理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

138 古代の戦争とヤマト王権の軍団について

 
 <須賀川牡丹園(福島)>

 ヤマト王権の版図拡大に関連して、今まで言及した内容も含めて、古代の戦争の実態について整理してみます。さらに5世紀のヤマト王権の軍団がどのようなものだったのか掘り下げてみます。

 古代の日本では戦争がすべて
 大東亜戦争後の80年にわたる平和の継続と民主主義の定着は、日本の歴史上きわめて稀有なことであって、このセンスで古代を眺めると、大きな間違いを犯してしまいます。

 古代は生き抜くことこそ最優先、弱肉強食の世界です。
 食や資源を求めて、戦争や小競り合いは間断なく続き、もちろん民主主義など存在せず、指導者は戦うリーダーないしはライバルを嵌めて追い落とす能力、はたまた戦闘集団のサポートを得ていることが絶対要件でした。

 もっとも、現代を論じる時でさえ、世界的には常識である「平和は軍事力の裏づけなくしては保持できない」という当たり前の理屈が日本では共有されていません。極東軍事裁判史観が左向きの学者や歴史研究者の間では有力です。このようなスタンスが敗戦後80年を経ても、今なお古代史を俯瞰する場合に影響を与えていると思われます。

 では7世紀以降は?
 「和を以て貴と為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ……」という言葉があるので、日本人は古来より平和を尊び殺戮を嫌ったとも言われますが、本当でしょうか。「和」を重視する気風が薄かったからこそ、十七条の憲法の筆頭に掲げられたのでは……。

 大和朝廷は平和的に日本を統一したと、しばしば耳にしますが、実際のところは文字記録が不足していてよくわかりません。

 しかし『記・紀』を子細に読めば、戦乱の記事は実に多い。

 神武東征における数々の戦闘、
 四道将軍の派遣、
 タケハニヤスヒコの乱、
 出雲振根(いずものふるね)征伐、
 大山守(おおやまもり)の乱、
 狭穂彦(さほひこ)王の反乱、
 景行の征西、
 ヤマトタケルの征西・東征、
 香坂(かごさか)・忍熊(おしくま)王の謀反、
 速総別(はやぶさわけ)との争い、
 墨江中王(すみのえのなかつみこ)の謀反、
 眉輪王(まよわのみこ)の変と葛城円大臣の焼殺、
 吉備戦争、
 筑紫磐井戦争……等々、
たくさんの戦乱が描かれている。
 シナの史書には倭国大乱の記事もみえる。

 これらの記事のすべてが史実とは言えないが、いずれにしてもヤマト王権が関与するものばかりです。
 これ以外にも、はるかに多い戦乱が、大和地域が関与しない形で、地域国家同士のあいだで発生していたに違いありません。

 おそらく、多くの戦乱の末に日本が統一されたという認識が、7、8世紀の政権に存在したのでしょう。だからこそ先の言葉が「十七条の憲法」の筆頭に置かれたのだと思います。

 島国であったために外国との大規模な戦争が少なかったのは事実です(第38回ブログ)。
 高句麗遠征、白村江の戦い、蒙古襲来、秀吉の朝鮮出兵、日清戦争から大東亜戦争まで、それくらいでしょうか。
 もっとも日本というまとまりのなかった4、5世紀以前には、朝鮮半島南部と日本列島は、年中行事のように通交もしていた一方で、多くの小競り合いもやっていたと思われます。

5世紀までの大王は「戦うリーダー」
 古代における権力の源泉は「軍事力」と「政治的な統治機構」でしょう。
 しかし政治が機能し始めるのは、ウイリアム・H・マクニールによる国家の基本要件(地域内と民の排他的な統治、軍隊や警察などの公的権力の存在、権力維持のための租税と官僚制度の存在)が整う6、7世紀以降のことです。それまでは「軍事」がすべてを制していたといえるでしょう。

 大和政権が統一国家を樹立するまでの歴史は長かった……。
 初期ヤマト王権の誕生そのものも、地域国家首長による連合政権などではなく、戦争の勝利や篭絡によったものでしょう。
 『記・紀』によれば崇神の3世紀後半の頃から応神、雄略、継体と戦乱は続き、6世紀前半の欽明に至ってようやく国家としてまとまる。それを、さらに玉成したのが7、8世紀の天武から持統朝と言えるのではないか。

