<薬香草園>
第118回ブログでは、「倭の五王」を『記・紀』の大王に比定することがいかに困難か確認しました。その「五王」による王権は、実は唯一の「王の中の王」ではなく、「複数の王」によって構成されていたのかもしれません。
今回は第90回・101回ブログで言及した「複数の王が並立したヤマト王権」のその後の考察です。
まず、大王墓に相応しい巨大古墳の築造時期を整理してみます。
〇 おおやまと古墳群は、箸墓古墳を除けば、4世紀前半から4世紀半ば過ぎ(第90回ブログ)。
〇 佐紀古墳群西群は4世紀半ばから4世紀後半(第95回ブログ)。
〇 佐紀古墳群東群は5世紀中心(第95回ブログ)。
特に、4世紀半ば過ぎには、おおやまと古墳群の渋谷向山古墳(墳長302メートル)と、佐紀古墳群西群の佐紀陵山古墳(207メートル)がほぼ同時に築造されおり、しかも双方に拠点集落が見られることから、王権に二つの勢力が併存したことは間違いないと筆者は考えました。
そして巨大古墳の併存は、佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の間でも見られると記したので、今回はその確認をしたいと思います。
4世紀初めから半ばにかけて、河内・和泉平野の石川下流部には玉手山古墳群が築かれます。王権の中心勢力が「おおやまと」から「さき」へと重心を移した時期に、その玉手山古墳群では古墳の築造が終了します。その後、石川を挟む対岸に津堂城山古墳(つどうしろやま)が造られます。
津堂城山古墳の築造は4世紀半ば過ぎで、これ以降、前回ブログで確認したように、古市古墳群と百舌鳥古墳群に巨大古墳が陸続と築造されていきます。
一方、同じ時期に大和盆地はどんな状況だったのでしょうか。
そこで今回は、大和盆地と河内平野の巨大古墳の推移が比較できるように時系列で図示してみました。そこから「ヤマト王権のかたち」が見えてくるのではないか……。
円筒埴輪編年によって、4世紀半ば以降の巨大古墳の築造順序はかなり明確になってきており、専門家の間でも大きな異論はないようです。
ただし、築造時期そのものにはかなり幅があるので、下記の各フェーズの築造時期はおおよその目安と考えていただきたい(第92回ブログ)。
同時に、古墳群を墓域とした王の支配拠点(王宮、拠点集落)についても確認していきます。
フェーズ① 370年前後の大和・河内(和泉を含む)
<坂靖氏の著作に筆者加筆、以下同様>
以下、各古墳群の中の該当古墳を「色つきの矢印」で示します。少々、見にくいですが......。
河内・和泉で最初に築造された巨大前方後円墳は古市古墳群にある津堂城山古墳●(墳長208メートル)です。
津堂城山古墳とほぼ同時期に、大和盆地中央では島の山古墳●(200メートル)、佐紀盾列古墳群では西群に宝来山古墳●(227メートル)、馬見古墳群では巣山古墳●(220メートル)が築造されています。
まず注目すべきは宝来山古墳が築造された「さき」地域です。
菅原東遺跡・西大寺東遺跡や第2次佐紀遺跡において、同時期の大型建物や遺跡・遺構が検出されていることから、この時期のヤマト王権最大の拠点集落は「さき」地域にあり、そこが支配拠点だったと考えるべきでしょう。
百済王家から七支刀が贈られ、百済や伽耶諸国との交易が始まった時期に相当します。
ただし、4つの巨大古墳の規模はほぼ同等なので、ヤマト王権内部には「王の中の王」は存在せず、数人の王ないしは王に準ずるような人物(葛城一族も?)が存在したと考えられます。
大和盆地東南部では、弥生時代の唐古鍵遺跡は環濠がなくなり衰退するものの、集落の営みが広がって再度活発化し、4世紀末には衛星集落として下永東城遺跡(しもながひがしんじょ)や伴堂東遺跡(ともんどひがし)などが出現します(第82回ブログ)。
方形区画も出土しており、この一帯に新たな支配拠点があったと想定でき、島の山古墳(葛城の勢力範囲とも?)はその象徴と言えそうです。
