理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

125 「かづらき」地域集団と葛城氏(2)

 大和盆地という内陸に拠点を置いた葛城氏にとって、瀬戸内海の自由往来が困難だった5世紀までは、日本海側に出ることや九州北部地域に到達することは重要な政治課題でした。
 彼らは、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることでこの障害を克服し、自らの勢力を拡大します。

大和川舟運と峠越え
 日本海側に出ることが重要な課題だったのは、ヤマト王権も同様で、第45回ブログでは、ヤマト国がヤマト王権へと変容することを可能にした大きな理由は河川を利用した交通アクセスの掌握で、そのルートは2つ存在したことを確認しました。

 第1段階 大和盆地~木津川~山城~丹後(「さき」王権が「ふる」「わに」の勢力と連携)

 第2段階 大和盆地~大和川~河内~東部瀬戸内海~(河川や川沿いの道で北上)~伯耆・出雲(「さき」王権ならびに河内進出後の王権)

 いずれにせよ、5世紀までのヤマト王権にとって、九州北部・朝鮮半島へのアプローチは日本海ルートが中心です。

 では葛城氏はどのようにして海に至り海外へ雄飛したのでしょうか?

 河内湖に注ぐ大和川は、大和盆地内で多くの支流に分岐しますが、それら支流のうち、葛下川・高田川は葛城北部の馬見古墳群のある領域まで通じ、葛城川は葛城南部地域(葛上郡)まで通じていたので、彼らは大和川舟運で河内に出られた可能性はあります。
 ただし、金剛山地と生駒山地に挟まれた大和川の狭窄部である亀の瀬峡谷(第45回ブログ)は流れが速く、岩礁も多かったので舟を通すのは困難で、その間は陸路でバイパスすることになりますが……。

 このルートの障害は、すでに5世紀頃には大和川下流域の河内を拠点としていた物部氏(の前身集団)の存在です(第102回ブログ)。
 物部氏はさらに、5世紀後半の頃(物部連目・もののべのむらじめ)から6世紀の継体大王の頃(物部麁鹿火もののべのあらかひ)までに「ふる」地域に進出しているので、その先祖筋はもう少し早くから「ふる」地域に勢力を張っていた可能性があります。
 こうして物部氏は、大和川の上流域と下流域を押さえることになり、葛城氏にとって大和川舟運の自由な利用には少なからず障害があったと思われます。
 現に、葛城氏が大和川舟運を利用したという直接的な史料はありません。

 そこで、葛城氏は主として葛城・金剛山地を越える陸路を活用したのではないかと、筆者は推定します。
 葛上郡から標高517メートルの水越峠を越えれば富田林のあたりで大和川支流の石川上流域に出るので、そこから舟運で河内に出たか、そのまま陸路で住吉津か難波津まで進むというものです。
 また馬見古墳群からは、標高286メートルの竹内峠(第110回ブログ)を越えて竹内街道に沿って進めば石川下流域から大和川に至るのでそこから舟運か陸路で大阪湾に達することができます。
 葛城氏は物部氏と競合しないように、もっぱら水越峠越え・竹内峠越えの2つのルートを利用したのではないか。このルートはおそらく葛城氏の専売特許だったことでしょう。

 葛城氏にとってはもう一つ、葛上郡から南へ向かう紀ノ川ルートも魅力的でしたが、これは紀ノ川下流域と大和盆地の橿原付近の双方に拠点があった王権傘下の大伴氏(第79回・第89回ブログ)とバッティングします。
 大伴氏は瀬戸内海各地に勢力を伸ばしたいという思惑を持っていたため、「紀伊水門」を抱えていた紀氏と連携し、摂津から和泉の大鳥地方までを拠点としていました。

 

紀水門と紀ノ川ルート
 前節で述べたように、葛上郡から河内へ向かう場合、水越峠を越えて石川沿いに行くのが最短距離ですが、葛上郡から紀淡海峡に出る場合は、風の森峠を越えて紀ノ川を西進し、紀伊水門(きのみなと)に向かいます。風の森峠越えと言っても、標高はわずか259メートルなので水越峠越えよりもはるかに容易です。

 「紀路に入り立ち真土山」とうたわれた真土峠を下れば紀ノ川沿いの道を西進するだけです。もちろん、紀ノ川水運も葛城氏が使用した重要な交通網でした。

 
  <雑誌から>

 第44回ブログで、5世紀頃の道路建設について言及しましたが、近江俊秀氏は幸運にも古墳時代につくられた葛上斜向道路の痕跡を発見しました。
 氏によれば、それは葛城氏の本拠地を通る道路で、7世紀半ば以降の官道と同じような工法で、軟弱な地盤の箇所は土の入れ替えや砂を入れたりして、崩れにくくぬかるみにくくした本格的な道路だと言います。

