理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

157 宗像大社と厳島神社


  <宗像大社本殿>

 今回は、祭神が宗像三女神に関係する宗像大社と厳島神社について確認してみます。

 

神話にみる宗像三女神と宗像氏が祀った三女神
 宗像三女伸は、アマテラスがスサノヲの持っている十拳劔(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から生まれたとされています。
 この三女神は、日本から大陸及び朝鮮半島への海上交通の平安を守護する神として、海北道中の島々(沖ノ島・筑前大島・宗像田島)に祀られ、ヤマト王権によって古くから重視されてきた歴史があります。

 ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表しているが、元々は水潟(みなかた)に由来するとされるようです。

  多紀理毘売命(タキリビメ)・・・宗像大社の沖津宮に祀られる。
  市寸島比売命(イチキシマヒメ)・・・中津宮に祀られる。
  田寸津比売命(タキツヒメ)・・・辺津宮に祀られる。

 宗像三女神は、宗像大社を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称で、宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全をつかさどる神として崇敬を集めてきました。 「道主貴」の「ムチ」は「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は道主貴のほかには大日孁貴(オホヒルメノムチ、天照大神)、大己貴(オホナムチ、大国主)など、わずかにしか見られません。

 アマテラスが国つくりの前(天孫降臨より以前)、この三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇を助けると共に歴代の天皇から篤い祭りを受けよ」という神勅を示したと伝わります。

 


<宗像大社拝殿にかかる扁額>

 『古事記』では「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら九州北部の海人族が古代より集団で祀る地方神でした。

 


 <宗像大社のかつての祭場だった高宮>

 海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化したため、対馬海峡の重要性が認識され、土着神であった宗像三神が国家神としての性格を強めていった模様。

 もっとも神聖視される沖ノ島では、巨岩を依り代とする自然信仰がありました。
 筆者は、宗像三女神の原型は沖ノ島の自然信仰(単一の神)であって、後にこれが分化して三女神になったと考えています。
 沖ノ島では3世紀の祭祀跡が確認されていて、8万点にものぼる出土品は国宝に指定されています(海の正倉院)。盛期は4世紀後半以降7世紀頃まで。

 『日本書紀』第3の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿(比売大神)に祀られ、この『日本書紀』の記述を宇佐神社の創始としている。この真偽のほどは何とも……。

 

4世紀以降の筑紫地域と史実に見る宗像大社の発展
 日本神話における景行の九州征討やヤマトタケルの熊襲征伐は虚構です。4世紀の交通事情を無視したうえで、5~7世紀におけるヤマト王権の勢力拡大や軍事進攻の歴史を遡らせ、天皇家の権威を高める意図で7~8世紀頃に創作されたものです。
 では、4世紀頃の九州北部は実際にどんな状況だったのでしょうか。

 4世紀になると、九州北部の伊都国や邪馬台国の勢力が後退して、玄界灘地域には後に宗像氏を名乗る集団が、また博多湾から有明海に至る筑後平野一帯には後に筑紫氏となる集団が、さらに九州中部では後の火君(ひのきみ)が、それぞれ勢力を拡大したと想定されます。
 このうち宗像氏については、海の民から成長した豪族で、現在の宗像市・福津市を中心とする地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配しました。九州北部の海人族は、沖の島を航路とした宗像一族の他にも、志賀島を拠点として壱岐・対馬を航路とし対馬海峡を支配した安曇一族がありました。
 4世紀前半までの大和の勢力は、博多湾沿岸勢力や出雲勢力の顔色を窺いながら「博多湾交易」のおこぼれを得ています。

 4世紀半ばになると、ヤマト王権は宗像の勢力範囲であった玄界灘地域に着目して、沖ノ島を経由する新たな「海北道中ルート」を確保し、朝鮮半島交易において優位に立ったと想定できます。
 「海北道中ルート」の中継点にあたる沖ノ島の祭祀が盛んになるのも、4世紀半ばから5世紀以降のことで、その後のヤマト王権は宗像一族へ相当な肩入れをしていきます。
 沖ノ島祭祀は7世紀以降まで続き、宗像大神は海北道中という航路の国家レベルの守り神として尊崇されるのです。

 4世紀後半以後に地域国家の首長となる火君一族は、熊本平野の白川より南の宇土半島から八代平野あたりを根拠地とし、玄界灘沿岸とは異なる独自の文化圏を形成していました。

 火君の文化は、筑紫氏が基盤とした筑後の古墳文化と近似するので、合わせて有明文化圏とも呼ばれています。狗奴国と関連があるのかどうかはまったく分かりません。

 6世紀半ば、ヤマト王権と筑紫氏の間で争われた磐井戦争の後、ヤマト王権のバックアップを受けた宗像の勢力は、筑後地域まで影響を及ぼすようになります。

 宗像氏は、中世に向けて大宮司家が次第に武士化し、戦国時代には九州北部の戦国大名としても活躍し、16世紀後半まで勢力を維持します。

 筑紫氏について少々補足します。
 『日本書紀』が筑紫国造だったと記す筑紫磐井について、『古事記』は竺紫氏(姓は君)だったと記します。古代の筑紫氏はよく分からないことが多く、火君と同族と見る説もあります(有明豪族連合)。
 古代の筑紫氏と同名の氏族には、中世以降の武家で筑前・筑後・肥前の広域に勢力を張り、筑紫神社を氏神とする筑紫氏がいますが、古代の竺紫氏との関連はよく分かっていません。

 八女丘陵に展開する八女古墳群は、前方後円墳12基・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなっています。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫氏一族の墓と推定されています。
 このうち5世紀以降の筑紫君関連の墓としては石人山古墳(せきじんさんこふん、磐井の祖父の墓か)、岩戸山古墳(筑紫磐井の墓か)、鶴見山古墳(磐井の息子・葛子の墓か)が有名ですが、磐井戦争を論じるときに再度詳述したいと思います。

 ついでに、筑前国の一宮2社について言及しておきます。

 

筥崎宮(はこざきぐう)
 筑前国一宮は、意外にも「宗像大社」ではなく、「筥崎宮」と「住吉神社」です。

 「筥崎宮」は「宇佐神宮」、「石清水八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」の一つとされる有力社で、古くから「神宮号」を有する五社(伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、宇佐神宮、筥崎宮)のうちの一つでもあります。

 博多湾に面した「お潮井浜」から700メートルほど真っ直ぐに参道が延び、鹿児島本線の箱崎駅の近くに筥崎宮の本殿が鎮座しています。浜の近くには大鳥居があり、ニノ鳥居が続く。その後ろは三ノ鳥居と思いきや、一ノ鳥居である。当社では本殿に近い方から一、二と呼ぶらしい。
 一ノ鳥居は三段に切れ、笠木島木は一つの石材で造られ先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じという異色の鳥居で、「筥崎鳥居」と呼ばれています。柱は下太りで重量感があります。その左に立つ社号標の「大社筥崎宮」は東郷平八郎が揮毫したものです。

 <筥崎鳥居>

 参道正面には、「鹿島神宮」、「阿蘇神社」とともに、「日本三大楼門」の一つといわれる楼門が構える。83坪余りの雄大な屋根を持つ豪壮な建物である。「敵国降伏」の扁額を掲げているので伏敵門ともいわれるらしい。

 


 <筥崎宮の境内で存在感を示す楼門>

 楼門の右手前には御神木の「筥松」があいます。近くの「宇美八幡宮」で神功皇后が応神天皇を生んだ時、胎盤と臍の緒を筥(箱)に納め、清浄な当社の境内に埋めたとの伝承があり、それが「筥松」の場所といわれていて、このことが筥崎の名の由来です。

 楼門をくぐれば切妻妻入拝殿、その奥に九間社流造という大掛かりな本殿が建ちます。
 その他、境内には「お潮井砂」「湧出石」、元寇の時に蒙古軍が使用した「碇石」、「大楠」「千利休奉納の石灯籠」等もあり、観光スポットには事欠かないようです。

 筥崎宮の創建時期は920年代前半で比較的新しい。当時は、唐が滅び、朝鮮半島でも新羅が弱体化し、戦火が日本にも及ぼうかという時代でした。
 この事態を重く見た醍醐天皇は、「宇佐神宮」からの勧請ではなく、八幡神から直に神勅を受け「敵国降伏」の宸筆を下賜し、壮麗な社殿を建立した。この時の宸筆を謹写拡大した文字が、楼門に高く掲げられた扁額の文字とされています。

 祭神は「宇佐神宮」と少しばかり異なります。
 応神天皇、神功皇后、玉依姫命で、主祭神を応神天皇としています。宇佐の地に天降った比女大神が地主神的な要素があるため、入れ替えたともいわれています。

 鎌倉開府とともに、源氏の氏神となった八幡神は武家の守護神として崇敬されるようになっていきました。九州各地でも、「宇佐神宮」のある豊前を筆頭に八幡社の勢力が増大しました。ここ筑前の地でも「筥崎宮」は「戦いの神様」として崇敬を集めていきます。
 鎌倉時代中期の元寇で、当社は戦火にさらされながらも、俗にいう神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、勝運の神として名を馳せ、その後も名だたる武将が崇敬したため隆盛を辿りました。
 本来の由緒正しい「一宮」としては、次節の「住吉神社」に軍配を上げざるを得ないが、当社の賑わいは「住吉神社」をはるかに上回ります。

 

住吉神社(筑前国)
 今の社地はビルが立ち並ぶ福岡市街地の中にあって、すっかり町中の神社の趣ですが、しかし古代の博多は海が深く湾入し、その入江に突き出た岬の上に当社の前身がありました。この辺りを「儺ノ津」といい、朝鮮半島や大陸への海の表玄関でした。したがって当社が海の守護神であり航海の神であったことは間違いないでしょう。


