 

古墳のあり様から王権のかたちを推定する
 5世紀には、外交、軍事の面を担当した古市の勢力と百舌鳥の勢力が交互に大王の地位につく体制が出来上がっていたという見方もあるようです。

 例えば田中晋作氏は次のように述べています。
〇 百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団は、同一、もしくは極めて親密な関係にあったと考える。大阪南部という狭い範囲に、対立関係にある、あれだけの勢力は並び立たないだろう。
〇 彼らは、形状や機能が統一された武器によって武装する軍事組織を編制する条件を整えていた。武器の生産は百舌鳥・古市古墳群のもとで独占的に行なわれていた。
〇 佐紀古墳群の勢力がもっていた生産拠点は佐紀遺跡など、おおやまと古墳群の勢力が持っていた生産拠点は纒向遺跡や布留遺跡であったように、古墳群のあるところが勢力の中心地と考えるが、今のところ具体的な生産拠点の遺跡は分かっていない。
 以上のように述べています。

 そう言えば、第120回ブログで紹介したように森浩一氏も「百舌鳥古墳群と古市古墳群を別のものと考えず、広範囲の地域が予め設定され、一大古墳群となるはずの同一墓域だった」という仮説を提示していましたね。

 広瀬和雄氏も、古市古墳群と百舌鳥古墳群を築造した二有力首長が、津堂城山古墳、上石津ミサンザイ古墳、仲津山古墳、誉田御廟山古墳、大仙古墳、ニサンザイ古墳、岡ミサンザイ古墳の順で、輪番的に大王位を世襲した、と言います。

 しかし筆者には、両古墳群の被葬者集団がそんな平和的・共存的な関係であったとは到底考えられません。
 『記・紀』の記述からは、双方の勢力の間には大王の地位を巡る激しい鍔迫り合いがあったと思われます。それが古墳の巨大化競争を招来したに違いありません(第104回ブログ)。

 
 やはり、一定の範囲に、数十年間にわたり継続して築造された古墳群は、どうしても同一勢力の代々の墓域と考えざるを得ません。
 多くの研究者は、考古学の観点や「倭の五王」の記述から古墳の被葬者を比定していますが、筆者は、古市晃氏や武光誠氏が描く履中系vs允恭系の対立という観点から被葬者を比定することに共鳴するものがあります。
 それをスタディしてみると……。

 河内・和泉の巨大古墳群では次のような「連続的な築造期」「築造がない空白期」が確認できます(第121回ブログ)。

 古市古墳群は370年から440年までと480年から500年頃までに築造。440年から480年までは巨大古墳の空白期。

 百舌鳥古墳群は430年頃から480年までの約50年間に限り築造。

 ここから、無理を承知で『記・紀』に記された大王に当てはめてみると……。
 古市古墳群では370年から440年の間に応神、仁徳、履中、反正と履中系の古墳が連続して築造される。
 百舌鳥古墳群では430年頃から480年まで允恭、安康、雄略、清寧と允恭系の古墳が築造され、允恭系が断絶した480年以降に、古市古墳群で再び履中系の市辺押磐皇子、飯豊青皇女、仁賢らの古墳が築造されたと推定できます。

 5世紀のヤマト王権は決して一枚岩であったわけではなく、5世紀半ば頃の安康・雄略の時代には允恭系の攻勢によって履中系は低迷し、5世紀末に近づく頃、允恭系も後継者不在により途絶えたため、480年頃になると履中系が復活するという前回ブログの想定が古墳の所在地からも裏づけられるわけです。

 しかし、この場合、巨大古墳の築造順が上石津ミサンザイ古墳(百舌鳥)、誉田御廟山古墳(古市)、大仙古墳(百舌鳥)であることと整合しません。

 5世紀の巨大古墳は大王が生前に築造した寿陵か、死後に次の大王によって築造されたかによって、『記・紀』から導かれる大王の没した時期と古墳の築造時期にズレが出てしまう可能性もあり、なかなかややこしい……。

