理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

132 5世紀の吉備勢力


<偕楽園の梅>

 吉備地域は、3世紀頃から5世紀にかけて、政治的にも文化的にもヤマト王権(ヤマト国)に対峙する勢力圏を形成していました。もちろん、それ以前からの蓄積があったからです。例えば水田稲作の開始時期です。
 岡山市の旭川右岸に広がる津島遺跡の水田遺構は、佐賀県唐津の菜畑、福岡市の那珂・板付などに、さほど遅れない時期に始まっています(第60回・111回ブログ)。また、他の地域を凌ぐような数々の精巧な木製品も出土しています。
 その延長線上に、国内最大規模の楯築墳丘墓(足守川流域・双方中円形墳丘墓・全長80メートル)が出現するわけです。

 3、4世紀頃の吉備地域には、吉井川、旭川、高梁川、足守川の流域ごとに個別の生産基盤をもつ集落遺跡が存在し、そのそれぞれが、日本海側から文化・技術を吸収し、大和を含む他地域とも通交して、主体的に前方後円墳、前方後方墳、方墳などを採用していたと考えられます。
 この状況は、権力者同士の競争原理が働いており、吉備全域を支配し海外とも通交した吉備の王は存在しなかったことを示していると思われます(第111回ブログ)。
 その後、4世紀後半に集落遺跡は衰退し人口が減少するが、5世紀になると3基の巨大前方後円墳(造山古墳、作山古墳、両宮山古墳)が出現し、吉備氏が吉備地域の雄として歴史の表舞台に登場したと推測できます。ただし、この吉備氏は単一の「氏」ではなく、幾つかの地域氏族の総体であった可能性が高いと思われます。

 第111回ブログで、「3、4世紀までの吉備」には触れているので、今回のブログでは、「その後の吉備」について確認していきます。

交通インフラの要衝地としての吉備
 吉備氏は備中国下道郡と備前国上道郡を本拠とし、5世紀には、地方豪族としては最大の勢力を誇ります。
 このように吉備地域が繁栄した大きな要因を探ってみます。

 吉備氏が勢力を張ったのは、吉備の穴海に面した平野部です。吉備の穴海は、今ではその大半が埋め立てられて、現在は岡山平野南部となっています。吉備の穴海の南にあった吉備子洲(きびのこしま)も本土とつながって児島半島となり、吉備の穴海は小さな児島湾となって現在に至っています。
 この吉備の穴海の北側の平野部こそが一大勢力を誇った吉備氏の勢力の基盤となります。

 吉備氏繁栄の背景としては、中国地方の中では比較的広い岡山平野・総社平野をベースとした農業生産力製鉄・製塩などが挙げられますが、いずれも決定的なものとは言えません。
 吉備氏が突出できた最大の要因は、物流の結節点となったことにあります。そこはちょうど吉井川、旭川、高梁川という三大河川と足守川が吉備の穴海に流れ込む中下流域一帯にあたり、瀬戸内と内陸部・日本海側の南北を結び、また瀬戸内の東西を結ぶ交通の要衝地でした。

 新納泉氏によれば、現在の高梁川は、吉備高原を縫うように流れて総社市井尻野付近で総社平野に出て、そのまま南に流れて倉敷域に向かっているが、古代においては平野に出たところで東側に分流し、総社平野を蛇行して伸び、楯築の上流で足守川に合流していたと言います。だとすれば、楯築や造山・作山の背後には、高梁川も含めて河川で結ばれた広大な地域がひかえていたと考えることができるわけです。

 吉備の穴海は、瀬戸内海の中のさらに内海として海上交通を支え、荒れた海から逃れる港としての役割を果たしてきたわけです。


 <新納泉氏の著作から転載(・・・は旧高梁川の分流)>

 弥生末期までの吉備は吉備三川を使い、出雲の勢力とさかんに通交していましたが、5世紀半ばまでには、瀬戸内海航路を熟知した吉備一族が讃岐や九州中南部の肥後などとも通交し、朝鮮半島にも足を伸ばします。これは瀬戸内海ルートの掌握を目指すヤマト王権にとっても魅力的で、吉備氏は葛城氏に次ぐ重要なパートナーであったと思われます。
 というよりも実際は、ヤマト王権内で最大勢力を誇った葛城氏が、瀬戸内ルートの要衝に位置する吉備氏と連携することで、ヤマト王権の外交が支えられていたと考えられます。

 物流の要衝を抑えたことで、一時はヤマト王権に比肩するまでの勢力となった吉備氏ですが、基礎体力の差は大きく、危機感を抱いたヤマト王権による相次ぐ吉備攻略により、吉備の支配層は5世紀後半以降、大きなダメージを受けることになります。

