理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

126 「かづらき」地域集団と葛城氏(3)

<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏>

 前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。

 今回は外戚としての葛城氏と、「かづらき」地域集団の神々について言及します。

 

大王家の外戚としての葛城氏
 近代以前の天皇は、複数の后・妃を有しており、天皇家の一族だけでなく、氏族出身の女性も多く入内しています。

 奈良時代以前に多くの女性を入内させた氏族としては葛城氏・蘇我氏・息長氏・和珥氏などが知られています。

 このうち葛城氏は、5世紀を通じて最も多くの女性を入内させた氏族で、その時期に葛城系の女性と関係しなかった大王はほとんどいません。大王家の姻族であったことがヤマト王権における葛城氏の権力の背景となっていたことは間違いありません。

 当初、葛城氏の外戚としての地位は、大和盆地北東部から南山城を基盤とした和珥氏や、山城南部から琵琶湖東岸を基盤とした息長氏よりも低かったが、『日本書紀』によれば、仁徳の頃から強力な姻族として隠然たる力を発揮していきます。これは5世紀になってからのことと思われます。

 仁徳は、応神から娶らされた髪長媛との間に大草香皇子をもうけるが、のちに葛城襲津彦の娘、磐之媛を皇后とし履中・住吉仲皇子・反正・允恭をもうけたと伝わります。このうち履中・反正・允恭が3代続けて葛城系の大王になったわけですから、磐之媛は5世紀の大王家において母系系譜の祖に位置づけられるといえます。

 次に、葛城氏の系譜を確認してみます。
 実は葛城氏に関する史料は少なく、あまり断定的なことは言えないようですが、葛城襲津彦の息子に玉田宿禰葦田宿禰という兄弟がいて、髪長媛は彼らの妹とされているようです。

 伝承によれば、履中は葦田宿禰の娘、黒媛を皇后にし、その長子の市辺押盤皇子も葦田宿禰の孫娘(蟻臣の娘)、荑媛(はえひめ)を娶り、居夏媛(いなつひめ)・顕宗・仁賢・飯豊女王(いいどよのひめみこ、飯豊青皇女とも)をもうけています(顕宗紀)。

 つまり、仁徳・履中・市辺押盤皇子と3代にわたって葛城氏と姻戚関係を結んでいることになります。
 ただし、飯豊女王(飯豊皇女、青海皇女)は履中の段では黒媛の子ともなっていて『記・紀』の系譜上では混乱しています。


 <水谷千秋氏の著作から転載>

 しかし反正・允恭は葛城系の大王でありながら、みずからは葛城勢力から妃を迎えていません。このあたりからが、葛城氏不遇の状況に繋がっていくことになります。

 その発端は、葛城襲津彦の子(または孫)とされる玉田宿禰が、反正の殯を怠ったことを理由に、允恭から攻撃を受け殺害されてしまう事件です。

 『日本書紀』によれば、允恭は玉田宿禰に、先代の反正の殯を執り行うよう命じたが、玉田宿禰は任務を怠り、葛城の地に戻って男女を集めて酒宴に耽っていた。ところが殯の準備状況を視察に来た尾張連吾襲に見つかってしまったため、允恭に報告されるのを恐れた玉田宿禰は尾張連吾襲を殺害し、武内宿禰の墓域に逃げ隠れた。その後、允恭は玉田宿禰を召し出し、なおも密かに逃亡を試みた玉田宿禰を結局は殺害した、というものです。

 このように葛城系との関係が良好でなく緊張関係にあった允恭ですが、彼が没すると、次世代の大王候補が熾烈な争いを展開することになります(第122回ブログ)。この詳細については、もう少し先のブログでも詳述する予定です。

 玉田宿禰は本拠地が葛上郡の北東部あたりにあり、御所市玉手に所縁のある人物らしい。『古事記』には葛城襲津彦の後裔氏族として、玉手臣氏の名が見られるが、これに関係するという説もあります。
 一方、芦田という地名が葛下郡に分布することから、葦田宿禰を葛城北部系の葛城氏ととらえる説もあります。

