理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

134 雄略大王とシナ・朝鮮半島


 <上田城の桜>

雄略大王のイメージ
 雄略のイメージは、ひと言で言えば、カリスマ性と暴虐さを併せ持つ気性の激しい大王だったということでしょう。
 権力を握るまでの血塗られた蛮行(か?)には、常人には推し量りがたい残忍、冷酷な面が見られます。
 でもこれは、古今東西を通じ英雄に共通する性格と言えるのかも。

 雄略はライバルの王族を片っ端から殺害して蹴落としています。
 自分の兄の安康が、眉輪王(まよわのおおきみ、大草香皇子の子)によって暗殺されると、わずか3か月のうちに、敵討ちに躊躇する兄を殺害した後、もう一人の兄と眉輪王ならびに葛城円大臣(つぶらのおおおみ)を焼殺し、さらに従兄弟の市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)をだまし討ちし、その弟も葬ってしまった。
 自らの手で親族を次々と殺害したうえ、それまでヤマト王権とつかず離れずの関係を維持していた葛城の本宗家も滅亡させて即位したわけです。

 ただ、このような物語的な『日本書紀』の記述がどこまで真実を伝えているのか、一抹の不安はあります。この部分はいずれこの先のブログで「葛城勢力の崩壊」として詳述します。

 また、北関東から九州中部までの広域を支配した最初の大王とされることも、雄略のイメージに重なります。
 次のような記事はその代表的な例ですね。

 『もういちど読む山川日本史』では、北関東の稲荷山古墳出土の鉄剣や九州中部の江田船山古墳出土の大刀の銘文に「ワカタケル大王」と記されていたことから、「こうして5~6世紀に大和王権が、東国と九州の豪族を支配していることが明らかになったのである」と綴っています。

 同じ山川出版社の『詳説 日本史図録第4版』では、「両方のワカタケル大王は雄略天皇を示すと考えられ、5世紀後半には大王の権力が、東国から九州までおよんでいたことがわかる」としています。

 多くの古代史研究者も同じような見解を持っているはずです。

 一方、『図説 日本史通覧』では、同じように鉄剣と大刀の銘文を取りあげても、「5世紀後半にはヤマト政権と東国に何らかの関係があったことがわかる」、「被葬者とヤマト政権との間には何らかの関係があったと考えられる」と、かなり抑制的な表現になっていて、恣意的に引っぱり込まず好感が持てます。

 実際、雄略が牽引するヤマト王権は、葛城や吉備の勢力を制圧し、王権のみが突出した権力を獲得したことは事実でしょう。しかし各地の地域国家に対して大きな影響力を及ぼしたものの、広域支配に成功したとまでは言えないと筆者は考えます。

 

倭の五王のシナへの遣使
 3~5世紀の東アジアは、シナ大陸の大動乱の影響をまともに受けます。この間の経緯は第115回・116回ブログに詳述しましたが、特に5世紀以降は、百済や伽耶諸国と友好関係を築いたヤマト王権に対し、高句麗が南進を強めたため、朝鮮半島南部の権益をめぐってヤマト王権と高句麗は対峙することになります。
 ヤマト王権はシナの宋王朝に遣いを送り、朝鮮半島での軍事的優先権の承認を得ようと画策します。

 第116回・118回ブログで記したように、『宋書』には、倭の五王の遣使の記事が載っています。遣使の年と受けた称号は以下の通り。

 421年、425年。

 438年、「安東将軍・倭国王」

 443年 「安東将軍・倭国王」
  451年、「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓の六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」

 462年、「安東大将軍・倭国王」

 478年、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事・安東大将軍・倭王」

 これらの遣使と受けた称号について、経緯をもう少し詳しく確認してみます。

 讃が称号を受けたか否かは『宋書』からは不明です。

 珍は438年、「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓の六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を願い出たが、「安東将軍・倭国王」の称号にとどまった。
 この時、珍の推薦で、倭隋ら13人が将軍号を得ており、特に平西将軍号を得た倭隋を、九州北部の王族に比定したり、吉備の造山古墳・作山古墳の被葬者と見なす(都出比呂志氏による)説があります。
 しかし筆者は、5世紀前半の王権が九州まで支配していたとは考えないし、吉備地域とは関係はしたが牽制しあってもいたと思うので、この説にはまったく同意できません。倭隋は、畿内の王権一族か王権を構成する有力豪族と考えたい。

