理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

136 王権内部の対立と葛城勢力の衰退

 第124回~127回ブログで「葛城氏の盛衰」について確認しましたが、ヤマト王権との確執については中途半端のままでした。しかも「吉備勢力の弱体化(第133回ブログ)」と相前後してしまったので、改めて「ヤマト王権の内部対立と葛城勢力の衰退」について言及することにします。

葛城系王族の断絶と葛城氏の衰退
 葛城氏の全盛期は、ヤマト王権の王を中心としてその周りに影響力が及ぶ形ではなく、権力の中心が二つある楕円形だったと言えそうです。王権とつかず離れずの関係を維持し、一方の権力の中心にあったのは葛城氏です。
 しかし、履中の後を継いだ允恭以降の時代になると、王族同士の争いに物部氏・大伴氏・葛城氏も加わり、大王位をめぐる激しい争いを展開します。

 そして允恭・安康・雄略が大王位を継承する間に、葛城の勢力は牙を抜かれてしまい、実質的に衰退してしまいます。

 大王位をめぐる争いは、第122回ブログで言及しましたが、再度、『日本書紀』の記事から確認してみます。

 仁徳の皇后磐之媛は葛城氏の娘なので、その子の履中・反正・允恭の3代は葛城系の大王ということになる。

 ただし、母を同じくする大王でありながら、履中は葛城の葦田宿禰の娘である黒姫を妃として葛城勢力との関係を強めているが、反正・允恭は葛城氏から妃を迎えていない(第126回ブログ)。

 葛城の玉田宿禰が反正の殯(もがり)を怠り、允恭に殺害される(5世紀半ば前?)。葛城勢力と緊張関係にあった允恭の没後、その次の世代が大王位を継承する時期を迎え、大王位をめぐる争いが激化する(第126回ブログ)。

 允恭の子で大王位継承の有力候補だった木梨軽皇子(きなしかるのみこ)が、弟の安康(まだアナホ)の兵に囲まれ、物部氏に説得されて自殺する(453年)。
 本来は、長男で皇太子のキナシカルノミコが即位すべきだったが、キナシカルノミコは同母妹と関係する禁忌を犯したため、群臣が心腹せず、弟の安康の側についてしまった。そこでキナシカルノミコは物部大前宿禰を頼ったが、安康の兵に囲まれた末、物部大前宿禰に説得されて自殺してしまう(または伊予に流された)。

 キナシカルノミコの弟のアナホ(安康)が大王位につく(453年)。

 安康が、叔父で仁徳と日向髪長媛との間に生まれた大草香皇子(大日下王)を殺害する(454年)。
 殺害のきっかけは讒言です。
 安康が弟のオオハツセ(のちの雄略)に大草香皇子の妹の草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、若日下王とも)を娶らせようとした。大草香皇子は喜んで宝物の押木珠縵(おしきのたまかづら)を差し出した。しかし、間に入った根使主(ねのおみ)は宝物を横取りしたうえ、「大草香皇子が勅命に従わず妹を差し出せないと言っている」と安康に讒言したため縁談話がこじれ、安康は大草香皇子を無礼討ちにしたというものです。
 大草香皇子の死に際し、難波吉士日香香(なにわのきしひかか)が殉死した。

 安康は、大草香皇子と中帯姫(なかしひめ)の子の眉輪王(まよわのおおきみ)に殺害される(456年)。
 安康は大草香皇子の妻だった中帯姫(なかしひめ)を皇后とした。その後、安康は酒宴の席で、「大草香皇子を殺してしまったので眉輪王が怖い」と中帯姫に話しかけた。床の下でその話を耳にした眉輪王(まだ幼いはず)が、親の仇とばかり、熟睡している安康を刺し殺してしまったというものです。

 安康の殺害を知った弟の雄略(実際は未だ皇子のオオハツセ)は、まず自らの兄の八釣白彦王(やつりのしろひこ)の関与を疑い殺害した。次いで、同じく兄の坂合黒彦王(さかいのくろひこ)の関与を問い詰めたが、深く疑われることを恐れた彼は、眉輪王とともに円大臣(つぶらのおおおみ)の屋敷に逃げ込む。雄略は彼らを匿った咎で、葛城勢力のリーダーであった円大臣の屋敷を囲み、3人を焼殺した(456年)。
 大黒柱の円大臣を失った葛城氏は、決定的なダメージを受け、少なくとも直系の一族は滅亡したと思われます。

 『日本書紀』には葛城氏が滅んだとは書かれていませんが、これ以後、葛城氏に関連する記事はなく、考古学的にも葛城氏の拠点とされる南郷遺跡群をはじめとする葛城系の遺跡は衰退しているので、5世紀半ばにおける葛城氏の実質的な滅亡は間違いありません(第124回ブログ)。

