今回は、『記・紀』神話の中で、国生み・神生みで有名なイザナキ・イザナミに所縁の伊弉諾神宮(淡路国一宮)と近江の多賀大社に焦点を当ててみます。
イザナキ・イザナミの名の由来はいろいろな謎解きがありますが、もっとも一般的な解釈は、「イザ」(誘う)+「ナ」(~の、助詞)+「キ」(男)、「ミ」(女)でしょう。「オキナ」は男性だし「オミナ」は女性であることもその傍証になりそうです。
一方、「ナギ」と「波」を表わす海洋的な霊格という解釈もあります。
また、イザナキ・イザナミが生む神々の中に、「アワナギ・アワナミ」や「ツラナギ・ツラナミ」という神名が見られることから、「アワ」「ツラ」という水面や波頭に注目して、「イザナキ・イザナミ」は水面を意味する宗教的神聖を表現しているという解釈もあります。
二神による国生み
イザナキ・イザナミの二神による国生みの神話は余りにも有名ですが、生まれる国が『古事記』と『日本書紀』では微妙に異なっています。越が入るか否かの違いです。
昔、畿内からみて木ノ芽峠から北は「越国」と呼ばれていました。越前・加賀・越中・越後などの国々です。
不思議なことに、気比神宮が鎮座する敦賀は、木ノ芽峠よりも10キロも南側なのに、越前国でした。当時、越前国の国府は武生にあり敦賀は国の最南端に位置しています。すぐ西隣に若狭国が迫り、難所の木の芽峠を越えた最果ての地に越前国一宮の気比神宮は鎮座していたわけです。しかし国の最果てでも、敦賀が政権中央にとって最重要の地だったことは言うまでもありません。
4世紀頃には、畿内から北陸への移動に関しては、大和から敦賀までは琵琶湖経由の交易ルートがあったので、小規模な集団なら移動できた可能性があります。しかし、その先の越前に向かうには木の芽峠が立ちはだかっています。今ではJR北陸トンネルで一瞬のうちに通過できますが、トンネルが完成する前はスイッチバック数段階で乗り越えていたのです。さらにそのはるか昔、ひとは木の芽峠を歩いて越えましたが、軍隊が踏破するのは不可能でした。
ましてや、その先の越後や会津は、当時の大和の人たちにとっては異界の地であって、何の利得もなく想像すらできなかったことでしょう。
実際、継体が過ごした可能性のある越前は別として、加賀から越中、越後、能登までがヤマト王権の支配下に入るのは早くても7世紀以降のことになります。
次に、なぜ継体は、異界の地と蔑まれてきた越前から担がれたのでしょうか。
福井市に鎮座する足羽神社(あすわ)に伝わる由緒では、継体は、九頭竜川・足羽川・日野川という越前三大河川の氾濫で沼地同然だった福井平野を、治水事業で広い沃野に変え、米を主体とする農業を振興したといいます。
また日野川の西に連なる丹生山地で鉄鋼や須恵器の生産を興したようです。製鉄については5世紀半ばに遡る可能性もあり、まさに鉄鋼王の名にふさわしいようです。
敦賀で集散される越前・若狭一円の塩についても、海路による輸送ルートをおさえた模様。このように産業基盤を整備し、それらの材で域外と交易して力の源泉としたわけですね。馬についても、早くから騎馬の重要性に気づき河内の馬飼と連携しています。
継体は、越前での実績を力の源泉として、婚姻関係で尾張氏や息長氏らの豪族と幅広く関係を結んでいます。三国潟につながる九頭竜川流域には、松岡古墳群や六呂瀬山古墳群など、有数の古墳群が見られます。これら古墳群の主は三尾氏の一族で、継体を生みだした勢力なのでしょう。
このように、越前にありながらも、継体は6世紀の舞台に華々しく登場し、活躍するわけです。
さて、かなり脱線しましたが、以上のように6世紀頃まで畿内からみて異界の地だった越は、『古事記』の国生みには登場しません。
今の表記で言えば、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順に生んでいます。その後、幾つかの小島を生みます。
これに対し、『日本書紀』本文では、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越、大洲、吉備小島の順に国生みしていて、越国の有無が大きな違いとなっています。
おそらく、『古事記』の編纂時期は相当に早く、その頃は異界の地だった越国も、『日本書紀』が完成する8世紀(律令制が整う720年頃)には越国が大和政権下に組み込まれて、言うなれば「身内」のようになったのではないかと考えています。
筆者は、『古事記』の編纂は、巷間いわれている712年よりはかなり遡り、7世紀後半にはその原型が出来ていたと考えています。
さて、イザナキ・イザナミがらみの伝承をもう少し確認してみます。
淡路島に多いイザナキ・イザナミの由緒
国生みで有名な「おのごろ島」の候補地ですが、もっとも有力なのは沼島、友ヶ島であって淡路島の近傍に存在します。
また、岩樟神社(岩窟の中に小祠、幽宮とも)、家島(小豆島の北東、いえしま、えじま、胞島)、先山(せんざん、450メートルで最高峰、淡路島を創った時に最初にできた山とされる)、飛島(鳴門市、無人島)、諭鶴羽山神社(ゆずるはじんじゃ、二神が天つ国から鶴の羽に乗ってきてこの山で舞い遊んだことにちなむ)などもイザナキに所縁の伝承があります。
いずれの伝承地も淡路島内、あるいは淡路島の近傍の瀬戸内海や紀淡海峡に存在しています。
九州には縁がないはずのイザナキ・イザナミ神話!