 さて、磐之媛(いわのひめ)については、史実かどうか判然としませんが、逸話に事欠きません。『記・紀』は、彼女を仁徳が手を焼くほどに嫉妬深い人物として描いています。他の妾は、仁徳の宮に会いに行けず、仁徳が宮を離れた時か、彼女が宮から出かけた時に会うしかなかったようです。

 仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売はイワノヒメの嫉妬を怖れて国に帰ってしまった(『古事記』)。

 仁徳は女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが、イワノヒメの嫉妬が強くて召し上げられなかった(『日本書紀』)。

 イワノヒメが酒宴の準備のために、料理を盛る木の葉、御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊国へ行った留守中に、仁徳が八田皇女を後宮に迎えたことを知り、彼女は激怒し採取した御綱柏をすべて海に投げ捨て、仁徳の元へ戻らなかった(『記・紀』)。

 女鳥王(八田皇女の妹)と速総別王の討伐の後、酒宴にイワノヒメが登場し、討伐を実行した武人・山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)の妻が女鳥王の腕輪をつけていることに気づき、「主君の屍から腕輪をはぎ取り、妻に与えるとは無礼だ」と激怒し、山部を死刑に処した。

 仁徳の浮気を知ったイワノヒメは実家の葛城高宮を懐かしみ、近くの筒城(筒木)に宮室を造営して以後そこに暮らし、仁徳が面会に来ても会うことはなく、筒城宮で没した(『日本書紀』)。

 イワノヒメが八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身のイワノヒメに対し、八田皇女は応神の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかという解釈があります。

 八田皇女が皇后となるのは太后イワノヒメの死後であり、4人の息子のうち3人が連続して大王に即位したことから、イワノヒメの権威は大きかったという伝承となったのでしょう。
 イワノヒメは皇族外の身分から皇后となった初例とされていて、以降は藤原氏出身の光明皇后までいません。
 『記・紀』がイワノヒメを太后・皇后と記しているのは異例のことで、5世紀後半にそういう称号はありませんが、他の妃とは隔絶した地位にあったという伝承があったのかもしれません。

 単に彼女の嫉妬深さをそのまま捉えるだけでなく、ヤマト王権における葛城氏の政治権力の大きさが、大王もままならないほど強かったことの反映と考えられます。またこれらの逸話から葛城氏の本拠地が高宮にあったことも読み取れます。

 葛城氏は大王家に妃を送り込み、ヤマト王権の中で隠然たる地位を築きあげます。しかし、前述したように反対勢力ともいえる允恭、安康・雄略の世になると、葛城氏は一挙に不遇の時を迎えてしまいます。

 葛城氏は没落し、南郷遺跡群も5世紀末以降、衰微しますが、傍系(葦田宿禰の系統)は6世紀前半まで何とか命脈を保っています。

 こうしてみると、葛城氏はヤマト王権の政治権力を掌握したが早期に没落し、その後、政治の中枢にすわった蘇我氏も反対勢力の攻撃を受けて早期に弱体化してしまいます。
 これと対照的に、古くから大王家の姻族であった和珥氏や息長氏は政治権力から距離を置き、王権に反旗を翻すこともなかったため、長く命脈を保ったたことは、特筆すべきことです。

 渡来系の集団においても、東漢氏(やまとのあや)が政治の中枢に位置したが没落も早く、一方の秦氏(はた)は政治から距離を置いて長きにわたる隆盛を謳歌したことを合わせてみれば、権力を維持し続けることの難しさを感じずにはいられません。

 次の節では、神話や神社の姿から汲み取れる葛城地域に言及します。

 

神話・神社に見る葛城地域
 平安時代の『延喜式神名帳』に記載されている神社を式内社と言います。律令制以前からの伝統を継承した神社は数多く存在しますが、なかでも格式が高く重要な歴史の持つ式内社は名神大社に指定されて特別に扱われています。

