理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

129 ヤマト王権主導の技術革新(1)


 <入道崎灯台と北緯40度モニュメント>

 今回は、第102回ブログで予告した「河内平野における土木工事」について言及します。ヤマト王権が主導した「5世紀の技術革新」のなかでも代表的な事績と言えるでしょう。

もっともベーシックな土木技術
 巨大古墳をはじめ、大規模集落、環濠などの防衛拠点、井戸や水路の掘削、水田稲作を支える灌漑、道路、堤防、津(港湾施設)などの構築・築造は、いずれも土木技術の進歩によって可能となりました。
 土木技術は、様々な技術の中でも、もっともベーシックなものと言えます。対象構築物が巨大であるため、土木工事は組織化された大集団を統率する強力で安定的な権力の存在が不可欠です。
 ヤマト王権は内部に対立をはらみつつも、畿外(畿内以外の地)や海外に対しては協力して対処するというように、ならしてしてみれば安定した権力だったと言えます。
 大規模土木工事と切り離せないのが、人・モノ・財・時間をシステマチックに組み合わせて運用する管理技術、なかでも大規模人員を運用するための労務管理能力です。そして日常の食住の提供(後備え、第87回ブログ)なども含め、これらすべてが大規模土木工事に関わる広義の技術に含まれます。当然、王権内には先進的な管理技術に通じた優秀な戦略スタッフがいたはずです。

 巨大古墳については第104回・107回ブログで言及したので、今回は、それ以外について触れることにします。

 実は5世紀の河内平野における土木工事の実態はよく分かっていません。そこでまずは『記・紀』の記述から、5世紀頃の池溝工事が7、8世紀の中央によってどのように認識されていたのか確認していきます。

 

『記・紀』の記述内容
仁徳記
 <また、秦人(はたひと)を役(えだ)ちて、茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わにのいけ)・依網池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江の津(すみのえのつ)を定めたまひき>。

 

仁徳紀
 仁徳11年4月
 <今朕、是の国を視れば、郊も沢も曠く遠くして、田圃少く乏し。且河の水横に逝れて、流末(かわじり)駃(と)からず。聊(いささか)に霖雨に逢へば、海潮逆上りて、巷里(むらさと)船に乗り、道路亦泥になりぬ。故、群臣、共に視て、横(よこしま)なる源(うなかみ)を決りて海に通せて、逆流を塞ぎて田宅を全くせよ>。

 大意は、この国は、土地は広いが田圃は少なく、河の水は氾濫し、長雨にあうと洪水になり、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣は、溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ、ということでしょう。
 この部分は、10月の難波堀江・茨田堤などの水利事業の前出しに当たります。

 仁徳11年10月
 <冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江(ほりえ)と曰ふ。又将に北の河の澇(こみ)を防かむとして、茨田堤(まむたのつつみ)を築く>。

 仁徳12年10月
 <大溝を山背(やましろ)の栗隈縣(くりくまあがた)に掘りて田に潤く>とあり、田に水を引くことによってその土地の人々は毎年豊かになったということでしょう。

 「大溝を栗隈に掘る」という記述は、推古天皇607年にも見られます。

 仁徳13年9月
 <始めて茨田屯倉を立つ>とあります。

 仁徳13年10月
 <和珥池を造る。是の月に、横野堤を築く>とあります。

 仁徳14年11月
 <猪飼津に橋為す。即ち其の処を号けて、小橋(をばし)と曰ふ。是歳、大道を京の中に作る。南の門より直に指して丹比邑に至る。又大溝を感玖(こむく)に掘る。乃ち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦、四処の郊原に潤けて、四万余頃(しろ)の田を得たり>。

 猪飼津に小橋を渡した。この年、難波京内に大道を造り、京の南門から十数キロの丹比邑に通じた。また大溝を感玖(こむく)に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦など4ヵ所の原をうるおし、四万頃(しろ)あまりの田が得られた、ということですが、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦は、感玖や石川から遠く離れているので、その場所は特定できません。