  <住吉神社境内>

 瑞垣の外には、摂津一宮の住吉大社には無かった玉垣がしっかりと囲んでいて、参拝者は近づけず、本殿は視認できません。解放感に欠けるのがまことに残念。

 祭神は底筒男、中筒男、表筒男から成る住吉三神で、相殿にアマテラスと神功皇后が祀られ、あわせて住吉五所大神と呼ぶようです。


 <住吉神社本殿>

 伝承では、当社は住吉系神社の源流とされる。住吉系神社の総本宮とされる摂津一宮よりも創建時期は古いというのですが……。

 主要な住吉神社を神話から推定して創建順に並べれば、筑前、長門、摂津の順になります。神社由緒書にも誇らしげに「住吉本社」や「日本第一住吉宮」と表記してあります。
 当然、筑前国一宮として朝野の篤い崇敬を受けてきました。鎌倉時代以降、権力が貴族から武士に移ったことで、神社の格も変化した。天皇や貴族が崇敬した「住吉神社」から、武神「筥崎宮」へと重心は移行した。そして「一宮」にも、「筥崎宮」と「住吉神社」が並立するようになってしまったのです。

 

九州最大の激戦地を制した住吉神社
 筑前国には歴史ある有名神社が揃っています。「一宮」としては「住吉神社」と「筥崎宮」があり、他にも「太宰府天満宮」、「宗像大社」、「香椎宮」、「志賀海神社」、「筑紫神社」、「宮地嶽神社」と粒ぞろいです。


 <香椎宮(日本唯一の香椎造の社殿)>

 前述したように、「宗像大社」は南方系の海人族である宗像氏が宗像三女神を祀った社です。
 また、北方系の海人族である安曇族の奉ずる「志賀海神社」は、綿津見三神を祀った社であり、住吉神社の祭神(住吉三神)とも関係が深いとされます。宗像氏も安曇氏も海洋展開能力を生かし全国に雄飛した古代の有力氏族でした。

 「宇美八幡宮」は神功皇后が応神天皇を生んだ地とされ、「香椎宮」も神功皇后の神託があり、仲哀天皇が死去した地とされ、いずれも仲哀・応神・神功皇后の影が色濃く残る有力社です。


 <宇美八幡宮の拝殿・本殿・湯蓋の森>

 「太宰府天満宮」は歴史こそ新しいが終始朝野の崇敬を集め、今日の参拝客の人気でみても「宗像大社」とならび九州きっての有力社といえます。
 この他にも、『延喜式』の名神大社で筑紫国の名の由来となった「筑紫神社」や大注連縄で有名な「宮地嶽神社」もあります。

 こうしてみると、筑前国は他のどこが「一宮」であってもおかしくない激戦地です。 何故、住吉神社が他社に先んじて「筑前国一宮」の地位を確保できたのか。恐らく、「志賀海神社」や「筑紫神社」は平安時代には没落し、「宗像大社」や「香椎宮」、「宇美八幡宮」は、国家的崇敬の対象として「一宮」を超越していたのでしょう。ともかくも「住吉神社」は全国最大の激戦地を勝ち抜いた「一宮」といえそうです。

 

美しすぎる世界遺産の厳島神社
 「厳島神社」を一言で表せば「美しすぎる神社」と言えそうです。

 本社は、山側の最奥の位置に本殿、手前に向けて幣殿、拝殿と続き、参拝用廻廊を挟んで海側には祓殿、高舞台、平舞台と続き、最先端の火焼前が海に突き出し、火焼前の左右には門客神社が鎮座しています。

 その先、海中には重文の大鳥居が聳え建ちます。現在の鳥居は8代目だそうで、海中に松丸太を千本打ち込んだ上に置かれているだけだと言います。この大鳥居は「日本三大鳥居」の一つとされます。他の二つは「気比神宮」と「春日大社」で、他にも巨大鳥居はありますが、木造でなければ三大にはカウントされないようです。

 当社では、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、東西回廊、高舞台、客神社の計7つもの建造物が国宝指定を受けています。国宝の本殿を有する「一宮」は全国でも僅か8社に過ぎませんが、一社で異例ともいえる国宝の多さです。当社は加えて重文の建造物も数多く有しています。
 廻廊は東回廊と西廻廊から成り、総延長は275メートル、東回廊は入り口から直進、右折、右折で本社に至り、西廻廊は出口から直進、左折、左折で本社に至ります。その東西回廊が連結する位置に本社が鎮座しているわけです。


 <東廻廊から厳島神社本殿>

 拝殿は、三棟造で、拝殿内を見上げると、化粧屋根裏が二つ見えますが、二つの屋根裏の間に真の棟があり、両脇の屋根裏の棟と共に棟が三つあるように見えます。
 本殿は柱間が八つある八間社(元々は九間社)で壮観です。

 「厳島神社」本社の祭神は、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命で宗像三女神と呼ばれています。アマテラスとスサノオの誓約の時に、スサノオの物実から化生した三神ですね。

 西廻廊には大国社、天神社などの摂社、能舞台などが隣接していて、それぞれが調和し美しい全体を構成しています。海上に浮かぶ能舞台は日本で唯一のもので、毎年四月に「桃花祭神能」が開催されます。

 拝殿前の高舞台は「日本三舞台」の一つと言われ、舞楽が演奏されます。他の二つは「住吉大社の石舞台」と「四天王寺の石舞台」。

 

厳島本社も客神社も祭神には謎が一杯!
 厳島神社参拝の際は、まず東回廊の入口にある「客神社」に参拝するのがマナーらしい。「客神社」は東回廊の右側に祓殿があり、左側に拝殿、幣殿、その奥に本殿というレイアウトになっていて、実に壮麗です。由緒書によれば、「厳島神社」の主な祭典は先ず「客神社」で始まりその後、本社で行われるようです。

 

<左、客神社拝殿内部、右、本殿(後方から)>

 「客神社」の祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命など五柱です。
 この五柱の神は意味深で、この五柱は、誓約の時にアマテラスの物実から化生したアマテラス系の神だからです。

 本社の三神と客神社の五神が誓約繋がりで鎮座していることになります。
 語呂の良さから「三女神・五男神」として称える向きもあるようですが、余りに出来過ぎではないでしょうか。

 当社は、平安時代、平清盛によって造営されたと伝わりますが、創始は地元の豪族である佐伯氏が海の女神を筑前から勧請したのが始まりのようです。

 しかし厳島は、古くは「斎き島」で、やがて「伊都岐島」となり「厳島」に転じたとされます。
 当初、祭神は伊都岐島大明神とされていました。宮島の島全体が瀬戸内の中で一段高く、海の民から信仰の対象として崇められていたということでしょう。そして実は、この「客神社」こそが、祭神の謎を解く鍵を握っていると言えます。

 「客神社」と同じ意味の神社は全国に沢山あります。
 東北ではアラハバキ神社として荒波々幾神を祀る神社があるし、それ以外の地域では、客神社や門客神社と言われています。
 いずれの場合も、地主神がその土地を奪われて、後からやってきた神にとって代わられ客神となった神を祀る神社を、「客神社」として祀っています。
 したがって、本殿よりも先に参拝すべしという慣習が出来たのではないでしょうか。

 しかし、そのような「客神社」の性格から考えると、今の社殿は豪華過ぎます。それに客神としてアマテラス系の神を祀るというのは如何にも不自然と言わざるを得ません。恐らく「客神社」の五柱の祭神は後付けなのでは。

 「客神社」の元々の祭神こそが「厳島神社」の元々の祭神であったと言えそうです。

 全国の一宮神社を眺めてみると、原初の自然信仰から、それとは異質の人間が作り出した神(人格神)を信仰の対象にするようになった例が沢山あります。
 中央政府と関係の深い大社は、アマテラスを頂点とする神々が、「記・紀」に登場する神々と関連付けられていったのです。当社の祭神の変遷もこの流れに沿ったものでしょう。弥山を崇める原初の自然信仰の上に宗像三女神が重なっていったと考えられます。宮島で最も高い弥山の頂には獅子岩を初め、大そうな磐座がゴロゴロしているようです。

 文献上、祭神がイチキシマヒメと認められるようになったのは14世紀以降のことで、比較的新しいことです。「伊都岐島」が音韻類似から、同じく海に関係する筑前宗像の「市杵島姫」と同一視されたようです。その後、自然の流れとして宗像三女神を祀るようになったということでしょう。
 したがって、筆者は宗像神社の祭神と厳島神社の祭神には、もともと何の繋がりもなかったと考えます。

 清盛が出てくるまでは、安芸国の一宮は廿日市の「速谷神社」だった。清盛が「厳島神社」を崇敬して以降、「速谷神社」は二宮に移行したという記録が残っています。清盛の思い入れは強く、平安時代末期、清盛の要請により「厳島神社」を二十二社に加列する動きがあり、1180年前後に三度ほどその動きがありましたが、結局、清盛をもってしても果たせなかった……。

 

神仏習合、分離の荒波をくぐり抜けた厳島神社の国宝社殿
 「厳島神社」の社殿は、危うく焼き払われる危機をくぐり抜けて現在に至っています。
 江戸末期から古代への復古思想が強くなり、仏教的な要素のある神社は批判を受けるようになりました。当社は、寝殿造をベースに華麗な装飾が多用されていたため、特に仏教色が強いとされました。
 明治政府による神仏分離では、当社は「一宮」という高い社格であるだけに、神仏分離の見本となるべく重点対象とされてしまいます。仏教的なものはすべて撤去され、社殿に塗られていた朱の彩色は落とされて素木造とされたのです。何と本殿の屋根には千木・鰹木が新設され、徹底的な改装がなされたのです。
 その後、明治末の修理時に彩色が復旧され千木・鰹木は撤去されて、現在の姿に回復したという史実が辿れます。

