<宗像大社本殿>
今回は、祭神が宗像三女神に関係する宗像大社と厳島神社について確認してみます。
神話にみる宗像三女神と宗像氏が祀った三女神
宗像三女伸は、アマテラスがスサノヲの持っている十拳劔(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から生まれたとされています。
この三女神は、日本から大陸及び朝鮮半島への海上交通の平安を守護する神として、海北道中の島々(沖ノ島・筑前大島・宗像田島)に祀られ、ヤマト王権によって古くから重視されてきた歴史があります。
ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表しているが、元々は水潟(みなかた)に由来するとされるようです。
〇 多紀理毘売命(タキリビメ)・・・宗像大社の沖津宮に祀られる。
〇 市寸島比売命(イチキシマヒメ)・・・中津宮に祀られる。
〇 田寸津比売命(タキツヒメ)・・・辺津宮に祀られる。
宗像三女神は、宗像大社を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称で、宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全をつかさどる神として崇敬を集めてきました。 「道主貴」の「ムチ」は「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は道主貴のほかには大日孁貴(オホヒルメノムチ、天照大神)、大己貴(オホナムチ、大国主)など、わずかにしか見られません。
アマテラスが国つくりの前(天孫降臨より以前)、この三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇を助けると共に歴代の天皇から篤い祭りを受けよ」という神勅を示したと伝わります。
<宗像大社拝殿にかかる扁額>
『古事記』では「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら九州北部の海人族が古代より集団で祀る地方神でした。
<宗像大社のかつての祭場だった高宮>
海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化したため、対馬海峡の重要性が認識され、土着神であった宗像三神が国家神としての性格を強めていった模様。
もっとも神聖視される沖ノ島では、巨岩を依り代とする自然信仰がありました。
筆者は、宗像三女神の原型は沖ノ島の自然信仰(単一の神)であって、後にこれが分化して三女神になったと考えています。
沖ノ島では3世紀の祭祀跡が確認されていて、8万点にものぼる出土品は国宝に指定されています(海の正倉院)。盛期は4世紀後半以降7世紀頃まで。
『日本書紀』第3の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿(比売大神)に祀られ、この『日本書紀』の記述を宇佐神社の創始としている。この真偽のほどは何とも……。
4世紀以降の筑紫地域と史実に見る宗像大社の発展
日本神話における景行の九州征討やヤマトタケルの熊襲征伐は虚構です。4世紀の交通事情を無視したうえで、5~7世紀におけるヤマト王権の勢力拡大や軍事進攻の歴史を遡らせ、天皇家の権威を高める意図で7~8世紀頃に創作されたものです。
では、4世紀頃の九州北部は実際にどんな状況だったのでしょうか。
4世紀になると、九州北部の伊都国や邪馬台国の勢力が後退して、玄界灘地域には後に宗像氏を名乗る集団が、また博多湾から有明海に至る筑後平野一帯には後に筑紫氏となる集団が、さらに九州中部では後の火君(ひのきみ)が、それぞれ勢力を拡大したと想定されます。