 以上とは無関係に、筆者が当て勘で考える大王墓は、古墳の築造順序と『記・紀』における大王位の即位順を崩さないことを前提としたうえで、河内との親和性を考慮して仁徳については上石津ミサンザイ古墳(420年、百舌鳥)に比定せざるを得ないが、履中は誉田御廟山古墳(440年、古市)に比定、允恭は大仙古墳(450年、百舌鳥)に比定、安康は不明ですが、雄略は土師ニサンザイ古墳(480年頃、百舌鳥)に比定したいですね。

 このように比定すれば、履中系は古市古墳群を墓域とし、允恭系は百舌鳥古墳群を墓域とすることとも整合します。しかし、これも当て勘だけあってスッキリはしませんね。そもそも、前提となる彼ら大王の実在に確証が得られていないわけですから。

 

5世紀までの大半の古墳は被葬者が不明
 古市古墳群では、誉田御廟山古墳が出現する前の津堂城山古墳(370年頃)、仲津山古墳(400年頃)、墓山古墳(420年頃)が誰の陵墓なのか、まったく不明です。

 また、崇神・垂仁・景行の三輪山三代(第10代~12代)の古墳を渋谷向山古墳までとして、仁徳(第16代)を仮に上石津ミサンザイ古墳と比定すれば、その間の3代の古墳は佐紀盾列古墳群の宝来山古墳(370年頃)、五社神古墳(400年頃)あたりが該当するのかもしれない。

 いや、『記・紀』に記された大王名だけにとらわれてはいけない……。その他に膨大な数の王族がいるので、彼らのなかにも巨大古墳に祀られたものもいるでしょうから。

 大和盆地や河内平野を拠点としたヤマト王権の王は確かに存在したが、6世紀頃までの系譜は「体系的な文字の使用」(第9回ブログ)が始まっていないため、きちんと伝承されなかったと思われます。
 それでも、何人かの大王や有力な王族の名や事績に関しては「ことば」による伝承があって、これらをもとに7世紀初め頃から王権の系譜の形にまとめていったと思われます。しかし、そこにはかなり強引で恣意的な造作もあったのではないか。

 継体(第26代)以降は、系譜の信頼性は高くなるが、崇神(第10代)から武烈(第25代)までの4、5世紀のヤマト王権の大王の系譜は信頼性が低く、後世に創作された大王もいれば、7、8世紀の王権の都合で消されてしまった大王もいたのではないでしょうか。

 例えば、履中の子である市辺押磐王は、「市辺宮治天下天万国万押磐尊」や「市辺天皇命」という称号が『日本書紀』などの古文献に見られるので、実質的に大王だった可能性もあります。

 飯豊青皇女(忍海郎女)も顕宗の前に国政を行なったとも伝わるので、事実上、大王位にあったかもしれません。

 また、仁徳と争ったかもしれないウジノワキノイラツコ(400年頃)や、允恭の長男の木梨之軽皇子(450~460年頃)も、一時期、大王位にあったとしても不思議はありません。
 『記・紀』の大王系譜では、特に、成務・仲哀から応神・仁徳までが怪しく、また、雄略の次に王位についたとされる清寧から武烈に至る系譜も、物語的な要素が多いので、どこまでが史実か疑問が残ります。

 ただ、少なくとも、雄略亡き後、実力ある人物に恵まれず、允恭系は清寧を最後に、履中系は武烈を最後に、両王統が実質的に断絶してしまったことだけは史実と言えそうです。

どうやっても矛盾は解消されない!
 『記・紀』に記された5世紀の大王の陵墓を大規模古墳のそれぞれに比定する試みは、多くの研究者によってさまざまな観点からなされてきました。

