理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

151 鹿島神宮・香取神宮


     <香取神宮の拝殿と御神木>

 今回は、出雲の国譲りの際、高天原から派遣された武神タケミカヅチとフツヌシの来歴と、二神を主祭神として祀る鹿島・香取の両神宮の謎について言及します。
 まずは、古文献に記された祭神について確認してみます。

『記・紀』『常陸国風土記』における描写
 『古事記』では、
 イザナキが、イザナミから生まれた火の神カグツチを十拳剣で殺した時、その剣から滴る血が固まって「タケミカヅチ亦の名フツヌシ」が生まれたとしています。つまり、タケミカヅチとフツヌシは同一神として描かれています。

 また、葦原中国平定時に最後の切り札として、アメノトリフネをそえてタケミカヅチが遣わされ、オオクニヌシから支配権譲渡の承諾を取りつける功績をあげています。剣の神であるフツヌシは登場せず、アメノトリフネは単なる乗り物であって、ヒーローはもっぱらタケミカヅチということになります。

 『古事記』が、「建御雷之男神」という漢字をあてているとおり、タケミカヅチは、本来は雷の神だった。剣の神と解釈する余地はありません。

 さらに、神武が熊野で難渋している時、タケミカヅチが再降臨を命令されて、「僕は降らずとも、專らその國を平(ことむ)けし横刀あれば、この刀を降すべし。この刀の名は、佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す」という場面がある。

 こうしてみると、『古事記』は自ら、タケミカヅチとフツヌシ(フツノミタマ)とが別神であることを認めていることになり、一貫性はありません。

 一方、『日本書紀』本文では、

 諸神が、葦原中国を平定する武神としてフツヌシを選んだが、タケミカヅチが激しく抗議したため、タカミムスヒが、タケミカヅチをフツヌシにそえて遣わした。つまり主役はフツヌシで、タケミカヅチは副官という扱いになっています。

 主役はあくまでも武力である剣であって、剣が雷鳴を轟かせながら出雲に降るイメージが感じ取れます。ここに国譲りというイメージはなく、どう見ても侵略でしょう。

 ところで、熊野における神武の難渋を救う場面では、タケミカヅチが主役になっています。

  以上から、剣神であるフツヌシと、雷神であるタケミカヅチは別の神ということになりそうです。

 『常陸国風土記』では、後述するように鹿島神宮の祭神として「香島の天の大神」という名が登場します。こうしてみると、祭神については様々な捉え方が存在したと思われます。

 

鹿島神宮の祭神と境内・社殿
 鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづち)です。「出雲の国譲り」の場面で出雲側を屈服させ、また神武東征では分身の剣・韴霊(ふつのみたま)を授けて貢献した武神とされるわけですが、その来歴はつぎのような経緯を辿ったものと思われます。

 5、6世紀頃から韴霊を奉じて大和の石上を本拠とした物部氏が各地に遠征しました。
 そして6世紀頃に東国を治めるために物部連が鹿島・鹿取の地に派遣されて来ます。

 6世紀末に物部氏が没落したのち、中央で台頭した中臣氏が当地(鹿島・香取)の祭祀権を奪取します。おそらく7世紀半ば頃からでしょう。
 「大鏡」では、後年活躍する中臣鎌足の出生地は常陸国とされていますが、これは怪しいと思います。

 一方、8世紀前半に編纂された『常陸国風土記』では、当社の祭神はタケミカヅチではなく「香島の天の大神」となっています。
 649年、中臣氏らが要請して、古くからの地主神3柱を合わせて、祭神を「香島の天の大神」とした。当時の国司であった藤原宇合が編者として関与したという説もあります。「香島」については、後に、鹿島の神が鹿に乗って大和の春日山へ移ったという神話と結びついて「香」の字を「鹿」に置き換えたものと思われます。

