理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

148 大神神社と石上神宮


 <注連柱の先に大神神社の拝殿>

 今回は、5世紀以降、ヤマト王権のお膝元で隆盛した大神神社石上神宮に光をあて、その創始と変遷ならびに伝承について言及します。両社は古代のハイウエイ「山の辺の道」で結ばれていました。

 筆者は、全国の一宮103社を参拝したほか全国各地の有名古社にも足を延ばしました。古代史に取り組む身としては、明治維新後に創建された明治神宮、平安神宮、橿原神宮など新しい神社には興味がありません。
 5、6世紀以前頃から祭場が始まり、遅くとも平安時代には社殿など形のある構築物が建設されたような古代史と接点のある神社におのずと関心は向いてしまいます。
 その意味では、一宮である大神神社と有名古社である石上神宮は格好の興味の対象です。

山の辺の道
 第90回ブログで示した通り、大和盆地の東側には、「おおやまと」地域集団(纒向・柳本・大和)、「ふる」地域集団、「わに」地域集団の拠点を結んで南北に「山の辺の道」(朱線)が通じています。


 <武光誠氏の著作を改変して転載>

 『記・紀』が編纂される少し前、本格的な都である藤原京が成立した時(694年)には、すでに大和盆地には南北に上ツ道、中ツ道、下ツ道の3本の直線道路が走り、それに直交する横大路が河内方面へ向かってつくられていました。さらに難波に向けては難波大道が通じていました。
 『日本書紀』の613年と653年に、これらの道路工事と思われる記事があります。
 <難波から京に到るまで大道を置く>
 <処処の大道を修治(つく)る>
 これらの道路は隋を真似てつくられ、17~24メートルという非常に広い幅員を持っていたようで、少なくとも7世紀の半ば以前には存在していたと思われます。

 しかし、上ツ道よりもさらに東側の山すそには、それらの官道よりも古い道がすでに大和盆地の南北を結ぶ重要な交通インフラとして機能していた、これが「山の辺の道」です。
 古代の大和盆地は大半が湖ないしは湿地であったことが確実視されています。「山辺の道」も、古代の湖ないしは湿地の縁を縫うように走っていた。古代大和の集落、居館、神社、古墳、幹線道路などは、そのまわりを囲むように存在していたのです。

 纒向から北へ延びる「山の辺の道」は、4世紀のヤマト国による大和統一に大きな役割を果たしたことは間違いありません。ヤマト国の王物部集団春日集団と連携するために必須のハイウエイだったと言えるでしょう。

 5世紀になるとヤマト王権の中心が河内平野に移り、それ以降、山の辺の道のうち、石上神宮から北の部分は衰えてしまい、現在では正確に辿ることは出来ません。「おおやまと」地域と春日地域を結ぶ道の必要性が薄れたためと思われます。

 JR桜井線の三輪駅の東南に海石榴市跡があります。そこから北に延びる山の辺の道を辿ってみると、まず三輪山をご神体とする大神神社(おおみわ)があり、狭井神社檜原神社と続き、すぐ西には箸墓古墳があります。柳本に入ると景行天皇陵崇神天皇陵があり、さらに進めば大和神社(おおやまと)というように、わずか4キロほどの間に多くの重要な史跡が集中しています。
 さらに北にとると、布留の石上神宮へ、なおも北進すれば東大寺のある春日の地へと続くわけです。古代史愛好家にとっては垂涎の地ですよね。
 まずは大神神社の方から確認していきます。

大神神社(おおみわじんじゃ)
 大神神社は大和国の一宮とされている有名古社ですが、まずは不思議な読み方をする名前の由来から確認してみましょう。「大神」と書いて「おおみわ」と呼ぶのは何故なのか。
 三輪山(標高467メートル)は古くは御諸山(みもろやま)と呼ばれ、5世紀以前は三輪氏大物主大神(おおものぬし)とのかかわりもなく、太陽神を崇めるヤマト国の王が直接管理していました。ちなみに御諸山のモロは、神籬のモロと同語であるという説があります。
 その祭祀が、6世紀、オオモノヌシを「氏の神」として信奉していた大三輪君にゆだねられ、山の名前も三輪山と変わり、そのやしろが「おおみわ」と呼ばれ、これが慣習になったとも言われます。大三輪君については後述します。

 主祭神はオオモノヌシです。オオモノヌシを、配神の大己貴神(おおなむち)と同一と見る向きがあるが、これは正しくありません。何となれば、既にオオモノヌシが祀られていた三輪山に、あとからオオナムチを祀ったという事実があります。これは両者がもともと別々の神であることを自ら証明しているようなものです。