 以上から、『記・紀』に記載された土木工事の旧跡が現在のどの場所に当たるのか、国土地理院のデジタル標高地図で確認してみます(場所が特定できるもののみ)。


難波堀江波津茨田堤小椅江依網池墨江の津

 まず、難波堀江・難波津・茨田堤について深掘りしてみます。

難波の地の重要性
 ヤマト王権は、それまで大和盆地から北へ向かい山城・丹後・出雲を介しながら通交する日本海ルートを利用していましたが、4世紀後半になると、その不便さを感じ始めます。

 特に、新羅と出雲の接近を懸念し、出雲が介在する日本海ルートよりも、瀬戸内海ルートの開拓を悲願としていたヤマト王権は、大和盆地から西へ向かい大阪湾に出る大和川舟運に大きな可能性を見出します。その結節点に位置する難波に進出したことは、以降の歴史を方向づけるエポックメイクな交通革命でした。

 難波進出を可能にした要因としては、船舶の建造技術や、地溝・港津の造成技術が進歩したことなどが挙げられます。
 ニーズの面からは、瀬戸内海の船便を利用することで人・モノの大量運搬が可能になること、さらに海外との交易が容易になることがあり、この他、湿地帯とはいえ広大な平地を擁する河内のポテンシャルに農産物や手工業生産の基地としての大きな価値を見出していたこともあります。

 このため、4世紀末から5世紀初頭にかけて、ヤマト王権は瀬戸内海に面した難波の地に高津宮を設けます。

難波堀江の開削による王権基盤の強化
 古代、大阪湾は河内平野の奥深く生駒の麓まで入り込んでいた(河内湾)が、5世紀頃には、半島のように突き出した上町台地の先に天満砂州が大きく発達して河内湖を形成していました。
 この上町台地と天満砂州のせいで河内湖の排水が妨げられるため、河内湖畔は低湿地が多く、長い間にわたって後進地でした。長雨や豪雨で淀川や大和川水系の流量が飽和になると、頻繁に洪水をおこし水害をもたらしていたのです。

 そこで上町台地の北端(今の天満川辺り)を開削し、滞留する水を大阪湾へ排水することで洪水を防ぐことになります。これが難波堀江の開削です。

 水害を防ぐ一方で、堀江から船で大和川下流域へ直接向かえるようになったので、水運が隆盛し河内と大和は潤います(第102回ブログ)。
 この土木工事はおそらく5世紀初めから半ば頃までに開始されたと思われます。『記・紀』では仁徳治世のこととされています。


<大阪港景観形成への参考資料から>

 また、堀江の開削に合わせて新たに整備された難波津は6世紀までには完成し、喫水の深い大型船(第54回ブログ)が停泊可能になり瀬戸内海航路の発展に大きく貢献します。難波津は、それまで自然の潟湖だった住吉津(すみのえのつ)の機能を代替し、外国の大型交易船の停泊が可能となり、文字通りヤマト王権の外港となったのです(第57回ブログ)。

 前述したように、4世紀半ば以降、ヤマト王権は丹後経由で出雲へのルートを利用していたが、これに加え、5世紀初めまでに河内に進出して、安芸・吉備を除く瀬戸内海東部勢力圏に置きます。

 したがって河内から姫路経由で揖保川を上り、中国山地を越えて因幡へ至るルートや、陸路であっても龍野から佐用を経て北行する今の因幡街道、佐用から西行する今の出雲街道(まだ踏み分け道?)なども利用できたと思われます。

 王権の河内進出で陸路・海路のルートが複線化し、大和・河内に鉄素材を始めとする様々な文物が大量に流入することになったのです。

 4世紀頃まで、ヤマト王権に直接従属していた海の民は、淡路島・西摂海岸・和泉などの大阪湾沿岸の集団に限られていました。紀氏の前身にあたる一族などが彼らを掌握していました。

 人制が導入された5世紀後半以降、瀬戸内海の海民は吉備の首長に従属しましたが、ヤマト王権に対しては吉備の首長を通じた間接的な従属へと変わっただけで、依然として吉備の勢力を無視できませんでした。

 つまり、このルートが完全に機能するためには、いま少しの時間を要することになります(6世紀の部制成立以後。第67回ブログ)。5世紀前半の時点では、吉備(備中・備後)から西の瀬戸内海は、依然としてヤマト王権の自由にならなかったのです。