 葛城の地と紀ノ川沿いの集落とは、葛城氏が誕生する前から交流があり、往来を繰り返すうちに自然に道ができたのでしょう。葛城氏はその自然発生的な道に手を加え、必要物資を安定して輸送できる堅固な道路に改造したのです。

 前回のブログで確認したように、葛城氏は本拠地の南郷遺跡群に多くの渡来人を住まわせて製鉄に注力したので、鉄製品の自己調達に秀でていました。道路工事用具の先端に鉄製のU字刃を取り付けるだけで、道路建設の効率が飛躍的に高まったと思われます。

 
  <雑誌から>

 葛城氏がヤマト王権を凌ぐほどの勢力に成長した理由の一つが、葛上斜向道路の建設にあるとも言われています。その理由は……。
 葛上斜向道路は、紀伊水門から、葛城氏の本拠地を経由して大和盆地の泊瀬(雄略の宮)に通じていました。
 ヤマト王権にとって、紀伊水門は難波と並ぶ外交の窓口で、シナ・朝鮮半島・山陰・吉備・瀬戸内海東部地域からもたらされた文物は、紀伊水門で陸揚げされて大和へ運ばれるはずなのに、葛城氏がみずからの本拠地に取り込み力を蓄えてしまったのです。葛上斜向道路は葛城氏の隆盛を支える大動脈だったと言えます。

 葛城氏の隆盛を支えた交通路として、琵琶湖水運や息長氏・和珥氏・尾張氏との連携を挙げる論考もありますが、どこまでの実態が語れるのか、筆者は懸念を抱いています。

 5世紀のヤマト王権は難波津を直接支配し、大和川流域を押さえた一方で、紀伊水門から大和へ向かう道路には手が出せず、ほとんどの文物が葛城氏の手中に取り込まれてしまったというわけです。
 やがて雄略による攻勢で、5世紀の後半、葛城勢力は衰退しますが、同時にヤマト王権は、葛城の地を経由しない巨勢道を開削し、紀伊水門から最短で大和に至るルートを確保します。

 

紀勢力との親密な関係
 葛城氏が葛上斜向道路を十二分に活用するためには、第111回ブログで言及した紀ノ川下流域の有力集団、紀氏との連携が欠かせません。
 ここで、紀氏のヤマト王権におけるポジションと葛城氏との密接な関係について確認してみます。

 第98回ブログで述べたように、「神武東征神話」では、紀ノ川河口で神武の兄であるイツセノミコトを失い、「神功の三韓征伐物語」では仲哀が紀伊の徳勒津(ところつ)から出発しています。
 この2つは史実ではありませんが、5世紀後半のヤマト王権が国土統一や外征にあたって、紀ノ川河口部の紀伊水門を拠点としていた歴史的事実をモチーフとしていることは間違いありません。
 ヤマト王権がいまだ大和盆地やその周辺の河内・和泉・摂津・近江一帯だけを支配していた時代に、紀伊国北部は王権を支える重要地域でした。

 ヤマト王権が国内統一や外征にあたって紀氏の果たした役割は非常に大きかったと考えられます。そのことを端的に示す伝承が武内宿禰(たけのうちのすくね)伝承で、紀氏は、蘇我氏、平群氏、巨勢氏、葛城氏らとともに、タケノウチノスクネの後裔を称する氏族で中央豪族として活躍します。

 『日本書紀』では、景行の代理で武雄心命が紀伊国で祭祀を挙行した際、紀直(きのあたい)の祖先の兎道彦(うじひこ)の娘・影媛を娶って生まれた子がタケノウチノスクネとされています。

 『古事記』では孝元の時代に似たような記述があります。武雄心命が紀氏出身の影日売との間にタケノウチノスクネをもうけ、タケノウチノスクネは紀氏出身の宇乃媛との間に紀氏の直接の祖とされる木角宿禰(きのつぬのすくね)をもうけたとしていて、タケノウチノスクネは母・妻がともに紀氏出身の女性ということになります。
 また、タケノウチノスクネは葛城葛比売を娶って葛城長江曾都毘古(葛城襲津彦)をもうけていることから、系譜上は葛城襲津彦と木角宿禰は異母兄弟という関係になります。

 史実は疑わしいものの、こうした系譜が残されているということ自体、葛城氏と紀氏の親密な関係が浮かび上がるというものです。
 葛城氏の本貫地である葛上郡に、紀氏の有力な同族が居住していることが両氏の特別な関係を示しているという論もあります。


<武内宿禰の子孫系譜>

 

外征軍の主力としての紀氏
 紀伊国の「一宮」に、難読社名の伊太祁曽神社(いたきそ)があります。
 祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)で、由緒書には「紀伊国祖神(木の神、いのち神、浮玉の神)」とありますが、その伝承は極めて興味深いものです。