 葛城氏の本拠とされる葛上郡にある名神大社は、高鴨神社・高天彦神社・葛木水分神社・一言主神社・葛木御年神社・鴨都波神社で、なんと6社も存在します。
 ヤマト王権の本拠ともいえる大和盆地東南部ですら、名神大社は大神神社・穴師坐兵主神社など、わずかしか存在しません。
 「かづらき」地域の神々は、奈良時代から平安時代まで大きな影響力を及ぼします。

 ただし、今の神社のあり様から5世紀以前の姿を類推するのはかなり困難です。
 神社が今のような体裁を整えるのは7世紀頃からで、それまでの変遷は第16回ブログで言及した通りですが、以下に再掲してみます。

 おそらく古墳時代の前半は八百万神の祭祀が続き、ヤマト王権の勢力が拡大する5~6世紀以降に神社の生まれる素地ができ、この頃に有名古社の大半が創始された。やがて、各地の八百万の神がヤマト王権の神々の体系の中に位置づけられていった。

 地域国家の古代豪族が勢力を維持していた時代には、まだ社殿はなく祭場だけ、あるいは神の住まう山や森といった神域だけで、神域内の一定の場所に祭場を設けて臨時に神籬を立てたり、磐境で祀ったりする素朴な信仰形態だった。

 5~6世紀以降、神籬・磐境に象徴される素朴な信仰形態を脱し、仮設の神殿(本殿のみ)が設けられるようになった。仮説の神殿は、祭礼のために臨時に設置され、終わると取り壊されてしまう簡易な建物である。この時期に幾つかの名神大社では現在の神社の原形が出来上がったと思われる。

 常設の神殿(本殿のみ)が整備されるようになったのは意外にも新しく、7世紀末頃。
 『日本書紀681年に、
 <畿内(うちつくに)及び諸国(くにぐに)に詔して、天社(あまつやしろ)・地社(くにつやしろ)の神の宮を修理(をさめつく)らしむ(造営のこと)>という記事がある。

 これが常設の神殿が整備されるターニングポイント
 本格的な国家を確立する動きの中で、政治的な要請から今のような形の神社(常設本殿)が生まれたわけですね。

 おそらく、葛城氏の全盛時代には、葛城氏・鴨氏ゆかりの八百万神が仮説の神殿で祀られていたのではないか。
 困難ではあるが、現在に伝わる伝承からその頃の姿を再現することがまったく不可能ということではありません。
 ということで、「かづらき」地域の主要神社と祭神について確認してみます。

 まず高鴨神社
 御所市鴨神に鎮座し、祭神は4柱となっていますが、主祭神はアヂスキタカヒコネ神です。刀剣をはじめとする鉄製の利器を神格化した神と思われます。
 もともとは、四邑の一つ、佐糜(さび、第124回ブログ)あたりで、佐味村主氏(さびのすぐりし)や高宮村主氏(たかみやのすぐりし)を中心に南郷遺跡群の渡来系金属工人集団が信仰していた神で、次第に広く受容されて葛城地域の代表的な神として祀られるようになったようです。その祭儀は鴨氏が担いました。

 次に鴨都波神社ですが、御所市宮前町に鎮座し、祭神は事代主神です。
 この神の信仰は古く遡り、鴨氏の祖が、葛城山に天降った神を近くの円錐形の三室の小山に招き、今の鴨都波神社のある地(鴨都波遺跡)で祭祀を行なっていたと想定されます。
 鴨都波遺跡は弥生時代から5世紀過ぎまで存続した大規模遺跡で、とりわけ注目されるのは4世紀半ば頃の鴨都波一号墳で、小規模な方墳ながら、4面の三角縁神獣鏡や多量の鉄製品が副葬されています。この被葬者は後の鴨氏に繋がる人物と考えられます。そして6世紀頃には鴨都波神社の原形(仮説の神殿)が出来上がったと考えられます(第110回ブログ)。