 国道169号線沿いに巨大な大鳥居があり、そこを三輪山方面へ曲がれば「三輪乃神」の扁額がかかるニノ鳥居に至る。参道は鬱蒼とした杜の中をわずかに左カーブし、進むにつれて徐々に前方が望めるようになってくるので、ドラマティックな演出効果を生み出しています。大宮川に架かる御手洗橋を渡ると、左側に祓戸神社、夫婦岩、手水舎などが並び、右手には謡曲『三輪』で有名な「衣掛杉」の残欠が見える。そして正面の石段を登ればいよいよ注連柱の先に壮麗な拝殿が見えてくるのです。

 拝殿には酒造りを示す「しるしの杉玉」が吊り下がる。拝殿の右手前には当社のシンボルである「巳の神杉」の巨木そびえ、卵と酒が供えられていた。私たちが窺い知れるのはここまでとなります。

 当社には本殿がありません
 古代の人々は三輪山に神が宿ると信じ、拝殿後方の三ツ鳥居から奥を禁足地としていた。当社は今でも、三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという原初の神祀りの姿を残しているのです。
 実際、拝殿の建立は1371年だったという説があり、それ以前は三ツ鳥居だけが建っていたのでしょう。

 「大神神社」は西向きに建っています。
 今の神社は多くが南面しているが、これは後世、シナから「天子南面の原則」が持ち込まれた影響によるものです。日本の原初の神社は東西軸レイアウトでした。

 天理市の「大和神社」も東面しています。「春日大社」も、現在の本殿は明治時代に創建されたものだが、昔の神地は西面していたことが分かっています。
 5世紀以前の有力氏族の居館も東西軸であったと考えられます。現に纒向遺跡では東西軸線上に並ぶ居館群が発掘されましたね。東西軸は、その神社が古い時代の形を守っているかどうかのリトマス試験紙とも言えます。
 古い時代の姿を残している大神神社ですが、それでは今の形に至る前はどのような祭祀であったのか、どのような伝説が伝えられているのか確認してみます。

三輪山伝説
 古代史を検討する場合、必ずといっていいくらい、オオモノヌシに関する奇妙な三輪山伝説が立ちはだかり、その謎解きに汗をかくことになります。オオモノヌシとはいったい何ものなのか、百家争鳴と相成ります。ヤマト王権の神なのか、出雲の神なのか……等々と。
 これについては第131回ブログで詳述したので、今回は要点だけ纏めてみます。

 3、4世紀のヤマト国(初期ヤマト王権)の王が崇めた神は、果たしてオオモノヌシだったと言えるのでしょうか。また、『記・紀』に登場するオオモノヌシを祀るオオタタネコは、3世紀後半の実在する人物なのでしょうか

 三輪山には杉が一面に生い繁っていて、大神神社の御神木とされています。
 境内には、蛇を精霊とみなす原始信仰を今に伝える巳の神杉が屹立しています。この御神木の前には蛇の好物とされる生卵が供えられていました。
 他にも、衣掛杉・苧環杉など7つの杉がありますが、苧環杉(おだまきすぎ)については、次のような説話が伝わっています。

 前述したように、『古事記』には「糸巻に糸が3勾(みわ、3巻)残っていたことから、その地を美和(三輪)と名づけた」と記されています。苧環はその糸巻のことで、この神婚にまつわる説話が、苧環伝説として今に伝えられているのです。苧環とはつむいだ麻糸を、中が空洞になるように円く巻いたものをいいます。
 神婚説話によって、三輪の神と大王家との緊密な関係を説き、三輪の神が大王家の崇敬を受けるに至った由来を明らかにしたものと理解すれば良いでしょう。

 6世紀、大三輪氏が祭祀を行なうようになってからは、祟り神としての神格が強くなり、これが『記・紀』の記述に影響を与えます。崇神の御代に疫病が大流行して民が絶滅しそうになったが、オオモノヌシを祀ることで神の祟りがおさまり国内も安らかになった……などと。

 

三輪山伝説は6世紀につくられた!
 『記・紀』に記された古い神話のほとんどは、列島各地で信じられていた神話や民間伝承を基に6世紀以降のヤマト王権(大和政権)によって意図的に作られたものです(第11回ブログ)。
 三輪君(大三輪氏)による三輪山の祭祀も古くは遡らず、おおむね欽明の時代に創始されたものと考えられます。
 また、三輪山の山中および山麓の祭祀遺跡において発見される土器の分析から、大きなピークは6世紀後半にあったとされています。

 この伝説は三輪山の祭祀を執り行なった三輪君によって維持されてきたものでしょう。はっきり言ってしまえば、オオモノヌシに関する奇妙な物語は三輪君一族の神話で、これを崇神の時代に遡らせて天皇の歴史に結びつけたものなのです。と同時に、三輪君が管掌する神部(みわべ)が須恵器生産に従事することの由来譚にもなったと考えられます。
 オオタタネコが見つかった陶邑の近くには、式内社の陶荒田神社(すえあらた)が鎮座しています。三輪君氏が関係した可能性があります。