このうち宗像氏については、海の民から成長した豪族で、現在の宗像市・福津市を中心とする地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配しました。九州北部の海人族は、沖の島を航路とした宗像一族の他にも、志賀島を拠点として壱岐・対馬を航路とし対馬海峡を支配した安曇一族がありました。
4世紀前半までの大和の勢力は、博多湾沿岸勢力や出雲勢力の顔色を窺いながら「博多湾交易」のおこぼれを得ています。
4世紀半ばになると、ヤマト王権は宗像の勢力範囲であった玄界灘地域に着目して、沖ノ島を経由する新たな「海北道中ルート」を確保し、朝鮮半島交易において優位に立ったと想定できます。
「海北道中ルート」の中継点にあたる沖ノ島の祭祀が盛んになるのも、4世紀半ばから5世紀以降のことで、その後のヤマト王権は宗像一族へ相当な肩入れをしていきます。
沖ノ島祭祀は7世紀以降まで続き、宗像大神は海北道中という航路の国家レベルの守り神として尊崇されるのです。
4世紀後半以後に地域国家の首長となる火君一族は、熊本平野の白川より南の宇土半島から八代平野あたりを根拠地とし、玄界灘沿岸とは異なる独自の文化圏を形成していました。
火君の文化は、筑紫氏が基盤とした筑後の古墳文化と近似するので、合わせて有明文化圏とも呼ばれています。狗奴国と関連があるのかどうかはまったく分かりません。
6世紀半ば、ヤマト王権と筑紫氏の間で争われた磐井戦争の後、ヤマト王権のバックアップを受けた宗像の勢力は、筑後地域まで影響を及ぼすようになります。
宗像氏は、中世に向けて大宮司家が次第に武士化し、戦国時代には九州北部の戦国大名としても活躍し、16世紀後半まで勢力を維持します。
筑紫氏について少々補足します。
『日本書紀』が筑紫国造だったと記す筑紫磐井について、『古事記』は竺紫氏(姓は君)だったと記します。古代の筑紫氏はよく分からないことが多く、火君と同族と見る説もあります(有明豪族連合)。
古代の筑紫氏と同名の氏族には、中世以降の武家で筑前・筑後・肥前の広域に勢力を張り、筑紫神社を氏神とする筑紫氏がいますが、古代の竺紫氏との関連はよく分かっていません。
八女丘陵に展開する八女古墳群は、前方後円墳12基・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなっています。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫氏一族の墓と推定されています。
このうち5世紀以降の筑紫君関連の墓としては石人山古墳(せきじんさんこふん、磐井の祖父の墓か)、岩戸山古墳(筑紫磐井の墓か)、鶴見山古墳(磐井の息子・葛子の墓か)が有名ですが、磐井戦争を論じるときに再度詳述したいと思います。
ついでに、筑前国の一宮2社について言及しておきます。
筥崎宮(はこざきぐう)
筑前国一宮は、意外にも「宗像大社」ではなく、「筥崎宮」と「住吉神社」です。
「筥崎宮」は「宇佐神宮」、「石清水八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」の一つとされる有力社で、古くから「神宮号」を有する五社(伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、宇佐神宮、筥崎宮)のうちの一つでもあります。
博多湾に面した「お潮井浜」から700メートルほど真っ直ぐに参道が延び、鹿児島本線の箱崎駅の近くに筥崎宮の本殿が鎮座しています。浜の近くには大鳥居があり、ニノ鳥居が続く。その後ろは三ノ鳥居と思いきや、一ノ鳥居である。当社では本殿に近い方から一、二と呼ぶらしい。