 不思議にも、タケミカヅチの登場する『記・紀』と、登場しない『風土記』の編纂時期はほぼ重なっているんです。

 『風土記』の中では「香島の天の大神」は、次のように描かれています。
 「天孫降臨の先陣として降臨した香島の大神を丁寧に祀れば、国の統治をさせるとの託宣を受けて崇神天皇が幣帛を納めた」。
 これはオオモノヌシが三輪山に祀られた説話と酷似しますが、二つの説話はともに天皇による国土支配が土地の神を祀ることで成された様子を示しているのであって、崇神の時代というのは史実ではない(坂本勝氏)という解釈もあります。

 『日本書紀』で注目すべきは、国譲りの局面で最後まで抵抗したのは、常陸国の先住者と思われる香香背男(かかせを)という星の神だったと記していること。物部氏が当地へ流入した頃の史実が反映しているのかもしれません。

 「香島の天の大神」がタケミカヅチとして認識されるのはさらに遅れます。「出雲の国譲り」で勇猛果敢に戦った神を、地元勢力や蝦夷に対峙する軍神として中央から持ち込んだということでしょうか。

 768年、藤原氏は「香島の大神」をタケミカヅチとして「春日大社」に勧請しています。

 次に、鹿島神宮境内と社殿について確認します。
 「鹿島神宮」は、五畿七道の一つである東海道東端の「一宮」で、霞ヶ浦の東に位置する北浦と鹿島灘(太平洋)に挟まれたに鹿嶋台地の上に鎮座しています。
 大鳥居の形は柱と笠木が円柱で、貫は角柱で両端が柱の外に突き出る「鹿島鳥居」と呼ばれますが、現在の鳥居は東日本大震災で倒壊した後に再建されたもの。
 大鳥居の奥には朱塗りの楼門があり、「阿蘇神社」、「筥崎宮」と共に「日本三大楼門」の一つとされ、国の重文になっています。

 楼門をくぐると、東へ向かう参道のすぐ右側に、重文で権現造の社殿が北向きで建っています。この意外なレイアウトに、立ち寄らずに通り過ぎ、奥参道から慌てて戻る参拝者もいるようです。普通、神社は南面するが、鹿島神宮は北方の蝦夷地に睨みをきかせたレイアウトではないかといわれています。
 しかし、本殿は北向きだが、中にある神座は東の海の方を向いていると言われます。何故だろうか、謎、謎……。


    <鹿島神宮拝殿・本殿>


   <鹿島神宮本殿>

 参道左側にある鹿園の神鹿は「春日大社」から連れてきたと説明されています。しかし奈良公園の鹿は元々、鹿島神を背中に乗せて行った鹿島の鹿だという伝承があるから面白い。
 奥参道を進むと、道はTの字で突き当り、その角にやはり北向きの奥宮があります。この奥宮は、現在の本殿造営の際に元々の本殿を移したもの。


   <雪化粧をした奥宮>

 T字を右折して奥へ進むと「要石」がある。石はほんの少ししか頭を出していないが、地の底まで達していて、地震を起こす鯰の頭を押さえていると伝わっています。江戸時代の頃からの面白い伝承です。
 T字を左折し、やや下ると、豊かな清水を湧出する御手洗池があります。手水を使う場所は、普通参道の途中にあるはずなので、今の町並みが表参道になる前は、こちら側が神社の入口だったのかもしれない……。


   <御手洗池>

 現在は閉鎖しているようですが、宝物館には国宝の直刀が飾られています。
 神話の上では、タケミカヅチの霊力の象徴とされ、神武の熊野進攻において功のあった「韴霊剣」で、長さが2.71メートルもある日本最大の直刀です。
 神武即位後、韴霊剣はその功を称えられて物部氏の遠祖である宇摩志麻治命(うましまぢ)により宮中で祀られてきました。第10代崇神の勅命によって、物部氏の祖とされる伊香色雄命がこれを大和の石上の地に遷し埋納して祀った。これが現在の石上神宮の端緒と伝わっています。
 一方、鹿島神宮の韴霊剣の製作年代はおよそ1300年前と推定され、伝世品としては我が国の最古最大の剣として昭和30年に国宝に指定されました。
 つまり、神話の上ではこの韴霊剣がタケミカヅチの手に戻ることなく、神武の手を経て石上神宮に祀られたことから、鹿島神宮の直刀は「二代目の韴霊剣」と解釈されているようです。

