理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

135 王族間の対立伝承


<満開の桜(紀三井寺)>

 10年ほど前に読んだ森浩一著『敗者の古代史』が本棚の奥から出てきた。懐かしさでパラパラとめくってみたら、このところ論じている4、5世紀の王権にまつわる敗者の物語なので、これは捨ておけないと思った。

 そこで今回は、同書を再読、内容を吟味・取捨選択しながら、5世紀における王族間の対立伝承を確認してみることにしました。

 当然、筆者の提唱する「理系の視点」からみて不合理な内容は、尊敬する森浩一氏の論といえども、与するわけにはいかないので除外します。

 森氏の論考は、『記・紀』の記事がベースとなっているので、そこに記された事象が後世の造作である可能性は捨てきれません。しかし、仁徳より後の記事は描写が具体的で細部にわたっているので、ある程度の史実を反映していると考えられます。しかも、仁徳より後の5世紀代の大王には兄弟相続が多く見られるので、大王系譜の史実性は高いと、筆者は判断します(第122回ブログ)。

 森氏は『記・紀』の内容に加えて、地域の伝承や種々の文献を照らし合わせて、独特の切り口で同書をまとめています。

 そこで、同書の中から2、3の論考を取りあげ、以下のように纏めてみました。

 

菟道稚郎子と大山守
 仁徳は、民への慈悲に満ちた聖帝として『記・紀』は描いているが、即位前には兄弟間で血なまぐさい争いがあった。
 兵を起こし討たれた兄の大山守だけでなく、大王位を譲り合ったとされる弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)もまた、実際には争いに敗れた可能性がある。
 以下、詳細に言及。

 応神には妻が多く、したがって子の数も多かった。応神の死後に後継者争いが起こるのは自然のなりゆき
 応神がまず妻にしたのは、景行の孫の品陀眞若王(ほんだまわか)の長女である高城入姫で、高城入姫との間にもうけたのが大山守である。
 次に、ホンダマワカの次女の仲姫も妻とし、男2人と女1人をもうけたが、その一人が仁徳で、大山守よりも年下と考えられる。
 大山守は血筋と歳の両方からみて、次の有力な大王候補だっただろう。

 もう一人の妻である宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売とも)との間に、ウジノワキイラツコと八田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女をもうけた。

 ウジノワキイラツコは応神の子ではあるが、難波の大隅宮で養育された気配がなく、宅媛の実家である和珥氏系の比布礼能意富美(ひふれのおほみ)の家で育てられたらしい。成人すると、今の宇治神社のあたりに、莵道宮(うじのみや)を設けて拠点とした。現地には「宇治王朝」という言葉が残っており、応神の死後の短い期間、宇治が政治的拠点だった可能性がある。

 8世紀の『播磨国風土記』にも、「宇治天皇の世」という言葉が使われている。『続日本後紀』840年の記事には「昔、宇治稚彦皇子は我朝の賢明なり」とあり、平安時代になってもウジノワキイラツコは賢明な人物として伝えられていた。

 『日本書紀』に、百済が送ってきた阿直岐(あちき)を太子菟道稚郎子の師としたとあり、ウジノワキイラツコを太子、つまり皇太子としていることは注目されるべき。翌年、渡来した王仁(わに)は、ウジノワキイラツコの秀才ぶりに感嘆した。

 しばらく間を置いた後、高句麗王が送ってきた国書の文言にウジノワキイラツコが怒りをぶつけたことから、この時点では外交にも関わっていたとみられる。

 応神は死の前年、ウジノワキイラツコを正式の後嗣とし、大山守に山川林野を管掌させ、仁徳を太子であるウジノワキイラツコの補佐役とした。

 大山守は、屯田の管理権をめぐって対立したと思われるウジノワキイラツコを殺害して帝位につこうと画策したが、仁徳(実際はまだオオサザキ)が大山守の反乱を察知して、ウジノワキイラツコに準備をさせて大山守を殺害した。

 『記・紀』は、大山守を殺害したあと、帝位をめぐってウジノワキイラツコと仁徳が譲り合う美談を載せているが、位の譲り合いをするうちに、ウジノワキイラツコは自殺したと続き、これはいかにも不自然で、後世の造作のようにも映る。実際には武力によってウジノワキイラツコは殺害された可能性があり、その際、妻の実家の和珥氏は、家を守るために仁徳に加担したとも考えられる。