 葛城一言主神社は葛城南部地域の地主神で、葛城氏に関係する複雑な伝承があるため、次節で言及します。

 

一言主神と雄略大王
 葛城一言主神社は御所市森脇に鎮座し、葛城地域ではもっとも重要とされる一言主神を祀っています。凶事も吉事も一言で言い放つ託宣の神とされ、現在も一言で願いを叶えてくれる神として信仰を集めています。

 しかし、一言主神は葛城氏自身が奉斎した重要な祭神とされるわりには、8世紀初めに編纂された『記・紀』の神話にはまったく登場しません。

 雄略の時代になると登場しますが、葛城氏との関係は微妙な立ち位置となっています。 

 『記・紀』によれば、雄略が葛城山中で狩猟をしていた際、自分と同じ姿の一言主神が現れ、狩猟を競います。その際、雄略と神との力関係が、時代が下るにつれ微妙に変化していきます。

 712年成立の『古事記』では、雄略と一言主神が対面する説話について、雄略が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている。

 720年成立の『日本書紀』では、同じ対面でも、雄略が物を献じることはなく一言主神と雄略がほぼ対等の立場として記述されている。一言主神がややへりくだった様子に描かれていると言えようか。

 この記述の違いについては、『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が大王家の外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城の勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表していると考えられそうです。

 797年成立の『続日本紀』では、雄略と狩りを競った高鴨神(アヂスキタカヒコネ神)が雄略の怒りをかって土佐へ流されていたが、764年の淳仁天皇の時に、土佐に使いを派遣して高鴨神を葛城の地に迎えたと記されています。

 しかし一説には、土佐から迎えたのは一言主神ともされており、また『土佐国風土記』逸文では、土佐神社の祭神は一言主神だが、一説にはアヂスキタカヒコネであるともされていて、文献上では一言主神と高鴨神との間で伝承に混乱が見られます。

 そのほかに音の類似や託宣神という性格から、一言主神を事代主神と同一視する説もあり、さらに錯綜しています。

 はっきりしているのは、時代が下れば、葛城の神といえども雄略によって流されてしまうという情けない説話に変化していくことです。

 さらに時代が下り、822年成立の『日本霊異記』では、一言主神は役行者によって葛城山に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りに触れて呪縄をかけられた姿で描かれる。

 ちなみに、室町時代成立の謡曲『葛城』では、岩橋を掛けなかった罪によって、女の姿で縄をかけられている葛城の神が、醜い顔を恥じながら葛城の高天原で大和舞を舞い、岩戸の中に消えていくという設定になっています。
 こうなると、もう、何をか言わんや。

 これらの伝承の変遷には、明らかに葛城の神の神威の低下が見てとれ、それはすなわち葛城氏自身の没落を物語っていて、時が進むにつれ葛城氏に対する扱いが軽くなっていったことの反映と言えましょう。

 以上のように、一言主神が雄略大王と争ったという説話は、葛城氏とヤマト王権の5世紀後半における対立を暗示しているようです。

 

ホムツワケ大王?
 文献史学の方面からは、『記・紀』の記述の解釈に変化球の味をつける論考もあります。
 崇神(10代)・垂仁(11代)・景行(12代)を4世紀半ばまでの大王とし、支配拠点は大和盆地東南部の「おおやまと」地域にあったとします。しかし、その他に、垂仁の子のホムツワケに関する伝承があり、垂仁の次の大王は景行ではなく、ホムツワケ(12代?)だったというのです。それによれば、ホムツワケの次が応神(15代)で、成務(13代)と仲哀(14代)は実在の可能性は低いというわけです。

 ヤマトタケルの遠征物語は6世紀前半に作られ、神功の物語は、さらに新しく、7世紀末頃に作られたようです。これらは単独の伝説として伝わっていたが、万世一系の系譜を整える過程で、この2つの伝説が、応神より古い時代の大王に結びつけられた可能性が高いです。
 そこで、ホムツワケです!