 雄略は、かつて安康が履中と葛城黒姫の間の子で従兄弟の市辺押盤皇子(いちのべのおしわのみこ)に皇位を譲ろうとしたことを恨み続け、オシワノミコを巻狩りに誘い出し、鹿がいるとだまして射殺し、続けざまにオシワノミコの弟の御馬王(みまのみこ)も殺害する(456年)。

 雄略が大王位を継承し、平群臣真鳥を大臣とし、大伴連室屋物部連目を大連とした(456年)。

 この後は、第133回ブログで言及したように、ヤマト王権と吉備氏の対立事件が連続します(457年~480年)。

 

 
 <水谷千秋氏の著作から転載>

 こうして葛城勢力と親和的だった履中の系統は実質的に断絶する。

 ところで、大草香皇子の子の眉輪王は日下宮王家の流れを汲み、葛城氏の血を引いていないので、葛城円大臣を頼ったのは不可解という見方もあるが、雄略に睨まれた以上、大王家に比肩する力を持つ葛城氏に救援を求める他なかったということでしょう。あるいは、日下宮王家の拠点は河内日下一帯だったので、もともと葛城氏と気脈を通じ合う関係だったのかもしれません。

 前回のブログで森浩一氏が示唆したように、交通の要衝地である河内日下にあった日下宮王家は、百済をはじめとする朝鮮諸国との外交を重視しており、葛城氏の外交を補完する関係にあったが、安康や雄略の王権は宋との外交関係を重視しており、外交関係の対立によって大日下王は殺害されたというのが真相かもしれません。

 安康が大日下王を殺害したのは454年。その後も「倭の五王」の遣使は続いており、興は462年、武は478年に遣使し、宋の顔色を窺っていたわけですから。

 以上を整理してみると、
 ▼ 允恭が殺害したのは葛城の玉田宿禰、
 ▼ 安康が殺害したのは王族筆頭の木梨軽皇子と、王族だが葛城氏に近い大日下王、
 ▼ 雄略が殺害したのは、王族である兄の八釣白彦王と坂合黒彦王、履中の子で葛城系王族の市辺押盤皇子と御馬王、葛城勢力の主柱であった円大臣、大日下王の子の眉輪王、
ということになります。
 允恭、安康、雄略の3代の間に、ライバルとなる兄弟の王族、葛城系王族や葛城氏はことごとく滅ぼされてしまったわけです。

 そして、これに続く雄略・清寧の両大王は、吉備氏の弱体化に成功します(第133回ブログ)。

 

以上から葛城氏衰退の謎を紐解くと……
 『記・紀』の記事からは、大王家と葛城氏の軋轢・抗争が想定されますが、あくまでこれらの事件は葛城氏自身の伝承ではなく、全貌の一部しか語っていない可能性もあるし、大王家による造作が混じっているのかもしれません。

 『記・紀』は、仁徳の女好き、磐之媛(いわのひめ)の嫉妬、日向髪長媛をめぐる親子のやりとりなどで、多くの歌謡を差し挟んで、歌物語的に語られた伝説(伝承ではない)が多いのが特色で、描かれた事象のすべてを信用することはできません。

 しかし、他には当代を語るネタが乏しいので、これらの事件を是としてみれば、事件の背景が以下のように浮かび上がってきます。

 5世紀前半にはヤマト王権において勢力を誇っていた葛城氏が、允恭と激しく対立した挙句、葛城襲津彦の子(または孫)の玉田宿禰が殺害されてしまう事件は、大王家と葛城氏という2極が存在した(楕円形の)時代に陰りが見え、允恭が権力基盤を確立し始めた事象と捉えることができそうです。

 大王位継承候補最有力のキナシカルノミコが殺害される事件は、安康がライバルの兄を倒して自ら大王位を継承するという王族同士の争いですが、頼りにした物部氏からも見放されてしまうことがポイントです。物部氏の見事な立ち回り……。

 大草香皇子の殺害(454年)に始まり、葛城円大臣と眉輪王の焼殺(456年)で終わる一連の事件は、多くの渡来人が居住した河内日下という水陸交通の要衝地にあって、独自に百済など朝鮮半島諸国との外交関係を進めた日下宮王家を廃絶させ、安康・雄略が自らのもとに外交権を掌握しようとした事件と思われます。
 そして眉輪王が円大臣の居宅に逃げ込んだのを機に、独自の外交を展開するなど、必ずしも王権の意にそぐわなかった葛城氏の息の根を止めてしまった事件と言えます。

 第134回ブログで言及したように、安康(おそらく興)・雄略(おそらく武)は宋に遣使を送っている(462年・478年)ことからみて、シナのお墨付けを得て朝鮮半島政策を進めようとしていた節があり、葛城氏や日下宮王家とは外交方針の対立があったと思われます。