⇒ 筆者コメント
 以上のような経緯をみると、仁徳の聖帝としての業績を謳うために、大山守もウジノワキイラツコも退けられたのかもしれません。
 さらに言えば、優秀だったウジノワキイラツコが一時期、大王位についていた可能性だって排除できないのでは。少々言い過ぎかな。

 

墨江中王(住吉仲皇子)と曽婆訶理
 仁徳の死後にもまた、皇子の間で大王位をめぐる争いが起きた。
 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、墨江中王)が、兄のイザホワケ(のちの履中)の宮を焼き払う。
 住吉仲皇子は、イザホワケに味方した弟のミツハワケ(のちの反正)の計略により落命するが、航海に長けた隼人「 曽婆訶理」(そばかり、刺領巾とも)を側近に起用しており、西日本の海人集団を掌握する「海の実力者」だった。
 以下、詳細に言及。

 仁徳と磐之媛の間には、イザホワケ(のちの履中)、住吉仲皇子、ミツハワケ(のちの反正)、オアサツマワクゴ(のちの允恭)が生まれた。さらに妃の日向髪長媛との間には大草香皇子(大日下王)がもうけられた。
 住吉仲皇子は、難波の重要な港である「墨江之津」の管掌を任されたと推測できるので、父の仁徳から信頼されていたようだが、やがてこの兄弟間で血なまぐさい事件が勃発する。

 仁徳が亡くなると、イザホワケ(履中)は、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘の黒媛を妃にすべく画策し、そのことを相談された住吉仲皇子は黒媛を犯したうえ、イザホワケを殺害しようとした。
 しかし、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿禰、阿知使主らがイザホワケ側についた。
 住吉仲皇子は高津宮を焼いたが、イザホワケは物部氏の拠点である石上神宮に逃げた。弟のミツハワケが、住吉仲皇子に仕えていた隼人の曽婆訶理を使って住吉仲皇子を殺害させた。厚く遇されることを期待した曽婆訶理は、河内の飛鳥でミツハワケに首をはねられた。
 このあと、イザホワケが履中として王位を継承した。

 住吉仲皇子の挙兵は、単に皇位継承のためだけで起こったのではない。西日本の海人集団と、これに海人を出自とする集団も加わり、墨江の津を拠点にしていた住吉仲皇子をかついでの騒動だった。
 このうち西日本の海人集団とは、海の民を統率する立場にあり、難波に本拠をおいていた阿曇連浜子であり、海人を出自とする集団は、拠点は大和盆地にあったが、海の民との関係が密接な倭直である。

 戦争の原因は代々の大王たちが海人集団を軽視しだしたことにもあったと考えられる。

 平群木菟宿禰は葛城氏系、阿知使主は渡来系の大集団である東漢氏の首長なので、この戦争は、葛城氏・物部氏・東漢氏を味方につけたイザホワケ・ミツハワケの兄弟と、安曇氏・倭直氏や隼人などの海人集団に支えられた住吉仲皇子との勢力争いであったと思われます。
 この戦争で、もし住吉仲皇子が勝っていたら、強固な海洋国家が実現していただろう。

 住吉仲皇子と同様に、仲哀の子の忍熊王、応神の子の大山守やウジノワキイラツコは、いずれも皇位継承の争いで命を失っている。

⇒ 筆者コメント
 以上のように、仁徳・履中時代の隼人である曽婆訶理は、ミツハワケに与し、自らの主君である住吉仲皇子を暗殺するも、自らが大臣の位を授けられる任命式で斬殺されてしまったわけです。
 しかし第98回ブログでは、隼人が具体的に登場するのは7世紀後期以降で、それ以前に登場する隼人は後世の潤色と考えられると言及しました。
 仁徳紀や雄略紀に登場する隼人は、仮に存在したとしても私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされます。文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(天武11年)7月の朝貢記事です。