また5キロほど南方の飛鳥川沿いにも、4、5世紀に多遺跡が継続し、数々の遺構・遺物が出土しています。
大和盆地中央部には、下永東城遺跡・唐古鍵・多遺跡のあたりに、纒向に代わる4世紀後半から5世紀の拠点集落があったと考えられます。
河内・和泉においては、藤井寺市の津堂遺跡に拠点集落の存在が認められます。4世紀後半にかけての掘っ立て柱建物7棟が出土していますが、遺跡の約1キロ東には津堂城山古墳があり、当遺跡は古墳を造るにあたって、必要な物資を蓄えるために一時的に存在した倉庫群だった可能性があるとみられています。
津堂城山古墳は、竪穴式石室から出土した長持形石棺が当時としては最大級の規模であり、また倭系遺物の代表である巴形銅器(第97回ブログ)の副葬も見られることから、その被葬者は朝鮮半島との交易に強い関心を持っていたと思われます。
外国の使節に大規模古墳を見せるため(第104回ブログ)に、大和と難波の間の交通路沿いに築造したという説もありますが、古文献のどこにもそういうことは書かれていないので、筆者はこのような「うま過ぎる話」には与しません。
馬見古墳群は、葛城氏の本貫地から大きく北方に寄った高田川下流域西岸一帯に展開しており、築造時期は佐紀古墳群とほぼ重なっています。
巣山古墳の規模から考えて、この被葬者も大きな権限を有していたと思われますが、どのような勢力の王ないし関係者であったのかについては定説がありません。近傍に支配拠点と見なせる大規模遺跡が見つかっていないことからこの墓域については3つの見解があります。
〇 馬見古墳群自体を葛城の勢力範囲とみる説
〇 近くの島の山古墳まで含めて葛城の勢力範囲とする説
〇 ヤマト王権の墓域とする説
ヤマト王権の墓域とする説については、銅鏡を配布する主体がヤマト王権(第74回ブログ)であるとして、次のような事実をその根拠とする研究者もいます。
同じ馬見古墳に属する新山古墳(4世紀前半)と佐味田宝塚古墳(4世紀後半)から大量の三角縁神獣鏡が出土するので、馬見古墳群はヤマト王権の墓域であると……。
確かに、馬見古墳群の副葬品には、筒型銅器・巴形銅器や「さき」の勢力によって新たに創出された石製模造品などが含まれ、一氏族の墳墓とみなすには豪華すぎるので、ヤマト王権の王族かその周辺の人物の墓域とすることに一理ありそう。
その一方、葛城の先祖筋の墓域とする見方も捨てきれず、4世紀末頃からヤマト王権の銅鏡配布の一部を肩代わりするなど、5世紀半ばにはヤマト王権と肩を並べるに至る葛城勢力の台頭をあらわしていると考えられないのでしょうか。
それとも、ヤマト王権が「おおやまと」から「さき」地域へ重心を移す時に、「さき」の王と連携した「うまみ」の王の墓域と考えることも可能です。
もう少し、多くの識者の見解を調べ、葛城氏に言及する時にまとめてみたいと思います。
フェーズ② 400年前後の大和・河内(和泉を含む)
河内・和泉で津堂城山古墳に続いて築造されたのは仲津山古墳●(290メートル)です。佐紀盾列古墳群では最大の五社神古墳●(275メートル)が西群に、コナベ古墳●(204メートル)が東群に築造されます。
馬見古墳群では、巣山古墳のすぐ南に、ほぼ同規模の新木山古墳●(200メートル)が築造されますが、相変わらず、どのような勢力を祀る古墳なのか、定説がありません。
巨大古墳というフィルターでみれば、ヤマト王権における勢力の重心が「さき」地域に移って「おおやまと」地域は埋没するが、代わりに馬見古墳群を営んだ勢力(ヤマト王権の一部か、それとも葛城勢力?)が伸張を続けているということになります。
この時期は、古代日本の代表的な大王とされる応神・仁徳の治世に該当しますが、巨大古墳のありようからは、大和盆地や河内・和泉平野という狭い領域ですら複数の王権が並びたち、依然として、王の中の王、すなわち大王は不在であると考えざるを得ません。
フェーズ③ 420年頃の大和・河内(和泉を含む)
