理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

133 吉備勢力の弱体化

 
 <北信濃の春>

 5世紀半ばまでに先進的な生産基盤を築き、3つの巨大古墳を築造した吉備の王は、5世紀後半には没落してしまいますが、その経緯を紐解いてみます。

 まず、該当する『日本書紀』の記事を確認してみます。

『日本書紀』にみるヤマト王権(雄略・清寧)と吉備氏の対立
 以下は『日本書紀』の記事の概要です。

 雄略元年(457年)、雄略の妃となった葛城円大臣の娘、韓媛は、白髪皇子(しらかのみこ)を生む。
 吉備上道臣の娘(吉備窪屋臣の娘とも)、稚媛は、磐城皇子と星川皇子を生む。

 雄略7年(463年)、下道臣前津屋(しもつみちのおみさきつや)は、一時帰国した舎人の吉備弓削部虚空(きびのゆげのべのおおぞら)が都に戻ることを許さなかった。雄略を貶めるような前津屋の行為を目撃した虚空が雄略に報告すると、雄略は兵士を派遣して前津屋とその一族70人を誅殺した。

 雄略7年(463年)、上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)は、都で妻の稚媛(わかひめ)の美貌を自慢しており、それを聞いた雄略が稚媛をものにするため、田狭を任那の国司に左遷して強引に稚媛を妃にしてしまった。田狭はこれを恨み、ヤマト王権と不仲であった新羅の援助を受けようと画策する。

 雄略は、田狭と稚媛の子の弟君と吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)に、新羅征討を命じて渡海させるが、田狭は弟君を抱き込み、雄略に叛くことを勧めた。弟君の妻の樟媛(くすひめ)は謀叛の心を憎んで夫を殺した。そして海部直赤尾と樟媛は、百済が献上した工人集団(今来才伎、いまきのてきと)を河内まで連れ帰った。彼らが今来漢人(いまきのあやひと)である。

 一説では、田狭の妻は玉田宿禰(葛城襲津彦の子)の娘で、毛媛といい、雄略はその美貌を知って田狭を殺し、自分の妃にしたと言う。

 雄略22年(478年)、雄略は葛城韓媛が生んだ白髪皇子を皇太子に定めた。

 雄略23年(479年)、雄略は重病となり、大伴室屋と東漢掬(やまとのあやのつか)に、星川皇子は邪心があり悪世になるから、仁孝のある白髪皇子を支持するよう遺言する。
 新羅を征討する役の将軍、吉備臣尾代が吉備の家に立ち寄った際、部下の蝦夷500人が雄略の訃報を聞いて、絶好のチャンスとばかり付近の郡を侵略した。尾代は反乱を起こした蝦夷と佐波湊で交戦し、追撃して丹波の湊で攻め殺した。

 雄略23年(479年)、雄略の死後、稚媛にそそのかされた星川皇子が謀反を起こすが、室屋と掬の軍により、星川皇子と稚媛や兄君は焼殺されてしまう。
 星川皇子の外戚にあたる上道氏が皇子を救うべく軍船40隻を率いて瀬戸内海を東進するが、皇子の死を知って引き返した。
 白髪皇子は上道氏を責め、山部を奪った。

 清寧元年(480年)、白髪皇子は即位し清寧大王となった。

 

 以上の記事のなかで混乱する部分を抜き書きすると、稚媛は吉備上道臣の娘だが、一説では吉備窪屋臣の娘ともされており、また田狭の妻は、一説では玉田宿禰の娘の毛媛とされ、田狭の死後は雄略の妃となっています。系譜が錯綜していますが、整理の意味で、坂靖氏による下図を参照ください。


<稚媛・毛媛・玉田宿禰・吉備上道臣・吉備窪屋臣の関係>

 

吉備の反乱伝承に隠された史実
 『日本書紀』にみる吉備氏や星川皇子の乱に関する記事は、なぜか『古事記』には全くありません。
 より古層に近いと思われる『古事記』に言及がなくて、大和政権中枢が編纂したお手盛りの(?)『日本書紀』だけに吉備氏との確執が詳しく載っているということは、記事の信憑性に疑問符がつくのではないか、そう懸念する声もあります。