 隼人は大和政権へ服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こしたが、720年に勃発した大規模な反乱が、大伴旅人によって征討された後には完全に服従します。
 近年の研究では、9世紀初頭以降、九州南部の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつも見られなくなることが確認されています。よって九州南部の人々が隼人と呼ばれたのはわずか120年間ほどのことにすぎないのです。
 5世紀頃の隼人に関する文献と考古資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を5世紀頃にまで遡らせる考え方については、近年では疑問とされているようです。

 第128回ブログで言及したように、海人集団は、卓越した海洋航海力を活かして、ヤマト王権の「王」や葛城・紀・吉備氏を支持しただけでなく、ヤマト王権に反逆した住吉仲皇子のような王族たちをも支持して独自のポジションを確保していたことは間違いありません。

大日下王と押木珠縵
 大日下王(大草香皇子)は仁徳の皇子だが、大王位は異母兄弟の履中、反正、允恭が継ぎ、さらに允恭の子のアナホ(のちの安康)が即位する。
 安康が弟のオオハツセ(のちの雄略)に大日下王の妹の草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、若日下王とも)を娶らせようとし、大日下王は喜んで宝物の押木珠縵(おしきのたまかづら)を差し出した。しかし、宝物の横取りを企てた根使主の讒言により、安康は大日下王を殺害してしまう。

 以上は『記・紀』の記述であるが、これに対して、渡来人が多く住んだ日下(東大阪市)の土地柄からは、外交をめぐる対立が浮かび上がる
 以下、詳細に言及。

 大日下王は、仁徳と日向髪長媛の間の子である。髪長媛は難波の高津宮ではなく、日下で子の養育をしていたと考えられる。

 日下の地は河内湖に接していて、古くから水陸交通の要地として繁栄していた。

 日下とその隣接地は、5世紀になると馬の飼育という新しい産業が行われた土地である。初期の馬匹産業を行なった河内馬飼集団は、日下とその南方の瓢箪山付近を生業の場としていたと推測される。山麓にある山畑古墳群は馬飼集団の氏人たちの群集積であろう。また、当地は高い技術をもった金属加工の工人集団がいた土地でもある。大日下王のいた頃の日下とは、そのような土地であった。

 大日下王については、隅田八幡神社の「癸未(きび)年」銘の人物画像鏡が重要なポイントになる。癸未年は443年説と503年説があるが、この鏡の原型となった鏡の年代から443年とすべきで、それは大日下王の時代である。

 この鏡の銘文の前半には、通説では「日十大王年」と読まれている5字があるが、「日下大王年」と読むことも充分に考えられる。皇子や皇女を「大王」と読んだは多い。また「下」を「十」と減筆することもあり得る。

 銘文の後半には「斯麻王」とあるが、同時代史料からみて百済の武寧王であろう。

 つまり、この鏡は、大日下王の年に、百済の武寧王が河内に来ていた百済の工人に命じて作らせたと解釈できる。

 5世紀頃の日下の地は、水陸交通の要衝というだけでなく、銅鏡を含む金属器製作の拠点でもあり、多くの渡来人が居住する地でもあった。大日下王は朝鮮諸国や渡来系の人びとに支持されていたとみられる。

 5世紀の代々の大王たち(倭の五王)はシナの南朝と外交関係をもったが、こうした中で安康が大日下王を殺害する事件が起こる。

 『記・紀』は、安康が、弟のオオハツセ(のちの雄略)に草香幡梭皇女(若日下王)を娶らせようとし、兄の大日下王は喜んで宝物の押木珠縵(おしきのたまかづら)を差し出したが、宝物の横取りを企てた根使主の讒言により安康が大日下王を殺害したとしている。
 しかし、この殺害はそのような宝物の横取りや讒言に端を発したのではなく、外交の原則の対立があったと考えられる。

 5世紀の代々の大王たちは宋と外交関係をもった。しかし宋を含むシナの南朝はやがて消滅する弱体の王朝だった。これに対し、大日下王は百済などの朝鮮諸国との外交の必要性を重視していたと思われる。

 諍いの原因となった押木珠縵は、枝のついた木の幹の形を冠の立飾にし、勾玉などの宝石を垂下させた金冠・銀冠・金銅冠は出字形立飾の冠と呼ばれ、5、6世紀の新羅・百済・伽耶などで国王たちが好んで所持し儀式などで着用したものである。