この時期も『記・紀』で言えば応神・仁徳の治世に相当しそうです。
仲津山古墳の次は墓山古墳●(225メートル)です。古市古墳群を祀る勢力が成長していると考えられます。
この頃、河内では上町台地に法円坂遺跡が出現し、5世紀後半まで存続します。
『記・紀』には、応神・仁徳が難波に王宮を置いたかのような記述もあり、ヤマト王権が陵墓だけでなく、支配拠点を難波まで拡大させた証とも考えられます。法円坂遺跡では巨大な高床倉庫群が出土し、難波がヤマト王権の流通拠点だったことが想定できます。
同時期、佐紀盾列古墳群の東群では市庭古墳●(250メートル)、馬見古墳群から南方にずれた「かづらき」地域では室宮山古墳●(238メートル)が築造されます。室宮山古墳は、秋津遺跡・中西遺跡や南郷遺跡群(第110回ブログ)を拠点とする葛城氏の大規模古墳です。この時期に葛城氏の勢力が大きく成長したことを物語ります。
この頃、和泉の百舌鳥古墳群では、最初の巨大古墳となる上石津ミサンザイ古墳●(360メートル)が築造されます。大きさは日本第3位という威容。「ミサンザイ」は御陵(みささぎ)を意味する関西地方の方言です。
第104回ブログでは上石津ミサンザイ古墳の築造を440年頃と記しましたが、同古墳群に存在する大仙古墳の築造時期(450年)に近すぎるのと、窖窯(あながま)で焼成された硬質の埴輪が存在しないという考古学の知見とから、誉田御廟山古墳(440年)よりも古い420~430年の築造に訂正します。
400年、404年の2度にわたって高句麗と戦い、敗戦した時のヤマト王権の王は、この中のどこかに眠っている可能性があります。仁徳が該当するのかもしれませんが、『記・紀』にはそのような記載は一切ありません。
フェーズ④ 440年頃の大和・河内(和泉を含む)
古市古墳群では4代目の巨大古墳として、誉田御廟山古墳●(425メートル)が築造されます。同古墳の規模は、上石津ミサンザイ古墳を凌ぎ、堂々たる日本第2位。
この巨大な墳丘は当然、古代から注目されていたはずですが、平安時代頃から大和や河内に、応神を祭神とする八幡信仰(第98回・99回ブログ)が広まり、この古墳を応神陵と考えるようになったことは前回のブログでも記しました。
誉田御廟山古墳のすぐ南には誉田八幡宮(ほむた)が鎮座し、古墳の墳頂部には奥の院が建てられています。おそらく平安時代以降に建造されたものでしょう。
江戸時代には、八幡信仰の参拝者が誉田御廟山古墳の石段を登って参拝していたと言われています。
このような経緯を経て、明治政府は誉田御廟山古墳を応神天皇陵として比定したのです。
誉田御廟山古墳の陪塚である誉田丸山古墳から、竜文と唐草文を組み合わせ透かし彫りにした金銅製馬具が出土しており、5世紀半ばには日本に金銅製品が輸入されていたことがうかがわれます。
前回のブログで言及したように、古市古墳群では、誉田御廟山古墳のあと480年頃まで目立った古墳が築かれていません。これは古市古墳群を築造した王の系統に切れ目があることを暗示するので、5世紀の王権の姿を紐解く大きなヒントになりそうです。
なお、考古学界では、従来4世紀前半とされていた箸墓古墳の築造時期を3世紀半ばに繰り上げた(第84回・113回ブログ)玉突きのせいか、誉田御廟山古墳などの築造を5世紀初頭に置くなど、巨大古墳の築造時期を相当遡らせる動きもあります。
筆者はこうした安易な繰り上げには疑問を持っています。
脱線しますが、なぜ疑問なのか、当ブログの骨格となる視点に関係するので、ここで再度言及しておきます。
はるか古代に生じたさまざまな事柄を、すべてその後の大和政権の誕生や発展につなげてしまうバイアスを「大和政権中心史観」と言い、古代史の論者であれば最も避けるべきことです(第18回ブログ)。
しかし、ヤマト王権が早い時期から広域支配権を確立したと論陣を張る考古学者は、個々の考古遺跡・遺物に関する都合の良いわずかな偶然をもその傍証として採用し、「少しでも王権の発展の歴史を早める」方向にもっていく動きが顕著です(第83回ブログ)。