 古市晃氏の著書に「ホムチワケ王の伝承」という興味深い論考があります。

 ホムチワケ王は、垂仁と狭穂姫の間の子で、狭穂姫の兄の狭穂彦が起こした反乱に巻き込まれ、佐保で燃えさかる炎の中から生まれたと伝承されている。

 『日本書紀』のホムツワケは火の中から生まれたことを強調するためにホムチをホムツと言い換えたもので、本来の名称はホムチワケ。

 ホムチは大和盆地の葛下郡に存在した品治郷(ほむちごう)にちなむ名で、ホムチワケ王は葛城地域のホムチの地に住まう王、という意味である。

 ホムチ部と呼ばれる人びとが各地に実在している。ホムチ部はホムチの宮に仕え、そこに住まう王族に奉仕する人びとの意。

 『記・紀』のホムチワケの物語は長くて複雑だが、本来の形は生まれつき話すことができなかったホムチワケが出雲に出向き、出雲大神の祟りを解くことで話せるようになったことと、各地を巡行する際にホムチ部(品治部)を設置したという二点である。

 出雲には、アヂスキタカヒコネ神の伝承が分布しているが、またホムチ部も多く分布している。これはホムチの宮に奉仕する集団が置かれたことを意味するので、ホムチ部の人びとによって葛城の神であったアヂスキタカヒコネの伝承が伝えられたことを意味する。

 ホムチ部は出雲だけでなく、山陰から北陸地方にかけての日本海側や、播磨や備後、安芸などの瀬戸内海沿岸地域にも広範に分布する。アヂスキタカヒコネ神についても、葛城、出雲だけでなく、播磨や土佐に分布が確認できる。こうしたことから、葛城勢力は各地に影響力を行使していたと考えられる。

 アヂスキタカヒコネ神は『古事記』では加毛大御神とも呼ばれるが、大御神と称するのはアマテラスとイザナギという天皇家の祖先神にしか使われない。
 また、『古事記』におけるホムチワケ王の称号は御子だが、同書で御子と呼ばれるのは基本的に天皇だけで、例外はヤマトタケルとホムチワケのみ。
 アヂスキタカヒコネ神とホムチワケ王は、天皇やその祖先神に等しい地位を与えられていたということ。

 以上から、古代の神話・伝承の世界では、葛城の王や神の格は、ヤマト王権の大王やその祖先神と同じ位置づけだったことが確認できる。

 

葛城の神は出雲系か?
 『記・紀』には以上述べたような「葛城の神々」が頻出します。これらの神々は出雲系だとも言われます。
 「かづらき」地域には古くからアジスキタカヒコネ神を奉斎する出雲系の人びとが居住していたことは疑う余地がない、などとも言われます。

 しかし、古代に「かづらき」の地に出雲の勢力が進出していたとか、ヤマト国が発祥する以前、近畿地方には出雲王国があったなどという説は虚構です。

 出雲勢力が大和盆地に進出していた事実は考古学的にもまったく認められません(第65回・80回ブログ他)。
 出雲の磐座祭祀が丹後を経て大和や葛城地域に伝わったという論考もありますが、我田引水としか言いようがありません。
 出雲の文化が伝播していたのではと問われればそこまでは否定できませんが。

 このような論考が生じる原因は、『記・紀』の出雲神話にこれらの神が登場し、またオオナムチ(オオクニヌシ)の神裔の記事や平安時代の『出雲国造神賀詞』の文言にあると見られます。

