理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

127 馬見古墳群


  <ブナ林>

 今回は謎の多い馬見古墳群について概括します。第121回・124回ブログでも少々触れてはきましたが……。

馬見古墳群の立地
 馬見古墳群は、4~5世紀の葛城氏が支配する「狭義の葛城地域」の北方にあり、そこは第124回ブログで確認したように、葛下郡(葛城市北部・香芝市・大和高田市西半部・王寺町・上牧町)と広瀬郡(広陵町・河合町)一帯に相当します。

 下図で町名を印で表示。

 馬見古墳群は、北群・中央群・南群の3グループに離れて存在することも謎ですが、築造順が南部から北部へと移動していくことも謎の一つです。

 全体では、南北に約7キロの及ぶ大古墳群です。

南群
〇 築山古墳(220メートル)
〇 新山古墳(前方後方墳、126メートル)

中央群
〇 新木山古墳(にきやま、200メートル)
〇 巣山古墳(220メートル)
〇 ナガレ山古墳
〇 乙女山古墳

北群
〇 川合大塚山古墳(197メートル)
〇 川合城山古墳(109メートル)

 

 葛城山地東麓・馬見丘陵・高田川と古墳の分布の位置関係がよく分かる図を雑誌から転載します(下図)。ちょうどそこは、高田川下流域西岸で馬見丘陵の東斜面の一帯にあたることが確認できます。

 少々離れた位置にも注目すべき幾つかの古墳が点在します。
 馬見丘陵西側の佐味田川をはさんだ対岸には佐味田宝塚古墳、葛下川上流部西岸には狐井城山古墳、葛下川流域には3世紀から存在する上牧久渡古墳群が見られます。

 

馬見古墳群の推移
 築造時期を時系列に並べると、

 新山古墳(南群)4世紀前半の築造で馬見古墳群の最古(前方後方墳) 
 築山古墳(南群)4世紀後半 馬見古墳群の南限
 巣山古墳(中央群)370年頃
 新木山古墳(中央群)400年頃
 川合大塚山古墳(北群)5世紀前半
 狐井城山古墳 5世紀末から6世紀初頭
 川合城山古墳(北群)5世紀末から6世紀初頭で北群では最後の古墳

 馬見古墳群の全盛期は4世紀後半から5世紀前半で、被葬者はヤマト王権の大王に匹敵する、ないしは準じる実力を示していたと思われます。

 5世紀後半頃から次第に小型化していくが、これは全国的な小型化の流れを反映していると考えることもできます。

 葛下川流域の上牧久渡古墳群では3世紀から存在する古墳も見つかっています。纒向遺跡と同様に、早い時期から文明と集住があったということでしょう。

 なお、狭義葛城地域では、第124回ブログで言及したように、420年頃に室宮山古墳(238メートル)が築造されています。

 

馬見古墳群の被葬者について
 被葬者がどのような勢力の王ないし関係者だったのかはまったく不明で、決定打は見つかっていません。
 第121回ブログで言及したように、近傍に支配拠点と見なせる大規模遺跡が見つかっていないことから、馬見古墳群自体を葛城の勢力範囲とみる説、島の山古墳まで含めて葛城の勢力範囲とする説、ヤマト王権の墓域とみる3つの見解があります。

 葛城勢力の墓域と認めない論には次のようなものがありますが、「」はそれに対する筆者の見解です。

 馬見古墳群は馬見丘陵の東斜面に集中しており、その大半は古くは片岡とされる地で、のちの令制下の郡域では広瀬郡に所在したとみるべきことから、これらは葛城勢力の墓域に含まない(小野里了一氏)。

   これはおかしな論拠であって、令制(りょうせい)は7世紀後半からの国内の地方行政区分なので、そこに4世紀後半から5世紀にかけて葛城の勢力が関与した墓域があったと考えても何ら問題ないでしょう。ちなみに馬見古墳群は広瀬郡と葛下郡北部の場所に存在します。

 馬見古墳群とその周辺には、弥生時代の拠点集落遺跡がなく、有力地域集団にかかわる集落遺跡が認められないため、馬見古墳群はヤマト王権の王やその周辺の人物の墓域であって、葛城の勢力とは関連づけできない(坂靖氏)。