どのみち、人・モノ・情報の(流れに関する)ネットワークが整備されていなかった時代に(第17回ブログ)、また「文字の体系」が出来あがっていなかった時代に、広域の統治・管理は不可能だったと言うしかないのですが(第25回ブログ)。
5世紀の土器は、それまでの野焼きから、轆轤で成形し窖窯(あながま)の中で、高温で焼成する須恵器に置き換わっていく時期です(第116回ブログ)。
第108回ブログでは、須恵器窯の導入時期を5世紀前半と記しましたが、考古学界では4世紀末から5世紀初頭まで遡らせる説も出されています。
それに乗じて、誉田御廟山古墳の円筒埴輪は、半数が窖窯で焼成され、半数が野焼きだったことから、古墳築造の途中で須恵器生産が始まったと都合よく解釈し、5世紀初頭の築造にしようというわけです。
しかし、仮に須恵器用の窖窯の導入時期が5世紀初頭だったとしても、その窖窯で円筒埴輪の大量生産(第108回ブログ)を確立するまでのリードタイムも考えるべきでしょう。
須恵器生産の開始時期については様々に論じられているのに、何と安易な!
築造時期に関する合理的な解は、次のようなものではないでしょうか。
窖窯で焼成された埴輪がない上石津ミサンザイ古墳がまずつくられ、仕上げの板状工具の幅が短く丁寧な円筒埴輪を並べた誉田御廟山古墳が続き、次に円筒埴輪の仕上げを幅広の板状工具で行なう大仙古墳という築造順になるが、年代的、技術的な差異はほとんどなく、円筒埴輪編年上の時期区分では同時期となる430年~450年頃の幅におさまるというものです。
フェーズ⑤ 450年前後の大和・河内(和泉を含む)
5世紀半ばには、百舌鳥古墳群に日本最大規模の大仙古墳●(486メートル)が出現します。
佐紀盾列古墳群の東群でもウワナベ古墳●(255メートル)など、巨大古墳の築造が続いています。
大仙古墳の築造で古墳の大規模化は頂点に達します。また大仙古墳の墳丘や外提上に並べられた円筒埴輪・朝顔型埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪の総数は2万4000本強と試算されており、大量生産用にシステム化された生産技術がこの段階で頂点に達したと思われます。
規模や技術だけでみるなら、この時期にヤマト王権はもっとも強大な実力を保有し、覇権を轟かせ、安定的な大王の系譜があったとされそうですが、史実はそうではありません。
依然として、巨大古墳の立地が大和・河内・和泉に分散していることからみて、それとはほど遠い状況であったと考えられます。
この時期、「かづらき」や「吉備」の王が、ヤマト王権の「くびき」から離れて地域を支配し、独自に外交を行なっていますし、『記・紀』によれば王族のあいだでも抗争がくり広げられていることなども、その裏づけです。
ともかく日本全体で上位3位までの巨大古墳が、百舌鳥古墳群と古市古墳群に存在するわけですが、その築造時期は、考古学の知見から、上石津ミサンザイ古墳(百舌鳥)、誉田御廟山古墳(古市)、大仙古墳(百舌鳥)の順となります。
また古市古墳群と百舌鳥古墳群の間で、墓山古墳(古市)、上石津ミサンザイ古墳(百舌鳥)、誉田御廟山古墳(古市)、大仙古墳(百舌鳥)と、10~20年おきに巨大古墳が交互に築造されていることに注目したいですね。不思議なことです。
この事実は両古墳群を墓域とする王族が対立して張り合っている状況を暗示させます。巨大古墳の築造を競っていたのでしょうか。出来れば次回のブログでこの謎解きに迫ってみたいと思います。
一方、大和盆地南部では、藤原宮の下層でこの頃の遺跡が見つかっており、ここにもヤマト王権の王族の拠点が存在したと考えられます。
ウワナベ古墳は巨大です。同時期の古市古墳群と百舌鳥古墳群の陰に隠れてしまいますが、大きさでは全国13位!