 

 

 

156 富士山本宮浅間大社と浅間信仰


  <対馬に向かうANAの畿内から>

 今回は、日本のシンボルとして古代から崇められてきたであろう富士山と浅間信仰に関係する神社について掘り下げてみます。
 しかし、7世紀以前、富士山や浅間信仰に関する記述はほとんどなく、中央における関心が著しく低かったのは驚きです。縄文の時代から東国では畏敬の念をもって接していたでしょうに……。

 前回、大山祇信仰と三嶋大社に言及したので、その延長線で浅間信仰についても触れたくなってしまったというのが筆者の心の内にありました。当ブログの古代史の範疇からは大きく外れますが、強いて言えば祭神の木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)が記紀神話に登場しています。このところずっと神社シリーズを載せているので、その一環としても許容できるのでは。
 アイキャッチ画像には残雪が残る5月の富士山の雄姿を載せました(神社社殿の写真を紛失したため)。

 

富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)
 富士山は2013年6月、世界遺産に登録されました。
 筆者は、今から半世紀以上も前の社会人1年目の夏、職場の仲間と一緒に富士山に登りました。当時も、五合目から頂上まで数珠つなぎの賑わいでした。今はインバウンドの登山者に大人気だそうな。
 頂上に立った感激と素晴らしい景色は忘れられませんが、意外にも富士登山そのものは好きになれませんでした。
 高山植物が少なく黒い溶岩や砂ばかり。残雪が無く岩場も少ない。池塘や湖沼もない。登り下りが単調で変化がない。
 私は二度と登らないと決めて現在に至っています。

 でも下界からの眺めは秀逸です。眺める富士は昔も今も大好きです。
 旅に出ても、富士山がどの方向なのか、探し続け、そして見ることにこだわっています。列車や飛行機に乗れば必ず富士の雄姿を確認します。たとえ頂上しか見えなくても、遠く小さい姿でも、なぜか確認出来たことで安心し満足するのです。
 東海道を移動する時は、裾野をのびやかに広げた全景が見えるので満足感で一杯になります。富士は本当に美しい……。

 しかし富士山は古代人にとってただ美しいだけの山ではありませんでした。火を吹き鳴動する恐ろしい山でした。
 現在の富士山は約1万年前から噴火活動を始めた新富士火山であり、奈良時代以降16回の噴火の記録があります。その多くが平安時代の噴火で、864年の貞観噴火は特に大きかったといいます。また江戸時代の1707年にも宝永大噴火が起きています。有史以来、富士山まわりの広い範囲が噴火と地震に見舞われ、大きな被害を受けてきた記録が残っています。

 噴火、地震を鎮めるために、富士山の周囲には多くの神社が創建されました。
 主要な神社としては、「富士山本宮浅間大社」のほか、「山宮浅間神社」「村山浅間神社」「須山浅間神社」「富士浅間神社」「河口浅間神社」「富士御室浅間神社」「北口本宮富士浅間神社」などが、富士山を囲むように鎮座しています。いずれも社名の「浅間」は「せんげん」と発音します。

 このような噴火の歴史を振り返ってみると、現在私たちが富士山を単に美しい山と思っているのは、まさに平時の平和ボケと同じかもしれません。美しい富士だけを見て社会や経済を組み立てていると、いつの日かしっぺ返しを食らうのではないでしょうか。

 それはともかく、前記の神社すべてが富士山本体とともに世界遺産に登録されています。登録名は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」となっており、自然価値よりも文化価値に焦点が当たっていることに注目すべきです。
 信仰の拠点である神社の中で、総本宮の役割を持つのが駿河国一宮の「富士山本宮浅間大社」です。

  「富士山本宮浅間大社」(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は全国1300余社の浅間神社の総本宮で、富士山の南西山麓にある富士宮市宮町に鎮座しています。その他の主要な神社はすべて、前述のように富士山まわりに鎮座しています。

 宮町の大社通りに面して朱色の大きな正面鳥居が聳え、参道を進むと石鳥居、桜の馬場、楼門と続き、楼門をくぐると鮮やかな朱色に塗りなおされた社殿が現れます。

 入母屋拝殿と本殿が幣殿で連結された権現造の社殿です。瑞垣内の本殿は、寄棟造の下階に流造の上階をのせた二階建で、独特の「浅間造」(せんげんづくり)と呼ぶ建築様式。
 目を凝らしてよく見ると本殿の蟇股や組物などの細工も素晴らしい。
 社殿の右奥には、富士山の雪解け水が湧出する湧玉池があり、昔はここで禊をしてから登拝したそうだ。
 富士山の頂上には奥宮があります。標高3776メートルの剣が峰の手前で3700メートル地点です。富士山の八合目から上の全域が当社の境内地になっているようです。

 当社の創始は、山宮(現在の山宮浅間神社)の地に磐境をもうけ、富士の山霊である浅間大神を祀ったことによります。
 その後、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、山宮から現在地へ遷座させ社殿を造営したという伝承があります。これはあくまで伝承……。

 中世は、富士山の霊力にあやかろうとする多くの武家の崇敬を集め、源頼朝、北条氏、足利氏、武田信玄、豊臣秀吉らが社殿の修造や神領、宝物の寄進を続けたため、大いに隆盛したようです。

 以前の社殿は大変壮麗な姿であったらしい。
 文献には「社殿巍々として繞らすに百八十間の長廊を以てし頗る荘厳を極めしも、宝永年間の山焼、安政年間の地震等の為めに漸次毀損して」とあり、1707年の富士宝永山噴出や1854年安政東海地震などの災害により、かろうじて本殿、幣殿、拝殿、楼門等だけが残って今に至っているわけです。

 当社の社名に「本宮」が使われるのは、静岡市にある浅間神社が「新宮」と呼ばれるのに対するものです。
 当社は国府のあった静岡から50キロも離れていたので、10世紀に分祀して新宮の「静岡浅間神社」を造営したようです。筆者は未だ参拝していませんが、「静岡浅間神社」は、家康が駿府に落ち着いた後に財を惜しまず投入したので、絢爛豪華の社殿群に仕上がったようです。特に二階建拝殿は最高傑作とされるらしい。「本宮」も引いてしまうほどの名建築だという。

 富士山を祭神として崇めてきた歴史は古く、一般には「浅間信仰」と呼ばれています。
 元々は火山の神、火の神であったが、神話に登場する木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめ)が祀られるようになったのは意外にも最近のことで、江戸時代後半からです。主導したのは吉田神道らしいが、所詮無理筋です。
 コノハナノサクヤヒメが火の中で出産したことから火の神と考えられるようになり、火山である富士山と結びついたということらしい。

 富士山は琵琶湖の沈没で出来たという楽しい伝承があります。
 江戸時代に広まったようですが、大昔に琵琶湖が陥没した反動で富士山が一夜にして隆起したというのです。
 それに因み江戸時代末期にはコノハナノサクヤヒメ祭神説が次のように発展したという。
 「上古に、一夜にして陥没して出来た琵琶湖と諏訪湖が基で、浅間山と富士山を湧出した。国土が非常に荒れてしまったので、時の天皇が驚き八百万神を集めて経緯を聞くと、大山祇神が、自分の娘のイワナガヒメを信濃に、コノハナノサクヤヒメを駿河に住まわせるために二山を作ったと告げた」。
 本州中部の代表的な山として浅間大神の富士山と浅間山が火山繋がりで挙げられているのは、特筆すべきと思います。
 昔は、火山は噴火すればするほど神威が高まったということでしょう。

 しかし噴火では九州の阿蘇山の方が大先輩!
 阿蘇山は世界最大級のカルデラ火山で、「火の国(肥の国)」のシンボルです。
 過去に何度も大噴火を繰り返し、阿蘇神社の社殿もそのたびに焼失した。

 11世紀以降、阿蘇大神は託宣神として朝廷から一目おかれるようになります。阿蘇山の噴火が神意を表しているとされ、噴火情報や旱魃疫病の兆候があればその都度、阿蘇神社の祭神は神階を累進した……。

 阿蘇の語源についてはさまざまな説がある。その中でも、「アソ」や「アサ」のASが世界の多くの言語で、噴火・煙・湯気・火山灰・焼く等を意味する共通の語幹となっているのは、興味深い事実。
 語源的には噴火を意味するという「アソ」があって、噴火する山で「アソヤマ」となり、さらに変化して「アサマ」になったのではないでしょうか。

 謡曲の一つに『富士太鼓』がありますが、その中では、噴煙を出している浅間山に対して富士山は噴煙がないので、浅間山の方が格上であるとする場面が出てきます。

 花園天皇が譲位した後の14世紀の初め頃、宮中で管弦の催しが行われることになり、四天王寺の楽人の「浅間」が太鼓の名手ということで召された。これを聞いた「住吉大社」の楽人の「富士」がお召もないのに太鼓の役を望んで推参した。

 天皇はこれを聞き「古歌に『信濃なる浅間の岳も燃ゆるといへば、富士の煙のかひやなからん』とあるからには、名前こそこの上ない富士という名であっても、浅間は実力では富士よりまさっているのだろう」と言ったので富士を推すものはいなかった。

 この顛末を聞いた浅間は富士の行動を憎々しく思い、富士を殺してしまう。そのあとのストーリーは富士の妻と娘が夫の形見を身につけ、太鼓こそ夫の敵とばかり太鼓を打つ場面へと続いていく。

 この古歌は10世紀中頃の後撰和歌集に載っていて、元々は「贈り物の薫香が名前ほどすぐれたものではない」という意味で使われたものです。14世紀初めの頃は、現に噴煙を出している火山の方が格別に畏敬され神威が高かったという事実を、『富士太鼓』は明確に物語っているようです。