 雄略が前津屋の呪詛のような行為に腹を立てたとか、美貌の稚媛を強奪したことなどが、下道臣氏と上道臣氏が打倒されてしまう主たる要因であったとはとても思えないという意味で、筆者もその懸念に同感です。
 雄略の攻撃的で傲慢な性格や単なる好色譚を吉備氏と雄略の対立として描いた『日本書紀』の記事には首を傾げてしまいます。
 いくら雄略が傲岸不遜の大王であったとしても、このような極めてプライベートな事象が、パワーポリティクスが渦巻く5世紀にあって、吉備の勢力が衰退するほどの大きな変革に影響したとは思えません。
 これらの怪しげな記事にまともに向き合っているだけでは収穫はなさそうです。

 小谷野敦氏などは「だいたい、奈良時代以前の政治史については、記紀以外の文書史料がほとんどないので、記紀にこう書いてある、と思っていればいいので、本当かどうか、本気になって考えたって分からないのである」とすら言っています。
 確かにそういう面もあると筆者も同意しますが、応神・仁徳までは信用に足る記事が少ないものの、仁徳の子たちから始まる5世紀半ば以降の政治史はある程度の史実を反映しているとも考えます(第122回ブログ)。

 そこで、怪しげな記事を冷静に眺めてみると、いろいろと見えてくるものがあります。

 まず、一連の記事を子細に分析すると、前津屋と一族70人を誅殺したのは物部の兵30人であることが読み取れます。
 新羅征討に意欲を見せる雄略が、物部氏を使って吉備氏に圧力をかけている様がうかがえます。
 そして吉備氏の中にも、雄略の意を汲んで行動する勢力(吉備弓削部虚空、吉備海部直赤尾、吉備臣尾代などの中小首長)があったということも大きなポイントです。
 吉備氏はヤマト王権を支える関係にもあったが、中小首長の中には新羅征討に意欲をみせる雄略のシンパもいたということです。

 この間、雄略が率いるヤマト王権と新羅は長きにわたる緊張関係にあり、雄略(武?)が百済に対する軍事的支配権の承認を、シナに繰り返し要求したことが、シナの史書に記録されています。

 なぜ、雄略は葛城氏と吉備氏の排除に動いたのか。

 4世紀後半、高句麗の圧力に対抗するため、最も貧しかった新羅は高句麗に従属(377年、高句麗と共に前秦に朝貢)したが、百済はむしろ高句麗に反発し、遠交近攻の論理でヤマト王権に近づくという対照的な動きを見せます。
 爾来、日本はヤマト王権をはじめ葛城・吉備・紀の勢力が、百済や伽耶諸国を主体に通交します。
 しかし、5世紀初め、金官伽耶の勢力が衰えた後、伽耶諸国の指導的地位を務めたのは高霊伽耶国を盟主とする大伽耶連盟です。
 5世紀後半になると、大伽耶連盟は最盛期を迎え、勢力を拡大した高麗伽耶国は次第に百済離れに走り、479年には百済のアシストなしに独自に南斉に使者を送ったようです。これ以後、大伽耶連盟は百済と対立する方向へ舵を切っていきます(第116回ブログ)。
 高句麗の圧迫により、460~470年代には百済の弱体化が顕在化します。そしてそれに続く一時滅亡(475年)ならびに大伽耶の独自の動きは、それまで鉄などの素材・先進技術・文化の獲得を百済・大伽耶に頼っていた日本に大きな打撃を与えることになります。

 それまで主として百済や大伽耶と通交していた葛城・紀・吉備連合は行き詰まりに直面しますが、5世紀の半ば頃になると、新羅は国力を増して高句麗からの自立を図るようになります(第116回ブログ)。この新羅には、筑紫・出雲、それに吉備・葛城なども食指を伸ばしたはずです。当然、ヤマト王権(安康・雄略)はこの動きを好ましくは思わなかったでしょう。
 現に465年、雄略は新羅征討のため、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)をはじめ、蘇我氏、大伴氏らを派遣しています。オユミノスクネは大将軍として活躍するも現地で病没し新羅征討は失敗するが、雄略は新羅での活躍を評価して淡輪古墳群(たんのわ)に葬らせたとされています(第125回ブログ)。