 筆者は、6世紀頃までのヤマト王権に、平和的な手段で日本を統一しようという考えは微塵もなかったと考えています。むしろ古代の大王はみずから先頭に立って戦うリーダーだったのではないでしょうか。ただし大王に直属する正規軍が存在したのか否か、これはなかなかの難問です。
 そして正規軍はいつ頃から編成されるようになったのか、これは古代史を論ずる際の重要なテーマです。

 筆者なりの結論を先に言ってしまえば、国内の戦争・外征を問わず、5世紀頃のヤマト王権による戦争で活躍したのは王権直属の正規軍ではなく、王権傘下の豪族たちの軍隊(私軍)だったと考えます。

戦争のはじまり
 日本における戦争は、通説では稲作の伝来とともに弥生時代から始まった。縄文時代には戦争はなかったとされるが、最近の考古学の研究では縄文時代においても戦争があったという指摘もあります。

 縄文時代においても、
 集団が散在していれば接触の確率は低い。
 接触が増えると摩擦が起こり戦争が勃発する。
 規模の大きくなった集団が近接すれば戦争が起きる可能性は増える。

 このように考える方が、「ヒトの性」と照らし合わせてみれば納得性があるでしょう。筆者も、縄文時代が食や資源に不自由せず、戦争もなくバラ色の社会だったとは思いません。

 弥生時代に戦争が増えることについては、松木武彦氏の研究がわかりやすい。
 松木氏の論では、農耕社会では人口が急激に増える。
 人口増加に比例して収穫は増やしていけるが、いずれは頭打ちになり不足の時をむかえる。
 そこに気候変動災害などの打撃が加わると急激な経済的危機となる。
 たくさんの食糧源をもった狩猟・採集の社会とは違って、稲作のような単一の資源に大きく依存する社会では、気候変動災害などの環境変化に対して耐性が少ないので、危機に面したときのリアクションの一つとして戦争が始まる。
 さらに、農地のような明確な不動産が現れたことが、人びとの排他的な防衛意識を強め、争いを激化させたというわけです。
 農耕社会で戦争が圧倒的に多くなるのは当然のことでしょう。

 ただし、そのような経済的危機に直面しない場合でも、集団にある程度の強力な思想や社会的意識の裏づけがあれば、実際に戦争の発動があり得た。
 松木氏によれば、戦争への走りやすさ、戦士のイデア、敬意などが世代をこえて受けつがれ、強化され、ついにはそれ自体が戦争の発動要因にまでなってしまう。このことは、政治権力が作られ、国家が生み出されていく歩みと表裏一体だといいます。
 当ブログにおいても、このことを中心軸に据えて、ヤマト王権の成立プロセスに思いをめぐらし書き進めてきました。

 ヤマト王権は、5世紀初頭の敗戦で対戦相手だった高句麗の政治思想や文化・技術・軍事力を強く意識するようになります。これを機に、王の出自を天に求める降臨神話を導入し、専制的な統一政権に向けた歩みを始めます。
 そして、新たにつくった唯一絶対の権威を持つ至高神(第14回ブログ)それ自体が戦争の発動要因になっていくわけです。

古代における戦争の実態
 古代の戦争については第72回・89回ブログで言及しましたが、もう少し掘り下げてみます。

 弥生時代の遺跡からは戦争を示す考古資料はあまり出土していません。
 出土するのは集落ないしはその周辺に限られています。このことから、集落付近で攻撃・防御を行なう小競り合い程度の戦闘が各地域内で行われたと推定できます。環濠集落の存在がそれを窺がわせます。

 戦闘による死者は、多い場合でもせいぜい数十人程度であったと思われます。
 弥生時代においては、広域を巻き込む戦闘はほとんどありません。クニやムラの間の距離は離れていて、広域で見ればとんでもないくらいスカスカです。
 交通インフラが貧弱な時期には遠隔地同士での衝突はきわめて起こりにくい。双方の拠点から遠く離れている場所での野戦は少なかったと考えられるのです。

