<エメラルドグリーンが鮮やかな熊野川>
筆者は以前から紀伊熊野には大きな関心を持っていました。
「一宮」でもなく、「二十二社」に列することもないが、古来の有力古社で現在でも隆盛している神社は、宗像大社の他では熊野三社が筆頭でしょう。
そして以前、島根県松江市八雲町に鎮座する出雲国の一宮「熊野大社」に言及した際、知名度から熊野大社を紀伊国の「熊野三社」と間違える人が多いとも述べました。同じ「熊野」の名を冠することから、熊野大社と紀伊国の「熊野三社」との繋がりを説く専門家の論文も確かに存在しますが、創始の経緯からみてそれはあり得ないと断じました。
今回は、その熊野三社の創始の経緯などを紐解いてみます。
熊野の名とそのイメージ
紀伊熊野の地名の由来は、
〇 王都からみて隅っこにあるから「隅野」と言われたという説
〇 山陰の熊野から紀伊に進出した出雲族の繋がりで「熊野」が定着したという説
など様々です。
本来、熊野の名がつく場所は、天つ神か国つ神かと言われれば「国つ神」、陽か陰かと言われれば「陰」、生か死かと言われれば「死」などのイメージが強い土地だったようです。
しかし、現実に足を踏み入れた紀伊半島南端部の熊野は、竜宮城のような新宮駅、那智の滝に向かう観光客の賑わい、強い日射しや青い海など、からっとした明るい南国のイメージがなんと強いことか。
でも、樹木が生い茂る奥まったところに一歩でも入ると、さすが「熊野」と呼ばれた雰囲気を感じるものがありました。
熊野三社めぐり
筆者は、2013年8月に熊野三社に参拝し、他にも幾つかの旧跡を観光しました。
先ず「花の窟」に参拝しました。花の窟はイザナミが祀られたとの伝説地で、曇りで薄暗い夕暮れだったせいもあって、異様な霊気を感じました。
<左は渚百選の七里御浜、右は花の窟神社>
七里御浜の海辺に神秘の造形を持つ巨大な岩塊がそびえていて、その下にはイザナミの拝所があり、まさに熊野の「死」のイメージを象徴する場所でした。
<花の窟神社の御神体>
次いで、熊野三社を参拝しました。
熊野古道のひとつと言われる大門坂経由で「熊野那智大社」に参拝しました。
苔むした石敷き道とその両側に杉木立が続く熊野古道の雰囲気を味わえたものの、この日は風が通らず猛烈に蒸し暑く、辛さにひたすら堪える行程でした。そして青岸渡寺に参拝し、那智大滝を拝みました。あたり一面に広がる那智原始林は「神々しく畏し」という表現がピッタリです。
<左は大門坂、右は青岸渡寺と那智の滝>
<那智大社>
続いて熊野川河口近くに移動して「熊野速玉大社」(新宮)に参拝し、ゴトビキ岩で有名な「神倉神社」に参拝しました。
<熊野速玉大社>
<左は神倉神社への石段、右はゴトビキ岩>
最後に熊野川を遡り、「熊野本宮大社」(本宮)と、濁流に飲まれる前の鎮座地だった「大斎原」に参拝しました。本宮大社は40年ぶりの屋根の葺き替え工事中で本殿の全景を見ることは叶わなかった。まことに残念。
<左は大斎原、右は熊野本宮大社の参道>
この熊野本宮大社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社の3つをあわせて、一般には熊野三山というのですが、神仏習合時代の名残が強すぎるので、筆者は熊野三社と呼ぶことにしています。
ところで、本宮、新宮という名称ですが、その由来には次の二説があるようです。
〇 本宮大社は熊野の昔からの生え抜きの神を祀り、速玉大社は途中から鎮座したから新宮という説、
〇 もう一つは、速玉大社の元宮が神倉山にあったことに対して、現在地に社殿を作って遷座したので、元宮に対して新宮という説。
筆者は後者の方が尤もらしく思います。
ゴトビキ岩を御神体とする「神倉神社」の御朱印(神倉には神職不在のため、速玉大社でいただいた)は、「天磐盾」の朱印とともに「熊野三神元宮」の墨書が鮮やかです。この書はゴトビキ岩が熊野信仰全体の原点であることを伝えているのではないでしょうか。
9世紀から10世紀にかけては、本宮より新宮の社格が高く、熊野第一の地位にあったようです。昔はゴトビキ岩を御神体とする神倉神社の神威が非常に高く、元宮(神倉)に比例するように、速玉大社(新宮)の社格が高くなっていった経緯があったと思います。
しかし現在は、本宮大社が熊野三社の第一と位置づけられています。
熊野三社の祭神
熊野三社の主祭神は、「本宮大社」は家津美御子大神、「速玉大社」は速玉大神(イザナキ)、「那智大社」は熊野夫須美大神(イザナミ)です。
