理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

86 ヤマト国の発祥(2)地勢上の優位、交通・交易面での優位

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 なぜ大和盆地が、なかでも纒向の地(それに続く続くヤマト国)が広域的な地域関係の中心として大きく飛躍する起点になったのでしょうか。

 地勢面に関しては、次の3項が飛躍の要因になったと考えられます。
1. 広大な平地の存在
2. 海・川・湖を結ぶ多方面交通路の存在
3. 東日本の労働力・軍事力を活用できる絶妙な地政学的位置

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85 ヤマト国の発祥(1)無主の地に忽然と出現?

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 第70回から75回のブログで、邪馬台国がヤマト国に連続しないことを確認しました。よって纒向集落はヤマト国(ヤマト王権の初期状態)の前段階のクニの姿と位置づけられそうです。
 考古遺跡・遺物の存在から、(仮に崇神が3世紀末に実在したとすれば)崇神以前のムラやクニの姿をおぼろげながらもイメージすることは可能と思われます。
 ではヤマト国は、いったいどのようにしてつくられたのでしょうか。

纒向誕生に関する諸説
 3世紀初めまでは無主の地だった(?)纒向に、突如として280メートル近い巨大な箸墓古墳(前方後円墳)が出現したのは驚異であるとされています。

 あまりにも桁外れの出来事なので、次のようにいろいろな説が登場します。これら諸説については、今までのブログでも言及してきました。

 代表的な説は、政治連合説(第18回ブログ)や邪馬台国東遷説(第70回ブログ)。倭国大乱後の平和都市説や祭祀都市説、見えざる鉄器説なども……。
 そして、3世紀半ばの箸墓古墳の出現をもって「古墳時代の始まり」とするのは今や考古学界における有力説となっています。

 しかし、どの説も外的要因がドラマチックすぎて、纒向が誕生した説明としては今一歩の感が拭えません。直感的に無理筋と感じてしまうのです。

 交通インフラが未整備で、情報の授受もままならない大和盆地の中に、遠隔地の政治権力が介在する形で、短期間のうちに新たな大集落が誕生し、しかも巨大古墳が築造されたとはとても考えられません。

 古代の歴史の歩みはもっと緩やかだったのではないか……。

 筆者は、纒向集落の誕生とヤマト国への発展は、文化・宗教・技術などの外的要因が作用したこともなくはないが、3世紀半ば頃までに大陸文化の影響がほとんど見られないことなどから、一次的には大和盆地内部にその要因を求めるべきと考えます。
 それは纒向の特異性です。

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84 箸墓古墳の築造は4世紀?

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3世紀の大和盆地に邪馬台国の存在を思わせるものは皆無
 第82回ブログで言及した通り、近畿の主要な遺跡を確認してみると、やはり邪馬台国近畿説は否定せざるを得ません。中でも大和盆地の唐古鍵や纒向には邪馬台国につながるような証拠(3世紀半ば頃までの、シナや朝鮮半島、九州北部地域との積極的なつながり)がほとんどないので、大和説はあり得ないと断言できます。

 今月、考古学者でありながら、邪馬台国大和説に疑問符をつけた関川尚功氏の著作『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年9月発行)を読みました。筆者の拙い論理を補強してくれる素晴らしい論考です。

 氏はもともと橿原考古学研究所で纒向遺跡の発掘調査に深く関与した考古学者です。
 日本の考古学界の人たちは自らの専門領域に閉じこもり、また今までの蓄積に縛られがちで、自由な論考ができない傾向が見られます。
 学界自体がピラミッド構造なので仕方ないのかもしれませんが、新たな視点で見直すとか、異論をたたかわすということが出来にくいのです。
 氏は2011年に退職後、研究の集大成という視点で、(邪馬台国大和説に固執する学界にとって)驚きの論考を発表したことになります。

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83 古代国家成立プロセスと万世一系の捉え方

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 当ブログは、この先、「ヤマト王権の発祥と成長」について筆を進めていくことになりますが、その前に明確にしておきたい点を2つばかり述べておきます。

古代国家成立プロセスに関する2つの捉え方
 3世紀から6世紀末にかけての古代国家成立プロセスに関しては、版図の拡大スピードについて、大きく2つの捉え方がありますね(第70回ブログの追記でも言及した)。

 ひとつは、前方後円墳・三角縁神獣鏡・布留式土器の分布圏がほぼ一致することから、ヤマト王権がこれら広範囲の分布圏に比較的短期間に支配権を確立したとする見解。

 もうひとつは、地域国家の実態に光を当て、前方後円墳などの分布は経済交流や文化伝播による結果であるとし、ヤマト王権は5世紀頃までかけて徐々に版図を拡大していったとする見解。しかも6世紀になってもなお、盤石な政権基盤は確立されていなかった……と。

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82 3世紀頃までの近畿のクニ・ムラ

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 第60回ブログで確認したように、最近の学説では、日本の水田稲作の開始時期は紀元前10世紀頃まで早まり、水田稲作は列島各地にゆっくりと拡散し、東北北部には紀元前4世紀、関東南部には紀元前3世紀に到達したと考えられています。
 大阪湾沿岸、大和盆地、伊勢湾沿岸には紀元前6世紀から紀元前5世紀頃にかけて伝わったようです。
 水田稲作の伝播・定着に比例して、河川の流域で集住が進み、「ムラ共同体」が興り、やがて交通の要衝地を核に、大きな「クニ」としてまとまっていきます。

 水田稲作の開始は、集住促進に関して大きなインパクトとなった。これは近畿地方についても当てはまります。
 しかし「瑞穂の国」と言われるわりにコメは長い間、主食とはならなかった。水稲技術が拙かったためです。
 中世までは、むしろ麦や雑穀の畑作がメインであって、芋などの野菜の比重も高かった。日本列島で稲作が本格的に普及するのは17世紀の新田開発後から、そしてコメが主食になるのは明治になってからのことです。

 第62回~66回ブログでは、九州北部や山陰におけるムラ共同体やクニの態様について言及したので、今回は近畿地方について確認することにします。

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