「さき」の王権が5世紀半ばを過ぎても勢力を維持していたということでしょう。
フェーズ⑥ 480年頃の大和・河内(和泉を含む)
佐紀盾列古墳群の東群(平城京北東部の古墳群)で、ヒシアゲ古墳●(219メートル)の築造があり、「さき」地域の勢力が西群(近鉄西大寺駅周辺の古墳群)から東群へと移動した後も、依然として大きな勢力を維持しているようです。
古市古墳群では誉田御廟山古墳のあと40年ぶりに市野山古墳●(230メートル)が築かれます。
百舌鳥古墳群では土師ニサンザイ古墳●(300メートル)が築造されます。「ニサンザイ」はミサンザイと同様に御陵(みささぎ)が転訛したもの。
この時期における王の有力な拠点は桜井市の脇本遺跡で、5世紀後半の大規模な掘立柱建物が見つかっています。本格的調査はこれからのようですが、雄略をはじめとする歴代大王が王宮を構えた長谷(はつせ、泊瀬)の王宮にあたるらしい。ここが5世紀後半の政治拠点だったのでしょう。
注目すべきは、土師ニサンザイ古墳のあと、百舌鳥古墳群では大規模古墳の築造はありません。
これに対して、前述したように古市古墳群では市野山古墳のあとも軽里大塚古墳、岡ミサンザイ古墳という200メートル超の大規模古墳が築造されています(フェーズ⑦)。
5世紀前半から末に向けて繰り返されたこの現象が何を意味するのか……。
河内大塚山古墳は?
古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中間は多比(たじひ)と呼ばれる地域です。そこには、巨大古墳なのに謎を秘めた河内大塚山古墳があります。筆者は雄略を祀る古墳と思いたいのですが、築造時期が合わないようです。
河内大塚山古墳は墳長が333mの全国第5位の前方後円墳ですが、築造は6世紀中頃と考えられており、残念ながら被葬者はまったく不明です。
ちょうどその頃に該当するのは欽明ですが、宮内庁はその欽明天皇陵を明日香村の梅山古墳としています。しかし発掘調査の結果、考古学的には欽明陵は大和盆地の見瀬丸山古墳であることが確実視されています。
見瀬丸山古墳は墳長が318mもあり、全国第6位の前方後円墳です。後円部の南側に横穴式石室の入り口があります。横穴式石室に使われた巨大な石材や石室内で発見された須恵器の破片などの研究によって、6世紀後半の築造とされ、欽明陵であることは間違いないようです。
では、時期が合わない雄略でもなく、欽明も該当しないとすれば、河内大塚山古墳はいったい誰のために造られたのだろうか。
森浩一氏は、推古が、夫だった敏達のために築造したと推理しています。
敏達の死に際して自らの陵が間に合わないため、いったんは母の石姫の磯長の陵に追葬した後、父の欽明陵(見瀬丸山古墳)に匹敵する規模の河内大塚山古墳を築造したと言うのです。なるほど!