5世紀の技術革新を加速したインフラ「難波堀江・難波津」
 上町台地先端部にある難波京跡の北西部で、5世紀後半の大倉庫群が発掘されています。法円坂遺跡の大倉庫群で、難波津が当時の物流の一大拠点であったことが明らかになっています。
 大倉庫群は、現在までに16棟見つかっていますが、文献史料には「難波館(なにわのむろつみ)」と呼ばれる商館の存在も示されており、発掘調査が進めばさらに増える可能性は十分あると言われています。
 この大倉庫群は大規模で、かつ計画性が高く、精度の高い建築群です。当時のヤマト王権が直接建設した特別の施設と考えられます。

 なぜ、ヤマト王権はなぜこのような大倉庫群を5世紀の後半につくったのでしょうか。
 これには朝鮮半島の政治的・軍事的変動が大きく関係していると考えられます。

 まず、427年に高句麗の長寿王が都を丸都から平壌に移し、広開土王(好太王とも)以来の伝統的な朝鮮半島南下政策を継続しさらに強化します。これによって、朝鮮半島南部にあった百済・新羅・伽耶諸国は、非常に強い緊張関係のもとに置かれます。これは、当然日本にも強い政治的な緊張関係を強いることになります(第116回ブログ)。

 決定的なのは、475 年に長寿王に率いられた高句麗が、百済の当時の首都、漢城を陥落させ、百済の蓋鹵王を戦死させてしまったという大事件です。
 ヤマト王権は百済と非常に関係の深かったので、百済が一時的に滅亡したことは大きな衝撃であり、高句麗がその勢いをかって、日本に攻め込んでくる可能性も十分考えられました(第116回ブログ)。

 このように緊迫した事態の中で、ヤマト王権は軍事的に対応する必要に迫られ、軍事的拠点の一環として、軍需物資を集積するための大倉庫群を難波京の一角に建設したと考えられます。

 では、ヤマト王権は、なぜ難波に注目したのでしょうか。
 筆者は難波堀江の開削と深い関係があったと考えています。

 難波堀江により、大阪湾から直接河内湖の水面に大型船が入り込むことができるようになります。さらに、淀川や大和川を使って、さらに内陸部、つまり日本の中枢部である大和に連絡することができるようになるわけです。

 以前から難波と大和は連絡はしていたのですが、そこは大河川の河口の砂州、複雑な水路、浅瀬など、非常に危険な状況でした。しかし難波堀江の開削により、安全に通航することができるようになったのです。
 そして難波津は、それまで自然の潟湖だった住吉津(すみのえのつ)の機能を代替していくことになります。

 でも、住吉津の役割が薄れたかと言えばさにあらず。
 歴史的には弥生時代から存在していた住吉津の方が古く、港湾整備の時期は古墳時代中期から始まった難波津の方が早いとされています。
 上町台地の北西にあった難波津に対して、住吉津は淡路方面からは河内平野や大和盆地方面へのアクセスが優位です。このためもう少し時代が下ると、住吉津は衰退することなく港湾整備が進みます。
 住吉津には住吉大社が鎮座することになり、遣隋使や遣唐使は住吉大社で住吉大神に祈りを捧げた後、住吉津から出発し難波津を経由して瀬戸内海を九州へ向かうようになり、住吉津は隆盛します。

 難波堀江がいつ開削されたのかという点については、いろいろな議論があります。『記・紀』は仁徳の頃と記していますが、信憑性がなく、そのまま鵜呑みにすることはできません。
 一方、次のような仮説は有力と思われます。

 法円坂の大倉庫群に物資を運搬するためには、難波堀江が存在している必要があるでしょう。
 大倉庫群の建設時期はかなりの精度で5世紀後半と考えられているので、おそらくそれに先立つ時期、つまり5世紀の中頃か前半に、その規模は別としても難波堀江が開削されたと……。
 そうすると、難波堀江にあったとみられる難波津の建設整備も同じ頃に始まったと考えられます。

 このように、難波堀江の開削、難波津の建設、大倉庫群の建設は三位一体の関係にあり、先ほどの朝鮮半島をめぐる軍事的緊張の中で、5世紀後半にヤマト王権が強力な指導力によって造り上げたものと思われます。
 それにともない、難波の軍事的・政治的な重要性は一気に高まりました。そこに設けられた難波津という港はヤマト王権に直結する港として明確に位置づけられたと言えます。