 伝承ではイソタケルはスサノオの子神で、「木の神」とされる。

 『日本書紀』一書第4によれば、イソタケルはスサノオとともに新羅の曾尸茂梨(そしもり)に降臨し、80種の樹木の種子を持ち帰り、日本中に播いて最後に紀伊国に落ち着いた。そのお蔭で日本は緑の豊かな国になったという。
 和歌山県は「木の神」が鎮まる国ということで「木の国」と呼ばれていましたが、奈良時代に国名は二文字にして雅字を充てるという勅令が出され、「紀伊国」になったわけですね。

 また『日本書紀』一書第5の中で、スサノオは金銀財宝を運ぶために、髭を抜いて杉とし、胸毛を抜いて檜とし、尻毛を槇とし、眉毛を楠とした。そして「舟(浮宝)は杉と樟(くすのき)、棺は槙、宮は檜で作れ」と言っています。この言葉は古代の舟づくりの勘どころを見事に表しています。

 実際、農作業に使われる簡単な舟はおもに杉、物資運搬用の堅固な舟にはクスノキが使われたことが分かっています(第51回ブログ)。こうしたことから当社ではクスノキを航海安全の守り神「浮宝の神」として祀っています。


<紀伊国一宮・伊太祁曽神社の社殿(左は中門、右は本殿・脇殿)>

 以上の伝承からも知られるように、和歌山がクスノキなどの木材に恵まれていたことから、紀氏は外洋航海に耐えうる準構造船(第54・55回ブログ)を建造し、さらにその大型船にみずから乗り込み瀬戸内海の要衝をおさえ、葛城氏とともにヤマト王権の外征軍の主力になったと推定されます。

 朝鮮半島では紀氏の多くが将軍として活躍したと思われますが、実在の可能性があるのは、『日本書紀』465年、雄略大王に新羅征討を命じられた親子です。

 紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、紀大磐宿禰(きのおおいわのすくね)の2人ですが、オユミノスクネは大将軍として活躍するも現地で病没し、オオイワノスクネは父の死を受けて現地に向かったが、独断的な行動で蘇我氏らと内紛を起こして新羅征討は失敗してしまいます。

 オユミノスクネの喪に際し、大伴室屋を通じて埋葬場所を打診したところ、雄略大王は新羅での活躍を評価して田身輪邑(たむわのむら、淡輪の地)に葬らせたとされています。

 その田身輪邑とは大阪府泉南郡の淡輪古墳群(たんのわ)のことで、そこには紀氏の勢威を物語る2基の巨大前方後円墳があります。

〇 西陵古墳(210メートル、5世紀半ば)

〇 淡輪ニサンザイ古墳(172メートル、5世紀半ばから後半)

 淡輪古墳群南側の紀ノ川北岸には木ノ本古墳群があります。
 紀ノ川北岸部で最終的に築造されたのが大谷古墳で、雄略の没後間もない時期の築造と思われます。日本での出土がほとんどない朝鮮半島製馬具(馬胄・馬甲)が出土しており、その他多くの出土品からみて、紀氏と朝鮮半島との密接な関係が裏づけられます。

 以上の考古学的な知見から、紀ノ川下流域を支配し、河口部北岸を外交上の外港として流通拠点を確保し、船舶の建造も手掛けた紀氏が、朝鮮半島に雄飛し、淡輪古墳群・木ノ本古墳群・大谷古墳などに墳墓を築造したことは事実と考えられます。

 同時に、その背後に瀬戸内海航路の要衝をおさえた吉備氏の存在があったことも見過ごせません。

 ヤマト王権にとって、なかんずく葛城氏・吉備氏と対立し反乱を抑えた雄略大王にとって、どのように紀氏の力を抑えるかが課題でしたが、墳墓の築造で懐柔した(前述)ことが功を奏して紀氏の反乱は生じなかったとされています。

 

紀氏を隆盛に導いた流通拠点
 ヤマト王権は、国土統一や外征のために兵員の派遣だけでなく、大量の軍需物資を輸送したり、河口で準構造船に積み替える必要があり、そのための施設を和歌山市善明寺にもうけました。鳴滝遺跡です。
 5世紀前半から中頃までの鳴滝遺跡は、紀氏の流通拠点であると同時に、紀氏の支配地域にありながらヤマト王権軍の軍事施設でもありました。

 紀氏は近隣の大伴氏とよく連携し、奉仕するヤマト王権は当然として、他にも葛城氏、吉備氏とも相応の繋がりを持ち、朝鮮半島から大和盆地に運ばれる物資を陸揚げし一時的に滞留させた大規模倉庫群を管理し、流通の中間に介在することで紀氏は大きな利益をあげたと考えられます。
 葛城氏は、紀氏とつながり、紀伊水門で陸揚げされて大和へ運ばれるはずの物品も、葛上斜向道路を利用してみずからの本拠地に取り込み力を蓄えてしまったというわけです。