 やがて3世紀以降になると、交通インフラの充実や武器の進歩により、拠点を離れ、大勢の兵を率いて広い場所でぶつかる会戦・野戦が主体となっていきます。 
 クニが狭い時に防衛機能として有効だった環濠集落は、戦闘や合従連衡を通じてクニの規模が大きくなるにつれ、意味をなくし消滅していった……。
 環濠集落が消滅することは戦闘の変化を表わしています。

 規模の大きくなったクニでは、支配者(王)は拠点となっていた環濠集落から出て、一般民衆とは完全に分離した平地や台地に、方形の堀・土塁・柵に囲まれた豪族居館(住居・倉・物見櫓)を造ります。豪族居館自体は個人のための建物なので、環濠集落と比べると、その規模は非常に小さいものの、交通や防御のために河川などを巧みに利用していました。それまでの環濠集落に比べれば交通・交易に適した開放的な集住の姿と言えます。
 こうして、環濠集落をめぐる攻撃・防御は減少し、会戦・野戦が主体となっていったわけです。

 ただし、武力衝突の舞台が防御施設のある場所であればまだしも、構築物のない場所で展開された会戦・野戦については、その存在を推定し得るような遺構・遺物の出土は、古代以前ではきわめて稀です。

 戦争の個別事例について、その展開を直接的に明らかにしようとする研究はほとんどありません。文献史料に記録が残る戦争についてはこの限りではなく、例えば倭国大乱をめぐる議論・研究は活発におこなわれてきました。しかし、考古資料の現況からは、むしろ倭国大乱という「言葉」から想定されるような大規模な武力衝突の直接的な痕跡は認めがたいとの見解が多くなりつつあります(第24回・72回ブログ)。

 5世紀以降、ヤマト国から成長したヤマト王権は好戦的な集団だったと考えます。この時期には、お互いの拠点・居館を離れ、大勢の兵を率いて広い場所でぶつかる会戦・野戦が主体となります。

 古代の戦争はシンボルとなる大将の首取り型の戦闘でした。
 大将が殺されると総崩れとなって勝負がつくので、意外と死者は少なかった。異民族ではないという意識もあったのでしょう、皆殺しにしようという発想はなかったから、数百人規模の衝突でも死者はせいぜい数十人程度だったのではないか。死者は勝者によってまとめられ、遺跡とは異なる場所に穴を掘って埋められてしまった……。
 集落のある場所で戦闘が行われなかったので、死傷者に関係する考古資料の出土はほとんどないのです。

5世紀の武器・武具から読み取れることは?
 武器は機能の更新によって、古くなったものは廃棄される運命にあります。古くなった武器はほとんどが地金として回収され、姿を変えて活用されるのが常ですが、この常識が当てはまらないのが古墳時代です。

 考古学で古墳時代の武器や軍事を扱う最大の利点は、古墳時代が武器を古墳に副葬するという、きわめて特殊な習慣をもった社会であったということです。
 最新の技術はまず武器に適用されるが、自由な流通はないとされます。

 4世紀後半の佐紀古墳群や馬見古墳群では、中小規模の古墳から刀剣ないしは槍などの特定の武器に偏った多量の副葬が見られます。多量の武器の保有によって、突発的で短期間の軍事活動への対応を主眼に置いていたと言われます。しかし朝鮮半島を視野に入れた場合、遠距離・長期間の軍事活動という課題に対応する必要に迫られてもいたでしょう。

 この頃、佐紀・馬見古墳群の勢力は、槍や鉾などの先端や儀仗に取りつけられた筒型銅器(第97回ブログ)などの出土から、朝鮮半島との新たな通交が始まったことが認められます。
 この勢力は、軍事・交易・先進文化に強い志向(第95回ブログ)を持ち、大和盆地東南部の「おおやまと」地域の勢力に代わって、王権内の主導権を掌握したようです。鉄をはじめとする各種素材の確保や短甲などの最新技術の獲得は、朝鮮半島情勢を視野に入れた場合、喫緊の重要課題でした。

 4世紀末以降、5世紀になると、甲冑を含む整った武器の出土が、畿内とその周辺だけでなく西日本を中心に広範な地域に広がります。
 以下、田中晋作氏の論考を確認してみます。