「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は宮崎県の江田神社の裏手にある御池に比定され、ここがイザナキの禊の地として観光の目玉になっています。
しかし、イザナキの崇拝圏は、淡路・播磨・摂津・大阪湾沿岸・紀伊・大和・伊勢・近江など、近畿一帯であって、九州には存在していません。
イザナキを崇拝する痕跡がないところに、イザナキ神話が生まれたとは考えられませんね。
イザナキ神話は淡路の海人の間で発祥し、語り継がれ、やがて5世紀後半以降にヤマト王権に伝わり、7世紀後半には国家神話の上席を占めるに至ったと考えられます(後述)。
また、「日向の橘の小門」は住吉三神(津守氏が奉じていた三柱のツツノヲ)の故地とされています(神功皇后の託宣にあり)。
「日向」(ひむか)は「朝日・夕日の照らす聖地」を指す普通名詞、「橘の小門」は「霊果である橘が実る地の海峡」を意味し、住吉三神は古くは「朝日・夕日が照らす、不死の霊果の実る聖地の海底」に眠っていた存在と考えられていたようです。
「日向の橘の小門」は、本来、淡路の近くの阿波の鳴門であったはずで、住吉のツツノヲの誕生地とされ、後にイザナキが禊の際にツツノヲを生み出した海岸の名と考えられるに至った(次項で言及)。
住吉の託宣に出てくる「神話的な地名の日向の地」が「日向国」と解釈されたために、イザナキはわざわざ九州まで出張するような筋書になってしまったというわけです。
淡路の地方神話から国家神話に昇格したイザナキ・イザナミ神話
5世紀のヤマト王権は河内に進出し、安曇氏・津守氏・依羅氏・穴戸氏などの海上勢力を重用したが、この安曇氏を通じて淡路の地方神話であったイザナキ神話が王権内に知られるようになったと考えられます。
淡路島が王権の御食都国として食料の貢納地とされたため、表玄関から伝わったと言うよりも、大王の供御を掌る内膳司として台所から伝わったのでしょう。
また、津守氏も住吉三神の託宣の「筑紫の日向の橘の小門」をイザナキの禊の場と結合させるなどしたことから、津守氏を仲介してイザナキ神話が伝わった可能性もあります。
西條勉氏は、「国生み神話の特色は、伝承的な来歴をまったくもたないことだ。民間に伝えられていた古い話は、おそらく一つもない。おおかたのストーリーは、朝廷の知識人たちが机上で作った。ただ、イザナギとイザナミという神名だけは存在した。この神を祭る神社は、今も淡路島にある」と述べています。
上田正昭氏も、「記紀の国生み神話は、ヤマト朝廷の発祥の地である奈良盆地にかかわりがなく、大阪湾を舞台としている。この神話の原像は、淡路の地域を中心にした海人集団に育まれた島生み神話にあったと考えられる。それが、王権が大阪湾に臨む地に進出展開した段階に、王権の世界に包摂されたとき、国生み神話として凝集をみたのであろう。難波津で行われてきた八十島祭にも、国生み神話の歴史的背景が見てとれる」と言及しています。
以上のように、イザナキ・イザナミ神話は、その国生みもイザナミの死と黄泉の世界も、禊も、みな淡路付近を舞台として語られていたという説が有力です。
これにいろいろな要素が入り込んできて、出雲とか日向のような遠隔地が神話の舞台に引きずり出されてしまった……。
したがってイザナキは、あらゆる活動を終えてから、「淡路の幽宮」に永久に隠れ住んだということになります。アマテラスとイザナキの親子関係は本来的なものではなく、淡路で生み出された系譜ではありません。淡路島にアマテラスは祀られておらず、イザナキも宮中には祀られていないのです。イザナキは皇祖神にあらず、ということになりますね。
さて、国生みや神生みの偉業を次々と果たしたイザナキですが、最後に祀られた幽宮(かくりのみや)の候補地は淡路だけでなく、近江にも存在します。その候補地に比定される淡路の伊弉諾神宮と近江の多賀大社のどちらがイザナキを祀る本家なのでしょうか?