 各地域国家のこのような動きに対して、ヤマト王権(雄略)は、「大王」であるための大きな根拠であった「半島諸国との関係」を維持するため、それまでの列島各地の地域国家と野合して半島へおもむくような形では不十分で、多様な通交ルートの完全掌握に走り、外交権を一元化しようともくろみます(第128回ブログ)。

 これが吉備の攻略に至った真の大きな要因でしょう。

 

ヤマト王権vs吉備・葛城連合の覇権争い?
 第111回ブログで、「星川皇子の乱では、実際は大伴氏がサポートするヤマト王権と葛城氏がサポートする吉備氏が覇権を競ったという大胆な説もある」と言及しましたが、美女の横取りや呪詛のような行為を覇権争いの原因とするよりも、この説の方が素直に同意できます。
 この説について検討してみます。

 雄略7年の記事には一説として、田狭の妻は玉田宿禰(葛城襲津彦の子)の娘の毛媛とされていますが、これが事実であれば、程なく雄略の大王家と対立する吉備と葛城の両者が同盟関係を結んでいたことになり興味は尽きません。

 吉田晶氏などは、吉備の大首長の田狭が、葛城氏と婚姻関係を結び、その毛媛(吉備稚媛)を妻とするが、葛城氏の打倒をもくろんでいた雄略は、この婚姻関係を是とせず、田狭を誅殺してその妻を奪ったと読み解いています。
 この中で、吉備の中小首長でありながら、雄略の指示を受けて活動する吉備海部直赤尾の動きが記録されているわけです。吉備の中小首長層を再編成して吉備一族を孤立させようとする雄略と、葛城氏と連携しそれを阻止しようとした吉備一族の対立であるともしています。 

 西川宏氏は、吉備政権と近畿政権が日本列島で覇権を競ったとする見解です。

 また、湊哲夫氏は、百済と連携して対高句麗戦争を強行しようとする安康・雄略・大伴氏に対して、そのような冒険主義に反対する立場から、市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を盟主として、政権内の最有力首長である葛城氏と地域最大勢力としての吉備氏等が王権簒奪を企てた。その結果、両勢力の間で大規模な内乱が展開され、その勝者が雄略の王権となった、といいます。

 葛城系と対立した雄略が、葛城系の韓姫を娶り、子の白髪皇子を自らの後継に指名し清寧大王を誕生させているのは、少々解せないところもあります。しかし葛城韓媛は円大臣から贖罪として雄略に献上された身なので、葛城氏と雄略との親密な関係を意味するわけではないでしょう(第122回ブログ)。第一、その頃には雄略に反発する葛城の氏族はほとんど死に体になっているわけです……。

 これらの論考の評価は難しいですが、雄略が朝鮮半島諸国との多様な通交ルートの完全掌握に走る中で、葛城氏と吉備氏の排除に動いたことは間違いないでしょう。

 吉備系の星川皇子の乱では、雄略の遺言を受けた大伴室屋と東漢掬(やまとのあやのつか)の軍により、星川皇子と稚媛は焼殺され、瀬戸内海を東進しようとした吉備上道臣も乱の失敗を知って諦め、以後、吉備の勢力からの反乱はなくなります。
 いずれにしても、吉備氏系の皇子であった星川皇子の乱の背景には、雄略・清寧と吉備氏の根深い対立があったと言えましょう。

 当時のヤマト王権にとって、吉備氏は葛城氏に次ぐ重要な政権パートナーであったと思われますが、大王家との軍事対決に敗れた吉備氏は、5世紀後半以降、弱体化していきます。
 考古学的にも、造山・作山・両宮山と続いた大規模前方後円墳の築造が5世紀半ばで突如として停止し、以降目立った前方後円墳が築造されないことが、その弱体化を物語ります。
 年代から押して、5世紀前半つまり吉備の絶頂期の築造とされる造山古墳・作山古墳・両宮山古墳の被葬者は、前津屋、田狭より前の王であると考えられます。しかし、その名前は記録や伝承がなく、まったく不明です。
 『記・紀』には、それ以前には、仁徳と吉備の黒比売の相愛の神話や、前述のように応神の妃が御友別の妹の兄媛であるという伝承がありますが、応神・仁徳の時代の吉備の勢力の実態を表しているとはとても思えません。