 5世紀の甲冑は、「定型化した甲冑」「帯金式甲冑」と呼ばれ、それ以前の小札革綴冑や方形板革綴短甲と違った構造。
 これら最新の甲冑は出土状況から、百舌鳥・古市古墳群の勢力によって開発・生産・供給が一元的に行われたと見られる。
 5世紀には、それまで攻撃用武器の主力だった剣や槍に対して、刀剣や鉾の比重が大きくなる。刀は90センチ超の長大なものも珍しくなくなり、弓矢は銅鏃が姿を消し鉄鏃のみとなり、5世紀後半には殺傷力に優れた長頸式鉄鏃に集約されていく。攻撃用武器の変化に対応して甲冑の構造の変革があったと理解できる。

 最新の機能を備えた武器の供給によって、百舌鳥・古市古墳群の勢力の影響力は拡大した。
 百舌鳥・古市古墳群の野中古墳や七観古墳などからは他の勢力を越える武器の保有が認められるが、広範な地域に影響力が及ぶ場合は、自らの勢力の軍事的抑止力において懸念がある。
 不測の事態に対処できるよう、広域を対象として、専守防衛を目的とし、かつ迅速に稼働する常備軍が必要となる。

 常備軍は百舌鳥・古市古墳群の勢力にのみ存在し、勢力の中核を占めた者、もしくは特定の組織のもとで維持され、その意図によって展開するという特殊な役割を狙った親衛軍である。

 この常備軍が必要とされた要因は、複数の有力勢力間での王権内での主導権をめぐる確執に対処できる強力な軍事組織の創設が必要になったこと、かつ直属の軍事組織を膝下において、自らの意思をより自由に、強力に行使すること。
 5世紀、高句麗の南下による調整半島情勢が風雲急を告げる中、西日本をはじめとする各地域の勢力を、より大きな軍事組織へ動員可能とするために最新の機能を備えた武器を供給するが、同時にそれを受容する各地の諸勢力を圧倒しておく必要もあり、百舌鳥・古市古墳群の強力な軍事組織と王権直属の常備軍が必要であった。

 5世紀における日本列島の軍事的特徴は、形状・機能が統一された定型化した甲冑を含む武器が広範な地域で見られること、堅牢な防御施設をもつ城塞が見られないこと、畿内と周辺の有力勢力や各地の地域勢力が、領域境界線上に防衛ラインとなるような防塁などを設けた形跡が見られないこと。
 したがって、当時の社会が領域や境界を十分に認識する段階にまで達していなかった可能性がある。あるいは各勢力間が長期間にわたる深刻な軍事的対峙にまでは至っていなかったのかも。
 武器の副葬状況から推定される以上のような見解に対して、異説を確認してみます。

副葬された武器の分析だけでは戦争の実態はつかめない
 5世紀頃の古墳からは刀剣と甲冑がたくさん副葬されるようになるので、これを権力の証しと捉え、5世紀には武力を前面に出した勢力争いが活発になったとする見解は大変多く見られます。

 しかし、古墳の副葬品に目立つ刀剣と甲冑をもって、古墳の被葬者と武力・権力を結びつけるのは無理があります。夥しい数の刀剣と甲冑が出土したので、古墳の被葬者は強力な武力を背景にした大きな権力を持っていたと推論するのは危険です。
 戦闘で多用された弓矢と盾は柩におさめにくい形状で消耗品であるのに対し、刀剣と甲冑は儀器であり、葬送儀礼の道具であった可能性があるからです。
 実際、古代の戦争は弓矢による戦いが主流だったと思われます(第89回ブログ)。

 前述したように、3世紀以前は刀剣による至近距離での白兵戦が主流でした。短剣や弓矢で背後から襲う少人数の接近戦です。
 しかし、4世紀以降になると、弓矢と盾を使う野戦が主流となります。一斉に矢を射かけて剣でとどめをさす矢合戦です。武器は石器がなく、大半は鉄器になります(第89回ブログ)。

