理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

130 ヤマト王権主導の技術革新(2)


 <真山神社>

 5世紀には様々な分野で技術革新がありました。
 そのうち前回までに、古墳築造や池溝開発などの大規模土木工事に言及したので、今回は産業・手工業面での技術革新について確認したいと思います。

 ここでは、窯業生産(須恵器、埴輪)、鍛冶生産、玉つくり、馬匹生産と騎馬技術、製塩技術について、そしてそれらの手工業生産を計画的に配置したヤマト王権のリーダーシップについて触れてみます。

 まずは須恵器生産について確認します。

須恵器生産
 須恵器は、火力のコントロールが可能な窖窯(あながま)によって生産されるので、それまでの土師器と比べて焼きむらがなく、全体を均質な赤褐色に焼き上げることが可能で、損耗率も下がり大量生産体制が整うことになります。しかも須恵器は堅牢で耐水性に優れ、液体などの貯蔵に適しているので、6世紀にかけて各地に伝播しました(第108回・116回ブログ)。

 朝鮮半島の陶質土器に系譜を持つ須恵器ですが、初期のものは九州北部、瀬戸内、大阪湾沿岸、伊勢湾岸などで生産されたようです。


<初期須恵器の分布(菱田哲郎氏の著作を改変)>

 須恵器生産は4世紀末から5世紀前半には始まっていたとされますが、ほとんどの地域で、単発で小規模の生産にとどまっています。これに対し、大阪府の陶邑窯跡群では当初から抜きんでた規模を持ち、計画的な生産が行われ、陶邑のある各丘陵上で場所を移動しながら生産を継続しています。

 河内平野の北に位置する千里窯跡群でも、陶邑窯跡群と同様に継続的な須恵器生産が認められます。

 陶邑が主導して各地に須恵器生産が伝播したという形跡は認められません。
 一方、陶邑から技術者を迎えて独自の発展を遂げたのは、名古屋市北方の猿投山西麓の須恵器窯で、5世紀末頃から尾張型埴輪がつくられ始め、滋賀・山城・福井などに広がります。この猿投(さなげ)埴輪の分布は6世紀の継体大王の勢力圏に広がっているのがポイント(第108回・110回ブログ)。

 河内平野での窖窯焼成の埴輪は、須恵器生産の導入前後から始まり、4世紀半ば以降の古市古墳群・百舌鳥古墳群に供給されます。

 古市古墳群では、5世紀における埴輪生産拠点は土師の里窯・誉田白鳥窯、6世紀前半になると野々上窯に移ります。百舌鳥古墳群では大仙古墳に向けた梅町窯があり、6世紀には日置荘窯が存在します。これらの窯では埴輪だけでなく、規模は小さいながらも古墳の副葬に向けた鍛冶生産や玉つくりも行われていたので造墓工房とも呼ばれます。

 大阪府高槻市にあって、日本最大級の埴輪生産地であった新池埴輪窯は5世紀前半に始まり、6世紀前半まで稼働しています。窯から1キロの距離にある太田茶臼山古墳の築造と連動し、6世紀には今城塚古墳の埴輪供給拠点として隆盛します。

 

鍛冶生産
 日本における鉄とのかかわりは、鉄製完成品・スクラップの輸入紀元前3世紀頃から始まり、次に鉄器や鉄素材に熱を加えて好みの形にする鍛冶が、紀元前後に九州北部から東へと伝播します。鍛冶は5世紀頃に一大画期を迎え、6世紀頃には自ら鉄素材を作りだす製鉄(製錬)が始まり、やがて朝鮮南部依存から脱して自給に到っています。
 これらはいずれも考古学的な知見によるものです(第28回~30回ブログ)。

 日本列島における製鉄の開始は、現在見つかっている遺跡から判断する限り、6世紀後半ということになります。今のところ、たたらを使う製鉄工房の跡としては、千引カナクロ谷遺跡(原料は鉄鉱石)や遠所遺跡(原料は砂鉄)などが最古とされます。
 今後、各地で発見が進めば、技術革新期だった5世紀頃まで遡る可能性は高いし、零細規模であれば、すでに3世紀頃の可能性を指摘される製鉄遺跡が発見されています(第28回~30回ブログ)。