5世紀の巨大古墳を『記・紀』の天皇陵に比定したいけど……
古市古墳群と百舌鳥古墳群のあり方からみて、5世紀の王権には10人ほどの大王がいたと推測できますが、実際の巨大古墳の築造時期は16代の仁徳から25代の武烈に至る大王が活躍した年代とまったく合いません。
5世紀の巨大古墳を『記・紀』の大王陵に比定する試みは研究者によって様々なアプローチがあります。
〇 大王の在位時期を「倭の五王」の遣使時期(第118回ブログ)から推定していずれかの巨大古墳に紐づける。
〇 考古学の成果からほぼ明確になった巨大古墳の築造順序を基に『記・紀』の大王と関連づける。
〇 大王墓は巨大古墳という大前提を外さない。
〇 『古事記』に記載された大王の没年から大王墓を推定する。
〇 大王の王宮所在地の近傍に陵墓が存在すると仮定して大王墓を推定する。
筆者もいろいろと試してみました。しかし、すべてを矛盾なく説明できる解は得られそうにありません。
5世紀の王権には3~4つほどの核があった!
前述のフェーズ①②では突出した古墳が存在しないので、同時期の神功、応神、仁徳などを「大王」に比定する試みは空しいと言わざるを得ません。
フェーズ③④⑤では、300メートル超の断トツの大きさの古墳が出現するので、それらを王の中の王、つまり文句なしの大王墓と考えたいのですが、古市古墳群と百舌鳥古墳群とで相争うように並立しています。なぜだろうか……。
これについては現在、詳細を検証中なので、間に合えば次回のブログで言及することにします。古市古墳群と百舌鳥古墳群における巨大古墳の出現時期と空白期間に着目して論及したいと思います。
しかし、正直言うと今の筆者は、『記・紀』に記された大王の血縁系譜と即位順序に対する疑念に加え、個々の大王が実在していたという確証すら得られないという大きな壁にぶち当たっています。
「5世紀におけるヤマト王権のかたち」をあぶりだすには、巨大古墳の被葬者の特定と、大王の政治拠点つまり王宮の位置を特定することが必須だと思い、多くの先達の論考を読み直し、日々熟考しているのですが、合理的な解がなかなか見つかりそうにありません。
何しろ幾多の研究者が挑戦しても、今なお決定打が見られず、百家争鳴と化しているテーマですからね。
今、確実に言えることは、5世紀の王権は一本化されておらず、3~4つほどの系列が存在し、王権が並立していたのではないかと言うことです。
いずれにしても、詳細は次回のブログに譲ります。
歴代遷宮について
筆者は、王権のかたちをつかむには、巨大古墳(墓所)だけでなく、「宮」の存在も重要(第92回・101回ブログなど)と考え、並行して拠点集落や王が政務を執った居館等を確認しようと努力してきました。
しかし、6世紀以前の文献史料は乏しく、王宮や集落の発見・発掘調査も進んでおらず、個々の大王・王の「宮」、ないしは拠点集落を特定することはなかなか困難な作業であるとしみじみ感じました。
そうした中で、古市晃氏の著作に接しました。氏は次のように述べています。
<歴代遷宮論は成り立たない。歴代遷宮論が依拠するのは記紀の宮名だが、これが今みるような形にまとめられたのは7世紀後半、天武朝のことと考えられるからである>。
<記紀の宮名が、実際にはそのままの形では存在しなかったことを示す事例として、7世紀の飛鳥の諸宮がある。7世紀の飛鳥には、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮が置かれたとされ、それぞれ比定地が求められてきたが、発掘調査の結果、これらの宮はいずれも同じ場所に営まれたことが明らかにされている>。
<5、6世紀の宮であっても、一度置かれた王宮は、そう簡単に廃絶することはなかった。7世紀後半から8世紀初頭にかけて、かつての王宮が再び利用されたことを示す記述が、『日本書紀』にみえる>。