 続く済の1回目(443年)は、珍と同様に「安東将軍・倭国王」の称号を受けています。
 済の2回目(451年)では、念願の「使持節、都督倭・新羅・加羅・任那・秦韓・慕韓の六国諸軍事」の称号を受けたが、シナと国交のある百済だけは承認されなかった。ただ「安東大将軍」には進号しています。
 六国諸軍事はあくまで軍事権の付与であって統治や領有を認められたわけではありません。

 興は、済が受けた「六国諸軍事・安東大将軍」を引き継げずに「安東将軍・倭国王」の称号にとどまっています。

 武は478年、「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の称号を要求したが、宋の順帝は、百済への軍事権を認めず、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号にとどめた。

 第116回ブログで「高句麗に授けられた将軍号、官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位のもの」と述べましたが、既に高句麗は「征東大将軍」、百済は「鎮東大将軍」の称号を受けていたのです。
 高位から順に並べると、征東大将軍、鎮東大将軍、安東大将軍の順になり、倭王は高句麗の下の百済のさらに下位に置かれたことになります。
 宋に対して百済王は、常に倭国王の上位になるよう戦略的な外交を続けており、宋は百済王を倭国王より上位に遇したといえます。

 宋への遣使は421年(413年とも)に始まりましたが、478年までの間、ヤマト王権の一貫した外交姿勢は、シナの皇帝に、朝鮮半島南部などの軍事的支配権を認めさせ、それに相応しい高位の将軍号を受けることでした。
 しかし、上記のようにシナ王朝はヤマト王権が望んだ称号のすべてを授けることは一度もありませんでした。

 

報われない遣使に対する雄略の決断
 この五王が『記・紀』の誰に当てはまるのか、これは第118回ブログで述べたように百家争鳴の大論争となっているわけですが、「武」については大方の議論は雄略であろうということでまとまっています。

 筆者も「武」は雄略であると考えます。ただし、「武」は「たけ」「たける」と読むから「ワカタケル」と呼ぶ雄略に違いないという無茶な論法(第118回ブログ)ではなく、朝鮮半島情勢や雄略の在位から推して、「武」は雄略であると考えるわけです。

 478年の雄略による宋の順帝への遣使について、経緯を詳しく確認してみます。

 『宋書』倭国伝によれば、「武」による478年遣使の際の上表文には、「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ……」とあって、ヤマト王権の国土統一、朝鮮半島遠征の経緯を伝えています。

 しかし「武」を雄略と見なした場合、実際には雄略が王位を継承する以前は、朝鮮半島南部での軍事行動は、大和盆地の有力集団や吉備の勢力が独自に伽耶諸国や新羅において起こしていたものです。ヤマト王権軍と呼べるような組織的な兵力の投入はなく、戦闘地域も限定的なものでした。

 それでも雄略は、上表文の中で、「倭国は宋王朝の外藩として、代々忠実に遣使朝貢してきた。だが、高句麗の横暴によって、近隣の国々は大変ひどい目にあっている。そこで、高句麗征伐の出兵を決意した。宋王朝の力を得て、この強敵を倒したい。ついては高句麗王に並ぶ開府儀同三司(かいふぎどうさんし)という高官職を賜れば、シナの皇帝に忠誠をつくす」と述べ、高句麗との戦いを有利に進めようと考えたわけです。

 順帝の詔は、「武を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙す」というものでした。
 百済での軍事権を承認せず、上表文の最後で切望した開府儀同三司には、まったく触れられていません。シナは海で遠く隔てられた日本よりも、陸続きで近い高句麗との関係を重視したのです。

 雄略は失望したのかもしれませんし、当然と思っていたかもしれません。
 雄略は、宋を当てにしても高句麗を牽制する役には立たないと見切りをつけ、以後、朝貢をやめ宋の冊封体制からの離脱を図り、478年の遣使以降、宋王朝との通交を完全に断ちます。

 雄略が上表文を送った年の3年前、475年、百済は高句麗の猛攻を受けて王都漢城が陥落し、まさに王朝滅亡の危機にありました(第116回ブログ)。高句麗の南下圧力は、朝鮮半島南部の権益を政権維持の生命線としていた雄略も脅威に感じたに違いありません。
 雄略にとって、上表文は、対高句麗戦を念頭においた外交上の乾坤一擲の大勝負だったのです。ところが、宋王朝の返答は、まことにつれないものでした。