しかし奇妙なのは、日本中の多くの熊野神社が事解男、速玉男、伊邪奈美命を3セットで祀っていて、総本宮である熊野三社の祭神だけが異なっていることです。この事実は小椋一葉氏の『消された覇王』で知りました。ちなみに、筆者は、神社伝承学の第一人者である小椋一葉氏の論考には疑問を持っていますけど……。
小椋氏は、崇神が創建した当時の熊野三社の祭神は、順に事解男命(スサノオ)、速玉男命(ニギハヤヒ)、イザナミであったが、藤原不比等の時代に『記・紀』に登場せず素性のよく分からない祭神に書き換えが行われ、スサノオ、ニギハヤヒの名前が消されてしまったのだ、と説いています。
神武以前にスサノオとニギハヤヒが支配する世界があったという神話とも付合し、興味をそそられる言説であるが、真偽のほどは何とも……。
天皇の行幸と庶民の熊野詣
熊野は遠い。陸の孤島とも言われますが、実際に周遊してみて納得です。レンタカーで回るのでさえ一苦労ですが、まして鉄道も無く陸路も不便だった時代は大変な難行苦行だったに違いありません。不思議なことにそんな熊野に歴代天皇は数多く行幸しているのです。
歴代天皇は王城鎮護の神を祀る「大神神社」、「大和神社」、「石上神宮」、「賀茂神社」、「日吉大社」などによく行幸していますが、不思議と「伊勢神宮」への行幸は一度もありません。
しかし、驚くべきことに熊野三社こそは、天皇家が最も足繁く行幸した神社でした。歴代の天皇や院の行幸は百数十回に及びます。京都からは一か月もかかる交通不便な熊野です。一体何故熊野だったのか?冥界とされた熊野に詣でて擬死体験をし、再生・復活を図るという解釈もあるようですが、それだけでは釈然としません。
とにかく熊野は素性のよく分からない祭神名を含めて謎の多い不思議な土地です。
その後15世紀後半になると、庶民のレベルまで参詣者が広がり「蟻の熊野詣で」と謳われるようになります。これは神仏習合が進み熊野権現と化した三山の広告宣伝力が大いにものを言ったということでしょう。神仏習合の名残は那智大社に最も強く残っており、青岸渡寺と並置する姿が象徴的。
熊野神の文献上の初見
繰り返しになりますが、熊野の地名の由来についてもう少し掘り下げてみます。
『記・紀』が編纂された奈良時代初期には、紀伊半島南端部に「熊野」の名は存在しません。そもそも熊野は「隈(クマ)」に通じ、丹後・近江・伊予・出雲などに広く存在し、紀伊地方特有の地名ではありません。一般名詞に近いのです。
熊野は海または河川の近くにあり、背後には山地が控える奥まった幽暗な場所で、常世国に続くという伝承が残っていることが多いようです。
紀伊西部の御坊、田辺あたりには「いや」「ゆや」と読む「熊野の地」があり、和歌山市の日前神宮(ひのくまじんぐう)も「日の隅」に通じるので、「熊野」は紀伊半島西部の広域を指していたともいえそうです。
こうした事実から、飛鳥・奈良時代の中央に知られていた紀伊半島南岸部の地域は、西からは有田・御坊・田辺・白浜のあたりまで、東からは伊勢までであったと考えられます。紀伊南端部の熊野は人の存在もわずかで、政権中央からみれば人馬不通の異界の地でした。
とは言っても、那智勝浦に4世紀後半の下里古墳が存在するように、熊野には小舟の避難・補給に好都合な潟湖やリアス式海岸は存在するので、黒潮本流を直接的に受けない沿岸航行を主体とした海の民による生業・交易は可能で、真の意味で異界の地ではなかったとは思います。
7、8世紀に単に熊野といえば出雲地方の熊野を意味していて、紀伊南端部の熊野が中央の人びとに有名になるのは神仏習合後の平安時代になってからです。
この頃の天皇の行幸先を『日本書紀』『続日本紀』から読み取ると、658年に斉明天皇の牟婁の湯(むろ、白浜)行幸、692年に持統天皇の伊勢行幸、701年に文武天皇の牟婁の湯(白浜)と続き、紀伊南端部の熊野に行幸した事実はありません。
熊野の神々の初見(806年の文書)は、熊野牟須美神、速玉神が俸禄を与えられた766年ですが、二神とも、もとは熊野地方の自然神で中央には無名の神々でした。
平安末期以降、浄土信仰の広がりとともに、神仏習合の熊野信仰が盛んになり、10~12世紀になって熊野の神々の格付けが高まります。
907年に宇多天皇により初めての熊野詣が行われ、以後大和朝廷の熊野詣が盛んになりますが、そのルートは、京都から紀州街道で和歌山に入り、田辺から熊野に至る中辺路でした。
このような経緯(当初の祭神や中央における認知の程度)からみても、熊野三社の創始は、出雲国の熊野大社とは何の繋がりもないことが明らかではないでしょうか。