理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

128 5世紀のヤマト王権のかたち(ここまでのまとめ)

 
<柊家旅館>

 ここまで何回かにわたって「5世紀のヤマト王権のかたち」に言及してきましたが、錯綜し煩雑なブログの連続となってしまいました。
 新年を機に、ここで一旦まとめてみます。

 巨大古墳群が、大和盆地北部の「さき」地域、「かづらき」地域の北部(馬見古墳群)、河内平野の「古市」や「百舌鳥」に分布し、しかも各地域で並行して継続的な巨大古墳の築造が見られる。筆者は、同一地域に、数十年間にわたり継続して築造された古墳群は、同一勢力の代々の墓域と考えるので、王権に複数の系列があったと推定できる(第101回・122回・123回ブログ)。

 『記・紀』に記された応神・仁徳までは事績もあやふやで実在性に確たるものがない。
 仁徳の子の世代からは『記・紀』の記述が具体的で詳細になり、しかも王位継承に兄弟相続が見られるので実在性が高い。そこで仁徳の子とされる履中以降については以下のような想定をすることが可能となるだろう(第122回ブログ)。

 『日本書紀』の記述からは、履中系と允恭系が激しく対立していた様子がうかがえる。一方、考古学からは、百舌鳥古墳の隆盛期がちょうど古市古墳群の空白期に相当するので、百舌鳥古墳群は允恭系の墓域、古市古墳群は履中系の墓域に比定することも可能。ただ両系統の誰がどの古墳に葬られたのかについては、『記・紀』に記された具体的な王名からはまったく推定できない(第123回ブログ)。

 「宮」の存在に着目すると、ヤマト王権の勢力基盤は、古市古墳群と百舌鳥古墳群の時代も、基本的に大和盆地にあったと考えられる。地政学的観点から、外征・産業興隆・物流改革のため軸足を河内に移しただけと考えたい(第120回・123回ブログ)。
 物部氏・和珥氏は「さき」の王権に近く、「かづらき」を本拠とした葛城氏は「河内」に軸足を移した王権をサポートした。

 河内・和泉にわずか100年ほどの短期間に築かれた巨大古墳についてどのように捉えるべきだろうか。
 本来、為政者は治水や利水などの公共事業や祭礼空間としての宮都造営に傾注すべきだが、墳丘規模が前代よりも拡大しつつ一代の王を祀るだけで終わる巨大古墳の築造に膨大な労働力を投入した。この富の浪費に過ぎない現象からは、各王族が巨大な前方後円墳を造るというイデオロギーに沿った共同歩調をとりつつも、互いに優劣を競い合ったと考えられる。
 したがって5世紀の王権は中央集権化を志向する王権ではなく、部族同盟ないしは部族共和制と考えざるを得ない。兄弟による王位継承の争いなど王族間の覇権争いが、前方後円墳の大型化の背景にあると考えられる(第104回ブログ)。

 5世紀のヤマト王権の「王」は、対立する周辺王族や豪族を、傘下の豪族を含めた軍事力で制圧するだけの実力は持っていたが、その内実は複数の王の系統が分立し、その周辺王族や豪族もしばしば対立を繰り返すような不安定な状態だった。

 「王」は単に強大な権力を持っているだけでは受け入れられない。「王」に臣従する人びとをまとめ上げる特殊な力が必要である。巨大な前方後円墳を築造し、前方後円墳祭祀を挙行して葬送儀礼をリードすることや、代表してシナ・朝鮮各国と交渉できる外交能力が求められた。

 これに対して「王権を支える豪族」は、鉄などの材料や先進技術を朝鮮半島から入手したり、大和盆地・河内平野での生産を推進する能力、また軍事力を行使することが求められ、これによってヤマト王権のなかで独自の地位を築くことができた。
 なかでも諸外国と通交するための具体的な外洋航海技術を保有していたのは、海人集団を配下に持つ豪族たちで、その代表は葛城氏、紀氏と、やや遠隔地になるが吉備氏だ。
 彼らはヤマト王権の王とともに王権を構成するが、対立的な性格も内包していて、必ずしも従属的な立場にあったわけではない。

 ヤマト王権は複数の「王」の系統と、「王権を支える豪族」「王権とは別の権力を持った豪族」が、時には連携し、時には対立しながら5世紀の社会を維持していた。王権の「王」と豪族の境界がいまだ曖昧だったからである。