 ここから、少し詳しく西川寿勝氏の論考を紐解いてみます。
 氏は古墳の副葬品に目立つ刀剣と甲冑をもって、権力と武力を結びつけることに警鐘を鳴らしています。そして古代の戦闘の実像を示す武器として弓矢と盾をあげているのです。
 古墳から刀剣と甲冑がたくさん発見されたからといって、強力な軍隊があったとは限らないと言うのです。

 甲冑は重すぎて実戦に向きません。
 実際、甲冑の強度は大きくはなかったようです。出土した甲冑の鉄板の厚みは2、3ミリ程度で、重ね合わせもないものが大半で、鉄鏃をはじき返すことは不可能です。
 人の頭・体の表面積が約1.5㎡と仮定すれば、2ミリの鉄板で覆うだけで、甲冑の総重量は27.5キロとなり、重なり・リベット・縁回り補強・漆塗り表面加工を加味すれば30キロ前後になるようです。
 移動も容易でない重量の甲冑を身にまとっても、鉄鏃の貫通力をやわらげる程度の強度では矢合戦においては実戦的ではありません

 長さ1メートル前後の鉄製刀剣が古墳副葬品に多く見られることから、軍団の主力兵器は打刀(うちがたな)という論考もありますが、これも実戦用ではない儀器としての武器だったと考えられます。打刀は、中世以降は湾刀になりますが、古墳時代は反りのない直刀であって、衝撃を吸収できません。手をしびれさせず、そぐように斬るには高い修練が必要です。多くの兵が使うような武器にはなり得ません

 『兵器と戦術の日本史』を著わした金子常規氏によれば、戦闘は殺傷力・移動力・防護力の三要素の衝突による相手の戦意のつぶし合いだという。考古学では、殺傷力に関係する武器の研究は相当進んでいるが、軍事的な視点で古代の戦争を論じたものはほとんど皆無ですね。

 筆者が、古代史の専門家に不満を感じるのは、武器についての研究は精緻を極めるのに、軍の移動や兵站についての言及がほとんどないことです。水軍はどのような軍船で何人くらいが乗船できたのか、全体規模はどれくらいだったのか。陸路であればどのようなルートで進軍したのか……。
 これらに言及がないまま、たまたま出土した武器をいくら分析しても、戦争の規模は不明なままで、ともすれば散発的な局地戦を、政権を揺るがす広域的な戦乱だと断じてしまったりして、古代史の全体像を見誤ってしまいます。

5世紀におけるヤマト王権の軍団
 第90回ブログの最後に、3、4世紀の日本列島は「前国家状態」で、ヤマト王権は、大和盆地内の豪族たち、さらには地域国家の首長と巧みに手を結び、彼らの統治力や軍事力を利用しながら徐々に版図を拡大していったと記しました。
 では5世紀はどうなんだ、ということになります。
 結論から言えば、5世紀もその延長線上にあったと考えます。

 ヤマト王権のもとに常備軍の存在を認める田中晋作氏などは考古学の観点から次のような論を展開しているので、まずはこれを確認してみましょう。

〇 5世紀前半前半ないし半ばから、定型化した甲冑を含む規格化された武器の大量生産が始まる。このことは百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団が、形状や機能が統一された武器によって武装する軍事組織を編制する条件が整ったことを意味する。

 百舌鳥・古市古墳群を形成した勢力は、5世紀半ばには畿内やその周辺だけでなく、西日本を中信に甲冑を含む武器を供給することによって、大規模な動員を可能とする体制を整えていた。

 百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団のもとに編制された親衛軍的な軍事組織は王権の常備軍であった。

 常備軍は、当時の百舌鳥・古市古墳群内の首長、もしくは、軍事部門を統括した人物ないしは組織に直属し、その意図のもとに展開した。

 これに対し、西川寿勝氏などは王権直属の常備軍の存在に疑問を呈しています。

 5世紀に強力な軍事組織があったことは同意だが、それは有力豪族の私軍が中心だった。ヤマト王権は舎人(警備の兵)による軍を編成するが、世襲が安定しなければ戦力にも影響したであろう。

 史料からは天武朝の律令が整うまでは兵士は氏族が率いるものと考えられている。つまり氏族社会が7世紀末まで継続していた。ヤマト王権が強力な軍隊を持っていたことは『記・紀』にも記されていない。とすれば、常備軍というものの実態は軍隊と呼べるものではなく、警備隊の規模だったのかも。それを各氏族が持っていたとすれば、それらを統括すれば大きな力となる。