 大日下王は、冠を珍しいものとして入手していたというよりも、百済王から友好ないしは同盟の証として賜った可能性が高い。
 であれば、安康らの大王側は、大日下王が所持していた冠を取りあげようとしたのが真相といえるのではないか。

⇒ 筆者コメント
 5世紀の代々の大王たちが宋との外交関係を重視していたのに対し、大日下王は百済などの朝鮮諸国との外交を重視していて、外交の原則の対立によって、大日下王は殺害されたという見立てはグッドポイントではないかと筆者も考えます。

 しかし、隅田八幡神社の人物画像鏡銘文については、大日下王(5世紀半ば)と武寧王(在位:501~523年)とでは時代がまったく合わず矛盾します。間に合えば、次回のブログ(?)で、もう少し深掘りしてみます。

 最後に、4世紀の事象になりますが、ついでなので忍熊王(おしくまのみこ)の伝承について触れておきます。

 

剱御子としての忍熊王
 『敗者の古代史』には、第95回ブログの続編とも言うべき内容が載っています。

 まずは第95回ブログをダイジェストしてみると……。

 三韓征伐後に応神が生まれ、神功・応神が瀬戸内海を東へ航行する。
 香坂王・忍熊王の兄弟王は畿内に帰還する神功・応神に謀反を企てたが強力な軍事力に抵抗できず、反乱は失敗した。
 しかし、こうした兄弟王の反逆者としてのイメージは、後代に造作されたものであり、実は二人の王の方こそ本来、王権の正統な後継者であったとも考えられる。
 兄弟王の母は大中津姫(おおなかつひめ)ですが、『記・紀』をきちんと読めば、仲哀の二人の后のうち、景行の娘であるオオナカツヒメの方が神功よりも正統と言える。その子が香坂・忍熊の兄弟なので、神功は王統を簒奪したとしか思えない。
 佐紀西群に接した地に「忍熊里」(奈良市押熊町)の地名があるので、忍熊王の名は4世紀後半にヤマト王権を掌握していた佐紀西群集団の後継王を象徴化した名であった可能性もある。
 忍熊王側の軍勢は大和北部だけでなく南山城、摂津、近江とも深いかかわりをもっているとともに、戦闘の場面もまた上記の地域に設定されている。
 忍熊王と対立した神功は、息長氏の系譜にあって同じ山城に根拠地があり、対立する両者は同じ勢力圏の内部勢力の対立であった可能性も高い。

 要するに、忍熊王の反乱伝承は、4世紀後半以降の淀川中流域をめぐる抗争であって、王権の正統な後継者である佐紀西群のヒツギノミコに対して神功・応神が起こした反乱と捉えることもできるのです。
 以上が、第95回ブログで言及した内容です。

 さて、ここからは森浩一氏による論考です。

 『日本書紀』だけに記されている話として、忍熊王らは播磨の赤石(あかし)に父・仲哀の山陵を築造した。陵の築造は直系の子がおこなうのが普通で、これからみても畿内に忍熊王政権のあったことが充分に推測できる。

 赤石は今の明石のことで、明石が畿内と畿外を分けていた。

 神戸市垂水区五色山の、明石海峡を見下ろすような地形に五色塚古墳が築造されている。墳長194メートルの堂々とした前方後円墳で、兵庫県では最大規模である。築造年代は4世紀末ごろとみられ、『日本書紀』が記す忍熊王らが赤石に築いた仲哀の陵とみるのに支障はない。
 五色塚古墳は墳丘の美しさでは各地の前方後円墳のなかでも突出している(筆者も 2015年4月に実見しているがまったく同意)。円筒埴輪も整然と並ぶが、墳丘を覆う葺石も厚く、岩石学からみて淡路島の石が運ばれた可能性は強い。

 五色塚古墳は、大阪湾から瀬戸内海方向へと向かう船に畿内から畿外へ出ることを意識させる構築物である。同時に忍熊王政権の主要な支配地を認識させる標識となる構築物でもあった。さらにその政権が淡路島をも支配していたと推測できる。