 葛城氏、紀氏、吉備氏は、いずれも大阪湾岸に広範に勢力を展開しており、多くの同族が分布していた。彼らは個別に海人集団と関係を結んでいただけでなく、大阪湾岸を舞台として総合に密接な関係を持っていた。葛城・紀・吉備連合である。
 海人集団は阿波・淡路・明石・紀伊などに展開していたが、彼らもまた独自のつながりを持っていた(第125回ブログ)。

 海の民について重視すべきは、彼らの漁撈民的な性格ではなく、彼らの専売特許である外洋航海の技術である。5世紀の日本にとって外洋航海の技術は、生産の維持と拡大のためになくてはならなかった。根本的に重要だったのは鉄素材の調達だ(第67回・68回ブログ)。

 海人集団はヤマト王権の「王」や葛城・紀・吉備氏を支持しただけでなく、ヤマト王権に反逆した王族たちをも支持して独自のポジションを確保していた。
 例えば難波に本拠をおく阿曇連浜子に推された住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)の反乱では、履中との間で、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘の黒媛をめぐって争いが起こったとされるが、この時住吉方に荷担した安曇連は海の民を統率する立場にあったし、同じく荷担した倭直も拠点は大和盆地にあったが、海の民との関係が密接な氏族だった(第122回ブログ)。

 王権の権力基盤が脆弱な場合、その権限が複数の「王」たちによって分有されることはあり得る。王権がひとりの王によってのみ担保されるという考え方自体が、『記・紀』による先入観にすぎないと考えた方が良い。
 一系を確実に主張できるのは6世紀の継体以降だろう(第101回ブログ)。

 4世紀末頃から5世紀後半にかけて、佐紀・馬見・古市・百舌鳥の4古墳群は、存続期間の長短はあるが、巨大前方後円墳の墳丘構造や円筒埴輪・形象埴輪のありかた、周濠の構造などにさほど劇的な変化も見られず併存する。
 つまり、これら4古墳群を築造した王が、豪族層とは適宜提携しながら、それぞれ多数の中小首長層を率いて、ヤマト王権としての政務を共同統治していたと考えられる。


 <5大古墳群(広瀬和雄氏の著作から改変転載)>

 4世紀半ば頃から5世紀後半までの巨大古墳の数は以下の通り。

佐紀古墳群 
 佐紀陵山古墳・宝来山古墳・佐紀石塚山古墳・五社神古墳・市庭古墳・ウワナベ古墳・ヒシアゲ古墳の7基(第95回ブログ)。

馬見古墳群
 築山古墳・巣山古墳・新木山古墳・川合大塚山古墳の4基(第127回ブログ)。

古市古墳群
 誉田御廟山古墳・仲津山古墳・岡ミサンザイ古墳・市野山古墳・墓山古墳・津堂城山古墳・軽里大塚古墳の7基(第120回ブログ)。

百舌鳥古墳群
 上石津ミサンザイ古墳・大仙古墳・百舌鳥御廟山古墳・土師ニサンザイ古墳の4基(第120回ブログ)。

 100年弱の間に全部で22基となるので、王の統治を一代およそ20年と考えればこれらの巨大古墳を一系の王が代々築造したとは考えられない。
 やはり4系統の王が一代一墳的に古墳を築いたと想定できる。

 佐紀・馬見・古市・百舌鳥の4古墳群を築造した王族集団が常時並行して存在し、彼らは基本的にはヤマト王権の代表として協力して統治に臨む関係にはあったが、一方で大王の地位をめぐって厳しく対立する状況も存在した(第123回ブログ)

 こんな状態でも、「技術革新の5世紀」が出現するのは、それぞれの王権傘下の豪族たちが、王権を支える傍ら、互いに勢力を誇示しあい、それぞれが独自に朝鮮と通交するなどして切磋琢磨したから。
 大和一円は野心的で優秀な豪族層(後の物部、大伴、和珥、葛城氏などの前身集団)がひしめく梁山泊だったといえる(第89回ブログ)。

 5世紀後半は政治的混乱に見舞われますが、そのトリガーとなったのは、高句麗の南進で、475年に百済が一時的滅亡したこと、大伽耶が百済のくびきを離れて自立化の動きを見せ始めたこと。
 これにより、それまで主として百済や大伽耶と通交していた葛城・紀・吉備連合は行き詰まりに直面し、ヤマト王権(雄略)は、「王」であるための大きな根拠であった半島諸国との関係を維持するため、それまでの多様な通交ルートの完全掌握に走ることになる(第116回・125回ブログ)。