 以上、駿河の浅間大社に触れたので、同じように木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)を祭神とする甲斐国の浅間神社にも言及したいと思います。

 

浅間神社(甲斐の国一宮)
 浅間神社(あさまじんじゃ)の鎮座地は、甲府市の東にあたる笛吹市一宮町で、富士山のほぼ真北に位置します。
 今でこそ山梨県の中心は甲府ということになりますが、甲府盆地の東端にあたる笛吹市は、古代の政治文化の中心地で、当社以外にも国分寺や総社も置かれていました。しかしここまで来ると前衛の山々が邪魔をして、ちょっとやそっとでは富士山は見えません。

 国道20号線に面して大鳥居が立っていますが、まわりに高いものが何もないのでその偉容さは格別です。
 北に向けて参道を進むと間もなく境内の入口に達し、そこには石鳥居と隋神門が建っています。
 隋神門をくぐり境内を見やれば不思議にも社殿は横を向いています。富士山ではなく西側の南アルプスを背負っているのです。それどころか境内のどこからも富士山は望めない……。

 境内は広くないが、『延喜式神名帳』では名神大社であり、中世には武田信玄による崇敬がことのほか篤かったという。富士山は見えなくとも、祭神は富士を意味するコノハナノサクヤヒメです。

 当社は社名の「浅間」を「せんげん」ではなく「あさま」と発音します。実は、「せんげん」よりも「あさま」という読みの方が古式であるらしいことは、富士山本宮浅間大社の項でも述べた通りです。

 富士山が世界遺産に登録された際、当社はその登録から外れてしまいました。
 社名が浅間神社で、祭神が富士山と結びついたコノハナノサクヤヒメであるにもかかわらず、なぜ外れたのでしょうか。
 実は、登録された8つの浅間神社には共通項があります。
 当社を除いて各社は「浅間」を「せんげん」と発音します。
 社殿は富士山の方角を向いているか鎮座地から富士の姿がよく見えます。

 一方当社は「あさま」と発音するし、ご神体であるはずの肝心の富士山が見えません。当然と思えた富士山とのつながりに疑念が生じてしまうのですね。

 由緒を調べていくと、当社は元々は富士山を祀る神社ではなかったように思われます。
 当社の東南2キロ余の所に摂社の「山宮神社」がありますが、こここそ元々の当社本殿が鎮座した場所だといいます。
 864年に富士山の大噴火があり、その翌年現在地へ遷座したようです。この時、祭神三柱のうち、コノハナサクヤヒメだけを当社に遷したものらしい。その経緯から「山宮神社」は元宮と呼ばれています。

 付近には縄文時代前期まで遡る巨大な釈迦堂遺跡群があります。
 恐らく、当地は原始的な自然信仰を起源とし南アルプスの山々を御神体として仰いできたが、平安期になって浅間大神と習合したのではないでしょうか。

 「かいでみるよりするがいい」という品のない都々逸がありますが、これは「甲斐で見るより駿河が良い」を引っかけたものです。甲府盆地からは富士山の頭しか見えないので、元々富士山をご神体とするには無理があったといわざるを得ませんね。

 かつては甲斐国一宮の地位をめぐっての争いもありました。甲斐国には浅間神社が3つあります。浅間神社の他は市川大門の「一宮浅間神社」と河口湖の近くに鎮座する「北口本宮富士浅間神社」です。
 特に「北口本宮富士浅間神社」は大きな社殿や老杉に囲まれた広大な境内を有し、どう割り引いてみても「一宮」に相応しく思えます。
 ただ、交通の要衝地、政治文化の中心地、武田信玄の崇敬などの要素が作用して「浅間神社」が「一宮」の地位を守り抜いたということなのでしょう。

155 大山祇神社と三嶋大社

 
     <大山祇神社拝殿>
 

 今回は、『古事記』神話で有名な大山津見神(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)に関係する有力二社、伊予国一宮の「大山祇神社」と伊豆国一宮の「三嶋大社」を取り上げてみます。なぜ東西に遠く離れた2社を取り上げたのか、実は「みしま」という言葉で繋がっているかに見える両社の関係が実際はどんなものなのか確認することがその動機です。

 

大山祇神社(伊予国一宮)
 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は芸予海峡の大三島に鎮座し、主祭神は大山積神ですが、三島大明神とも称されています。当社から勧請したとする三島系神社や大山祇系神社は、四国を中心に東日本まで広く存在しているためか、日本総鎮守とも呼ばれます。
 大山祇神社の名は古文献にもありますが、一般には三島あるいは御島から、大三島大明神や島社、あるいは単に大三島と呼ばれてもいました。
 明治時代に入ってから社名を大山祇神社と定めています。ただし、祭神の表記は大山積神で、鳥居に掛かっている扁額も大山積神社となっています。

 「記・紀」神話では大山積神は、「山の神」とされ、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめ)の父神なので、天孫系の外戚第一位ということになります。

 『伊予国風土記』逸文によれば、この神は百済から渡来して摂津国の三島(御島)に鎮座し、和多志大神と呼ばれたという伝えもあります。和多志は「渡し」につながるので、山の神であると同時に「海の神」でもあるとされます。一方、和多は綿津見(海神)の「わた」であるともされるので、いずれにしても海の神の要素も持ち合わせているようです。

 鎮座地の大三島は芸予海峡にあり、山陽・南海・西海の三道、航路の要衝であるため、ここを押さえることは瀬戸内全体の制海権を得ることになります。

 「記・紀」の国生み神話では四国全体を「伊豫の二名島」で表しています。当地は古代から四国の代名詞になるほどの要衝地として認識されていたわけですね。

 その芸予諸島で最大の島が大三島で、この神を大三島の南東部に祀ったのは伊予国造の乎知命です。
 さらに越智氏の子孫が、現在地(大三島西岸で標高436.5メートルの神体山、鷲ヶ頭山の西麓)に遷座し、越智氏とその派生の河野氏が氏神として代々、祀ってきました。

和多志大神でもあるため、特に水軍の崇敬が篤く、河野氏の率いる三島水軍は大山積神を守護神として崇め、一時期、瀬戸内最大の水軍でした。村上水軍とも近かったらしい……。

 実際、三島水軍は瀬戸内の大半を支配下においていました。源平合戦以降、武家は瀬戸内の制海権を得るために、越智氏や河野氏を籠絡し、武器武具などを寄進し武運長久を祈願したとされます。つまり当社は、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇敬を集めてきた歴史があります。

 源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約4割が当社に集まっており、甲冑の保有は全国一です。
 こうして集積された武具は神社に隣接した紫陽殿と国宝館に集結保存されています。 源義経と頼朝が奉納した「赤絲威鎧大袖付」や「紫綾威鎧大袖付」は確かにすばらしい代物です。

 くるまによるアクセスは尾道から「しまなみ海道」を進むのがベスト。向島、因島、生口島を経て大三島でインターチェンジを降り、大三島の中央部まで進めば「大山祇神社」に至ります。

 
<多々羅大橋を通過すれば大三島>

 当社の西側1キロ弱の宮浦港に一ノ鳥居があります。境内入口に立つニノ鳥居には「日本総鎮守 大山積大明神」の扁額がかかっています。すぐ後ろに見えるのは、ほぼ700年ぶりの再建が成った真新しい素木の総門。古図を参考に建築様式が決められたらしい……。

 
   <正面鳥居>

 

 
  <再建なった総門>

 総門の奥、66万平方メートルもある広い境内は左右から鬱蒼とした樹叢に覆われやや暗く、国の天然記念物38本を含む大楠の群生が歴史の重みを感じさせます。
 境内左には天然記念物の「能因法師の雨乞いのクスノキ」が飾られていますが、これは樹齢3000年といわれる巨木の残欠だそう。その左には、21体の木造神像を祀る十七社が鎮座しています。
 正面には乎知命お手植えの大楠がどっしりと構える。樹齢は2600年とのこと。当社のシンボルで、やはり天然記念物です。

<樹齢2600年の大楠、大楠の先に神門>

 大楠の後ろの一段高い神門をくぐると正面は拝殿です。
 拝殿と神門は廻廊で結ばれていますが、左側が北廻廊、右側が南回廊なので、神社は西向きであることがわかります。
 拝殿に連接して奥に流造本殿が建ち、左右に上津社、下津社が鎮座します。上津社には大雷神、下津社には高靇神が祀られ、由緒書には「三社あわせて大山祇神社という」とあります。
 この三社は、当社後方にある鷲ケ頭山など三山を神体山として対応させたという説もあり、元々は自然神を祀っていたのかもしれません。

 
  <拝殿と北廻廊>

 今でこそ、瀬戸内の交通は尾道から今治まで「しまなみ海道」で直接結ばれ、大三島の重要性は低下してしまいました。それでも観光客を中心に「大山祇神社」は四国の外からも大挙押し寄せています。筆者が参拝した時も、多くの観光客が押しかけていました。外国人もちらほら。

 神社で頂いた由緒書はなんと和英併記でした。英語の由緒書は初めて……。外国人参拝者が多いことの現われと思うが進取の姿勢には驚いた。せっかくなので目を通したら、「神社」をShinto shrine、「神」を God と訳していた。これで日本の八百万の神の概念が伝わるのだろうか、いささか心配ではあります。

 

三嶋大社(伊豆国一宮)
 三嶋大社の鎮座する三島市は、伊豆半島の付け根部分にあって古くから交通の要衝地でした。境内も旧東海道に面しています。
 御影石の大鳥居をくぐり奥へと続く参道は、神池の中央を通り抜け豪壮な総門に到り、次いで桜並木の間を抜けて神門に達します。神門をくぐると正面に舞殿があり、その先が本殿となります。拝殿は入母屋造平入で千鳥破風と唐破風向拝がつき、本殿は流造平入という立派な社殿です。