 丁未の乱でも蘇我と物部の氏族軍に諸氏族・諸皇子が加勢して戦った。壬申の乱でも、大友皇子・大海人皇子の皇軍はほとんど登場せず、氏族軍や国造軍による合戦だった。

 5世紀の巨大古墳時代に多くの武器・武具が副葬される実態は、これらが儀器として利用されたと考えた方が良い。ヤマト王権の周辺には儀仗兵が存在したのだろう。

 儀仗兵ではない実質的な軍団としては、外征で戦った(水軍のような)軍団が考えられます。

 外征で活躍したのは海兵隊的な水軍
 これまでの考古資料から復元される軍団は無条件に歩兵か騎兵だったが、『記・紀』に記された戦争記事を概観すれば、頻繁に外征記事がみられるため、5世紀の日本がある程度の規模で半島に外征したことは間違いなく、それは陸軍だけではなし得ないことがわかります。
 外征で戦った軍団は水軍であって、しかも軍船をあやつる水兵ではなく、海岸から上陸して陸地で戦う海兵隊のような水軍であったと西川寿勝氏は言います。

 部民制は6世紀以降のしくみだが、その前段階の海人については、ヤマト王権に従属した海民集団の存在が考えられます。彼らはたんに海岸に暮らす漁業集団や塩づくりの集団ではなく、5世紀には水軍の役割を担っていたようです。

 『日本書紀』には淡路三原・野嶋の海人が、安曇連の統率のもとに、大王や関係王族が移動する場合の船と漕ぎ手を提供したり、武装して上陸までして戦闘に挑む様子が描かれています。

 海人とヤマト王権の関りは、巨大古墳時代の古墳完成の立役者としての活躍に見てとれます。彼らは淡路島・西摂海岸・和泉海岸などの大阪湾を拠点とした淡路の海人で、ヤマト王権とはかなり密接な関りを持っていました。

 4世紀半ば以前の松岳山古墳(第102回ブログ)や、4世紀後半の津堂城山古墳(第120回ブログ)では、後円部中央から長持形石棺が見つかり、墳頂には3~4センチほどの玉砂利が散乱しています。
 この玉砂利は淡路島南西の吹上浜海岸から運ばれたことが分かっています。淡路の海人が船で運び、百舌鳥では石津の港で降ろし、古市では大和川を遡って陸揚げされたようです。玉砂利に限らず、葺石や石室の側壁なども同様にして運ばれました。
 淡路島の対岸に位置する神戸市の五色塚古墳にも淡路の石が使われています。

 こうして淡路から運ばれた玉砂利は、4世紀の佐紀古墳群や葛城の古墳群などでも見られます。


<吹上浜海岸から玉砂利が運ばれたルート(西川寿勝氏の著作から転載)>

 百舌鳥・古市古墳群の長持形石棺の運搬にも淡路の海人の活躍が認められます。
 4世紀の古墳の棺は長大な割竹形木棺で、山から切り出したヒノキを刳り貫いてつくられました。その後、4世紀後半以降、5世紀の百舌鳥・古市古墳群の主要な棺は長持形石棺に置き換わり、播磨の竜山石を蓋石・底石・側石ごとに加工して運搬したようです。石室の天井石も竜山石が使われました。

 王の棺を巨大古墳に運び入れる重要な役割を淡路の海人が担っていたようです。


<竜山石の長持形石棺が運ばれたルート(西川寿勝氏の著作から転載)>

 

海人が輸送や交易や遠征にあたって使用した船・舟
 それにしても、長持形石棺のような大きい重量物をどのような船で運んだのでしょうか。移動距離が短ければ筏を連結したようなものも考えられますが、この際、遠征や外征用も含めた「古代の船・舟」全般(第52回から56回ブログで言及した)について考察してみます。

 考えられるのは積載量の大きな準構造船ですね。
 しかし、準構造船そのもののフルスケールの出土例はまだありません。大阪湾から河内のあちこちで準構造船の断片らしきものが発見されていますが、3世紀以前の遺跡からは断片すら出土していません。