 これを地形図で確認してみると次のようになります。
 河内湖の最奥部の生駒山麓には草香津(草香江)と呼ばれる港湾施設があり、瀬戸内海東部から難波堀江を通過して河内湖に入った船・舟は、そのまま東進して草香津に向かうか、そのまま大和川を上ることができます。難波堀江の途中の砂州と砂州の間にできていた潟湖には難波津が建設され、喫水の深い大型船が停泊可能となり、ここから小型の舟に乗り換えることも可能となります。


<難波津と難波宮(明治大学青井研究室サブゼミ報告資料から)

 ここで、その後も含めて難波の歴史的展開について整理してみます。

 難波では5世紀代に難波堀江が開削され、難波津が設定され、巨大倉庫群が建設され、王権の直轄都市として現れました。
 次に、6、7世紀の段階になると、瀬戸内海西部を関所のように牛耳っていた吉備氏を弱体化させるなど、ヤマト王権はさらに強力な国家体制を整備したので、それに伴って難波がいっそう重視されることになりました。
 とくに7世紀になると、シナで隋・唐という世界帝国が形成されたので、周辺の朝鮮半島諸国や日本は、大変な緊張を強いられることになりました。そういう中で、難波の位置は非常に重視されたわけです。
 さらに8世紀になり、律令制が充実し、いわば難波地域の重要性はピークを迎えます。

 以上から、難波は、国家権力によって形成された港湾都市としてスタートし、国家権力との関係を軸に、その後も発展してきたと言って過言でないと思います。しかし、その面のみに注意をするのもやはり正しくありません。

 そのような国家や権力による難波の開発に対して、それ以外の動きもありました。

 たとえば、漆部伊波(ぬりべのいわ)という人物が、難波に経済的な拠点を持っていたことが知られています。彼は、遠距離商業を大規模に行っていたことが別の史料によって知られる人物です。 史料が乏しいので断定できませんが、民間人による難波を拠点とした大規模な経済活動が行われていたということは、十分に想像することができます。
 この点は、難波という地域の性格を考えるうえで重要と考えますが、実態を明らかにすることができないのは残念です。

河内平野の「池溝開発」
 池溝開発とは、灌漑用の貯水池や水路を構築・築造することです。
 この治水事業によって、使いものにならなかった河内湖周辺の湿地帯が豊饒の大地に生まれ変わり、当然ながら民衆も嬉々として労役に就いたと思われます。

  仁徳は徳のある君主であったと言われるが、これは後世、儒教の影響で仁政が求められてからつくられた説話に過ぎません(第98回・112回・122回ブログ)。
 本人が実在したかどうかも含めて、仁徳の業績は明確ではありません。
 しかし遺跡などの状況から、仁徳が在位したとされる時期(王権が河内平野に進出した5世紀前半)以降に、以下のようなインフラの整備が進み始めたことは確かでしょう。

 日本の米作りは縄文時代晩期から始まったようです。
 水田稲作の歴史は水との闘いで、最初は小川から水を引き、窪地につくった溜池から水を導いて灌漑していました。古代において溜池や重力灌漑は稲作振興の必須条件でした(第23回・88回ブログ)。

 5世紀になると、多くの労働力を集約できるようになり、また池溝の築造技術や止水技術が進み、農業用の大規模溜池をはじめ大型の水利土木工事が行われます。

 『歴史の謎はインフラで解ける』(大石久和・藤井聡編著)によれば、次のような表現となります。
 <稲作は大陸から輸入されたとしばしば指摘される。それはもちろんそうなのだが、それを日本に定着させたのは土木の力であったことは、しばしば看過されているようだ。つまり、土木の力がなければ、どれだけ稲作が輸入されようが、日本に定着することもなく、わが国が「みずほの国」となることもなかったのである>。

 こうして池溝の築造技術や止水技術によって水田稲作などの農業がさかんになりましたが、ほかにも多くの手工業が新たに配置され、技術革新を加速することになります。これについては次回のブログで言及します。

 難波堀江の開削のほかにも、淀川の氾濫を防ぐために茨田堤を築き、小碕堀江などの護岸工事が行われました。そこでは、渡来人が伝えた敷粗朶・敷葉工法による築堤が威力を発揮します。