    <三嶋大社拝殿、その奥に本殿>

 社殿の材料は通常の桧ではなく堅い欅が使われており、装飾用の精緻華麗な木彫が見事。特に向拝の蟇股や、舞殿上部4面に施された「二十四孝」の木彫は見応えがあります。境内の金木犀は樹齢1200年とされる日本一の大木で、国の天然記念物に指定されています。

 源頼朝が、平氏打倒のため挙兵した日に「三嶋大社」に立ち寄り、源氏の再興を祈願したのは余りに有名な話です。そして初戦に勝利した頼朝は、三嶋大明神の加護によるものと感謝し、即座に当社に土地を寄進したと伝わります。その後、平氏を打倒し鎌倉幕府を開き大願成就したことから、当社は関東武士から篤い崇敬を受けるようになります。以後、当社は幕府の守護神とされています。当社が武家社会の発端を開いたとも言えそうです。
 頼朝以降の輝かしい歴史があるものの、当社の創始の状況は余り明確ではありません。
 神社由緒によると、祭神は大山祇命(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)の二柱で、併せて三嶋大明神としています。

 事代主は歴史的に三嶋大社との繋がりはなく、後世の付会と考えられますが、大山祇の方は、伊予国一宮の「大山祇神社」から当社に勧請されたと言います。
 しかし真実はどうやらそう単純ではないようです。

 まず事代主についてですが、この神は島根半島の東端にある美保神社の事代主神は「えびす」としても有名で、宮中では御巫八神の一柱になっています。この事代主は葛城地方の鴨都波神社の神でもありますが、両社とも三嶋大社とは無関係です。ところが事代主は大山祇神社や三嶋大社など三島系神社でも祀られています。なぜでしょうか。

 三島系神社の祭神については、古くは大山祇神社由来の大山祇命でしたが、19世紀初頭の頃の平田篤胤の提唱により事代主神説が流布し、三嶋大社においても、明治6年(1873年)、主祭神を大山祇命から事代主神に変更しました。

 しかし大正時代の頃から大山祇命説が再浮上したため、昭和に改めて大山祇命説が浮上すると、大山祇命・事代主神二神同座に改めるなどの変遷があったようです。
 つまり、現在の祭神二柱は明治以降に定められた新しいものです。

 次に大山祇命ですが、大山積を祀る大山祇神社の鎮座地は瀬戸内海の「大三島」なので、「みしま」つながりで、三島の地にある三嶋大社の祭神が大山祇と事代主の二神同座となってしまった可能性もありますが、はたして真実はどうなのでしょうか。

 伊豆国の三嶋大社の「みしま」には、元々どのような由来があるのか、確認してみます。
 有力なのは、「三嶋」は伊豆諸島を示す「御島」であり、三嶋大社の本来の鎮座地は伊豆半島先端の白浜だったという説です。
 多くの三島系神社の名とは異なる三嶋大社独自の由来です。

 『延喜式神名帳』にこの傍証があります。今の下田市には御島神を祀る「伊豆三島神社」と、妃神を祀る「伊古奈比咩命神社(いこなひめのみこと)の記載がある一方、今の三嶋大社鎮座地には「みしま」という名の神社の記載がありません。つまり、御島神と妃神は元々伊豆諸島にあって、伊豆諸島の噴火・造島を司る神でしたが、のちに下田市白浜に遷座し、さらに10世紀中頃から12世紀までの間に御島神だけを三嶋大社の現在地に遷座したと考えられるのです。

 伊古奈比咩命神社は伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま、ひたつやま)」に鎮座し通称では白濱神社 (白浜神社)(しらはまじんじゃ)と呼ばれています。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡ですが、その祭祀は現在まで伊古奈比咩命神社の祭祀として続いています。


    <古代祭祀遺跡・・・海の縄文・弥生遺跡

 境内の火達山は、祭祀遺跡として下田市指定史跡に指定されています。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、柏槙(ビャクシン)樹林は静岡県指定天然記念物に指定されています。


   <境内に残る柏槙の大木>

 ついでに、歴史的な変遷を確認してみます。
 前述したように、平田篤胤の提唱によって、現在まで三嶋大社や他の三島系神社を含めて伊豆半島各地の神社では、祭神事代主神説が定着しています。これらに対して、伊古奈比咩命神社社誌では、「記・紀」神話との比較はせず、「伊古奈比咩命」という独立の神格が大切にされているわけです。

<伊古奈比咩命神社正面入口、「伊古奈比咩命神社」の碑>

 三嶋大社の祭神、事代主神・大山祇命のいずれも、大山祇神社の鎮座地「大三島=みしま」の連想から、つまり「みしま」の音から来た後世の付会とする説が有力です。真実は、「みしま=御島」すなわち伊豆諸島の神格化が御島神の発祥と理解すべきでしょう。

 そして国府が置かれ交通の要衝地にあった三嶋大社が大いに隆盛したのに対し、妃神の社は今もひっそりと伊豆半島先端の下田市に佇んでいるのです。ただ、長い歴史を物語るように、社頭には「伊豆最古の宮」の碑が誇らしく建っています。

 

<「伊豆最古の宮」の碑、伊古奈比咩命神社拝殿>

 三嶋大社に戻します。要するに「三嶋大社」は伊豆諸島の火山を司る神を祀っていたということになります。
 当社の社殿は、記録の残る平安時代末期以来800年間に26回も造営されたと伝わっており、それだけ地震と噴火に悩まされ続けた神社と言えましょう。
 最近では1854年の安政東海地震で倒壊し、安政から慶応年間にかけて復興しました。現在の欅材の豪壮な社殿はこの時のものです。

 繰り返しになりますが、三嶋大社の三島大明神の「三島」は白浜海岸の正面に浮かぶ大島、利島、新島のこと。西暦700年の大宝律令で、国司が現在の三島市に設置されたが、12世紀までの間に白濱神社の祭神であった御島神(三島大明神)だけが移され、現在の三嶋大社が創建された……。

 そして、残った伊古奈比咩命が白濱神社の祭神として残った。つまり、現在の三嶋大社の祭神は、もともと白濱神社の祭神だった三島大明神を引っこ抜いて祀っているという訳で、3万年以上の歴史を持つ伊豆半島・伊豆諸島の古代海人たちの祈り神を、時の政権が勝手にひょいと移してしまった……ということになるのでしょうか。

 ところで、「三嶋大社」の神池には、神の使いの鰻が棲んでおり、氏子には「神のお使いだから食べない」という伝承があるようです。しかし不思議なことに三島市はその鰻が名物になっています。当然ながら水が良いことによるのですね。三島市は、富士山の雨水や雪解け水が各所で湧き出る「湧水の町」です。近くの柿田川湧水群や源兵衛川でも有名です。
 広小路界隈には遠方から大勢の人が足を運ぶ鰻の名店があります。筆者も何度か通い舌鼓を打った楽しい思い出が蘇ります。



 








 

154 氷川神社


  <氷川神社楼門>

 今回は、関東地方の在住者には馴染み深い武蔵国一宮の氷川神社について言及します。しかし関西などではほぼ無名に近いというから驚きです。

 その謎解きも含め確認してみたいと思います。

 

十八丁もの長い参道は旧中山道だった!
 「氷川神社」は武蔵国を主体に280数社社におよぶ氷川社の総本宮です。
 先に述べたように氷川大神はほぼ関東地方に特化した神です。恐らく関西や西日本の人々にはピンとこない神社でしょう。

 大宮駅の東、徒歩で15分ほどの大宮公園の一角に鎮座しています。大宮は昔から「氷川神社」に因み、「大いなる宮居」と称されてきました。今やその大宮は県庁所在地の浦和を大きく上回る都市となりました。

 これだけ発展した大市街地のすぐ脇に、緑濃い大宮公園と広大な神域を誇る「氷川神社」が残っているのは奇跡かも知れません。一ノ鳥居は、旧中山道の「さいたま新都心駅」付近にあります。そこから北へ向かう参道は、十八丁(約2キロ)に及ぶ。「一宮」としては日本一長い参道です。新都心合同庁舎のビルに登れば、その全長を眺めることが出来ます。


  <新都心のビルから望む氷川参道(ネットの画像を転載)>

 

 昔この参道は中山道そのものでした。しかし地元では参道を日常の交通路にしては畏れ多いとして、江戸時代初めに、並び立つ宿や家とともに西側に移転した。それが現在の中山道(国道17号線)で、今の大宮市街の始まりとなったらしい。神と地元の濃密な相互依存の歴史があったということになりますね。

 ふつう参拝者は大宮駅からニノ鳥居に至り、そこから表参道を進みます。三ノ鳥居をくぐると、神橋の先に朱も鮮やかな楼門と廻廊が見えてきます。その豪壮華麗な姿は、京都の「上賀茂・下鴨神社」を思わせます。

 楼門をくぐると姿の美しい舞殿があり、その背後に社殿が建っています。拝殿は入母屋造、本殿は銅板葺の流造です。拝殿前から振り返れば、抑制した色調の舞殿と派手な朱色の楼門・廻廊がつくる構図が実に美しい……。

 


  <舞殿、後方に楼門>

 

東国の地に出雲の神の不思議
 氷川神社の神社略記によれば、祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱となっていますが、主祭神はスサノヲでしょう。いずれも出雲系の神です。
 出雲から遠い東国の地に、何故出雲の神々なのでしょうか。

 実は出雲国と武蔵国は古くから強い繋がりがあったようです。

 『日本書紀』の成務天皇紀に「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置つ」とあり、この時に出雲族の兄多毛比命(千家家の祖である天穂日命から十数代の子孫)が武蔵国造となり当社を奉崇したという伝承があります。これは、諏訪を通り東山道から入った出雲族が当地を平定した史実であるとする説もありますが、真偽のほどは何とも……。