 大王の在位時期を「倭の五王」の遣使時期(第118回ブログ)から推定していずれかの巨大古墳に紐づける。

〇 考古学の成果からほぼ明確になった巨大古墳の築造順序を基に『記・紀』の大王と関連づける。

〇 大王墓は巨大古墳という大前提を外さない。

 『古事記』に記載された大王の没年から大王墓を推定する。

 大王の王宮所在地の近傍に陵墓が存在すると仮定して大王墓を推定する。

 しかし、どう捏ねくり回しても矛盾が残ってしまいます。

 

結局のところ……
 大きく言えば、大王の墓と考えられる巨大前方後円墳は、3世紀半ば過ぎから4世紀中頃には、すべて大和盆地東南部のいわゆる「おおやまと古墳群」に築造され、4世紀前半から後半には、大和盆地北部の「佐紀古墳群」に築造された。 

 ところが4世紀末以降から5世紀末頃には、隔絶した規模を持つ巨大古墳は大半が河内・和泉の古市・百舌鳥古墳群に築造されるようになります。
 そして、やがて大王墓は大和盆地へと回帰していく……。

 このことをどうとらえるべきでしょうか。

 古墳築造地域が大和盆地から河内・和泉に移動した理由は研究者によって諸説がありますが、大きくは次のようなものでしょう。

 河内地方に興った新勢力が大和の勢力と対立し交代したとみる王朝交代説

 大和・河内の勢力が対立したのではなく、両者で一体化したと見る説。

 大和・河内・和泉の豪族から成る連合政権の間で、盟主権が大和の勢力から河内の勢力に移動したという盟主権交代説

 王朝交代説では、応神天皇以下の4代、仁徳・履中・反正を河内王権の王としていますが、依然として墳形は大和盆地で継続された前方後円墳で、祭祀に鏡や玉などを伴うことから、考古学的には王権の交替を証明できないでしょう(第101回ブログ)。

 連合政権内部での盟主権交代説は、巨大古墳群が大和から河内・和泉へ移動した後、再び大和へと移動していることについて、それぞれの地域の大豪族が持ち回りでヤマト王権の盟主権を掌握したというのですが、それでは、王族と異なる彼ら大豪族とはいったい誰のことを指すのでしょうか。それに対する合理的な解に接したことはありません。

 筆者は、ヤマト王権が内部に対立を抱えながらも、瀬戸内海東部地域との通交優位という地政学的メリットを求めて一時、河内に重心を移したが、百舌鳥古墳群と古市古墳群の時代も政権の居所は大和盆地東南部にあったと考えます(第101回ブログ)。

 ヤマト王権の本拠地は5世紀を通じて大和盆地にあったので、允恭の頃から本拠を出先の河内平野から大和盆地に戻したというわけです。

 大和盆地にも本拠を置きつつ 地政学的な理由から河内にも進出した5世紀のヤマト王権は、石川と石津川の間の段丘にある広大な未開拓地に目をつけ、そこが双方の拠点を結ぶ往来が頻繁な場所であることを重要視して、みずからの墓域を古市と百舌鳥原に設けたということでしょう(第120回ブログ)。

 これまで確認してきたように、筆者は、ヤマト王権の王は5世紀を通じて、大和盆地東南部、北部、河内・和泉の各地に存在し、王の中の王、つまり名実ともに大王と呼べる存在はなかったのではないか、と考えます。

 石津ミサンザイ、誉田御廟山古墳、大仙古墳という王の中の王、大王を彷彿とさせる超巨大古墳が築造される時でも、短期間にこれら3つが相競うように築造されているのですから。

 以上の想定は今後のブログで逐一確認していきます。

 

第120回~122回ブログで確認できたこと
 第120回ブログ以降、5世紀の大王墓を実在する古墳に比定すべく種々考えてきましたが、結論としては、『記・紀』に記された大王の即位順序と古墳の築造順序が逆転したり、大王の在位時期と古墳の築造時期に大きな齟齬が見られるため、さらにもっとも肝心なことは『記・紀』に記された個々の大王の実在に疑問があるため、この作業はどうみても完結しないと思うに至りました。