 しかし、それ以前は鍛冶の時代ということになります。

 朝鮮半島南部の辰韓・加耶との交流が始まり、4世紀半ばには加耶が鍛冶加工された薄い鉄板(鉄鋌)の供給基地として登場し、渡来人の交流と共に大量の鉄鋌が鍛冶原料として持ち込まれるようになります。

 3世紀には九州北部に鉄の先進地が生まれ、5世紀には瀬戸内・出雲・吉備・畿内へと広がっていきます。

 5世紀が鍛冶における一大画期とされるのは、鉄製の鍛冶具が出現するからです。それ以前の原始鍛冶は、鉄製の鍛冶具がなく、床石の上に焼けた鉄を置き、丸石で鍛いていたようです。金箸もなく竹や木の棒を使っていたと思われます。
 鉄製鍛冶具の出現によって鍛冶の生産効率は飛躍的に高まり、6世紀にかけて大規模な鍛冶工房が列島の各地に展開していくのです。

 さて、5世紀の畿内ですが、鉄滓の量が格段に多く見つかっている遺跡として、大阪府の大県遺跡・森遺跡・奈良県の脇田遺跡(忍海)・南郷遺跡群・布留遺跡などがあり、これらの地域に大規模な鍛冶工房があったと認められます。いずれの遺跡においても初期須恵器が確認できるので、鍛冶の始まりが5世紀前半であったと推定できます。

 これらのうち南郷遺跡群は短命に終わるが、他はいずれも継続的な生産が見られます。


 <ヤマト王権傘下の手工業拠点>

 特に、大県遺跡のような大規模な専業鍛冶集団は、南北800メートルの範囲で場所を移動しながら8世紀まで生産を継続していたようです。

 布留遺跡では、武器が製作されていたと推定されます。刀剣の木製装具には漆が塗布されているので、甲冑や盾などの武具に不可欠の漆の技術も存在したと推定されます。また鍛冶生産以外に、銅や玉つくり、ガラスなどの手工業も行われ、ほぼ鍛冶に集中する大県遺跡とは際立った違いが見られます。5、6世紀を通して生産は継続します。

 南郷遺跡群も武器を含む多様な生産活動を行っていたようで、銅、銀滴、玉つくり、ガラスなども生産しているが、そのピークは5世紀前半にあるようです。

 布留遺跡や南郷遺跡群は武器づくりを中心として、幾つかの生産分野が集合した工房といえます(菱田哲郎氏は「造兵コンプレックス」と呼んでいる)。

 森遺跡は交野市の天野川沿いに展開する大規模鍛冶工房です。交野地域には4世紀の古墳や遺跡が天野川に沿って存在しているので、交野地域の開発はまず天野川流域から始まったと考えられます。
 そして、森遺跡は、突如5世紀後半から末にかけて鍛冶生産を開始します。
 6世紀の遺跡からは大量の鍛冶関連遺物が出土し、鍛冶製品の生産・加工集団とそれを管掌する物部氏やその支族が存在したと考えられます(第80回・102回ブログ)。

 森遺跡の近くの上私部遺跡(かみきさべいせき)は、6世紀になって多数の掘立柱建物が計画的に広がり、そこから新羅土器が出土しているので、鍛冶集団を束ねる渡来系氏族の首長の拠点であったとも考えられます。

 

玉つくり
 玉つくりは4世紀以前から行われてきました。
 素材の原産地が姫川・青海川流域に限られる硬玉ヒスイ(第50回ブログ)と同様に、多くの玉石は素材の産出地が異なるため、縄文・弥生時代以来、素材が入手しやすい場所で生産(玉つくり)されてきました。

 4世紀からさかんに玉つくりが行われてきた橿原市の曽我遺跡(第110回ブログ)では、5世紀前半になると、碧玉・グリーンタフ・硬玉・メノウ・水晶・琥珀・滑石などの様々な素材を原産地から運び込み、さまざまな玉を組み合わせて装身具を製作する集約的な玉つくりが始まり、5世紀後半が最盛期とされています。大和盆地では最大級の玉つくり工房で、その管理・運営を任されたのは忌部氏です。

 曽我遺跡のように複数の素材を扱った玉つくり遺跡は、他にも八尾市の万福寺遺跡や大阪市の森ノ宮遺跡(摂津の玉造)があります。

 