 一般にはアヂスキタカヒコネはオオクニヌシと多紀理毘売命(たぎりひめ、宗像三女神)の間の子神なので出雲系の神とされていますが、『古事記』では「迦毛大御神」、『出雲国風土記』では「坐葛城賀茂社」、『出雲国造神賀詞』では「葛木乃鴨乃神奈備尓坐」とあり、どう見てもこの神は葛城地方を本拠とする鴨氏の祭神と思われます。
 「大御神」は、『古事記』では他に「天照大御神」、「伊耶那岐大御神」、「伊勢大御神宮」に用いられるのみであり、神への尊称としては最高のものであり、この神とこの神を祭った氏族との、ある時期における勢力の強大さを物語っていると思われます。

 また事代主神については、『古事記』においてオオクニヌシと神屋楯比売命との間に生まれたとされます。
 コトシロヌシを祀る鴨都波神社の由緒には、「事代主神は元来、鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である」とあります。

 前の節で言及した一事主神は、名前が似ているところから「事代主神(ことしろぬしのかみ)」と同一神であるとする説もありますが、それは考えられません。

 『延喜式』第8巻に記載されている『出雲国造神賀詞』は、7、8世紀における出雲と大和政権の関係を知る上で貴重な資料です。
 律令政治の中で朝廷が出雲国造に対して行った手厚い処遇が、出雲国造新任の儀式と「神賀詞」の奏上で、これは出雲国造以外では例の無い儀式です。

 賀詞(よごと、寿詞)は人が神に対して献上する言葉で、そこには次のような文言が書かれています。

 <大穴持命の申し給わく、皇御孫命の静まり坐さむを大倭國と申して、己の和魂を八咫鏡に取つけて、倭大物主櫛甕魂命と御名を称えて、大御和の社(おおみわ、大神神社)に、己の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき>。

 オオナムチが自分の和魂(にぎみたま)を倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたま)の名で大御和の社(おおみわ、大神神社)に、自分の子のアヂスキタカヒコネを葛木の鴨の社(高鴨神社)に、コトシロヌシを宇奈提(うなて、河俣神社または鴨事代主神社)に、賀夜奈流美命(かやなるみ)を飛鳥の社(飛鳥坐神社または賀夜奈流美命)に祀って皇孫命の守護神とし、自分は八百丹杵築宮に鎮座した、と言うわけです。

 これを素直に解釈すれば、出雲の大神とその子神たちが、ヤマト王権の王の守護の役目を負っているということになります。

 それにしても何でこのような奏上が行われたのでしょうか。

 おそらく古墳時代の前半は八百万神の祭祀が続き、5~6世紀以降に神社の生まれる素地ができ「かづらき」地域の神社を含む有名古社の大半が創始されたのでしょう(ただし社殿はなく、神域内の一定の場所に祭場を設けて臨時に神籬を立てたり、磐境で祀ったりする素朴な信仰形態)。

 やがて、ヤマト王権の勢力が拡大し、天の至高神をベースとする王権神話がつくられる中で、ヤマト王権がつくった神々の体系に、各地の八百万の神々が国つ神として括られていったのではないでしょうか(第16回ブログ)。
 神々の世界では、国つ神の頂点にオオクニヌシが置かれ、他の神はそのヒエラルキーに組み入れられてしまった。こうなれば、あとはどのような神話をつくることも可能です。

 こうして「かづらき」地域の神々も、オオクニヌシの和魂(にぎみたま)とともに、ヤマト王権の王を守護する神話がつくられていったに違いない。それはおそらく7、8世紀のことでしょう。

 もっとも、山城の賀茂氏と葛城の鴨氏はもともと同系氏族だったが、後に葛城鴨の一派が山城に移行したという説(第79回ブログ)があり、山城賀茂氏の祭神カモタケツヌミは天つ神とされ、一方の葛城鴨氏の祭神アヂスキタカヒコネは国つ神とされています。
 これは7、8世紀の豪族の力関係が作用した結果と言えるのではないでしょうか。

 次回は馬見古墳群について確認します。

 

参考文献
『葛城氏はどこまでわかってきたのか』小野里了一
『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁
『倭国 古代国家への道』古市晃
『出雲とヤマト』村井康彦
他多数