 これは、『記・紀』が編纂された当時、すでに過去のものとして忘れられていた巨大古墳を、天皇家みずからの祖先のものとして、実在があやふやなまま個々の大王に強引に結びつけてしまったことに原因があると思われます。
 7、8世紀の人びとが伝承を後づけしたということでしょう。

 第83回ブログでも、出土した考古遺物や遺跡を、『記・紀』に記された3~5世紀における特定の大王や特定の氏族や特定の歴史的な出来事に結びつけるのは無意味なことが多いように思われると記しました。今回、みずから作業してみてまさにそのことを痛感、再認識しました。
 今後、宮内庁指定の陵墓が発掘されるなど新たな考古学的発見がない限り、もはやその詳細は不明であり、詮索もほどほどにすべきかと考えます。

 明確に言えることは、5世紀と言う時期は、『記・紀』が描くような、すべての大王が血縁によってその地位を安定的に継承する状況とはほど遠かったということでしょう。

 佐紀・馬見・古市・百舌鳥の4古墳群を築造した集団が並行して存在(第121回ブログ)し、つまり常時3つから4つの王族集団が並立し、彼らは外に対しては基本的にヤマト王権の代表として協力して統治に臨む関係にあったが、一方で大王の地位をめぐって厳しく対立する状況も存在したと捉えるべきでしょう。
 前述したように、仁徳・履中と受け継がれる系統と、允恭に始まる系統の並立・対立については、『日本書紀』では血を血で洗うような迫真の攻防の連続として描かれていて、「5世紀の王権のかたち」を論じる際に無視できません。

 また、菱田哲郎氏の次のような言にも耳を傾けるべきと思います。そうしないとこの謎解きは永遠にできないのではないか……。

 <考古学の立場からは記紀の記載との関係を顧慮することなく、大王墓の研究が進められ、結果として同時期における最大級の古墳を大王墓の措定する見方が一般的になっている。ただし、この前提もはたして確実かどうかも疑ってみる必要があろう>。

 <むしろ、大王墓であっても、比較的規模の小さい古墳になる場合があると考えた方が合理的ではないだろうか>。

 

『古事記』に見る大王の没年
 『古事記』に紀年の記述は無いが、分注として一部大王の崩年干支(没年干支)を記しています。今後の論考でも役に立つと思われるので、備忘録として下記に書き留めておきます。

応神(第15代)・・・394年(甲午)
仁徳(第16代)・・・427年(丁卯)
履中(第17代)・・・432年(壬申)
反正(第18代)・・・437年(丁丑)
允恭(第19代)・・・454年(甲午)
雄略(第21代)・・・489年(己巳)
継体(第26代)・・・527年(丁未)

 

 次回から、5世紀のヤマト王権とつかず離れずの関係を維持し、王権と並び立つとまで言われた「かづらき」の勢力について言及します。

 4世紀半ば頃までのヤマト王権は「ふる」地域や「わに」地域の王の協力を得ながら大和盆地北部から南山城、京都盆地、丹後へと続くルートで日本海、九州北部へアクセスしました。彼らは、後に物部氏や和珥氏となる勢力です。

 4世紀末になると、ヤマト王権は河内に進出しますが、そこで王権の発展に大きな影響を与えたのは、何と言っても葛城氏をおいて他にはありません。もちろん、紀の勢力や大伴氏、また本貫地が河内平野の渋川にあった物部氏も、葛城氏に次ぐ貢献をしました。

 5世紀のヤマト王権は葛城氏の興亡とともに推移したと言っても過言ではありません。

 

参考文献
『倭国 古代国家への道』古市晃
『倭国の古代学』坂靖
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
『古墳解読』武光誠
『古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎』古川順弘
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『謎の豪族 葛城氏』平林章仁
『古代天皇陵の謎を追う』大塚初重
『天皇陵古墳への招待』森浩一
『天皇陵の謎』矢澤高太郎
『前方後円墳の世界』広瀬和雄
他多数