 河内湖沿岸では大規模な干拓が行われ農地開発が進みます。河内平野の拡大により、物部・大伴・土師などの諸豪族も領地の開発を進めたことでしょう。

 ちなみに、崇神紀に記された狭山池については、20世紀末のダム化工事の際に古墳時代の遺構が見つかり、約1400年前に造られたのではないかと推定されました。たまたま見つかった樋の年輪年代測定の結果だけなので確実とは言えないが、どうやら7世紀初めの築造だった模様。

 飛鳥時代に「敷葉工法(しきはこうほう)」を用いて築かれた狭山池の堤は、改修をくり返して現在まで使われ続けて来ました。


 <狭山池博物館・狭山池北堤の断面>

 


 <堤防の断面>

 狭山池だけではありません。飛鳥時代には推古(554~628年)が蘇我馬子とともに、緊迫する国際情勢の中で、内政・外交とも困難なかじ取りを担う一方で、道路整備や農業振興のための池溝開発を大規模に推進します。そうした動きは、豪族連合という国家体制から脱却し、中央集権国家を目指す推古の強い意志を示しているとみられます。

 続いて、『記・紀』に記載された池溝の築造・築堤のうち、多少とも経緯が追える事例を幾つか確認してみます。

茨田堤と茨田屯倉
 難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたので、治水対策を兼ねて河内平野では様々な開発が積極的に推進されました。
 まず、茨田堤の築堤は、難波堀江の掘削とセットで、淀川河口部から下流域左岸の低湿地帯の開発の一環として行われたと考えられ、それは5世紀半ば頃とみられます。
 草香江に流入する淀川の流路を安定させるためと考えられ、茨田の堤防は当時の淀川分流の流路に沿って20キロ超にわたって築かれ、その痕跡は大阪府寝屋川市あたりを流れる古川沿いに現存しています。
 京阪電車大和田駅の東北にある堤根神社の本殿裏手には、茨田堤跡と推定される堤防の一部が現存しています。

 これは日本最初の大規模土木事業の可能性があり、大勢の秦人(はたひと)を使役したと考えられます。
 このような長大な堤防を築造するには高度な築造技術が必須ですが、「丸いヒサゴを浮かべて沈めば神の意志、沈まなければ偽りの神」と言って、人柱にならずに済んだ物語があるほどの困難も伴なったことが、『日本書紀』仁徳紀には描かれています。
 これはそのまま史実とは言えないものの、このような難工事の様子が7、8世紀の人びとに伝わっていたものと思われます。

 『日本書紀』では、茨田堤が築造されて間もなく、茨田地域の開発が進み茨田屯倉(まむたのみやけ)が立てられたとしていますが、ヤマト王権による屯倉の設置が本格的に進むのは、もっと後の世のことになります。

小椅江(おばしのえ)
 小橋(小椅)は東成区東小橋。猪甘の津はここ猪飼野(現在の桃谷3丁目を含む一帯)がその伝承地です。
 今は大阪市天王寺付近の運河ですが、此処に流れていた頃の平野川(旧大和川)に架けられた橋で、昭和になって橋跡の碑が建てられ、その一帯は「つるのはし跡公園」となっています。『日本書紀』に「猪甘津に橋を渡し小橋と号す」とあるのは「つるのはし」のことで、「猪甘津の橋」の古跡とされ、記録に残る架橋としては日本最古です。

 5世紀には、ここより少し北の辺りは「小橋の江」と呼ばれた入江であって、そこに百済川(のちの平野川)が注いでいたと考えられます。その河口付近は、人や物資を運ぶ船の盛んに出入りする港として栄え、「猪甘の津」と呼ばれていました。
 その港は、高津宮からの道路が通じており、そこから河内・大和方面への交通路をひらくために橋がかけられたと考えられます。ただ、この工事が仁徳の頃であったのかどうか。筆者は難波堀江や難波津が完成する5世紀半ば以降のことと考えます。

住吉津(墨江の津)
 