 

3つの巨大な前方後円墳
 吉備地域では、4世紀前半の備前車塚古墳(旭川流域にある前方後方墳)や中山茶臼山古墳(墳長120メートル、「吉備の中山」山上にある前方後円墳)に続いて、5世紀になると、3つの巨大な前方後円墳が築造され、強大な政治権力があったことが想定できます。
 さらに吉備路を散策してみれば、巨大古墳の他にも備中国分寺や吉備津神社などの有名社寺が点在していて、はるか昔に吉備王国とも呼ぶべき一大勢力があったことを彷彿とさせます。

 まず巨大古墳について確認してみます。

 造山古墳(墳長360メートル、全国第4位、430年頃)
 作山古墳(墳長286メートル、全国第9位、440年頃)
 両宮山古墳(墳長192メートル、450年頃)

 造山古墳は、足守川の西岸部に位置します。そこは今の倉敷市・総社市に近い岡山市の西端部に当たります。採集された円筒埴輪には窖窯(あながま、第121回ブログ)で焼成されたものと野焼きの埴輪の両者が含まれているようで、古市古墳群の上石津ミサンザイ古墳より後の築造と想定されます。
 近傍の中小古墳からは肥後型横穴式石室や直弧文の存在が認められ、九州地方の強い影響のあったことがわかります。また金官国経由で造山古墳の被葬者が直接入手したと思われる遺物が出土しています。
 造山古墳の被葬者の名前を特定することは困難ですが、吉備地域で最初に広域支配を実現した初代の王墓であったことは間違いないでしょう。

 作山古墳は、造山古墳から西へ4キロ弱ほど進んだ、足守川と高梁川の中間のあたりに位置します。
 出土した円筒埴輪は窖窯で焼成されており、最終仕上げでおこなう横ハケの存在を併せ考えれば、誉田御廟山古墳とほぼ同時期の築造と想定できます。この時期としては誉田御廟山古墳に次いで日本第2位の規模を誇り、ヤマト王権と並び立つ王国があったと考えられます。

 造山古墳と作山古墳の築造時期は接近しており、所在地も近接しています。両古墳の被葬者に血縁関係があったかどうかは定かでないが、手工業生産においては共通の生産基盤があったと推定されるので、被葬者が兄弟関係であったのではないかという見解もあります。
 両古墳の被葬者は、高梁川河口部から下流部の東岸地域、足守川下流部西岸地域を直接の支配地域として、渡来人を居住させて、さかんな生産活動をおこなっていた可能性があります(後述)。
 これらの証左となる窪木薬師遺跡、高塚遺跡、長良小田中遺跡、菅生小学校浦山遺跡などが、造山古墳と作山古墳と同時期に営まれています。

 造山古墳・作山古墳の設計原理が、上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳と類似なので、ヤマト王権が承認して築造が可能になったのではないか、という議論がありますが、筆者は、吉備側の主体性や独自性をもっと考慮すべきと思います。
 さらに追記すれば、両古墳ともに日本有数の規模を誇りますが、古墳の規模は地域全体の力の反映であって、被葬者個人の権力の大きさを示すものではないと言えましょう。だからこそ、5世紀前半の吉備の勢力はとんでもなく大きかったと言えるわけです。

 両宮山古墳は、赤磐砂川中流の左岸に位置します。葺石や埴輪が出土せず、これは同時代の古墳としては珍しいことで、大きな謎です。
 近傍の遺跡からは新羅系の陶質土器、伽耶諸国系の韓式系軟質土器などが出土しています。この被葬者も独自に朝鮮半島との交渉・交易を行なっていたと思われます。
 両宮山古墳の被葬者は、古墳の規模から考えて吉備地域の王であったと考えられます。その場合でも、吉備地域の東端で地理的に離れていることから、造山古墳と作山古墳の被葬者とは明らかに出自が異なり、吉備の王権を奪取したと考えることができます。
 吉備上道臣田狭(たさ)の父あたりがギリギリ該当するのかもしれません。田狭については次回のブログで言及したいと思います。

 

吉備氏の実像は吉備地域に盤踞した諸氏の総体
 吉備氏というのは実態の分かりにくい一族です。文字記録が少ない上に、さまざまな伝承があるからです。いったい何が史実なのか?