馬飼い・騎馬
 第48回ブログで言及したように、5世紀頃になって、馬の飼育という新しい文化が朝鮮半島から持ち込まれ、馬の活用が急激に広がっていったと想定されます。
 この契機となったのは、400年と404年の対高句麗戦で、日本は軍事における馬の重要性を痛感、以後、国策として馬産地を各地に展開するなど軍事国家の色彩を強めていったわけです。この間、百済や加耶諸国は日本に専門家を派遣するなどして、大規模な馬産地づくりに協力し、馬具の生産技術などを教えます。
 このような経緯から、5世紀には北河内を中心とする淀川流域に牧が展開します。

 馬骨や木製馬具の出土に加えて、馬の飼育に必要な塩の入手に使われる製塩土器の出土などから、牧の集落遺跡跡が推定できます。
 河内湖北岸の蔀屋北遺跡(しとみやきた)では埋葬された馬や多量の製塩土器が出土しています。

 当地域には文献から讃良馬飼(さららうまかい)・菟野馬飼(うのうまかい)などの馬飼集団が存在したとされており、考古資料との一致が見られます。
 これらは「近都牧」と呼ばれますが、それらの牧は、大和川が何本もの川筋になって河内湖に流れ込む流域、さらに瀬戸内海に流れ出る淀川の両岸、河内湖のほとりのような低湿地に集中していました。渡来人による茨田堤の築堤と軌を一にして牧の設置が可能になったと推定されます。
 河内馬飼は、馬の文化が入ってから半世紀後の継体の時期に重要な役割を担うことになります。

 

製塩
 土器による製塩(第47回・57回ブログ)は、東日本では縄文時代から始まっていますが、西日本でも弥生時代中頃から瀬戸内海の備讃瀬戸及び紀淡海峡付近で始まりました。これを担ったのは漁労専業で海上漂泊し、ほとんど陸に依存しなかった海の民です。
 その後、畿内や吉備などに塩を必要とする人が大勢住むようになり、藻塩焼きをするために海の民も次第に定住するようになったと言われています。

 5世紀になると備讃瀬戸の製塩遺跡は激減し、代わりに紀淡海峡付近の製塩遺跡が活性化します。
 馬の飼育のために河内に運ばれた製塩土器もこの地域で生産されたものと思われます。

 

ヤマト王権による様々な手工業生産の計画的配置
 以上のように、5世紀前半から中頃には、大和盆地と河内平野の各地に、様々な手工業生産拠点が形成されています。

 窯業生産・鍛冶生産・玉つくり・馬匹生産・塩生産などは、計画的に配置されたと考えられ、ヤマト王権に一定の強制力をもって土地利用をデザインする力が備わるようになったと説くのは菱田哲郎氏です。

 陶邑窯跡群や大県遺跡などは律令期の手工業生産の母胎となっていくことから、生産の継続や拡大まで見込んで立地したと考えられる。

 古市古墳群・百舌鳥古墳群の築造範囲がそれぞれ4キロ四方ほどの範囲におさまるのも、計画的な配置を物語るのかも。

〇 それぞれの生産開始時期が5世紀前半から中頃にほぼ揃うことは、渡来技術者の定着も含めて、生産を計画的に配置する準備が整った結果、一斉に大規模生産が始まったと考えられる。これらの地域はヤマト王権にとっての支配領域の確定という意味で重要。

 5世紀のヤマト王権内での諸生産は、それぞれの職掌をもって王権に奉仕する豪族集団が担ったと考えられるので、6世紀になって成立する氏族の名で示せば次のようになりそうです。

  南郷遺跡群⇒ 葛城氏
  布留遺跡、大県遺跡・森遺跡などの鍛冶関連の生産遺跡⇒ 物部氏
  曽我遺跡⇒ 忌部氏
  古市古墳群・百舌鳥古墳の造墓に関連する生産⇒ 土師氏
  陶邑窯跡群の須恵器生産⇒ 大伴氏
  紀淡海峡の製塩⇒ 紀氏
  北河内の馬飼⇒ 河内馬飼氏

 


 <畿内の氏族分布>

 大伴・物部・忌部・土師の各氏はいずれも連(むらじ)を姓(かばね)とする豪族で、姓が職掌をよく反映していることがうかがえます。

 