 境内は、千古の老樹が林立し鬱蒼としていて昼なお暗い。この杜は「鹿島神宮樹叢」として県の天然記念物となっています。おそらくこの森そのものが聖地で、その中に不思議な要石があったり、湧泉の池があったり、そういう原始信仰的なものを崇拝対象とした祭場が古くから存在し、そこに7世紀後半になって、はじめて社殿が創建されたのではないでしょうか。


 <千古の老樹が林立する鹿島神宮樹叢>

 

香取神宮の祭神と境内・社殿
 祭神は経津主神(ふつぬし)で、フツは刀で切る時の音とも言われ、剣を神格化した神とされています。
 『古事記』ではイザナミから生まれた火の神カグツチがイザナキに十拳剣で殺された時、剣から滴る血が固まって生まれた神とされる。
 はじめに言及したように、『日本書紀』では、国譲りの最後局面でフツヌシがタケミカヅチを従えて出雲に天降り国譲りを承諾させたとしています。
 フツヌシは石上神宮の祭神フツノミタマの別名ではないかという説があります。

 今の祭神はフツヌシですが、平安時代の頃には「香取に坐す伊波比主(いわいぬし)」と表記されていて、イワイヌシ(斎主)が祭神になっています。香取の神は斎主という形で、鹿島の神を祀る役回りとして、鹿島・香取が一体の関係にあることを物語っているようです。

 しかし、さらに昔の香取の祭神は、きちんとした独立の地主神(側高神?)であったようです。
 「香取神宮」の今の第一の摂社である「側高神社」に注目したのは大林太良氏

です。
 香取台地の「阻立つ高い所」から古代の香取の海の干満を統御する海神だったと解釈し、香取の原初の神は側高神だったのかも知れないと言うのです。上古から鬼怒川・霞ヶ浦沿岸で「海夫」と呼ばれた水軍の信仰があったようで、付近一帯には古墳が点在しており、大きな社会集団が存在していたことは間違いないでしょう。
 とすると、香取神宮の祭神は、海の神から剣の神「ふつ」へと変化したと考えられるのです。

 平安時代になると、国譲り神話があまねく知れ渡り、鹿島・香取ワンセットが常識になっていたので、鹿島の神をタケミカヅチとしたのに合わせて、香取の神をフツヌシとしたと思われます。
 中臣氏はフツヌシを氏神として取り込み、中央で藤原氏となったのちの768年、タケミカヅチとともに「春日大社」に勧請しています。
 香取神宮の境内には、鹿島神宮と同様の要石もありますし、ほかにも香取と鹿島には共通項が多くあり、ワンセットの神という性格が強く感じられます。

 次に、香取神宮境内と社殿について確認します。
 「香取神宮」は下総国一宮で、「鹿島神宮」から10キロほど離れた香取台地に鎮座しています。
 佐原市内から続く道を進むと大きな一ノ鳥居が現れますが、その先は門前町で両側に商店が並びます。朱塗りの大鳥居をくぐると桜並木の参道が緩やかに左カーブして上り坂になります。


  <香取神宮の大鳥居>

 軽い登り坂を上ると三ノ鳥居。三ノ鳥居の奥には石段があり、段上に朱塗りの立派な総門が目に入ります。

 <左は三ノ鳥居と総門、 右は楼門>

 総門をくぐり右折すると絢爛豪華な楼門が建っています。楼門をくぐれば檜皮葺黒漆塗権現造の拝殿、本殿がどっしりと構えているのが目に入り、本殿後方の社叢が綺麗なスカイラインをつくっているのが印象的。


 <香取神宮の拝殿>

鹿島・香取の神が鎮座する地は良好な軍事基地・流通基地
 下総国の国府・総社・国分寺の三点セットは今の市川市にあり、そこから東北に60キロも離れた地に「香取神宮」が鎮座しています。常陸国一宮の三点セットは霞ヶ浦の北部、今の石岡市にあり、そこから東南40キロの地が鹿嶋ということになります。
 つまり、二つの「一宮」は、それぞれの国の中心から離れた辺境の遠隔地に、国境を挟んでほとんど密着するように、わずかに十キロ弱の間隔で立地しているわけです。とても不思議な光景ですね。何故だろうか?