 おそらく真実は、奈良時代の後半に出雲出身の人物が国司として赴任したということでは。古代より武蔵国造は、出雲国造家の同族との伝承があり、当地の開拓に関わり当社を奉崇したとも伝わっています。
 そこで、出雲の斐伊川(肥河)と氷川の類似からスサノオが祭神として祀られたということでしょうかね(次節で言及)。

 出雲大社の第80代の宮司は千家尊福(たかとみ、1845年~1918年)で、貴族院議員になった後、埼玉県知事、東京府知事を経て最後は司法大臣にまで上り詰めています。彼は埼玉県知事時代に、氷川神社の地位向上に努力しました。出雲・武蔵両国の深いつながりが現代に投影しているかのようです。明治初めに、一旦は廃祀されたイナダヒメとオオナムチを、のちに合祀できたのは、彼の奔走によります。

 

氷川神社の社名の由来と「みぬま」について
 社名の「氷川」は出雲の斐伊川(肥河)に由来するという説がよく語られますが筆者が首肯するのは、「ヒ」は「氷」、「カハ」は「泉または池」をあらわす古語で、「ヒカハ」は霊験あらたかな泉を意味することから、見沼の水神ともされる自然神がベースにあったとする説です。
 鎮座地の高鼻は古代からの湧水地で原始の氷川信仰の対象でした。

 見沼は古くは「神沼」「御沼」とも呼ばれていました。縄文時代、大宮東部から浦和東部を通り東浦和の南部に至る大宮台地には、古代の川に沿って古東京湾が湾入していました。
 やがて海が後退し広大な沼沢池「見沼」が生まれます。

 そして江戸時代に入る頃から関東平野の湿地を乾燥地に変える一大事業が本格化します。当地も灌漑用水池に改造されました。さらに享保の改革で新田開発が奨励され、灌漑用水池は田んぼへと変化していきます。このような経緯を経て、現在の見沼田んぼは存在しています。

 見沼があったとされる一帯には、氷川神社のほかに、イナダヒメを祀る氷川女體神社、オオナムチを祀る中山神社(簸王子社)が鎮座しています。
 つまり昔の広大な見沼まわりに鎮座する男體社・女體社・王子社は夫婦・親子という家族関係になるので、この3社の総称が昔の「氷川神社」であったという説もあるのです(後述)。

 出雲族の影響を受ける以前には、見沼を御神体とする素朴な原始信仰があったと考えられます。

 「氷川神社」の境内に密かに鎮座する摂社「門客人神社」は、江戸時代までは「荒脛巾神社」と呼ばれていた。アラハバキは縄文の神を意味することから、出雲系の神々が当地に進出する前の先住の神を祀ったものと考えられます。
 原初の地主神が地位を奪われ、本殿内から門前へと移される場合に、門客神という表現をとることが多い(大林太良氏)ようです。

 見沼に面していた当地(ヒカハ)が太古の信仰の場であったことは間違いなく、そこに出雲系の武蔵国造が、出雲で崇敬されているスサノヲを重ねていったのではないでしょうか。

紀元後まで残った縄文海進の影響
 縄文海進は約1万年~5500年前にあった海進です。
 最終氷期(7万年~1万年前)終了後の世界的に温暖化が進んだ時期(完新世の気候最温暖期)に相当します。

 日本ではちょうど縄文時代前期にあたり、具体的には、約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。
 沖積層の堆積よりも海面上昇の方が速かったので、最終氷期に侵食された河谷の奥深くまで海が湾入し、日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたようです。

 当時の海岸線にあたる場所に多くの貝塚が存在することが知られています。地形と標高を見ながら貝塚遺跡のある地点を結んでみれば、縄文時代の海岸線を見事なくらいに復元できます。下図(ネットから転載)の小さな「•」は貝塚の分布を示しています。


  <関東平野の縄文海進領域>

 縄文海進は、もともと貝塚の存在から仮説の提唱が始まったようです。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部奥深くに分布することから、関東大震災後に海進説が唱えられたのです。

 関東平野は、紀元後しばらくの間は、縄文海進の名残でその広域が水没するか、沼地または湿地となっていたとされます。

 

縄文海進がよくわかる関東平野
 最終氷期の後、関東平野では古鬼怒川や、荒川や江戸川の谷に沿って内陸部まで海が浸入し、南北に細長い古東京湾が形成されていました。
 荒川沿いでは今の埼玉県川越付近、江戸川沿いでは同じく栗橋付近まで海が浸入していた。大宮台地などは半島状となっていました。

 縄文時代の海は武蔵野台地・下総台地・多摩丘陵などの洪積台地や山地を残して低地を浸したため、今は海のない県である埼玉・栃木・群馬も、縄文人が住みついた頃は海に面していたわけです。その後は沖積層の堆積が追いつき、縄文時代の湾は現在の低地平野となりました

 他にもいくつか象徴的な事例をあげると、
 市原市にある上総の国府・国分寺・国分尼寺跡は東京湾に面した高台にある。
 石岡市にある常陸の国府・国分寺・国分尼寺跡も霞ヶ浦に面した高台にある。
 行田市のさきたま古墳群の将軍塚古墳の石室には房洲石が使われているが、その石は(すでに古墳時代には後退していた古東京湾を経由し)河川を遡って行田市まで運ばれたと推測されている。

 近世までの関東平野は、複雑に絡み合う原始河川と、点在する沼沢を抱えた巨大な三角州でした。海岸線はすでに後退していましたが、海だった跡地には土砂が堆積し広大な葦原を形成していたと思われます。しかし平野のほぼ全体が低湿地であるため、ひとたび大雨が降れば増水し、洪水が発生し、何か月間も浸水状態が継続したのです。

 

氷川神社の立地から見えてくること
 スサノヲを祀る氷川神社は、今でこそ内陸の大市街地の一角にありますが、そこは昔、古東京湾が大きく湾入した水際の地でした。
 そこから産業道路を南に走ると、「見沼田んぼ」に突き出した舌状台地の先端部分にイナダヒメを祀る氷川女體神社が鎮座しています。
 そして、2社のほぼ中間にあって、見沼の対岸に鎮座する「 中山神社」は 、スサノヲとイナダヒメの子とされるオオナムチを祀っています。つまり昔の広大な見沼のまわりに鎮座する男體社・女體社・子社は、夫婦・親子という家族関係だという面白い説(前述した)があり、思わず納得してしまいます。
 しかしはるか昔に思いをはせれば、氷川大神は「ヒカハ」にちなむ極めてローカルな神であって、全国区の神ではなかったということですね。

 このようにセットと考えられる神社は他にもたくさん見られますが、関東地方では、鹿島神宮・香取神宮は古香取海を挟んで相対するように鎮座しており、一対の神社とされます。

 古代の水際に立地していた神社としては、大阪の枚岡神社や住吉大社、岡山平野の吉備津神社などがあり、福津平野の宗像大社、福岡平野の住吉神社も海に面していました。これら有名古社は、交易に都合のよい海辺や水辺に面した集落の紐帯として創始されたといえるでしょう。
 例えば、古代の岡山平野は、今よりもはるか内陸まで海が入り込んでいました。岡山市の市街地にある児島湖は海につながる内海ですが、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、今よりも海が内陸まで入り込んでいた名残です。吉備津神社は瀬戸内海の海岸から遠く離れたところに鎮座していますが、かつては境内の際まで海が入り込んでいました。
 また、河内平野の大部分は、かつて河内湖と呼ばれる広い内海となっていて、その奥まった水際に枚岡神社は鎮座していました。そこは『古事記』の神武東征物語に登場する白肩津で、今は現在の海岸線から十数キロも離れた東大阪市の日下にあたります。

 

スサノヲを祀る有名古社の来歴
 一般的にスサノヲは暴れ神のイメージが強く、どちらかと言えば人気がないように思えます。したがってスサノヲを祀る神社の数は、出雲地域はともかく、全国レベルで見ると非常に少ないのが現実です。
 氷川神社の他にも牛頭信仰系の神社がスサノヲを祀っており、代表的な神社として、八坂神社と津島神社があります。この数少ないスサノヲを祀る神社は、古くから一貫してスサノヲを祀っていたのでしょうか

〇 八坂神社
 現在の祭神はスサノヲ、イナダヒメ、八柱御子(やはしらのみこ)ですが、6世紀半ば頃には地域の農耕の神が祀られていました。その後、牛頭天王が合体し、さらにその後、スサノヲが重なったようです
 牛頭天王もスサノヲも疫神ですが、丁寧に祀れば病から守ってくれる神になるという共通点があります。869年には疫病の蔓延を鎮めるために祇園祭が始まっています。
 明治までは「祇園社」「祇園感神院」を名乗っていた。つまりスサノヲ信仰は牛頭天王信仰に乗っかる形で浸透していったということになります。

〇 津島神社
 社伝によれば、韓国から戻ってきたスサノヲが対馬に留まり、6世紀頃に当地に移ってきたので、これを祀ったことが創始とされています。
 しかし、平安時代中期の『延喜式』にその名はなく、大きな勢力となったのは牛頭天王信仰が高まった12世紀以降で、当時は「津島牛頭天王社」と称されていました。八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社とされ、一時期は「全国天王総本社」と称されたが、明治の神仏分離で祭神がスサノヲと定められました。

 武蔵国一宮は氷川神社のほかに氷川女體神社と小野神社がありますが、長い間にわたり、氷川神社と小野神社は熾烈な勢力争いを繰り広げたのは有名で、武蔵国一宮を「小野神社」とする説もあるので、これにも若干触れてみます。