技術革新の5世紀
 これまでのブログで検証したように、どうやら5世紀のヤマト王権は一本化されておらず、3~4つの系統が併存し、それぞれ確執があったと考えられます。盤石な体制とは言えないヤマト王権だが、総体としての権力基盤は5世紀に大きく強化された。技術革新がそれをもたらしたといえます。
 ともすれば古墳時代というと「古墳そのもの」にばかり目が向いてしまうが、それでは古代史として片手落ち。むしろ5世紀以降6世紀にかけては、技術革新に磨きがかかり、多様で旺盛な経済活動、社会活動が行われた側面を評価すべきでしょう。

 以下は繰り返しになりますが……。
 朝鮮半島では、高句麗の南下で百済が危機に瀕する。これを機に百済は、朝鮮半島に出没していた日本の軍事力を利用し、日本は、見返りとして鉄と先進的文物を入手するという相互扶助関係が成立した。

 4世紀末から5世紀初めにかけて、日本は広開土王の高句麗に大敗したが、一方で、見返りの利得は大きかった。直後の5世紀には、朝鮮から先進的な技術・文物、生活様式などが空前のスケールで列島に流れ込んできた。これらのことは今までのブログで再三言及しました。

 交易の増大や戦利品の獲得もあったが、渡来人により技術が直接伝来したことが、河内平野の大規模土木工事・農地開発・産業振興へとつながった。

 鍛冶生産においては大きな技術革新があり、本格的な製鉄技術が持ち込まれた。さらに韓式土器を改良した須恵器が堺市の陶邑古窯群で量産されるようになった。農業においては、鉄製U字型刃先を持つ木製農工具や曲がり鎌が導入され、農業が飛躍的に効率化した。竃をもつ竪穴住居が広まり、馬の飼育や利用のノウハウも伝わった。

 そして、王権に奉仕する諸生産が、大和・河内地域を中心とした地域に一斉に計画的に配置された。王権の権力基盤が飛躍的に強くなったため、生産地を配置できるだけの統治力(いまだ大和盆地・河内平野に限られるのだが)がそなわったのである。

 しかしこの時期の王権は、国家の基本要件を満たしていたか疑問で、いまだ国家成立の萌芽期だったと言えましょう。

 国家の基本要件は、
①地域内と民の排他的な統治
②軍隊や警察などの公的権力の存在
③権力維持のための租税
④官僚制度の存在
の4項目です。

 

ヤマト王権VS地域国家
 この先のブログでは、第100回ブログで言及したことを検証していきます。以下のような視点で……。

 4、5世紀におけるヤマト王権の優位性は間違いないが、ヤマト王権と地方首長との関係は多様であって、また日本列島内の地域社会の進化の筋道もいろいろあったと捉えるべき。
 5世紀頃までにヤマト王権は畿内をおさえ、鉄や須恵器などの製造の集積を図り技術面で突出する。
 一方、地域国家をみると、それらの技術を筑紫・吉備・葛城などは朝鮮半島から直接入手したのに対し、山陰や北陸はヤマト王権に依存しつつも朝鮮半島からも直接入手し、近畿以東の近江・伊勢・尾張・関東などの勢力はヤマト王権に依存する度合いが大きかった。
 日本中が大和地域を向いて一色に染まっていたわけではない。今後のブログではその辺を重点的に確認していきたいと思います。

 5世紀半ばまでのヤマト王権は、鉄器生産・造船技術・古墳祭祀などでリードしたものの、それを独占できる立場になかったし、網の目のようにからみあった分業体制も存在した。大和地域も他の地域国家から多くの分業の成果物を得ていた。地域国家同士の間も同様で、言うなればヤマト国も含めた各地域国家は、複雑な多極的流通ネットワーク・分業ネットワークで結ばれていたといえる。

 3、4世紀の古代日本においては、地域ブロック内での戦闘はともかく、広域に大規模な戦争や権力の移動が起きたという痕跡は発見されていない。
 日本に統一国家的な動きが見られ始めるのは、鉄の国産化によって陸路・海路の啓開が飛躍的に進む5世紀後半の雄略以降。
 また、瀬戸内ルートの利用拡大については、雄略が、あたかも関所のように構えていた吉備の勢力を押さえ込んだことも大きな要因といえる。