 古代の国境付近には海が深く湾入し、そこに古鬼怒川が流れ込み、ほとんど海のような場所でした。そこは暴風雨などの天候に左右されにくい良港が確保でき、沢山の軍船や商船が停泊できた。
 上古には物部氏の東国進出の拠点として、また奈良時代以降は蝦夷と対峙する軍事基地や流通基地として絶好の適地でした。
 軍事基地には軍神の存在が不可欠。香取、鹿島の両神は海のような大河を挟んで鎮座する国境の軍神だったということです。
 ちなみに、江戸時代初め頃には、霞ヶ浦四十八津・北浦四十四津という漁民組織が存在していた。家船と呼ばれる水上生活者たちである。これが平安末期まで遡れて、海夫という人たちがいたことが分かっていて、霞ケ浦の海としての役割、東日本の水上交通上の役割が大きかった。おそらくそれ以前から海夫が分布し、外海に向かって北あるいは南に開かれているので、その入口に鹿島・香取の神が祀られていたことは十分に納得できます。


<霞ヶ浦・北浦・利根川の海民分布図(網野義彦・森浩一氏の著作から>

 平安後期の歌謡集『梁塵秘抄』には、「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、また比良の明神安房の洲、瀧の口や小野、熱田に八劔、伊勢には多度の宮」という歌が載っています。鹿島、香取は共に、東国の軍神として認識されていたのです。
 大河を挟んで鎮座する両社が近しい関係にあったことは間違いありません。それを裏づけるような行事に「御船祭」があります。「鹿島神宮」津宮から神輿を御座船に載せて水郷を進み「香取神宮」の御迎祭を受けるというもの。両社の結びつきを強く感じる祭礼であり、やはり鹿嶋香取は、タケミカヅチが「軍神」として鹿島に、フツヌシが「武器」として香取に祀られた一対の神であったことを裏づけているようです。

 

特別待遇を受けていた鹿島・香取
 鹿島・鹿取は都から見て特別な神社であった。特別待遇の内容は以下の通り。

 『延喜式神名帳』で神宮と称されたのは、伊勢の大神宮と鹿島、香取の3社だけ。  石上は、『記・紀』では石上神宮と表記されるが、『延喜式』では布都御魂神社と、「神社」表記になって、社格が下がっている。

〇 『延喜式』には「摂津国の住吉大社、下総国の香取神宮、常陸国の鹿島神宮等の本 殿は20年に1度の式年遷宮をすべし」と書かれている。

 朝廷から毎年2月に鹿島香取使という勅使が派遣された。これは地方の神社としては異例の待遇。地方ではほかに宇佐神宮があるが、毎年ではなく足かけ7年ごと。

 特別な領地である「神郡」を持つことが許されたのは、香取神宮、鹿島神宮、安房神社、伊勢神宮渡相郡、伊勢神宮多気郡、宗像大社、熊野大社、日前国懸神宮の8社だけ。これらの神郡はいずれも律令国家における交通上・軍事上重要なところであった。

 『続日本後紀』くらいからあと、神社が神階を授けられる記事が頻出するが鹿島・香取は同時に位を受けている。

 上記の状況や御船祭の行事からも、鹿島・香取二社はワンセットの神社だったと考えられます(伊勢神宮の内宮・外宮、賀茂社の上賀茂・下鴨、宗像三社などと同様)。

 

蝦夷地に向き合う特別な存在だった鹿島と香取
 上記のような特別待遇は、「鹿島神宮」と「香取神宮」が共に、発展途上の大和政権から、蝦夷と対峙する最前線に鎮座する最重要な武神とされていた証左とされます。
 前述した「鹿島神宮」の北向き本殿は、形の上からも蝦夷と対峙する姿勢を表しています。
 現在の「香取神宮」は南面しているが、当社の奥宮が北向きでした。昔の香取社は本殿(奥宮)に至る参道が利根川の津宮の浜鳥居から南下していたらしい。つまり、鹿島・香取ともに蝦夷に向けて揃い踏みしていたことになるようです。