 忍熊王らは東進してくる神功の船団をさえぎるためにも、海域の狭くなった明石の地を重視し、古墳を城として利用したことは頷ける。
 神功軍の構成は武内宿禰(たけのうちのすくね)と和珥臣の祖の武振熊(たけふるくま)であり、忍熊王側には近江の犬上君の祖の倉見別や摂津の吉師の祖である五十狭茅宿禰(いさちのすくね)らが将軍として加わった。
 両軍は宇治川で激突し忍熊王側が優勢だったが、タケノウチノスクネの詐術で忍熊王軍を破ることができた。
 『日本書紀』では、忍熊王はイサチノスクネとともに瀬田川で投身自殺をしたが、その屍は探せども不明と記している。

 『記・紀』では忍熊王を応神と戦って敗れた反逆者として描いているが、福井県の剱神社では忍熊王を剱御子として祀っている
 当社の奈良時代の表記は剱御子神だったと推定でき、忍熊王は越前国の二宮である剱神社では神として祀られている。
 神社の古伝では、忍熊王は生き延びて越前織田の地へ来て、この地方で人々を悩ませていた賊を退治してから若死にし、人々は忍熊王を神として祀ったという。

⇒ 筆者コメント
 何よりも神功皇后の三韓征伐と難波への帰還については、史実と考えるには謎が多く、これをもって「さき」地域の王権が滅び、応神を始祖とする新たな王朝が開かれたとするには大きな問題があります。
 不確かな神功の登場に加え、タケノウチノスクネやタケフルクマなどの伝説上の人物が登場することからも、これらの一連のストーリーは史実とは考えられません。
 森浩一氏が神功・応神の東進説を是認するのには同意できません。
 したがって剱御子神の存在にしても後世の造作なのかもしれません。

 ただ、4世紀後半以降に「さき」地域を主体に南山城、摂津、近江までをも巻き込む政治的な対立はあったのではないかと、筆者は考えます。
 その伝承が形を変え、神功・応神の反乱軍と争って敗れ、落ち延びた忍熊王を剱御子神として祀るようになったのではないか……。

 剱神社は福井県西部の丹生山地のほぼ中央にある織田盆地に鎮座し、素戔嗚尊(すさのお)を主祭神とし、気比大神と忍熊王を配祀しています。
 当社は、遥か北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、剱大神として称えたのが元々の創始とされています。しかし、スサノオやヤマトタケルが様々な経緯で日本各地に祀られている(第109回ブログ)ように、この伝承をそのまま史実とするわけにはいきません。

 ここからが興味深い伝承なのですが、忍熊王は瀬田川の戦いに敗れて越前に入り、敦賀から海を渡って梅浦に到着した。そこで郷民が賊に苦しめられていることを大変哀れみ、賊の討伐に立ち上がった。悪戦苦闘するも、剱大神の神威により古志国の賊徒を討伐し無事平定できたことを感謝し、現在地に社を建て剱大明神として祀った。
 忍熊王はその後も当地の開拓に尽力したことから、郷民はスサノオの再来と信じ、開拓の祖神(おやがみ)として崇敬したと伝わっているようです。

 ただ、正史では反逆者とされた忍熊王が御子神として祀られ、長きにわたり土地の人びとから英雄視されていたというのですから、当地では、景行の娘の大中津姫(おおなかつひめ)を母とし、仲哀の御子である忍熊王を正統な後継者と見做していたのでしょう(第57回ブログ)。そこに至るまでの経緯を知りたいところです。

 織田という地名で思い起こすのは、織田信長の先祖が剱神社の神官をしていたが、当地から尾張に移った後、信長が全国統一に立ち上がったことです。因縁を感じます。

 それはともかく、4世紀後半以降の政治対立については、第101回・第120回ブログで言及したように、「さき」西群を築造していた王権内で政治的対立があり、その一部が「河内進出グループ」として分派し、やがて本家を上回って隆盛し、本家の「さき」西群グループは次第に衰退するが、残存勢力は「東群を築造したグループ」として、その後もしばらくの間は存続したのではないかと、筆者は考えます。

 森浩一氏が言及した幾つかは、多くの研究者に見られない新鮮な視点を提供してくれるので大切にしたいと考えます。森氏は既に故人です。誠に残念!

 

参考文献
『敗者の古代史』森浩一