 あたかも点在する島々のように、自然の障壁によって隔てられていた地域国家が、陸路・海路という太い線で結びつき、ついには面を接するようになる。交易や局地戦争を通じて相互の関係を深め、その中で突出したヤマト王権が統一国家に成長していった。

 理系の視点で眺めると、ヤマト王権の統治は、長い時間をかけてゆっくりと進んだとしか思えない。筆者は、3世紀から4世紀前半のヤマト国に格別の卓越はなく、中央集権の完成には数世紀もの長い年月を要したと考える。

 5世紀後半のものとされる埼玉稲荷山古墳の鉄剣や熊本江田船山古墳の鉄刀(いずれ詳述の予定)に、雄略との繋がりがうかがえることから、ヤマト王権がそれらを含む広域に支配権を確立していたとも言われます。
 しかしヤマト王権は5世紀頃までかけて徐々に版図を拡大していったが、6世紀になってもなお、盤石な政権基盤は確立されていなかった……というのが版図拡大の実像でしょう(第99回ブログ)。
 6世紀になっても、各勢力の拠点はモザイク状になっているのです。

 4世紀末から5世紀半ばまでの状況は、物部・和珥・大伴・葛城・紀・吉備などの先祖筋とも言うべき勢力や彼らの同族が西日本各地に交易拠点を確保していて、まったく独自に、あるいはヤマト王権(「さき」の王権や河内の王権)と協調して、あるいは争うようにして、朝鮮半島と通交していたと考えられます。
 彼らは大和盆地や河内平野に留まっていたわけではなく、海外との通交に当たっての出先機関・中継地や、国内各地との通交の拠点をあたかもモザイク状のように、各地に、独自に、設けていたのです

 さらに言えば、上野や若狭・越前あたりの豪族も独自に半島と通交していた可能性が高いです(第99回ブログ)。

 つまり、ヤマト王権一色に塗りつぶされた版図は考えられないのです。今後のブログで言及します。

 

富雄丸山古墳
 このブログを綴っている最中に、宝来山古墳(垂仁天皇陵)から西南西方向3キロほどのところに位置する富雄丸山古墳で大発見があったというニュースが飛び込んできました。
 4世紀後半の築造で、円墳としては国内最大級(109メートル)とされていたわけですが、その「造り出し」部分で埋葬施設が見つかり、内部から鉄剣としは国内最大最古の蛇行剣(だこうけん、長さ237センチ)と、精緻な文様が施された盾形の青銅鏡が見つかったとのこと。

 いずれも国産とみられ、古墳時代前期の金属器としては国宝級の傑作と評価され、当時の生産技術の高さを示す極めて重要な発見といいます。特に銅鏡は通常は円形で盾形のものは類例がないというから興味深い……。

 富雄丸山古墳は大和盆地北部の佐紀古墳群から暗峠を越えて河内平野までを結ぶ交通(308号線沿い)の要衝地にあります。それにしても佐紀古墳群からは少し離れているなぁ。古市古墳群と百舌鳥古墳群の間の空白部にポツンと位置する河内大塚山古墳のよう(第120回・121回ブログ)。

 筆者としては、ちょうど4、5世紀の生産技術について纏めているところなので、造形美も兼ねそなえた遺物が極めて高度な生産技術でつくられているとの解説に関心を持っています。
 第88回ブログでは、大和盆地(田原本)の鏡づくり集団の存在に言及しました。今回のブログでは布留遺跡の刀剣づくりにも言及しています。これらが関係するのでしょうか。

 今のところ、被葬者は不明とされていますが、早くも、ヤマト王権の中枢を構成した有力者で、工房を管理する役回りの人物であるとか、ヤマト王権の象徴である前方後円墳ではなく円墳であることから、神武の大和入りを阻止しようとしたナガスネヒコ(第80回ブログ)の伝承が生まれるもとになった人物ではないかなどと、古代史の世界では久しぶりの大発見に盛り上がっているようです。

 果たしてこれが4、5世紀の古代史に新たな視点を提供することに繋がるのか、古代史狂騒曲(第17回ブログ)に留まってしまうのか、筆者は論戦の推移を冷めた目で楽しみに見守っていくつもりです。

参考文献
『埴輪は語る』若狭徹
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
他多数