 しかし、当時の東アジアの国際情勢からすれば、宋の判断は十分頷けるものだったとも言えます。

 広大なシナ大陸は、北の魏と南の宋に分割され、互いに覇権を競っていました。
 陸続きの高句麗の去就は、両国にとって政治・軍事の戦略上、大きな関心事だったのです。高句麗の長寿王もまたそのことをよく理解していて、南北に分裂したシナの両朝(420年建国の宋と423年建国の北魏)に頻繁に遣使を行ない、関係構築に腐心しています(第116回ブログ)。高句麗による巧みな外交戦略です。

 宋が高句麗王を百済や倭の王より一貫して高い位につけたのは、その強力な軍事力もさることながら、高句麗を、北魏包囲網を構成する重要な一員と認めていたからに違いありません。海東はるかな日本列島の勢力が、高句麗の非道をなじり、その征伐を宣言し、高句麗と同等の官職を要望しても、「よし、わかった」とは言えないのが、宋としての当然の帰結だったのです。

 通交断絶の直接のきっかけは、朝鮮半島南部などの軍事的支配権の公認と高位の将軍号を受けられないことへの不満だったのでしょうが、それ以外にも考えられる理由があります。
 通交断絶の最大の理由は、宋の弱体化を感じ取り、激動する朝鮮半島情勢が宋による冊封関係だけで律することができないと、雄略やそれ以後の王も認識していたからではないか。
 ともに宋から冊封を受けている高句麗と百済が存亡をかけた激烈な戦闘を繰り返していたので、冊封体制が現実の半島情勢を律する働きをしていないことはもはや明白。

 冊封体制から離脱してシナとの関係を対等とし、独自に日本を治めようとした雄略の功績を多とする説は多いのですが、通交断絶はそんな格好の良い話ではなくて、むしろ雄略の死後、ヤマト王権は大混乱に陥り、遣使をする余裕などとても考えられなくなってしまったという内部的な要因が大きいのではないでしょうか。

 雄略は、宋へ遣使する以前から、シナの顔色をうかがうことなく、百済や加耶諸国との友好関係を維持しており、脅威となる高句麗や新羅と対決するという基本的な外交方針は揺らぐことはありませんでした。
 そして百済や伽耶諸国との関係を維持するため、それまでの列島各地の地域国家と野合して半島へおもむくような形では不十分で、多様な通交ルートの完全掌握に走り、外交権を一元化しようともくろみます。

 その手始めとして、456年には葛城の中心勢力を滅ぼし、457年から463年にかけては新羅に接近する吉備勢力に介入し、465年には紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連らを新羅征討に向かわせています。

 『日本書紀』は464年、新羅の救援要請に応じて兵を任那に派遣して高句麗を撃退したとする記事を載せています。

 雄略は、『日本書紀』によれば、宋への遣使から間もない479年ないし480年に死亡したことになります。しかし、この時期はどうも疑わしい!

 一方、『古事記』の崩年干支(己巳年、第123回ブログ)からは、没年は489年にあたり、両者に10年の開きがあり、雄略の実在性は疑うべくもないが、生没年や在位期間などについては不確定な部分が多いようです。

 「武」は479年、南朝の斉より「鎮東大将軍」号を受け、502年、南朝の梁より「征東大将軍」の称号を受けたという記録もありますが、「武」の最後の確実な遣使は478年であり、史料上確実な日本の次の遣使は600年・607年の遣隋使まで途絶えることとなります。
 第19回ブログで、高城修三氏による古代天皇の在位目安として掲載しました。そこでは雄略の在位は461年~483年となっていました。

 

雄略大王の事績
 雄略の事績としてまず挙げられるのは、ヤマト王権を大王専制の中央集権に向けて作り変える試みに挑戦したことです。
 このきっかけは、前述したように、朝鮮半島との多様な通交ルートと外交権の完全掌握を目指し、みずからの政策に一致しない王族や豪族を排除するか弱体化させることだったと思われます。
 危機感を抱いた雄略は、葛城、吉備、紀の有力勢力や、北陸地域、上野、筑紫などの地域勢力がさまざまな思惑で伽耶諸国を中心におこなっていた活動を、軍事行動や懐柔政策によって掌握していきます。

 この一連の争いは、姻戚関係を梃子にして権勢を振るった葛城勢力・これに連携した吉備勢力と、允恭・安康・雄略の大王即位を契機に大王の直属軍として編成され、その武力を背景にヤマト王権におけるポジションを高めていた物部・大伴勢力という伴造(とものみやつこ)勢力が、ヤマト王権における主導権を争った武力衝突とも位置づけられます。