古くから、「伊弉諾神宮」と「多賀大社」のどちらが鎮座地かが争われ、現在も両社は互いに自社のアピールに余念がないようです。よく知られている俗謡に次の二つがあります。淡路では「伊勢へまいらば淡路をかけて淡路かけねばかたまいり」、多賀では「お伊勢まいらばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でござる」。いずれもイザナキがアマテラスの父神であることから、伊勢神宮を引き合いに綱引きに余念がありません。
所詮は神話が先に出来て神社の縁起は後づけなのですが、イザナキの鎮座地はどちらが尤もらしいのでしょうか。
まずは、淡路国一宮の伊弉諾神宮から見ていきます。
伊弉諾神宮
神戸淡路鳴門自動車道を津名一宮インターで降りて、燈籠のならぶ「くにうみライン」と呼ばれる県道を3キロほど走ると、多賀の交差点の右側に「伊弉諾神宮」の正面鳥居が立っています。
参道に入るとニノ鳥居、神橋、表神門と続きますが、境内は白が基調のせいか実に明るい。大震災で燈籠や玉垣にも大きな被害が出たので修復したためでしょうか。
神橋は「方生の神池」にかかっているが、この神池は御陵の周囲にあった濠の遺構と伝わっています。
<手水舎と表神門>
表神門をくぐれば正面は舞殿を兼ねた入母屋造の拝殿になります。瑞垣の入口には中門が建ち、中には幣殿と檜皮葺流造平入の本殿が続きます。中門の左には渡廊があり祓殿に連結しており、また中門の下反り屋根と幣殿の上反り屋根が二重の向拝のような美しいハーモニーを奏でています。筆者はこういう造形が大好きです。
確認できなかったものの、本殿の床下には石積みがあり、これが「幽宮」という終焉の地とされるようです。
<中門・幣殿・本殿>
境内東側には「連理の楠」と呼ばれる夫婦大楠があり、後ろに岩楠社が鎮座しています。子に恵まれない者は、この神に祈願し大楠に接触すれば懐妊すると言われ、昔は夫婦とも裸になり相い擁してこの大楠を回ったと伝わるようですが、今では破廉恥罪で連行でしょう。いかにも「伊弉諾神宮」らしい伝承ですね。
<連理の楠>
神池のほとりには香木伝来記念の碑が立っています。
『日本書紀』に、淡路島に沈香が漂着して推古天皇に献上したという記事があります。史実の可能性が高く、日本の香りの文化ではエポックメイキングな事件らしい。その後、香りは日本で洗練昇華されていきます。日本で発展した香木は、天然の香りを取り入れ大自然との一体感を感じるものです。「源氏香」の世界はその極致といえるでしょう。香りの文化が根づいたのだろうか、当地は線香の生産で日本一とのことです。
ニノ鳥居の脇には「陽の道しるべ」が作られており、当社と「伊勢神宮」内宮、奈良の飛鳥宮がいずれも同緯度にあるという偶然を語っています。説明書は、太古から脈々と生き続ける「神の島」たる所以だと説いていました。
伊弉諾神宮の祭神は、当然、伊弉諾大神です。通称「いっくさん」と呼ばれ親しまれているイザナキですが、『日本書紀』には淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごしたと記されています。
伊弉諾神宮は、神々の物語の始まりの地であり終わりの地でもあり、神道信仰の究極の聖地と言えそうです。
筆者は、参拝記念に社務所で土鈴の「幽宮神桃」を購入した。道教では神仙思想に基づき、西王母を象徴する果実で邪鬼を追い払うと言われていますが、『古事記』の中でも桃の実は邪気払いの聖なる果実とされていて、イザナキが黄泉の国から逃げる時に、「桃子三箇」をもって黄泉醜女を撃退したという記述があります。みやげはこの桃にちなんだ「神桃土鈴」だ。
<幽宮神桃>