 ここから先は、今後のブログで詳述する予定だが、5世紀後半に雄略大王は、強引な手法で有力な大王候補数人を殺害したうえ、最大の対抗勢力であった葛城氏を排除してしまいます。次いで吉備氏も弱体化させます。この過程で王権を強力に支えたのは物部氏と大伴氏であるが、これによって雄略に対抗できる勢力は皆無となってしまった。果たしてヤマト王権による専制は完成したのだろうか。

 一見すると、雄略の時代に専制化に到達したかに見えるヤマト王権だが、その内部的な脆弱性(専制化を支える統治のしくみが欠如)のため、5世紀末に向けて混乱していく。筆者は、ヤマト王権による広域支配(関東から九州中部まで)が雄略によって達成されたとする通説には異を唱えます。

 

 5世紀の終盤は、言うなれば、葛城氏、吉備氏の没落とヤマト王権の衰弱の歴史と言えそうです。

 その推移はこの先のブログで確認していくことになりますが、その前に、「5世紀の技術革新」と、今まであまり触れてこなかった「吉備氏の興亡」について次回以降のブログで言及することにします。

 

柊家旅館
 今回のアイキャッチ画像には京都の老舗旅館「柊家旅館」の正月風景を掲げてみました。
 昨年は京都で年越し(2021年末から2022年始)をしました。どうせなら柊家旅館で正月を味わいたいと考えていたところ、うまくキャンセル待ちで投宿できた次第。
 コロナ禍で大変な時期だったが、神社仏閣以外は人が少なく、館内では他の宿泊客とも接触せず、かえって安全に京都での越年を楽しむことができた。画像はその時のものです。

 以前、新館には泊まったことがあるが、今回は旧館1階の33号室で二面が庭に面した数寄屋造り、本間12畳、控えの間7畳の広さ。
 庶民の身としては伝統が醸し出す重々しさに圧倒されるのかと思いきや、さにあらず、非日常空間で晴れがましい気分に充たされたのは正月らしくて実に良い。
 館内は古いが清潔で風格があり、和の設えは実に素晴らしい。料理は単に京懐石というだけでなく、元旦の夜には「正月特別料理」が供された。他では味わうことのできない得難い体験で、たっぷりと伝統に浸る感動があった......。
 筆者は、「全国一宮めぐり」の際に、老舗とされる旅館やホテルを数多く利用したが、柊家旅館はそれらの筆頭に位置すると確信した。今回は「年始特別料金」で高めだったが、満足感を考えればリーズナブル。

<左は本間、右は御所車の襖(奥は控えの間)>

 でも、このような長い伝統を紡いできた老舗旅館でも、その歴史の始まりは幕末で、ほんの200年ほどの歴史に過ぎないとのこと。その200年くらい昔の社会生活は、私たちの理解の及ぶ範囲にあって、連綿と続いてきた歴史をイメージすることが可能です。
 では、さらにその昔はどんな塩梅だったのだろうかと考えれば、網野義彦氏の論を思い起こします。

 氏の著書に、大意、次のようなくだりがあります。

 <日本社会に即して考えると、現在進行しつつある変化は、江戸時代から明治、大正、戦後のある時期ぐらいまでは、何の不思議もなく常識であったことが、ほとんど通用しなくなったという点で決定的な意味をもっている>。
 <今や古くなって消滅しつつある我々の原体験につながる社会がどこまでさかのぼれるかというと、室町時代くらいまで>。
 <14世紀の南北朝の動乱を経たあとと、それ以前の13世紀以前の段階とでは、非常に大きな違いがある。15世紀以降の社会のあり方は、私たちの世代の常識である程度理解が可能だが、13世紀以前の問題になると、我々の常識では及びもつかない、かなり異質な世界がある>。

 このように言われてしまうと、今、筆者が訳知り顔で綴っている6世紀よりも前の古代の社会は、さらに理解不能な世界ということになってしまい、なんと不遜な試みをしているのかと、ぞっとしてしまいます。
 筆者は、6世紀以前という理解し難い時代を、数少ない文献と考古学の成果を土台にして、技術水準や交通インフラの視点から炙り出そうとしていることになります。
 大丈夫なのか?
 でも、想像を破天荒に膨らませず、あくまで理系の視点で冷静に紐解くつもり……。