一ノ鳥居は三段に切れ、笠木島木は一つの石材で造られ先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じという異色の鳥居で、「筥崎鳥居」と呼ばれています。柱は下太りで重量感があります。その左に立つ社号標の「大社筥崎宮」は東郷平八郎が揮毫したものです。
<筥崎鳥居>
参道正面には、「鹿島神宮」、「阿蘇神社」とともに、「日本三大楼門」の一つといわれる楼門が構える。83坪余りの雄大な屋根を持つ豪壮な建物である。「敵国降伏」の扁額を掲げているので伏敵門ともいわれるらしい。
<筥崎宮の境内で存在感を示す楼門>
楼門の右手前には御神木の「筥松」があいます。近くの「宇美八幡宮」で神功皇后が応神天皇を生んだ時、胎盤と臍の緒を筥(箱)に納め、清浄な当社の境内に埋めたとの伝承があり、それが「筥松」の場所といわれていて、このことが筥崎の名の由来です。
楼門をくぐれば切妻妻入拝殿、その奥に九間社流造という大掛かりな本殿が建ちます。
その他、境内には「お潮井砂」「湧出石」、元寇の時に蒙古軍が使用した「碇石」、「大楠」「千利休奉納の石灯籠」等もあり、観光スポットには事欠かないようです。
筥崎宮の創建時期は920年代前半で比較的新しい。当時は、唐が滅び、朝鮮半島でも新羅が弱体化し、戦火が日本にも及ぼうかという時代でした。
この事態を重く見た醍醐天皇は、「宇佐神宮」からの勧請ではなく、八幡神から直に神勅を受け「敵国降伏」の宸筆を下賜し、壮麗な社殿を建立した。この時の宸筆を謹写拡大した文字が、楼門に高く掲げられた扁額の文字とされています。
祭神は「宇佐神宮」と少しばかり異なります。
応神天皇、神功皇后、玉依姫命で、主祭神を応神天皇としています。宇佐の地に天降った比女大神が地主神的な要素があるため、入れ替えたともいわれています。
鎌倉開府とともに、源氏の氏神となった八幡神は武家の守護神として崇敬されるようになっていきました。九州各地でも、「宇佐神宮」のある豊前を筆頭に八幡社の勢力が増大しました。ここ筑前の地でも「筥崎宮」は「戦いの神様」として崇敬を集めていきます。
鎌倉時代中期の元寇で、当社は戦火にさらされながらも、俗にいう神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、勝運の神として名を馳せ、その後も名だたる武将が崇敬したため隆盛を辿りました。
本来の由緒正しい「一宮」としては、次節の「住吉神社」に軍配を上げざるを得ないが、当社の賑わいは「住吉神社」をはるかに上回ります。
住吉神社(筑前国)
今の社地はビルが立ち並ぶ福岡市街地の中にあって、すっかり町中の神社の趣ですが、しかし古代の博多は海が深く湾入し、その入江に突き出た岬の上に当社の前身がありました。この辺りを「儺ノ津」といい、朝鮮半島や大陸への海の表玄関でした。したがって当社が海の守護神であり航海の神であったことは間違いないでしょう。
<住吉神社境内>
瑞垣の外には、摂津一宮の住吉大社には無かった玉垣がしっかりと囲んでいて、参拝者は近づけず、本殿は視認できません。解放感に欠けるのがまことに残念。
祭神は底筒男、中筒男、表筒男から成る住吉三神で、相殿にアマテラスと神功皇后が祀られ、あわせて住吉五所大神と呼ぶようです。
<住吉神社本殿>
伝承では、当社は住吉系神社の源流とされる。住吉系神社の総本宮とされる摂津一宮よりも創建時期は古いというのですが……。
主要な住吉神社を神話から推定して創建順に並べれば、筑前、長門、摂津の順になります。神社由緒書にも誇らしげに「住吉本社」や「日本第一住吉宮」と表記してあります。
当然、筑前国一宮として朝野の篤い崇敬を受けてきました。鎌倉時代以降、権力が貴族から武士に移ったことで、神社の格も変化した。天皇や貴族が崇敬した「住吉神社」から、武神「筥崎宮」へと重心は移行した。そして「一宮」にも、「筥崎宮」と「住吉神社」が並立するようになってしまったのです。
九州最大の激戦地を制した住吉神社