続いて近江でイザナキを祀る大社と言えば多賀大社です。確認してみます。
多賀大社
「いっくさん」に対抗するように、当社は古くから「お多賀さん」と呼ばれ、親しまれてきた滋賀県第一の大社です。
『古事記』には、イザナキは「淡海」の多賀に坐すなり、と記されていますが、これは14世紀後半に明るみに出た真福寺本だけのようです。
他の諸本は「淡海」ではなく、「淡路」と記してあるので、真福寺本は写本の際の誤記と考えられます。近江であれば「近淡海」と記すはずです。遠淡海(とおつおうみ)は遠江と表記するのですから。
終始光の当たっていた『日本書記』には次のように記しています。
「イザナキは神の仕事をすべて終えて、あの世に赴こうとしていた。そこで幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別伝では、イザナキは仕事を終え、徳も大きかった。そこで天に帰り報告し、日の少宮(わかみや)に留まり住まいした」。
歴史的には多賀大社は『延喜式神明帳』では小社で、「多何神社2座」と記されているだけで、祭神2座はイザナキ・イザナミとは記されていません。
『古事記』は本居宣長の功績により江戸末期に明るみに出るまでは眠っていた古文献です。
このような史実から、多賀大社のイザナキ祭祀は中世に始まったものと考えられます。
中世になって真福寺本を根拠にイザナキ・イザナミを祀ることにした当時の宮司の大英断は見事なものです。16世紀以降、太閤秀吉や武田信玄など多くの武将から崇敬を受けるようになります。太閤秀吉は母の大政所の病に際して、「3ヵ年、ならずんば2年、げにげにならずんば30日にても」と延命を祈願し、米1万石を寄進した。幸い大政所の病は回復し、正面の太鼓橋(太閤橋)や奥書院を築造したと伝わります。
中世には神仏習合が進み、伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わいますが、その隆盛は宮司の努力も当然ですが、近江が交通の結節点だったこともあります。
近江の多賀の地は遣隋使・遣唐使で有名な犬上御田鍬に始まる犬上氏の地盤です。
『古事記』以前の時代には、近江の多賀は、一帯を支配した豪族・犬上氏の祖神を祀った地との説があります。
多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)は、イザナキ・イザナミなどの3柱を祀り、多賀社の南方2キロの神体山に鎮座しています。敏達天皇時代には胡宮神社の境内に敏満寺も建立され、やがて敏満寺は多賀大社の奥の院となっていきました。
史実は語る!
歴史を振り返れば、「多賀大社」は『延喜式』では小社であって、『古事記』の記述をもとに官幣大社に列せられるのは大正時代になってからだ。
つまり「多賀大社」は伝承になっているほどの高い社格ではなかった。よってイザナギを祀る本宮と位置づけるには少々無理があるようです。
一方の「伊弉諾神宮」は『延喜式』では名神大社(幽宮)とあり、頂いた由緒書の表紙にも、大きく自信たっぷりと「幽宮」の文字が躍っていた。
伊弉諾神宮の幽宮創始は、イザナキ・イザナミ神話が淡路の海人集団で発祥したことから、飛鳥時代を遡る古い時期であったと想定できます。
以上のように、淡路の一地方の民間神話が、昇華に昇華を重ねて、日本の中央の神話に祭り上げられてしまったということですね。「伊弉諾神宮」は、そういう意味でも格別の神社と言えそうです。
現在、全国で神宮号を付された格式ある神社は23社だけです。いずれも皇室に所縁の深い神社ですが、当社も含め大半は明治以後の宣下です。ついでながら当社のように神宮号が付された「一宮」は10社です。