 雄略は、物部・大伴氏を含めた大王家の戦力、個人的なカリスマ、渡来人たちの技術や知識などを総動員して、葛城や吉備の勢力が持っていた既得権益を大王のもとに集約し直したと思われます。

 さらに半島各地での戦闘や交渉の結果、百済が奉った技術者集団を飛鳥に居住させた可能性があります。雄略紀では、新漢(いまきのあや)あるいは今来才伎(いまきのてひと)と呼ばれています(第133回ブログ、雄略7年条)。

 彼らは、陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、晝部(えかき)、錦部(にしごり)、訳語部(をさ)などの職掌を冠しており、須恵器作り、馬具作り、画工、錦織り、通訳を専門とする技術集団の長で、当初、河内に連れ帰ったが、病死する者が多かった。
 そこで雄略は大伴大連室屋、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じて、彼らを、上桃原(かみつももはら)、下桃原、真神原の3ヶ所(いずれも飛鳥)に移住させたとも『日本書紀』には記されています。

 彼らはもともと、帯方郡の旧地に住む漢族の手工業民であり、応神の時代に帰化した漢人(古渡、ふるわたり)に対して、新漢(いまきのあや)と記したものと思われます。

 以上のような『日本書紀』の記事をおおむね是とすれば、雄略は、その後に続く産業興隆の太いレールを敷いたことになります。5世紀の技術革新がさぞや加速したことでしょう。

 しかし、前回ブログで言及したように、雄略の時代に渡来した技術者集団を新漢や今来才伎と呼ぶのは少々疑問です。伽耶諸国の高麗伽耶国・安羅国などが滅んだ欽明期に、伽耶諸国や栄山江流域を中心として最も多くの手工業の技術集団が渡来しているので、新漢や今来才伎については、多数の部民を持つようになった6世紀以降の事象とすべきです。

 おそらく史実としては、応神の時代に渡来した漢人はほとんどおらず、あるいは極めて少なく、5世紀後半から末にかけても、高々100人程度の秦氏(はたし)や漢氏(あやし)の集団が渡来したに過ぎないのでは(第116回ブログ)。
 このうち東漢氏(やまとのあや)は飛鳥の高市に、西漢氏(かわちのあや)は河内に、秦氏は葛城市・御所市のあたりに、それぞれ定着し、のちに秦氏は山背国へ進出して活躍します。

 渡来人の活用では葛城氏、つづいて蘇我氏が先行しますが、物部氏も後れを取るまいと河内の渋川に拠点を構えた西漢氏を配下にします。その後、丁未の乱(587年、ていび)で蘇我氏が物部氏を滅ぼした結果、蘇我氏と東漢氏(やまとのあや)の手によって、西漢氏は大伴氏の拠点である飛鳥の高市に移住させられたものと思われます。
 結局、新漢(いまきのあや)はすべて、飛鳥に居住する東漢氏の統率下におかれてしまうわけです。

 秦氏と東漢氏の渡来については謎が多く、今後、他の渡来人も含めて詳述してみたいと考えています。

 また雄略は、政治拠点を泊瀬朝倉宮(脇本遺跡)に置いたと見られます。遺跡のある初瀬谷は、初瀬川の水源地で、大和盆地と伊勢を結ぶ交通の要衝地です。5世紀の大型建物、竪穴住居、石垣、溝などの遺構が発見されていて、雄略の拠点であることがほぼ確定しています。
 古市晃氏は、この泊瀬朝倉宮について、次のような興味深い見解を述べています。
 「脇本遺跡を特徴づけるのは、藤原京や平城宮といった7世紀後半以降の王宮が平坦な地形に立地し、巨大な建物と広大な儀礼空間を配して威容を誇ったのに対して、南北を山に囲まれ、南には初瀬川が流れる狭い谷地形の中にある。少し西に進めば平坦面が広がる大和盆地があるのに、5世紀の王宮はわざわざ初瀬の谷の中に造られたのである。
 この王宮は軍事的性格の強い施設として理解する必要がある。葛城の極楽寺ヒビキ遺跡が丘陵のわずかな平坦面に立地していたこと、各地の豪族の居館が濠などの防御機能を備えていたことと対応している。
 5世紀の列島社会を統合するための装置として重要な意味を持ったのは、このような城塞的な王宮よりも、葬送儀礼の場として目につくところに築造された巨大な前方後円墳と考えるべきである」と。

 ただ、この王宮が軍事的性格の強い特殊な宮であったとしても、その後も簡単に廃絶することはなく、690年には持統天皇による泊瀬行幸が行われているのは留意しておきたいところです。