 ともかく雄略は在世中に、政権内最大勢力の葛城氏、これに次ぐ最大の地方勢力であった吉備氏と対決して勝利し、大きな成果を収めたことになります。

 ついでながら、463年、樟媛が謀叛の心を憎んで夫を殺し、百済が献上した工人集団(今来漢人)を引き連れて帰国したとありますが、実際は6世紀以降の事象だったと考えられます。
 5世紀末には秦氏(はたし)と漢氏(あやし)が帰化しているものの、伽耶諸国の高麗伽耶国・安羅国などが滅ぼされた欽明期に、最も多くの今来漢人がやってきており、この記事は、多数の部民を持つようになった6世紀以降の状態を遡らせたものと考えられるわけです(第116回ブログ)。

 

天狗山古墳を築造した中小の勢力
 倉敷市の高梁川と小田川が合流する地点の丘陵部には天狗山古墳があります。
 墳長60メートルほどの前方後円墳で5世紀後半の築造です。前回のブログで言及した吉備地域の3つの巨大古墳、造山古墳(430年頃)・作山古墳(440年頃)・両宮山古墳(450年頃)より新しい時期になります。
 この古墳は吉備西部の小田川流域では、最大の規模なので、5世紀後半の地域首長が祀られたことは間違いありません。
 石室や副葬品の特徴から、朝鮮半島の洛東江流域、特に東萊地域と関係が深く、祭壇に供えられた土器は栄山江流域のものとみられます。
 また、小札甲や鏡などの副葬はヤマト王権とのつながりもうかがわせます。

 天狗山古墳を築いた集団は、小田川が形成した沖積平野を経済的な基盤とし、瀬戸内海航路と高梁川ルートの結節点に位置する交通の要衝地にあったため、吉備中枢勢力の対外交渉を担った可能性が高いと想定されます。
 天狗山古墳の北には、時期が遡る小方墳群、東西には円墳群が広がっているので、天狗山古墳を築造した集団にも前史があったと思われます。
 これにピタリ該当しそうなのが吉備海部直赤尾で、高梁川河口部の港湾を拠点に活動し、吉備氏の中にあって海外に雄飛する一方、ヤマト王権とも通じていた一族と言えるでしょう。

 このような吉備海部直赤尾や吉備弓削部虚空、吉備臣尾代などは吉備の大首長に対してではなく、ヤマト王権に忠実な中小首長層だったのではないかと想定されます。

 ヤマト王権は、吉備勢力の朝鮮半島との繋がりを自らのものにしようとした時に、河川・海上交通に長けた吉備各地の中小地域集団を徴発し、それを利用して吉備の中心勢力を押さえこんだとも考えられます。
 こうしたことから、吉田晶氏のように、吉備の中小首長層を再編成して吉備一族を孤立させようとする雄略と、葛城氏と連携し、それを阻止しようとした吉備一族の対立というような説も飛び出すわけですね。 

 いずれにしても、このように吉備の勢力の内部は一枚岩ではなく、それぞれが自立し独自の行動を行なっていたのです。

 

強大な勢力を誇った吉備氏が弱体化した要因は?
 ヤマト王権には大王という強固な核(3、4つの核かも)があったが、吉備氏にはそれがなかった。地形的にも岡山平野は山や丘陵、大小の河川によって随所で分断されていて、ひとつに統合されにくい状況がありました。
 また、ヤマト王権と戦端をひらいた時にも、ヤマト王権に親和的な中小の勢力が各地に存在したように結束力に乏しいのが吉備氏の弱点で、まさにこれこそが弱体化の理由と言えます。
 ただし吉備の勢力は弱体化したとは言え、前述したように中小の勢力が瀬戸内海沿いに拠点を確保して生き延び、やがて8世紀後半になると備中国から吉備真備のような傑物も出現し、大和政権の中枢で活躍することは諸兄ご存じの通りです。

 

参考文献
『ヤマト政権と朝鮮半島』武光誠
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『吉備首長の反乱』湊哲夫
『古代を考える 吉備』門脇禎二編
『倭国の古代学』坂靖
『一大勢力 吉備氏はどこへ消えたのか』湊哲夫
『吉備の古代史』門脇禎二
『俺の日本史』小谷野敦
他多数