 紀氏には紀ノ川北岸勢力の他に南岸勢力が存在しました。
 もともとはひとつで、部族同盟を形成していましたが、北岸勢力は、前述のように、紀ノ川河口部から沿岸にかけて多くの海民集団をかかえ、強力な海上交通能力と軍事力を保有していたため、朝鮮半島の通交・交易窓口としてヤマト王権とも連携し、近隣の大伴氏とも結びつき勢力を拡大したわけです。

 しかし、ヤマト王権が葛城氏を排除し、5世紀後半に物資輸送の力点を河内淀川水系に移すようになると、北岸勢力の地位は低下します。

 さらに6世紀前半、大伴金村が任那四県割譲問題で失脚(第117回ブログ)すると、北岸勢力は没落したが、6世紀終わり頃に大伴氏が復活した際、中央(大和国平群郡)に移動し、新たな紀氏(紀臣)として中央豪族となります。

 今度は南岸勢力が紀ノ川河口を掌握し、岩橋千塚古墳群(いわせせんづか)の時代につながっていきます。列島最大級の横穴式古墳群は800基以上の墳墓を擁し、5世紀中頃から6世紀末までに築造されたようです。

 彼らは一円の農地も支配したうえでヤマト王権に接近します。そして、それまで紀氏全体の土着の神(名草上下溝口農耕神)を祀っていた日前宮(ひのくまのみや)に皇祖神祭祀を取り入れます。

 6世紀のヤマト王権は、屯倉(みやけ)や国造の設置を通して、紀ノ川流域一帯に勢力のあった紀氏一族に介入します。紀ノ川南岸勢力は、紀国造になる道を選択し、8~9世紀には紀直氏(きのあたい)の名で、名草を中心とする地方豪族としてヤマト王権と濃密な関係を築いていきます(第79回ブログ)。 

 

吉備氏・紀氏との連携による海運ルートの確保
 葛城氏は、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることで、海から離れた大和盆地を拠点としていた障害を克服して隆盛期を迎えます。
 まとめてみると、以下の2つになりますね。

〇 水越峠越え・竹内峠越えの2つのルートを利用

〇 紀ノ川ルートと葛上斜向道路の利用

 葛城氏・吉備氏・紀氏は傘下に多くの海人集団(組織化された海の民)を抱えていて、それぞれが大阪湾岸地域(阿波・淡路・明石・紀伊など)に多くの拠点を確保していたほか、相互に連携もしていました。したがって葛城氏・紀氏は、瀬戸内海東部だけでなく、後には吉備氏を通じて瀬戸内海航行の自由も手に入れます。それは5世紀半ば頃までのことでしょう。

 この葛城・吉備・紀の連携が絶たれるのは雄略の代になってからですが、吉備氏の推移についてはいずれ言及します。

 

5世紀後半の朝鮮半島情勢が日本を直撃
 日本にとって5世紀の交渉相手の主体は、百済に加えて、伽耶諸国の盟主となっていた大伽耶(第116回ブログ)であったと考えられます。
 朝鮮半島では475年に百済の漢城が陥落するとともに、5世紀後半には大伽耶が最盛期を迎え、479年には百済のアシストなくシナの南斉(なんせい)に独自に通交しています(第116回ブログ)。
 これ以後、大伽耶連盟は百済と対立する方向へ舵を切っていき、朝鮮半島情勢は相当に不安定なものになります(第119回ブログ)。

 ヤマト王権の王が葛城氏などを使って個別に百済・大伽耶にアプローチしていた通交ルートは、次第に絞られ細くなっていきます。半島情勢の不安定が5世紀後半の日本を直撃します。

 このような状況を受けて、それまで緩いグリップだった通交ルートの完全掌握を目指して、雄略大王がみずからの政策に一致しない王族や豪族の排除ないしは弱体化に向けて動き出します。
 最初のターゲットとされた葛城氏は雄略の攻勢を受けて衰亡してしまいます。
 ヤマト王権の攻撃対象は葛城氏にとどまらず、吉備氏や九州北部地域、日本海側地域勢力などにも向けられますが、その推移はいずれ詳述します。

 前回に続いて2回にわたって葛城氏を取りあげましたが、ここまでで、5世紀のヤマト王権において、産業振興・軍事などの国内対応は主として傘下の物部氏・大伴氏が仕切り、王権に並ぶ勢威を誇った葛城氏は朝鮮半島での軍事・外交に特化した職掌を担っていたことを再確認しておきましょう。

 葛城氏が隆盛したもう一つの要因は王権との姻戚関係にありますが、次回のブログで確認することにします。

 

参考文献
『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『倭国の古代学』坂靖
『その後の古代豪族』長谷部将司
『葛城氏はどこまでわかってきたのか』小野里了一
『ヤマト王権の謎』古川順弘
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
他多数