第83回ブログで、武澤秀一説を引用する形で「歴代遷宮」に言及しましたが、「7世紀前半の頃まで盛んに行なわれた歴代遷宮は我が国特有のもので、強権的な政権を望まない心性が感じられる」とする部分は、多少の見直しが必要かもしれません。
全国最大規模の古墳が集中する大和盆地と河内
当ブログで「巨大古墳」と定義する「墳丘長200メートル超の古墳」を、ネット情報から列挙してみます。出典によって墳丘長に違いがあるので、あくまで目安ということで……。
1.大仙陵古墳(百舌鳥古墳群、4世紀)486メートル
2.誉田御廟山古墳(古市古墳群、4世紀)420
3.上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳とも、百舌鳥古墳群、4世紀)365
4.造山古墳(吉備、4世紀) 360
5.河内大塚山古墳(多比、6世紀) 335メートル
6.見瀬丸山古墳(橿原、6世紀) 318
7.渋谷向山古墳(おおやまと古墳群、4世紀)302
8.土師ニサンザイ古墳(百舌鳥古墳群、5世紀)288
9.作山古墳(吉備、5世紀)286
仲ツ山古墳(古市古墳群、5世紀)286
11.五社神古墳(佐紀盾列古墳群、5世紀)276
箸墓古墳(おおやまと古墳群、3~4世紀)276
13.ウワナベ古墳(佐紀盾列古墳群、5世紀)265
14.市庭古墳(佐紀盾列古墳群、5世紀)250
15.行燈山古墳(おおやまと古墳群、4世紀)242
岡ミサンザイ古墳(古市古墳群、6世紀)242
17. 室宮山古墳(奈良県御所市、5世紀)238
18.西殿塚古墳(おおやまと古墳群、4世紀)234
19. 市野山古墳(古市古墳群、5世紀)230
20.宝来山古墳(佐紀盾列古墳群、4世紀末)227
太田茶臼山古墳(三島野古墳群)227
22.墓山古墳(古市古墳群、5世紀)225
23. メスリ山古墳(おおやまと古墳群、4世紀)224
24. 巣山古墳(馬見古墳群、4世紀)220
築山古墳(馬見古墳群、4世紀)220
26.ヒシアゲ古墳(佐紀盾列古墳群、5世紀)219
27.佐紀石塚山古墳(佐紀盾列古墳群、4世紀)218
28.太田天神山古墳(群馬県太田市、5世紀)210
29. 津堂城山古墳(古市古墳群、5世紀)208
30. 佐紀陵山古墳(佐紀盾列古墳群、4世紀)207
桜井茶臼山古墳(おおやまと古墳群、4世紀)207
32. 両宮山古墳206(吉備、5世紀)206
33. 西陵古墳(紀伊、5世紀)205
34.コナベ古墳(佐紀盾列古墳群、5世紀)204
35. 百舌鳥御廟山古墳(百舌鳥古墳群、5世紀)203メートル
36.新木山古墳(馬見古墳群、5世紀)200
摩湯山古墳(和泉、4世紀)200
島の山古墳(大和盆地中央、4世紀)200メートル
軽里大塚古墳(古市古墳群、5世紀)200メートル
吉備地域の5世紀の古墳については、第111回ブログで少々言及しましたが、別途詳述します。
参考文献
『倭国 古代国家への道』古市晃
『倭国の古代学』坂靖
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
『わが国における須恵器生産の開始について』酒井清治
『古墳解読』武光誠
『古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎』古川順弘
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『謎の豪族 葛城氏』平林章仁
『古代天皇陵の謎を追う』大塚初重
『天皇陵古墳への招待』森浩一
『天皇陵の謎』矢澤高太郎
他多数