 古代史の通説は、この大草香皇子の殺害事件が、葛城氏と日向諸県君との緊密な関係を断ち切ることになったとしていますが、筆者はそこまで踏み込んで語る自信はありません。
 『記・紀』が描くところによれば、日向国諸県君牛諸井(ひむかのもろあがたのきみうしもろい)の娘、髪長媛は美人の誉れ高く、応神に召し上げられた後、オオサザキ(のちの仁徳)に見染められて妃となった。ウシモロイが老いて出仕できなくなったので髪長媛を貢上したという説もあります。
 髪長媛は大草香皇子(大日下王)と草香幡梭皇女(若日下王)をもうけ河内日下で育てたので、母系を磐之媛とする履中・反正・允恭の大王家に対して日下宮王家と呼ぶわけですね。
 したがって、河内日下の地を勢力基盤とする日下宮王家と、髪長媛の出身地である日向の地の大豪族、諸県君との繋がりから、葛城氏は日下宮王家を通じて九州南部の諸県君とも気脈を通じていたというわけです。

 しかし、はるか遠方の地域からわざわざ妃を迎えるようなことが本当にあったのだろうか。応神・仁徳の記事はもともと伝説色が強いので、髪長媛の話も単なる説話に過ぎないのではないか、と今の筆者は考えています。
 本件、いずれ掘り下げてみたいと思います。

 続く吉備上道臣田狭の事件(463年、第133回ブログ)は、葛城氏と吉備氏の連携を断ち切ることになります。吉備の田狭の妻は葛城の玉田宿禰の娘であったという説もあるように、吉備氏と葛城氏が同盟関係を結んでいたのかもしれません。
 朝鮮半島諸国との交渉権掌握をめぐり、円大臣を失って弱体化した葛城氏と、瀬戸内海運を掌握する吉備氏との連携を完全に遮断するという意図のもと、雄略によって計画されたものと言えそうです。

 479年(ないし480年)に雄略は死去しますが、その直後、雄略が予見していた星川皇子の乱が勃発します。大伴室屋と東漢掬によって星川皇子と稚媛や兄君は焼殺されてしまいます。大伴氏はここでも点を稼いでいます。

 注目すべきは、星川皇子が葛城毛媛の子である(第133回ブログ)と仮定すれば、清寧(雄略と葛城韓媛の子)と星川皇子は母系が同じ葛城出身なのに、円大臣を失った葛城の残存勢力にはもはやこの二人による大王位の争奪を調整するだけの力が残っていなかったことを意味します。


 <第133回ブログの図を再掲>

 この星川皇子の乱がとどめとなって、葛城氏に続いて吉備氏も弱体化してしまうわけです。

 

外交方針の対立
 この一連の争いは、大王の世代交代をきっかけとして勃発したものですが、『日本書紀』に記載されたように、殯を怠ったために殺害したり、同母妹と関係する禁忌を犯したため大王位につけなかったり、部下の讒言を信じて殺害してしまったり、また極めて幼い眉輪王が大王を刺し殺すという絵空事のような事件があったり、巻狩りに誘い出して騙し討ちにしたりというような、物語としては面白いが、下世話な動機で始まった争いと捉えていると古代史の真実に迫れません。
 このような事件が絶対になかったとまでは言えないし、事実としては存在したのかもしれないが、そのバックグラウンドこそが大切な視点です。

 これら一連の出来事の背景には、繰り返しになりますが外交方針の対立があったと思われます。

 5世紀のヤマト王権は百済や伽耶諸国との外交関係を重視し、高句麗や新羅とは緊張関係にありました。その百済は高句麗の圧迫を受けて弱体化しつつあり、一方、大伽耶や新羅に対しては、海人族の支援を受けた一部の王族や各地の首長勢力が独自に通交していました。

 こうした各勢力と野合して半島へおもむくような状況ではヤマト王権の権益は狭まってしまうわけで、この状況に危機感を抱いたヤマト王権が、シナ南朝の宋の力によって朝鮮半島南部の軍事的支配権を獲得しようとするなかで、一部の王族や葛城氏に分掌されていた主要な権限(主として外交)を允恭・安康・雄略が直接に管掌しようとした動きとして捉えるべきでしょう。

 ヤマト王権を構成する豪族たちの間においても、姻戚関係を梃子にして権勢を振るった葛城勢力と、允恭・安康・雄略の大王即位を契機に大王の直属軍として編成され、その武力を背景にポジションを高めていた物部・大伴という伴造(とものみやつこ)勢力が、ヤマト王権における主導権を争った武力衝突と位置づけられます。
 それが証拠に、雄略は大王位を継承した時に、大伴連室屋と物部連目を大連に任命しています。これは勝利の論功行賞という他ありません。