 

小野神社との一宮争い
 氷川神社が現在に至る一宮として確定したのは江戸時代後期からであって、それまでは、小野神社との一宮の地位をめぐる攻防がありました。
 小野神社は東京都の聖蹟桜ヶ丘駅近くにひっそり佇んでいます。余程詳しい地図でないと見つかりません。

 現在「氷川神社」は文句なしの武蔵国一宮ですが、756年の太政官符には「小野神社」の名はあるものの「氷川神社」はなく、「氷川神社」の社名が古文献で確認できるのは8世紀後半になってからと言います。
 その後、927年の『延喜式』では「氷川神社」は最高位の「名神大社」に位置づけられましたが、逆に「小野神社」は「小社」にとどまり、この時点では「氷川神社」に分があったようです。
 「氷川神社」の国家的地位は極めて短期間に上昇しました。この背景については、宮瀧交二氏の説に納得性があります。「武蔵国で生まれた丈部直不破麻呂が、氷川神社の祭祀権を獲得すると同時に中央でも活躍し、朝廷に対する働きかけが功を奏した」と言います。事実、『続日本紀』には同時期、不破麻呂が活躍した記事が載せられています。

 しかし地元では、中世の長い間にわたって、「小野神社」を「一宮」とする空気が強く、「小野神社」が一宮、「小河神社」が二宮、「氷川神社」は三宮とされてきました。つまり中央と地元で認識のずれが生じていたわけですね。

 実際、「小野神社」に軍配を挙げたくなる客観的な条件は揃っています。

 「小野神社」の近く、多摩川を挟んだ反対側には、国府が置かれ、国分寺総社もありました。総社であった「大国魂神社」は今でも崇敬を集めています。
 この一帯は立川段丘上で、都から東海道を下ってくると、東京湾から多摩川を遡り直接アクセス出来ます。また東山道との連絡も容易でした。当地は交通の要衝地として大いに繁栄したわけですね。こうしてみると、中世においてはどうみても「小野神社」の方が「一宮」に相応しかったようです。

 時が経過し江戸時代後期以降は、「氷川神社」が徳川政権から篤い崇敬を受け、「一宮」という社格を与えられ現在に至っています。一方の「小野神社」は度重なる戦乱や多摩川の氾濫で衰微し、宮司も常駐しない小さな神社となってしまいましたが、今でも武蔵国一宮を名乗り続けています。

 



 

 

153 伊弉諾神宮と多賀大社

 今回は、『記・紀』神話の中で、国生み・神生みで有名なイザナキ・イザナミに所縁の伊弉諾神宮(淡路国一宮)と近江の多賀大社に焦点を当ててみます。

 イザナキ・イザナミの名の由来はいろいろな謎解きがありますが、もっとも一般的な解釈は、「イザ」(誘う)+「ナ」(~の、助詞)+「キ」(男)、「ミ」(女)でしょう。「オキナ」は男性だし「オミナ」は女性であることもその傍証になりそうです。

 一方、「ナギ」と「波」を表わす海洋的な霊格という解釈もあります。

 また、イザナキ・イザナミが生む神々の中に、「アワナギ・アワナミ」や「ツラナギ・ツラナミ」という神名が見られることから、「アワ」「ツラ」という水面や波頭に注目して、「イザナキ・イザナミ」は水面を意味する宗教的神聖を表現しているという解釈もあります。

 

二神による国生み
 イザナキ・イザナミの二神による国生みの神話は余りにも有名ですが、生まれる国が『古事記』と『日本書紀』では微妙に異なっています。越が入るか否かの違いです。

 昔、畿内からみて木ノ芽峠から北は「越国」と呼ばれていました。越前・加賀・越中・越後などの国々です。
 不思議なことに、気比神宮が鎮座する敦賀は、木ノ芽峠よりも10キロも南側なのに、越前国でした。当時、越前国の国府は武生にあり敦賀は国の最南端に位置しています。すぐ西隣に若狭国が迫り、難所の木の芽峠を越えた最果ての地に越前国一宮の気比神宮は鎮座していたわけです。しかし国の最果てでも、敦賀が政権中央にとって最重要の地だったことは言うまでもありません。

 4世紀頃には、畿内から北陸への移動に関しては、大和から敦賀までは琵琶湖経由の交易ルートがあったので、小規模な集団なら移動できた可能性があります。しかし、その先の越前に向かうには木の芽峠が立ちはだかっています。今ではJR北陸トンネルで一瞬のうちに通過できますが、トンネルが完成する前はスイッチバック数段階で乗り越えていたのです。さらにそのはるか昔、ひとは木の芽峠を歩いて越えましたが、軍隊が踏破するのは不可能でした。
 ましてや、その先の越後や会津は、当時の大和の人たちにとっては異界の地であって、何の利得もなく想像すらできなかったことでしょう。

 実際、継体が過ごした可能性のある越前は別として、加賀から越中、越後、能登までがヤマト王権の支配下に入るのは早くても7世紀以降のことになります。

 次に、なぜ継体は、異界の地と蔑まれてきた越前から担がれたのでしょうか。
 福井市に鎮座する足羽神社(あすわ)に伝わる由緒では、継体は、九頭竜川・足羽川・日野川という越前三大河川の氾濫で沼地同然だった福井平野を、治水事業で広い沃野に変え、米を主体とする農業を振興したといいます。
 また日野川の西に連なる丹生山地で鉄鋼や須恵器の生産を興したようです。製鉄については5世紀半ばに遡る可能性もあり、まさに鉄鋼王の名にふさわしいようです。
 敦賀で集散される越前・若狭一円の塩についても、海路による輸送ルートをおさえた模様。このように産業基盤を整備し、それらの材で域外と交易して力の源泉としたわけですね。馬についても、早くから騎馬の重要性に気づき河内の馬飼と連携しています。

 継体は、越前での実績を力の源泉として、婚姻関係で尾張氏や息長氏らの豪族と幅広く関係を結んでいます。三国潟につながる九頭竜川流域には、松岡古墳群や六呂瀬山古墳群など、有数の古墳群が見られます。これら古墳群の主は三尾氏の一族で、継体を生みだした勢力なのでしょう。
 このように、越前にありながらも、継体は6世紀の舞台に華々しく登場し、活躍するわけです。

 さて、かなり脱線しましたが、以上のように6世紀頃まで畿内からみて異界の地だった越は、『古事記』の国生みには登場しません
 今の表記で言えば、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順に生んでいます。その後、幾つかの小島を生みます。
 これに対し、『日本書紀』本文では、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越、大洲、吉備小島の順に国生みしていて、越国の有無が大きな違いとなっています。

 おそらく、『古事記』の編纂時期は相当に早く、その頃は異界の地だった越国も、『日本書紀』が完成する8世紀(律令制が整う720年頃)には越国が大和政権下に組み込まれて、言うなれば「身内」のようになったのではないかと考えています。

 筆者は、『古事記』の編纂は、巷間いわれている712年よりはかなり遡り、7世紀後半にはその原型が出来ていたと考えています。

 さて、イザナキ・イザナミがらみの伝承をもう少し確認してみます。

 

淡路島に多いイザナキ・イザナミの由緒
 国生みで有名な「おのごろ島」の候補地ですが、もっとも有力なのは沼島、友ヶ島であって淡路島の近傍に存在します。
 また、岩樟神社(岩窟の中に小祠、幽宮とも)、家島(小豆島の北東、いえしま、えじま、胞島)、先山(せんざん、450メートルで最高峰、淡路島を創った時に最初にできた山とされる)、飛島(鳴門市、無人島)、諭鶴羽山神社(ゆずるはじんじゃ、二神が天つ国から鶴の羽に乗ってきてこの山で舞い遊んだことにちなむ)などもイザナキに所縁の伝承があります。
 いずれの伝承地も淡路島内、あるいは淡路島の近傍の瀬戸内海や紀淡海峡に存在しています。

 

九州には縁がないはずのイザナキ・イザナミ神話!
 「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は宮崎県の江田神社の裏手にある御池に比定され、ここがイザナキの禊の地として観光の目玉になっています。
 しかし、イザナキの崇拝圏は、淡路・播磨・摂津・大阪湾沿岸・紀伊・大和・伊勢・近江など、近畿一帯であって、九州には存在していません。
 イザナキを崇拝する痕跡がないところに、イザナキ神話が生まれたとは考えられませんね。
 イザナキ神話は淡路の海人の間で発祥し、語り継がれ、やがて5世紀後半以降にヤマト王権に伝わり、7世紀後半には国家神話の上席を占めるに至ったと考えられます(後述)。

  また、「日向の橘の小門」は住吉三神(津守氏が奉じていた三柱のツツノヲ)の故地とされています(神功皇后の託宣にあり)。
 「日向」(ひむか)は「朝日・夕日の照らす聖地」を指す普通名詞、「橘の小門」は「霊果である橘が実る地の海峡」を意味し、住吉三神は古くは「朝日・夕日が照らす、不死の霊果の実る聖地の海底」に眠っていた存在と考えられていたようです。

 「日向の橘の小門」は、本来、淡路の近くの阿波の鳴門であったはずで、住吉のツツノヲの誕生地とされ、後にイザナキが禊の際にツツノヲを生み出した海岸の名と考えられるに至った(次項で言及)。
 住吉の託宣に出てくる「神話的な地名の日向の地」が「日向国」と解釈されたために、イザナキはわざわざ九州まで出張するような筋書になってしまったというわけです。

 

淡路の地方神話から国家神話に昇格したイザナキ・イザナミ神話
 5世紀のヤマト王権は河内に進出し、安曇氏・津守氏・依羅氏・穴戸氏などの海上勢力を重用したが、この安曇氏を通じて淡路の地方神話であったイザナキ神話が王権内に知られるようになったと考えられます。
 淡路島が王権の御食都国として食料の貢納地とされたため、表玄関から伝わったと言うよりも、大王の供御を掌る内膳司として台所から伝わったのでしょう。