 坂上田村麻呂による蝦夷征討の際、彼は鹿島の神の分霊を奉じて遠征したと伝わっています。そして、その分霊は征討軍の陣中の守護神として、征服地の鎮守神として祀られたようです。


<陸奥国の鹿島御子神(岡田精司氏の著作から転載)>

 上図は、その時の38社の御子神を地図上に落とし込んだもので、陸奥国といっても海岸沿いだけで、征討軍の通った道筋が見事に現れています。

鹿島神・香取神の信仰の広がり
 武道の神、剣術家の守護神
 タケミカヅチとフツヌシは、カグツチの首を切り落とした時に流れ出た血から生まれた剣の神。鹿島・香取は、戦国から近世にかけて、剣術家たちに崇敬されて武道の道場の役割を果たした。鹿島にゆかりの深い剣術家に塚原卜伝がいる。ほかにも鹿島の名を冠した数々の流派や香取神道流は当地を源流とする剣法である。

 悪霊を防ぐ境界神
 関東や東北に分布する「鹿島(人形)流し」という神送りの行事は、悪疫退散に霊験ありとされている。

 旅の神、旅立ちの神
 「鹿島立ち」は古代の防人の出陣儀式的な習慣。鹿島神に参拝して武運長久と行路の安全を祈願し、赴任先の西国へと旅立つのが習わしだった。

枚岡から始まり、鹿島・香取を取り込み春日へ、さらに平安京へ
 中臣氏はもともとの本拠地は河内で、一宮の枚岡神社が氏神でした。
 枚岡神社は、生駒山地の神津嶽を神の降臨の地として崇める古代信仰から始まっています。7世紀半ば頃、中臣氏一族の枚岡連が、神津嶽の磐境から枚岡神社の地に、中臣氏祖先神の天児屋根命(あめのこやね)と比売御神(ひめみかみ)を遷座したのが創始とされます。


 <神津嶽遥拝所>

 枚岡神社の現在の祭神は、第一殿「天児屋根命」、第二殿「比売御神」、第三殿「経津主命」、第四殿「武甕槌命」ですが、当初はアメノコヤネとヒメミカミの二祭神だけでした。 
 中臣氏は、768年、平城京に春日大社を創建すると、当初の二神に加え、一族の氏神として鹿島と香取からも二神を勧請し合祀します。

 第一殿「武甕槌命」、第二殿「伊波比主命(いわいぬし、経津主命」、第三殿「天児屋根命」、第四殿「比売御神」。

 その後「春日大社」は四神揃い踏みで大いに繁栄したため、枚岡神社も778年に鹿島と香取から増祀し四殿構成となったというわけです。


 <四神揃い踏みの枚岡神社本殿>

 中臣氏の出身地は通説では河内です。物部氏とともにヤマト王権の祭祀に係わる立場にあったが、仏教伝来後の587年に蘇我馬子と対立した物部氏は没落してしまいます。 

 その後、従来の中臣氏から、祭祀に関係しない中臣氏(のちの不比等系藤原氏)が分離し、中央の行政に関与するようになります。こうして行政の藤原氏、祭祀の中臣氏が両輪となって8世紀の大和政権を支えていくわけです。

 この政界の動きに連動して、畿内の「枚岡・春日」と東国の「鹿島・香取」相互の間で合祀・分祀が行われました。

 784年、桓武天皇が長岡京へ遷都した際、藤原氏が春日大社の分霊を勧請して大原野に祀ったのが大原野神社のはじまり。平安京と藤原一族の守護神として「京春日」の別称を持つ。

 次いで859年、藤原氏は春日大社から四神を勧請して吉田神社を創建し、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けた。

 春日大社、大原野神社、吉田神社は、藤原氏の氏神3社と呼ばれています。