 

葛城氏の生命線だった吉備・紀・葛城連合の瓦解
 今回のブログと第125回・第133回のブログを併せて考察してみます。
 葛城氏は大和盆地の「かづらき」地域を本拠とし、大和川に流れ込む葛城川の上流ではあるが、基本的に水運とは無縁の内陸地域であったわけです。

 しかし、5世紀にかけて葛城氏は、各地の主要な氏族と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえ、海から離れていた障害を克服して隆盛期を迎えます。そして西日本の主要な水運網を掌握し、ヤマト王権の対外交渉を主導したわけです。

 水越峠越え・竹内峠越えの2つのルートを利用することで、河内湖・大阪湾に出られるため、河内日下に拠点があった日下宮王家とは親密な関係を築いていたと考えられます。

 海人族を傘下にもつ紀氏と連携することで、風の森峠を越えて吉野川・紀ノ川を西進し大阪湾から瀬戸内海へ向かう交通網を掌握しました。

 畿内地域の河川・湖沼の水運網は住吉津・難波津に収斂するが、その先は瀬戸内海運に繋がります。この瀬戸内海運を機能させるためには、播磨地域や吉備地域との連携が欠かせません。

 幸いにも葛城氏、紀氏、吉備氏は、いずれも大阪湾岸の広範に勢力を展開しており、多くの同族・支族が分布していました。彼らは個別に海人集団と関係を結んでいただけでなく、大阪湾岸(阿波・淡路・明石・紀伊など)を舞台として相互に密接な関係を持っていました。
 したがって葛城氏・紀氏は、瀬戸内海東部だけでなく海人集団を通じて吉備氏に接近し瀬戸内海航行の自由も手に入れます。

 葛城氏は吉備氏ともよく連携し、西日本・瀬戸内海から朝鮮半島への交通網を掌握してヤマト王権内でのポジションを高め、全盛期を迎えたわけです。

 海の民について重視すべきは、彼らの漁撈民的な性格ではなく、彼らの専売特許である外洋航海の技術です。5世紀の日本にとって外洋航海の技術は、生産の維持と拡大のためになくてはならなかった。5世紀半ばまでのヤマト王権において葛城・紀・吉備連合は大いに機能し、葛城氏はこれを梃子に隆盛したわけです。

 しかし、5世紀後半、安康・雄略・清寧と続く中で、葛城氏の生命線であった紀氏や吉備氏との連携関係を断たれ、葛城の勢力は衰微してしまうのです。

 

たられば!千載一遇のチャンスを逃した葛城氏
 雄略が葛城勢力の主柱であった円大臣を焼殺した事件は、もしも円大臣が先手必勝で行動を起こしていれば、その後の歴史はどうなっていたのでしょうか。
 允恭系も履中系も内部抗争の結果、後継大王の候補不足に陥り、雄略しか残っていません。雄略さえ倒せば葛城が生き残り、大王位を手に入れるチャンスがあったのでは。

 眉輪王は葛城氏の血を引いているわけではないが、絶体絶命の眉輪王にしてみれば、雄略に比肩する権勢を持つ葛城円大臣に救援を求めたのは合理的とも思えます。
 これを葛城氏の側からみれば、大王家を転覆させる一大好機であったはずなのですが……。

 第89回ブログで、大和地域が他の有力地域を尻目に突出していくのは、多くの偶然が作用したからにほかならないと記しました。雄略が葛城円をつぶしたのはまさにその偶然の一コマ!

 第18回ブログで述べたように、野心的で優秀な豪族層(物部、大伴、和珥、葛城氏などの前身集団)が割拠した大和盆地では、ヤマト王権以外のどの豪族が突出しても不思議でも何でもなかった。
 幾つかの偶然が重なって、5世紀前半の大和盆地・河内平野では「複数の核を持つヤマト王権」と「2つの核(玉田系と葦田系)を持つ葛城氏」が突出したということでしょう。

 今でこそ私たちはヤマト王権という言葉を使いますが、これは後世の歴史を知っているからそう呼ぶのであって、大和地域から離れて5世紀前半の日本列島全域を鳥瞰してみれば、「ヤマト王権」「葛城・紀・吉備勢力」の他にも「出雲」「筑紫」「丹後・若狭から北陸地域」「上野地域」などの勢力が団栗の背比べのように並び立ち、「ヤマト王権」が頭一つ出ていたというくらいだったのでは……。

 歴史の歯車がひとつ狂えば、葛城勢力が大和盆地・河内を拠点にその後の日本を牽引していたのかもしれません。
 たられば、ですが……。想像するに楽しみ一杯の夢物語です。

 

参考文献
『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『倭国の古代学』坂靖
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
他多数