筑前国には歴史ある有名神社が揃っています。「一宮」としては「住吉神社」と「筥崎宮」があり、他にも「太宰府天満宮」、「宗像大社」、「香椎宮」、「志賀海神社」、「筑紫神社」、「宮地嶽神社」と粒ぞろいです。
<香椎宮(日本唯一の香椎造の社殿)>
前述したように、「宗像大社」は南方系の海人族である宗像氏が宗像三女神を祀った社です。
また、北方系の海人族である安曇族の奉ずる「志賀海神社」は、綿津見三神を祀った社であり、住吉神社の祭神(住吉三神)とも関係が深いとされます。宗像氏も安曇氏も海洋展開能力を生かし全国に雄飛した古代の有力氏族でした。
「宇美八幡宮」は神功皇后が応神天皇を生んだ地とされ、「香椎宮」も神功皇后の神託があり、仲哀天皇が死去した地とされ、いずれも仲哀・応神・神功皇后の影が色濃く残る有力社です。
<宇美八幡宮の拝殿・本殿・湯蓋の森>
「太宰府天満宮」は歴史こそ新しいが終始朝野の崇敬を集め、今日の参拝客の人気でみても「宗像大社」とならび九州きっての有力社といえます。
この他にも、『延喜式』の名神大社で筑紫国の名の由来となった「筑紫神社」や大注連縄で有名な「宮地嶽神社」もあります。
こうしてみると、筑前国は他のどこが「一宮」であってもおかしくない激戦地です。 何故、住吉神社が他社に先んじて「筑前国一宮」の地位を確保できたのか。恐らく、「志賀海神社」や「筑紫神社」は平安時代には没落し、「宗像大社」や「香椎宮」、「宇美八幡宮」は、国家的崇敬の対象として「一宮」を超越していたのでしょう。ともかくも「住吉神社」は全国最大の激戦地を勝ち抜いた「一宮」といえそうです。
美しすぎる世界遺産の厳島神社
「厳島神社」を一言で表せば「美しすぎる神社」と言えそうです。
本社は、山側の最奥の位置に本殿、手前に向けて幣殿、拝殿と続き、参拝用廻廊を挟んで海側には祓殿、高舞台、平舞台と続き、最先端の火焼前が海に突き出し、火焼前の左右には門客神社が鎮座しています。
その先、海中には重文の大鳥居が聳え建ちます。現在の鳥居は8代目だそうで、海中に松丸太を千本打ち込んだ上に置かれているだけだと言います。この大鳥居は「日本三大鳥居」の一つとされます。他の二つは「気比神宮」と「春日大社」で、他にも巨大鳥居はありますが、木造でなければ三大にはカウントされないようです。
当社では、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、東西回廊、高舞台、客神社の計7つもの建造物が国宝指定を受けています。国宝の本殿を有する「一宮」は全国でも僅か8社に過ぎませんが、一社で異例ともいえる国宝の多さです。当社は加えて重文の建造物も数多く有しています。
廻廊は東回廊と西廻廊から成り、総延長は275メートル、東回廊は入り口から直進、右折、右折で本社に至り、西廻廊は出口から直進、左折、左折で本社に至ります。その東西回廊が連結する位置に本社が鎮座しているわけです。
<東廻廊から厳島神社本殿>
拝殿は、三棟造で、拝殿内を見上げると、化粧屋根裏が二つ見えますが、二つの屋根裏の間に真の棟があり、両脇の屋根裏の棟と共に棟が三つあるように見えます。
本殿は柱間が八つある八間社(元々は九間社)で壮観です。
「厳島神社」本社の祭神は、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命で宗像三女神と呼ばれています。アマテラスとスサノオの誓約の時に、スサノオの物実から化生した三神ですね。
西廻廊には大国社、天神社などの摂社、能舞台などが隣接していて、それぞれが調和し美しい全体を構成しています。海上に浮かぶ能舞台は日本で唯一のもので、毎年四月に「桃花祭神能」が開催されます。
拝殿前の高舞台は「日本三舞台」の一つと言われ、舞楽が演奏されます。他の二つは「住吉大社の石舞台」と「四天王寺の石舞台」。
厳島本社も客神社も祭神には謎が一杯!