 『日本書紀』孝霊紀では、絙某弟(はえいろど)との間に生まれた稚武彦命(わかたけひこ)を吉備氏の祖としています。

 また、応神紀によれば、吉備の祖の御友別(みともわけ)の妹で応神の妃となった兄媛(えひめ)が吉備に里帰りし、あとを追って吉備に行幸した応神に対し御友別らが饗応したことを喜び、応神が御友別の子や兄弟に対して、吉備国を5つに分割して封じたとあります。
 応神紀は吉備の諸氏が兄弟関係にあったと記しているわけです。
 御友別の子である稲速別が下道臣の祖、仲彦が上道臣・香屋臣の祖、弟彦が三野臣の祖、御友別の兄弟である浦凝別が苑臣の祖、鴨別が笠臣の祖と記され、もっともらしく思えますが、主要河川の流域ごとに個別の生産基盤をもつ集落遺跡が点在していた歴史から推してみれば、一人の首長から枝分かれして支族が各地に割拠したとする構図は考えにくいですね。

 ちなみにこれら各氏族の祖がどのあたりを拠点にしていたのか、国土地理院のデジタル標高地図の上にプロットしてみると、下図のように各拠点が河川、丘陵、吉備の穴海に隔てられていた様子が読みとれます。


<今の岡山平野の大半(濃い青色部分)は吉備の穴海として水没していた>

下道臣の祖()、上道臣の祖()、香屋臣の祖()、三野臣の祖()、笠臣の祖()、苑臣の祖(

 また『古事記』の記事では、孝霊と意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめ)との子である比古伊佐勢理毘古命、亦の名大吉備津日子命が吉備上道臣の祖、アレヒメの妹(蝿伊呂杼、はえいろど)との子である若日子建吉備津日子命が吉備下道臣の祖とあります。

 これら『記・紀』の記述について評価すると、まず、闕史八代(けっしはちだい、第81回ブログ)でも言及しましたが、実在の可能性がない孝霊の皇子を一族の祖とするのは無理があります。

 大吉備津日子命、若日子建吉備津日子命、稚武彦命がもともと吉備地域の豪族たちの共通の始祖として仰がれ伝承されてきたが、『記・紀』編纂のおり、孝霊の皇子として結びつけられたという可能性はありますね。

 一方、始祖の御友別を無理やり大王家の後裔に結びつけようとしない応神紀の記事には一定の評価を下す研究者も多いです。門脇禎二氏によれば、兄媛、仲彦、弟彦という非固有名詞的な素朴な名前や「別」号は古様の伝承によくみられるので、この始祖伝承の方が古型に近いとしています。

 しかし前述したように、互いに隔てられた小地域が点在する吉備の地形を考慮すれば、史実としては、吉備地域には始祖を異にする複数の地域勢力が並立していたが、5世紀の前半までに彼らは連携するか相争いながらもひとつにまとまったと考える方が自然です。

 いずれにしても、大吉備津日子命、若日子建吉備津日子命、稚武彦命、御友別という人物は伝承上の始祖であって、吉備氏の伝承で信憑性が高まるのは雄略の頃からです。

 『記・紀』において、吉備氏については始祖伝承のほかにも、后妃伝承(稚媛)、将軍伝承(四道将軍)、反乱伝承(下道臣前津屋、上道臣田狭、星川皇子)など豊富な伝承がありますが、史実であるかどうかは別として、5世紀以降の吉備氏の勢力が極めて強大で、大王家も無視できない関係があったことを示しています。

 5世紀半ば以降、大王家との確執に敗れ、吉備全域への支配権崩壊に見舞われた吉備氏は、6世紀以降、一族としての結合を喪失し、吉備氏(吉備臣)から上道臣氏、下道臣氏へ分氏したと主張する研究者もいます。

 このあと、天武期の7世紀末頃、吉備は備前国・備中国・備後国の3つに分割されてしまいます。 これと連動して吉備氏は中央と地方に分化し、684年の八色の姓において、下道臣と笠臣には朝臣が与えられて中央官人化しています。

 ずっと時代が下り、おそらく9世紀以降のことになりますが、吉備の中山の西麓に吉備津神社、東麓に吉備津彦神社が創建されます。ともに一宮で吉備氏の祖神と崇められる大吉備津彦命を祀っており、今では吉備のシンボルとなっています。今は広島県の備後府中にも一宮の吉備津神社があり、やはり大吉備津彦命を祀っています。吉備の広域が「大吉備津彦信仰」という同じ信仰圏に属していたということですね。
 吉備津神社の文献上の初出は『続日本後紀』の847年です。

 神社の創建以前には吉備の中山には、もちろん社殿はなく祭場だけがあって、神域内の一定の場所に祭場を設けて臨時に神籬を立てたり、磐境で祀ったりする素朴な信仰形態であったことでしょう。その時の神がどういうものであったのか、この謎解きは難しいですね。