 一方、淡路の海人の活躍を傍証するものとして、舟形埴輪があります。
 舟形埴輪は準構造船を模ったものという見解が通説化していますが、筆者はこれに疑問を持っています。
 全国で出土した舟形埴輪のうち3分の2以上が大和川水系の古墳のもので、しかも大半が4世紀後半から5世紀末までの古墳から出土したものです。
 これらの埴輪は、淡路の海人が操船し、大阪湾沿岸や淀川・大和川流域を行き交った船をモデルにしたものでしょうが、実際の船体の形状とは異なると考えます。
 これらの舟形埴輪は5世紀前半には畿内だけでなく、地方にも拡散していきます。畿内の埴輪工人が地方に赴き生産したものと考えられます。

 第54回・55回ブログで力説した通り、実際に外征や交易に使われた準構造船は、舟形埴輪のようなフォルムではなかった考えます。舟形埴輪のような船体では重たく、スピードは遅く、しかも安定感がなくて外洋では使いものにならなかったはず……。
 船体はもっと薄板構造で、シャープで軽かったはずです。

 舟形埴輪のフォルムの準構造船は、喪舟や遊興用であった可能性がありますが、瀬戸内海のような内海の航行ならば、あり得たかも。

 「棚板造りの構造船」は15世紀になるまで存在しないので、5世紀以降、外洋で大量輸送が可能な船体として、複材刳舟よりも高度な構造を持つ「実用的な準構造船」が存在したことは間違いないでしょう(第55回ブログ)。

 ヤマト王権外征軍の主力の役割を担った葛城氏・紀氏・吉備氏やその他の豪族は、「実用的な準構造船」を操る海人を軍団として組織化して外征し、また交易したものと考えます(第125回ブログ)。
 海人を軍団として編成したとしても、5世紀のヤマト王権が自ら大軍を徴発し、高句麗を攻略するような国力を有していたかというと、それはあり得ないわけです。

今回の結論
 筆者は、少なくとも5世紀の段階でヤマト王権直属の軍団(国軍)はなかったと考えます。あったとしても4、5世紀の段階では警備兵や儀仗兵などの限定的な規模だったと思われます。

 ヤマト王権の大王は、大和盆地内の豪族たち、さらには地域国家の首長と巧みに手を結び、彼らの統治力や軍事力を利用しながら徐々に版図を拡大していったと想定します。つまり、版図拡大や外征に寄与したのは、王権直属の兵というよりは、大半は豪族の兵であり、これらを間接支配する形でヤマト王権は成長していったのではないでしょうか。

 

日本が埋没しないための戦略
 せっかくなので、もう一つ。古代史における各国(6世紀以前の国・クニ)の合従連衡、戦争が発端となる栄枯盛衰をみていると、日本の将来には不安が一杯です。
 古代史からは脱線しますが、広島サミットが開かれたばかりなので、ひとこと記しておきたい衝動あり!

 「開かれたインド太平洋」とか「法の支配にもとづく自由で開かれた社会」と念仏を唱えるのは否定しませんが、それはそれ、裏では日本が独力で生き抜く戦略を立てておかなければ……。

 国会は、些末なスキャンダル追及や発言の一部を切り取って攻撃するなど低レベルの論戦に終始せず、また自民党政権は戦略課題を真正面から取り上げ、政治を前へ動かしてほしいと筆者は願っています。ご同輩もそう念じているのでは……。

 何よりも日本は国連や欧米追随ではなく、日本独自の価値観(健全な保守)のもとに結集して、欧米のように国内世論が分断されないようにすべきと思います。

 それは例えば次のようなことでしょう。

 近年のアメリカは国内回帰が鮮明で、特に軍事・経済の危機に際して、とても頼りになりません。国益が一致しなくなれば日本を見捨てることは間違いありません。日米安保と専守防衛の組み合わせだけでは日本国を守り切れないことが、今回のウクライナ戦争で明らかになってしまいました。
 マスコミはプーチンを責め立てることに懸命ですが、侵略を許してしまったゼレンスキーや、侵略を放置したバイデンの責任を追及する声はほとんど見られません。いくら専制国家のリーダーを非難しても、専制国家ゆえ馬の耳に念仏だし、侵略を許してしまっては後の祭りです。
 古代史から外れるのは承知で、筆者は、ウクライナ戦争の早い段階から、「抑止の重要性」と「一国のリーダーの責任」について私論を述べてきました(第106回・109回・118回ブログ)。
 日本が採るべき喫緊の戦略は「自前の安全保障の強化」に尽きます。これは軍備だけでなく、食糧・エネルギーも含みます。いずれも安全保障の重要アイテムです。おかしな理屈に配慮して躊躇している余裕はありません。