 また、津守氏も住吉三神の託宣の「筑紫の日向の橘の小門」をイザナキの禊の場と結合させるなどしたことから、津守氏を仲介してイザナキ神話が伝わった可能性もあります。

 西條勉氏は、「国生み神話の特色は、伝承的な来歴をまったくもたないことだ。民間に伝えられていた古い話は、おそらく一つもない。おおかたのストーリーは、朝廷の知識人たちが机上で作った。ただ、イザナギとイザナミという神名だけは存在した。この神を祭る神社は、今も淡路島にある」と述べています。

 上田正昭氏も、「記紀の国生み神話は、ヤマト朝廷の発祥の地である奈良盆地にかかわりがなく、大阪湾を舞台としている。この神話の原像は、淡路の地域を中心にした海人集団に育まれた島生み神話にあったと考えられる。それが、王権が大阪湾に臨む地に進出展開した段階に、王権の世界に包摂されたとき、国生み神話として凝集をみたのであろう。難波津で行われてきた八十島祭にも、国生み神話の歴史的背景が見てとれる」と言及しています。

 以上のように、イザナキ・イザナミ神話は、その国生みもイザナミの死と黄泉の世界も、禊も、みな淡路付近を舞台として語られていたという説が有力です。
 これにいろいろな要素が入り込んできて、出雲とか日向のような遠隔地が神話の舞台に引きずり出されてしまった……。

 したがってイザナキは、あらゆる活動を終えてから、「淡路の幽宮」に永久に隠れ住んだということになります。アマテラスとイザナキの親子関係は本来的なものではなく、淡路で生み出された系譜ではありません。淡路島にアマテラスは祀られておらず、イザナキも宮中には祀られていないのです。イザナキは皇祖神にあらず、ということになりますね。

 さて、国生みや神生みの偉業を次々と果たしたイザナキですが、最後に祀られた幽宮(かくりのみや)の候補地は淡路だけでなく、近江にも存在します。その候補地に比定される淡路の伊弉諾神宮近江の多賀大社のどちらがイザナキを祀る本家なのでしょうか?

 古くから、「伊弉諾神宮」と「多賀大社」のどちらが鎮座地かが争われ、現在も両社は互いに自社のアピールに余念がないようです。よく知られている俗謡に次の二つがあります。淡路では「伊勢へまいらば淡路をかけて淡路かけねばかたまいり」、多賀では「お伊勢まいらばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でござる」。いずれもイザナキがアマテラスの父神であることから、伊勢神宮を引き合いに綱引きに余念がありません。 

 所詮は神話が先に出来て神社の縁起は後づけなのですが、イザナキの鎮座地はどちらが尤もらしいのでしょうか。

 まずは、淡路国一宮の伊弉諾神宮から見ていきます。

 

伊弉諾神宮
 神戸淡路鳴門自動車道を津名一宮インターで降りて、燈籠のならぶ「くにうみライン」と呼ばれる県道を3キロほど走ると、多賀の交差点の右側に「伊弉諾神宮」の正面鳥居が立っています。

 参道に入るとニノ鳥居、神橋、表神門と続きますが、境内は白が基調のせいか実に明るい。大震災で燈籠や玉垣にも大きな被害が出たので修復したためでしょうか。
 神橋は「方生の神池」にかかっているが、この神池は御陵の周囲にあった濠の遺構と伝わっています。

 <手水舎と表神門>

 表神門をくぐれば正面は舞殿を兼ねた入母屋造の拝殿になります。瑞垣の入口には中門が建ち、中には幣殿と檜皮葺流造平入の本殿が続きます。中門の左には渡廊があり祓殿に連結しており、また中門の下反り屋根と幣殿の上反り屋根が二重の向拝のような美しいハーモニーを奏でています。筆者はこういう造形が大好きです。

 確認できなかったものの、本殿の床下には石積みがあり、これが「幽宮」という終焉の地とされるようです。

 <中門・幣殿・本殿>

 境内東側には「連理の楠」と呼ばれる夫婦大楠があり、後ろに岩楠社が鎮座しています。子に恵まれない者は、この神に祈願し大楠に接触すれば懐妊すると言われ、昔は夫婦とも裸になり相い擁してこの大楠を回ったと伝わるようですが、今では破廉恥罪で連行でしょう。いかにも「伊弉諾神宮」らしい伝承ですね。

   <連理の楠>

 神池のほとりには香木伝来記念の碑が立っています。
 『日本書紀』に、淡路島に沈香が漂着して推古天皇に献上したという記事があります。史実の可能性が高く、日本の香りの文化ではエポックメイキングな事件らしい。その後、香りは日本で洗練昇華されていきます。日本で発展した香木は、天然の香りを取り入れ大自然との一体感を感じるものです。「源氏香」の世界はその極致といえるでしょう。香りの文化が根づいたのだろうか、当地は線香の生産で日本一とのことです。

 ニノ鳥居の脇には「陽の道しるべ」が作られており、当社と「伊勢神宮」内宮、奈良の飛鳥宮がいずれも同緯度にあるという偶然を語っています。説明書は、太古から脈々と生き続ける「神の島」たる所以だと説いていました。

 伊弉諾神宮の祭神は、当然、伊弉諾大神です。通称「いっくさん」と呼ばれ親しまれているイザナキですが、『日本書紀』には淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごしたと記されています。

 伊弉諾神宮は、神々の物語の始まりの地であり終わりの地でもあり、神道信仰の究極の聖地と言えそうです。

 筆者は、参拝記念に社務所で土鈴の「幽宮神桃」を購入した。道教では神仙思想に基づき、西王母を象徴する果実で邪鬼を追い払うと言われていますが、『古事記』の中でも桃の実は邪気払いの聖なる果実とされていて、イザナキが黄泉の国から逃げる時に、「桃子三箇」をもって黄泉醜女を撃退したという記述があります。みやげはこの桃にちなんだ「神桃土鈴」だ。

 <幽宮神桃>

 

 続いて近江でイザナキを祀る大社と言えば多賀大社です。確認してみます。

 

多賀大社
 「いっくさん」に対抗するように、当社は古くから「お多賀さん」と呼ばれ、親しまれてきた滋賀県第一の大社です。

 『古事記』には、イザナキは「淡海」の多賀に坐すなり、と記されていますが、これは14世紀後半に明るみに出た真福寺本だけのようです。
 他の諸本は「淡海」ではなく、「淡路」と記してあるので、真福寺本は写本の際の誤記と考えられます。近江であれば「近淡海」と記すはずです。遠淡海(とおつおうみ)は遠江と表記するのですから。

 終始光の当たっていた『日本書記』には次のように記しています。
 「イザナキは神の仕事をすべて終えて、あの世に赴こうとしていた。そこで幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別伝では、イザナキは仕事を終え、徳も大きかった。そこで天に帰り報告し、日の少宮(わかみや)に留まり住まいした」。

 歴史的には多賀大社は『延喜式神明帳』では小社で、「多何神社2座」と記されているだけで、祭神2座はイザナキ・イザナミとは記されていません

 『古事記』は本居宣長の功績により江戸末期に明るみに出るまでは眠っていた古文献です。
 このような史実から、多賀大社のイザナキ祭祀は中世に始まったものと考えられます。
 中世になって真福寺本を根拠にイザナキ・イザナミを祀ることにした当時の宮司の大英断は見事なものです。16世紀以降、太閤秀吉や武田信玄など多くの武将から崇敬を受けるようになります。太閤秀吉は母の大政所の病に際して、「3ヵ年、ならずんば2年、げにげにならずんば30日にても」と延命を祈願し、米1万石を寄進した。幸い大政所の病は回復し、正面の太鼓橋(太閤橋)や奥書院を築造したと伝わります。

 中世には神仏習合が進み、伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わいますが、その隆盛は宮司の努力も当然ですが、近江が交通の結節点だったこともあります。

 近江の多賀の地は遣隋使・遣唐使で有名な犬上御田鍬に始まる犬上氏の地盤です。
 『古事記』以前の時代には、近江の多賀は、一帯を支配した豪族・犬上氏の祖神を祀った地との説があります。

 多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)は、イザナキ・イザナミなどの3柱を祀り、多賀社の南方2キロの神体山に鎮座しています。敏達天皇時代には胡宮神社の境内に敏満寺も建立され、やがて敏満寺は多賀大社の奥の院となっていきました。

 

史実は語る!
 歴史を振り返れば、「多賀大社」は『延喜式』では小社であって、『古事記』の記述をもとに官幣大社に列せられるのは大正時代になってからだ。
 つまり「多賀大社」は伝承になっているほどの高い社格ではなかった。よってイザナギを祀る本宮と位置づけるには少々無理があるようです。

 一方の「伊弉諾神宮」は『延喜式』では名神大社(幽宮)とあり、頂いた由緒書の表紙にも、大きく自信たっぷりと「幽宮」の文字が躍っていた。
 伊弉諾神宮の幽宮創始は、イザナキ・イザナミ神話が淡路の海人集団で発祥したことから、飛鳥時代を遡る古い時期であったと想定できます。

 以上のように、淡路の一地方の民間神話が、昇華に昇華を重ねて、日本の中央の神話に祭り上げられてしまったということですね。「伊弉諾神宮」は、そういう意味でも格別の神社と言えそうです。
 現在、全国で神宮号を付された格式ある神社は23社だけです。いずれも皇室に所縁の深い神社ですが、当社も含め大半は明治以後の宣下です。ついでながら当社のように神宮号が付された「一宮」は10社です。