住吉津の初見は『日本書紀』雄略14年(470年)で、呉に派遣されていた身狭村主青(むさのすぐりあお)らが呉の使者を連れて住吉津に帰って来たが、飛鳥の都への路が整備されていなかったので、新たに道が造られ(呉坂)、磯果道(しはつみち、磯歯津路)を開通させたとあります。
 呉国から漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫兄媛弟媛らを伴って住吉津についたとの伝承もあり、すでに難波津は出来ていたものの、遅れて港湾整備が進んだ住吉津も渡来人を迎える港として使われたようです。

 「住吉」は平安時代頃まで「すみのえ」と呼ばれており、「墨江」「清江」とも表記されていました。

 住吉津は、上町台地の南西端、現在の大阪市住吉区を西流する細江川(通称・細井川)の河口に形成されていた住吉の細江と呼ばれる入江にあったと思われます。そこは今の住吉大社の隣接地です(ネットから転載した下図参照)。

 

 住吉大社境内にある反橋のかかる神池は、まさに古代のラグーン(潟湖)の名残で、ラグーンから独立した池に変わったのは14世紀半ば以降のことです。


 <住吉大社の神池に架かる反橋>

 せっかくなので、ここで住吉大社について若干言及します(当社を含め、全国の有名古社についてはいずれ集中的に、詳細に言及する予定。今回は住吉大社の立地に関係する部分のみ言及)。

 住吉大社は海の民であった津守氏が奉斎した神社です(第68回ブログ)。
 現在の住吉大社は海岸から7キロほど離れ市街地に囲まれているが、古代は社殿のない神域のすぐ西側まで海が広がっていました。
 境内の正面には路面電車の阪堺電軌が走り、その西側は、かつては境内であった広大な住吉公園です。参道はその住吉公園を起点に東に向けて続いています。
 巨大な石灯籠が林立する表参道、正面鳥居、急勾配の反橋、四角柱の「住吉鳥居」、幸壽門を経て本宮のある神域に入ります。本殿は、手前から順に第三本宮、第二本宮、第一本宮と縦一列に西向きに並ぶ異色の配置で、第四本宮だけは第三本宮の横に配置されています。
 西向きは大阪湾方向であり、当然、海との繋がりの強さを表したものと言えそうです。当然、このような住吉大社のあり様は8世紀以降、現在までに逐次拡大されてきたもので、5、6世紀当時は大阪湾に面して、社殿はなく住吉大神を祀る祭場のみが存在していたと思われます。
 難波津には海や航海の神々は見あたりませんが、住吉津の近くには住吉大社の他にも、大海神社、船玉神社など海の神を祀る神社が多く鎮座しています。

依綱池
 『記・紀』では崇神や仁徳の時期に築造されたことになっています。
 『古事記』では崇神の時に「依網池を造る」とあり、『日本書紀』応神紀には「水渟(たま)る依網池に蓴(ぬなは)繰り・・・」と返歌したと記されています。また、推古の代にも「依網池をつくる」とみえます。
  崇神・仁徳や応神の記事は造作と言えますが、推古の頃には狭山池が造られていたので、依網池も7世紀初頭には存在していたと考えるのが自然です。実際にはどんなに早くても5世紀末以降の工事で7世紀初頭にかけての造成と思われます。

 依網池は、現在の大阪市住吉区にある大依羅神社付近に位置し、堺市まで広がる大きな池であったと推定されています。瀬戸内海東岸に位置する当地域は比較的雨が少ないため、段丘面に溜池が多く築造されています。こうした環境のなかで、依網池は、狭山方面から流れる西除川の河水の一部などを集水して、池の北部および東部の中位段丘の耕地開発や灌漑のために築造されたと想定され、この流れは住吉大社の門前まで住吉掘割として導かれたものと思われます。
 18世紀初頭に行われた大和川の付け替え工事により、水源がなくなり次第に縮小し、再三にわたる埋め立ての繰り返しによってその面影は失われて今では完全に消失しています。

築堤や道路敷設の技術
 第107回ブログで言及したように、大規模土木工事には、土嚢・土塊積み技術の他にも敷粗朶・敷葉工法(しきそだ・しきは)があり、いずれも代表的な築堤技術として渡来人によってもたらされました。
 敷粗朶工法は切り取った木の枝を敷きつめ、敷葉工法は枝葉や草本を敷きつめるので、技術的には共通し使われる素材が違うだけなので、あわせて敷粗朶・敷葉工法と呼ばれます。