   しかし、馬見古墳群の全盛期は4世紀後半から5世紀前半なので、この頃のヤマト王権の拠点集落は「おおやまと」地域ではなく、「さき」や「河内」に移行して馬見古墳群からはかなり遠方になっています。4~5世紀の葛城勢力の拠点集落(秋津遺跡・中西遺跡など)が存在した葛上郡の北部隣接地が馬見古墳群です。

 新山古墳(4世紀前半)と佐味田宝塚古墳(4世紀後半)からは大量の三角縁神獣鏡が出土している。これらの三角縁神獣鏡には黒塚古墳との同笵鏡が含まれていること、ならびにその同笵鏡の国内分布から推測して、これら2つの古墳の被葬者は、ヤマト王権の三角縁神獣鏡配布の一翼を担っていたと考えられる。

 三角縁神獣鏡の配布を通じて地方との関係を築いていたのがヤマト王権であるとみた場合、馬見古墳群の被葬者はヤマト王権の後裔あるいは王権の随伴者として位置づけられる。いまのところ、馬見古墳群の生産基盤は判然としない。その意味では、馬見古墳群はヤマト王権の墓域であったとみるほかはない。

   馬見古墳群では、筒型銅器・巴形銅器や、「さき」の王権によって新たに創出された石製模造品などの威信財が多く発見されている。馬見古墳群の被葬者は、「おおやまと」地域と「さき」地域の双方の王権から等距離の関係を保ち、王権が移行していく中でキャスティングボードを握っていた可能性があります。

 また、三角縁神獣鏡を配布する主体がヤマト王権(「おおやまと」地域)から馬見古墳群の被葬者に移行したとも考えられます。佐紀古墳群は三角縁神獣鏡が出土しないなどの独自性もあり、「さき」の王は三角縁神獣鏡の配布に関与していないと思われるので(第74回・101回ブログ)、それを馬見古墳群の被葬者が引き継いだ可能性もあります。

 筆者は、これこそヤマト王権と肩を並べるに至る葛城勢力の台頭と思いたいのだけれど……。

 いずれにしろ、葛城氏の前身集団がまつられているにせよ、4世紀半ばから5世紀初頭における具体的な被葬者は、『記・紀』にも他の文献にも登場しない人物でしょうから、想定のしようがありません。

 

葛城氏の前身集団と馬見古墳群
 第124回ブログで定義した葛上郡を中心とする「狭義の葛城地域」で葛城氏が表立って活動し隆盛するのは4世紀末以降です。
 それまでの同地域にはずっと小規模古墳が築造されていて、大型古墳が造られた痕跡がありません。みやす古墳、寺口和田古墳など直径50メートルほどの円墳や、一辺20メートルほどの鴨都波一号墳などです。

 前回のブログでも言及しましたが、その頃の同地域には鴨族ゆかりの集団が存在した可能性があります。
 それが、突如として5世紀初頭、中西遺跡に大和盆地西南部で最大の室宮山古墳(238メートル)が築造されます。5世紀になって当地域で新たな勢力が大規模古墳の築造を始めたと推測するしかありません。

 筆者は、4世紀後半から5世紀前半にかけて大規模古墳を含む馬見古墳群を築造していた勢力の分派が、4世紀末になって、南部(狭義の葛城地域)に移動して隆盛し、葛城氏としての活動を始めたものと考えます。

 4世紀半ば過ぎから5世紀初めにかけては、ヤマト王権の一部が分派を繰り返し、やがて分家が本家を上回って隆盛する混乱した時期(第95回・101回・121回ブログ)だったと考えられます。
 その際、葛上郡においても、小規模古墳を築造していた集団から、室宮山古墳を築いた集団に勢力が交代したと考えるのが自然です。

 

類似点の多い馬見古墳群と佐紀古墳群の連携説
 馬見古墳群では、筒型銅器・巴形銅器・農工具型石製模造品などの威信財が多く発見されていますが、これは佐紀古墳群の出土品とよく似ています。このため、双方の勢力は互いにさかんに交流しており、佐紀古墳群と同様に、軍事・交易・先進文化に強い志向を持っていたと考えられます。

 葛城氏として分派する前の馬見古墳群を築造した集団は、佐紀の王権と連携し、古市・百舌鳥の王とともにヤマト王権の一翼を担っていたのかもしれません。しかし、彼らが何者なのか、『記・紀』から探れない以上、王ないし首長一族の具体的な名前は一切不明。残念ながら謎は解消されないままです。

 

参考文献
『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『倭国の古代学』坂靖
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『葛城氏はどこまでわかってきたのか』小野里了一
他多数