厳島神社参拝の際は、まず東回廊の入口にある「客神社」に参拝するのがマナーらしい。「客神社」は東回廊の右側に祓殿があり、左側に拝殿、幣殿、その奥に本殿というレイアウトになっていて、実に壮麗です。由緒書によれば、「厳島神社」の主な祭典は先ず「客神社」で始まりその後、本社で行われるようです。
<左、客神社拝殿内部、右、本殿(後方から)>
「客神社」の祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命など五柱です。
この五柱の神は意味深で、この五柱は、誓約の時にアマテラスの物実から化生したアマテラス系の神だからです。
本社の三神と客神社の五神が誓約繋がりで鎮座していることになります。
語呂の良さから「三女神・五男神」として称える向きもあるようですが、余りに出来過ぎではないでしょうか。
当社は、平安時代、平清盛によって造営されたと伝わりますが、創始は地元の豪族である佐伯氏が海の女神を筑前から勧請したのが始まりのようです。
しかし厳島は、古くは「斎き島」で、やがて「伊都岐島」となり「厳島」に転じたとされます。
当初、祭神は伊都岐島大明神とされていました。宮島の島全体が瀬戸内の中で一段高く、海の民から信仰の対象として崇められていたということでしょう。そして実は、この「客神社」こそが、祭神の謎を解く鍵を握っていると言えます。
「客神社」と同じ意味の神社は全国に沢山あります。
東北ではアラハバキ神社として荒波々幾神を祀る神社があるし、それ以外の地域では、客神社や門客神社と言われています。
いずれの場合も、地主神がその土地を奪われて、後からやってきた神にとって代わられ客神となった神を祀る神社を、「客神社」として祀っています。
したがって、本殿よりも先に参拝すべしという慣習が出来たのではないでしょうか。
しかし、そのような「客神社」の性格から考えると、今の社殿は豪華過ぎます。それに客神としてアマテラス系の神を祀るというのは如何にも不自然と言わざるを得ません。恐らく「客神社」の五柱の祭神は後付けなのでは。
「客神社」の元々の祭神こそが「厳島神社」の元々の祭神であったと言えそうです。
全国の一宮神社を眺めてみると、原初の自然信仰から、それとは異質の人間が作り出した神(人格神)を信仰の対象にするようになった例が沢山あります。
中央政府と関係の深い大社は、アマテラスを頂点とする神々が、「記・紀」に登場する神々と関連付けられていったのです。当社の祭神の変遷もこの流れに沿ったものでしょう。弥山を崇める原初の自然信仰の上に宗像三女神が重なっていったと考えられます。宮島で最も高い弥山の頂には獅子岩を初め、大そうな磐座がゴロゴロしているようです。
文献上、祭神がイチキシマヒメと認められるようになったのは14世紀以降のことで、比較的新しいことです。「伊都岐島」が音韻類似から、同じく海に関係する筑前宗像の「市杵島姫」と同一視されたようです。その後、自然の流れとして宗像三女神を祀るようになったということでしょう。
したがって、筆者は宗像神社の祭神と厳島神社の祭神には、もともと何の繋がりもなかったと考えます。
清盛が出てくるまでは、安芸国の一宮は廿日市の「速谷神社」だった。清盛が「厳島神社」を崇敬して以降、「速谷神社」は二宮に移行したという記録が残っています。清盛の思い入れは強く、平安時代末期、清盛の要請により「厳島神社」を二十二社に加列する動きがあり、1180年前後に三度ほどその動きがありましたが、結局、清盛をもってしても果たせなかった……。
神仏習合、分離の荒波をくぐり抜けた厳島神社の国宝社殿
「厳島神社」の社殿は、危うく焼き払われる危機をくぐり抜けて現在に至っています。
江戸末期から古代への復古思想が強くなり、仏教的な要素のある神社は批判を受けるようになりました。当社は、寝殿造をベースに華麗な装飾が多用されていたため、特に仏教色が強いとされました。
明治政府による神仏分離では、当社は「一宮」という高い社格であるだけに、神仏分離の見本となるべく重点対象とされてしまいます。仏教的なものはすべて撤去され、社殿に塗られていた朱の彩色は落とされて素木造とされたのです。何と本殿の屋根には千木・鰹木が新設され、徹底的な改装がなされたのです。
その後、明治末の修理時に彩色が復旧され千木・鰹木は撤去されて、現在の姿に回復したという史実が辿れます。