 一見聞こえの良い「自由・平等・平和」「グローバル化」「多文化主義」「LGBT」「SDGs」などは、欧米や国連の動きに乗り遅れまいとするだけではなく、したたかに振る舞うべきでしょう。日本が代々紡いできた産業・生活・文化・習慣・歴史を大切にすべきです。
 例えば、世界的潮流となっている脱炭素一本やりに迎合しない日本独自のエネルギー政策もずる賢く温存し、ないしは石炭火力・小型原発などは前向きに取り組むべきです。太陽光発電・洋上風力発電にのめり込めば日本は破綻します。電気自動車一本鎗は回避できたし、この点ではサミットは合格かな。

 今後、少子化が進むので移民受け入れは必要ですが、一見聞こえの良い「多文化主義」ではなく、せめて最低限、日本語を理解し、地域の生活ルールを遵守してもらえるような「同化主義」を基本にすべきです。
 一方、自由・平等の名のもとに、マスコミやネットなどが垂れ流す常軌を逸したポリコレに対しては敢然と立ち向かうべきです。
 国の成り立ちや価値観が異なる欧米に無条件に追随する愚は避けるべきでは。
 欧米社会のように、国を二分するような混乱を日本に持ち込んではなりません。

 国内経済でもっとも肝心なのは、日本経済凋落の根源となっている財政規律政策との決別でしょう。ふところが豊かにならなければ愛国心も生まれようがありません。これは失われた20年、否、もうすぐ30年の元凶であり、これを脱するためにはアベノミクス3本の矢(大胆な金融政策・機動的な財政政策・成長戦略)の3番目に本気で取り組むことしか解はないと思います。

 アベノミクスというだけで、すべて否定してしまう論調が大手を振るっているようですが、1本目の矢、黒田バズーカの金融政策は素晴らしかった。あれがなければ株価は下がったまま、雇用も改善せず、デフレ日本は完全に沈没していたでしょう。すべての責任を日銀に押しつけてはいけません。

 やはり2本目・3本目を軌道に乗せられなかった政治の責任が大きい。2本目だって方向は間違っていなかったのにズルズルやっている間に3本目の成長戦略がまったく機能しなかった。アベノミクスの総括はこれに尽きます。
 だからこそ、遅ればせながらも、3本目の規制緩和によって民間投資を喚起する成長戦略に、今こそ注力すべきでしょう。行き過ぎたグローバル化との決別も必要です。
 財政規律とか言っている場合ではありません。アベノミクスをやり切ることしかありません。
 財政均衡派学者や財務省の主張を論破して突進する政治家よ、いざ出でよ!

 

吉野ヶ里遺跡で重要な発見!
 今回のブログをまさにアップしようかというところに、古代史の組み立てに影響するかもしれないビッグニュースが飛び込んできた。
 吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国を体現できる有力な遺跡だが、2世紀後半までには衰微しているため、邪馬台国の候補地にはならないとされていた。
 ところが、吉野ヶ里遺跡の中で手つかずだった神社跡地から、2世紀後半~3世紀頃(邪馬台国の時期にどんぴしゃり?)の有力者の石棺墓が出土したという。テレビで蓋を開けるところを見たが、この後、副葬品の調査をするという。楽しみ!

 

参考文献
『倭王の軍団 巨大古墳時代の軍事と外交』西川寿勝・田中晋作
『兵器と戦術の日本史』金子常規
『日本考古学における戦争研究の動向』阪口英毅
『刀と首取り』鈴木眞哉
『人はなぜ戦うのか』松木武彦
『筒型銅器と政権交代』田中晋作
他多数