 筆者は、今までに2回吉備路を訪れていますが、次の写真は、2011年10月に参拝したおり、吉備津神社を南側から撮ったものです。吉備の中山を背に長い廻廊が写っていますが、古代にはこの廻廊のすぐ手前まで穴海が迫っていました。吉備津神社の建築の造形美はまことに素晴らしく、大きな感動を受けたことを思い出します。当ブログでもいずれ言及してみたいと思います。


<「吉備津神社」(全長400メートルの廻廊はかつて吉備の穴海に面していた)>

 吉備氏が大王家との確執で敗れ弱体化した経緯については次回のブログで言及します。

 

吉備地域における先進技術の展開
 吉備の勢力は、4世紀末から5世紀前半にかけて、高梁川と足守川の間に展開する地域(下図)に積極的に新技術の導入をはかり、手工業の生産拠点を形成しています。

 須恵器生産・・・奥ヶ谷窯
 鍛冶生産・・・窪木薬師遺跡
 鍛冶具が副葬されている隋庵古墳
 港湾施設・・・菅生小学校浦山遺跡


 <5世紀の吉備の中枢部(菱田哲郎氏の著作から転載)>

 まさに、ヤマト王権が大和盆地や河内平野に展開した手工業生産の計画的配置の縮小版のような景観が、吉備の平野に創出されていたと言えましょう。規模の相違は如何ともし難いが、生産の計画的配置という観点を重要視すべきでしょう。

 ついでですが、総社市の千引かなくろ谷遺跡は、原料を鉄鉱石とする製鉄遺跡で、6世紀後半の製鉄炉が見つかっています。遠所遺跡(原料は砂鉄)とともに日本最古の製鉄遺跡とされています(第30回ブログ)。吉備地域の先進性を象徴していますね。

 これらの生産にヤマト王権が関与した可能性は低く、朝鮮半島系の遺物が出土していることから、吉備の勢力が渡来人を住まわせながら、自前で新しい技術を確保できる力を備えていたと思われます。

 次の図は菱田哲郎氏の著作から転載したものですが、「5世紀における技術獲得経路と地域間関係」を表しています。


 <菱田哲郎氏の著作から転載>

 つまり、5世紀頃までにヤマト王権は畿内をおさえ、鉄や須恵器などの製造の集積を図り技術面で突出したが、一方で地域国家をみると、それらの技術を吉備の勢力をはじめ、葛城・筑紫などは朝鮮半島から直接入手したのに対し、山陰や北陸はヤマト王権に依存しつつも朝鮮半島からも直接入手し、近畿以東の近江・伊勢・尾張・関東などの勢力はヤマト王権に依存する度合いが大きかった。日本中が大和地域を向いて一色に染まっていたわけではないということになります(第100回ブログ)。

 また、5世紀半ばまでのヤマト王権は、鉄器生産・造船技術・古墳祭祀などでリードしたものの、それを独占できる立場になかったし、網の目のようにからみあった分業体制も存在した。大和地域も他の地域国家から多くの分業の成果物を得ていた。地域国家同士の間も同様で、言うなればヤマト王権も含めた各地域国家は、複雑な多極的流通ネットワーク・分業ネットワークで結ばれていたとも言えます(第100回ブログ)。

 造山古墳・作山古墳が築造された時期は、墳丘規模から推しても、吉備の勢力はヤマト王権に匹敵する実力を持ち、両者は互いに連携する場合もあるが覇権を競い合う関係にあり、吉備は独自に朝鮮半島と外交を行なっていたと考えられます。
 ヤマト王権は、このような吉備地域の勢威を警戒しつつ交渉していましたが、造山古墳・作山古墳の時代には両者が戦端をひらくことはありませんでした。

 その後の吉備地域ですが、奥ヶ谷窯に後続する須恵器窯は見つかっておらず、鍛冶生産も5世紀後半には衰退してします。
 そして5世紀後半には巨大な前方後円墳の築造もなく、吉備の勢力の地盤沈下がみてとれます。

 政治面では、463年に勃発した吉備氏一族の内紛を契機に吉備氏は弱体化、その後滅亡、701年の大宝令で吉備国は備前・備中・備後の三国に分割され、さらに713年に備前国から美作国が分離独立するという経緯を辿ります。
 このように先進的な生産基盤を築いた吉備ですが、それが継続せず早期に没落を招いたものは何なのか、次回のブログで言及します。

 

参考文献
『倭国の古代学』坂靖
『ヤマト王権の謎』古川順弘
『一大勢力 吉備氏はどこへ消えたのか』湊哲夫
『吉備の古代史』門脇禎二
『岡山県の歴史』山川出版社
『出雲・吉備・伊予 弥生墳丘墓と巨大古墳』新納泉
その他多数