 敷粗朶・敷葉工法と版築を併用した代表例は天智天皇治世の「筑紫に、大堤を築きて水を貯えしむ」と記載された福岡県の水城(みずき)が挙げられます。

 敷粗朶・敷葉工法は古代シナのおそらく後漢時代には使われていたようで、3世紀の百済にも確実な使用例が見つかっています。版築の伝来ルートと同様にシナから朝鮮半島を経由して日本に伝わったと考えられます。
 日本列島への渡来人については4世紀末から5世紀初頭に第一波、その後も百済や伽耶諸国の政情不安や滅亡などに伴ない、断続的な渡来があったと推定でき、この過程で敷粗朶・敷葉工法がもたらされたと考えられます。

 日本での使用例で最古のものは4世紀の久宝寺遺跡(第82回・102回ブログ)に見られます。
 大阪府八尾市の亀井遺跡(古墳時代)でも、敷葉工法で造られた巨大な堤(5世紀末から6世紀初頭)が見つかっており、中河内・南河内地域では、渡来人が保有する土木技術をさかんに治水に利用したようです。
 茨田堤も、5世紀に伝来した敷葉工法を使用した最新式の堤であり、その築堤は、前述したように秦の民などの渡来人が行ったと考えられます。

 その後は、前述した狭山池(7世紀初め頃)で、古墳の築造技術で使われた土嚢・土塊積み技術と敷粗朶・敷葉工法を組み合わせた築堤技術が採用されているようです。

 敷粗朶・敷葉工法は築堤だけでなく低湿地に道路を敷設する際にも有効でした。

 列島最古の例として7世紀の阿倍山田道(磐余の道とも)があるが、そこでは敷葉工法で一層分を敷きつめ、その上に砂質土と粘質土とを交互に盛土し、さらにその上に小礫を貼りつけたりしていたようです。

 この他、古代山陰道などの道路遺構でも確認されているため、官道などの主要道路の敷設には大和政権が先端土木技術を管理・掌握し各地に供与されていたと思われます。

 古墳時代の道路跡が見つかることは非常にまれなこととされますが、葛城氏の本拠地では、5世紀の葛上斜向道路の痕跡が発見されています。7世紀半ば以降の官道と同じような工法でつくられた本格的な道路だといいます。敷粗朶・敷葉工法とまではいきませんが、軟弱な地盤の箇所は、土の入れ替えや路面に砂を入れたりして、崩れにくくぬかるみにくい道路としたようです(第44回・125回ブログ)。

 巨大構築物とアイデンティティの構築
 今までのブログで言及した内容を再掲します。
 応神・仁徳の時代と伝わる5世紀、膨大なマンパワーを投入して造られた大規模古墳、道路、人工池、干拓地、治水・堤防などの巨大人工物は、血縁を超えて集まった人びとの中に、「公のこころ」が芽生えるきっかけをつくったものと思われます。

 多くの人工物とソフトウエアが、血縁関係にないたくさんの人々が知を共有し仲間意識を醸成し、集団のアイデンティティをつくり上げるときの大きな拠りどころとなったはずです。巨大人工物は決して軍事と独裁の上に成立したのではないと断言できます。

 大型前方後円墳は、葬送儀礼を行う際に首長一族の威信を広く誇示するものでしたが、5世紀にはひときわ大きな前方後円墳(巨大古墳)が築かれます。これは、河内で大規模な開拓と多くの産業を興したヤマト王権の権勢を誇示する記念碑的営造物の意味が大きかった。特に王位継承争いなど王族間の覇権争いが、前方後円墳の巨大化の背景にあったと考えられます(第104回ブログ)。
 巨大古墳の築造が大型水利土木工事で発生した土砂の処分場を兼ねたという見立てもあります。

 この時代、ヤマト王権に限らず各地域国家においても、国の枠組みの形成やアイデンティティの構築に、記念物や政治ショーが果たした役割は大きかったと思われます。上位者から一般民衆まで、構成メンバーの一員であることを意識させ、自らの位置づけを納得させるのに大いに寄与したと言えましょう。

 

参考文献
『古代の港湾都市難波』栄原永遠男
『土木技術の古代史』青木敬
『歴史の謎はインフラで解ける』大石久和・藤井聡編著
その他ネット情報など多数