 

治天下の概念
 通説では「武」は雄略とされ、その雄略は治天下の概念を持って行動したとされていますが、それは次のようなことが根拠とされているからです。

 雄略は『日本書紀』でハツセノワカタケル天皇(泊瀬幼武天皇)と記されている。

 稲荷山古墳から出土した鉄剣には、ワカタケル大王(獲加多支鹵大王)と刻まれており、鉄剣の銘文にある「辛亥年」は471年にあたる。

 471年は宋書における「武」の時代と重なるので、「武」は雄略である。

 熊本の江田船山古墳出土大刀に記された判読不明文字「蝮○○○鹵」の「蝮」を「獲」と読めば、ワカタケルと解読できるので、雄略の支配が北関東から九州中部まで広範囲に及んだと想定できる。とすれば雄略の時代には、治天下とも言うべき広域支配の状況がつくられていたということになる。

 同じ銘文に記された「治天下」は、雄略が宋への朝貢をやめて独自に日本を治めようとしたと見てとれるので、まさに雄略による広域支配を裏づける。

 しかし筆者は、「武」「獲加多支鹵大王」「辛亥年は471年」を無理矢理つなげたような短絡的な論理に疑問を抱いています。その根拠は以下の通り。

 

通説に反論する根拠
 まず、鉄剣に記された「辛亥年」は471年に断定できず、第109回ブログで言及したように、60年遅らせた531年である可能性を残していることです。肝心の稲荷山古墳の築造年代が6世紀前半の可能性もあったのに、そこで出土した鉄剣の銘文にあるワカタケルを5世紀後半の雄略に結びつけるために、「辛亥年」を471年と決めつけてしまったのではないか。
 仮に531年とすれば、ワカタケル大王は欽明である可能性が出てきます。

 次に、第118回ブログで言及したように、稲荷山鉄剣に記された「ワカタケル」の表記は「一文字・一音」の「獲加多支鹵」であって、「多支」は「タキ(タケ?)」と発音し、「武」とは無関係です。
 8世紀の『日本書紀』に記された雄略は、和風諡号で「泊瀬幼武天皇」(はつせのわかたけのすめらみこと)と表記され、「武」を「たけ」と訓読みさせていますが、雄略が存在した5世紀後半には訓読みはなかったと考えられます。
 さらに第19回ブログで言及したように、和風諡号は6世紀前半の安閑期以降に捧呈されるようになったという説があり、雄略の和風諡号も当時は存在しなかった可能性があります。というわけで雄略と「獲加多支鹵」と「武」は直接的には結びつきません。

 雄略は478年に宋へ遣使しており、冊封体制下にあった471年時点は葛城や吉備の勢力を弱体化させた後の混乱期にあたり、その時点で雄略が治天下の概念を持っていたとは考えにくい。

 「治天下」は、天上世界から降臨した神の子孫である天皇が国を統治することの正当性を意識した言葉で、神の子孫が地上世界を統治する物語を記した『記・紀』においてはじめて具現化された。その原型とされる『帝紀・旧辞』は欽明の時代の産物とされる。

 対高句麗戦の敗戦により、当時の王権が「王の出自を天に求める降臨神話」の導入を進め、5世紀には至高神の存在を創り、当初はタカミムスヒがその役割を果たした。
 その後、継体から欽明の時代にかけてオオヒルメムチ(ないしはアマテラス)が登場して王権神話の原形が完成し、天武の時代以降、王権神話に磨きがかけられ「記紀神話」として集約された(第14回ブログ)。

 欽明の諡号は「天国排開広庭天皇」(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)で、天と国の双方を支配する概念が反映されていると考えられる。

 以上のような観点からみて、6世紀前半の欽明の名を「ワカタケル」と呼んだ可能性が絶対になかったのか、このことを古代史の学界や研究者はさらに吟味するべきではないでしょうか。

 筆者は、雄略ではなく欽明こそが「治天下の概念」に相応しいのではないかと考えています。
 この先、「6世紀までの古代史」の中で、継体から欽明の時代にかけて、王権の専制と広域支配が名実ともに進んだことに言及していきます。
 逆に雄略の時代は、一見すると専制化が進んだかに見えるが、むしろ5世紀末にかけて王権が大混乱に陥ってしまうことも、次回以降のブログで言及します。

 

参考文献
『古代史の定説を疑う』水谷千秋監修
『倭国 古代国家への道』古市晃
『倭国の古代学』坂靖
他多数