 さて、三輪君氏による三輪山祭祀の創始が6世紀頃とすれば、それ以前の三輪山祭祀をどう考えれば良いのだろうか。筆者は、次のような考古学的知見を基にした歴史的変遷を想定することが合理的と考えます。

原初の三輪山祭祀
 第16回・131回ブログで詳述しましたが、ダイジェストしてみます。
 山そのものが神体山として信仰される三輪山では多数の磐座群が存在します。それらは祭祀遺跡で、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、奥垣内遺跡などが確認されています。

 これら祭祀遺跡には、考古学的な見地から4世紀後半から5世紀初めと、5世紀後半から6世紀の2つのピークが認められるようです。細部は省略しますが、こうしたことから、6世紀頃から大神氏のもとで始まる三輪山祭祀の前には、原初の三輪山祭祀があったと推定されます。

 巨石や山川に対する素朴な信仰、つまりアニミズムは世界中の民族に普遍的に見られた原初的な信仰です。

 三輪山伝説で、『記・紀』が鍵穴を通る神、蛇神を語っているのは、三輪山の神が、もともと水の神、田の神として信仰されていたことを暗示します。水の神を蛇神とし、蛇神が田の神と信じられる神事や民俗は、三輪だけでなく各地にあるといいます。

 三輪山の神まつりがオオタタネコを祭主とすることで目的を果たしたという伝承は、もともと三輪山の祭祀が、それ以前の昔から、当地に土着した人びとによって素朴な神まつりとして行われてきたことも暗示します。

 5世紀以前の神まつりは、社殿(神社)に御神体を祀っていたわけではありません。山や木、あるいは太陽、動物といった自然そのものを神聖なものとして崇拝し、必要に応じて儀式などを行なっていたもので、神を招き憑依させるための巨石や大木をそれぞれ磐座、神籬と呼んで神聖視し、そこに銅鏡や勾玉などの祭具を捧げて神を祭ったのです。
 岩や木を「依りしろ」として、神霊を一時的に呼び寄せて祭り、終われば神霊を送り戻すという考えに基づいた磐座祭祀あるいは神籬祭祀が行われていたのです。

 また、大神神社にまつわる疾病よけの祭は有名で、摂社の狭井神社で4月に行われる鎮花祭(はなしずめのまつり)と、春日の地にある率川神社で6月に行われる三枝祭があります。山の辺の道を介して三輪と春日が古くから密接につながっていた証しとされています。これらは古代史愛好家には実に魅力的な祭といえますが、一口に「古くから」と言ってもいつ頃からの行事なのでしょうか。奈良時代や平安時代には始まっていたようですが、3、4世紀の頃から続く行事と考えるのは無理があるようです。

 何しろ、アマテラスを祀る檜原神社でさえ、相当古くから鎮座していると思われますが、実は江戸時代初めに伊勢神宮の神官、荒木田氏が「崇神が笠縫邑で初めてアマテラスを祀った」という『日本書紀』の記述にちなんで創始したものなのですから(第15回ブログ)。

三輪山における祭祀の変遷
 第131回ブログで言及した内容をダイジェストしてみます。
 3世紀後半以降に纒向で発祥したヤマト国の王は、三輪山に昇る太陽を自然神として崇めていたと思われます。
 その傍証となるのは以下の事実です。

 三輪山頂上の奥津磐座のあたりには高宮神社(こうのみや)が鎮座していますが、同社は『延喜式神名帳』では神坐日向神社(みわにいますひむか・奥津磐座)と記されています。
 明治より前は「日向」の語が含まれる神坐日向神社であったことから、古代の三輪山では、太陽崇拝をベースにした原始的な祭祀が行われていたようです(第16回・90回ブログ)。神坐日向神社の存在は、古墳時代以前の磐座祭祀の名残を現在に伝えるものと言えるでしょう。
 したがってヤマト国の王は、太陽神を磐座に招き憑かせる祭祀を執り行っていたと考えられます。
 この磐座祭祀は、墳丘墓や古墳で死者となった指導者を祀る祖霊祭祀と両輪となって変遷していきます。

 4世紀頃までのヤマト国は、この太陽神を、地域豪族が祀る神(国魂)と同格の神として自ら祀っていました。
 日本列島の原初の文化はアニミズムやシャーマニズムなどをベースとし、天の観念はなく天の至高神もありませんでした。列島中に八百万の神が祭られていたわけです。後世の分類でみれば国つ神(?)しかいなかったということ。
 ヤマト国も当初は一つの地方神を祀っていたのですが、その実態がどういうものだったのか、その詳細について現在では窺い知ることはできません。

 ただ、繰り返しになりますが、纒向の王が三輪山に昇る太陽を神として崇めたことだけは間違いないでしょう。そして太陽神を招き迎える時は磐座に憑り移らせ、そこに銅鏡や勾玉などの祭具を捧げて神まつりを挙行したということです。

 4世紀頃までのヤマト国の王が挙行した神まつりは、祭場の一角に神霊を迎えるための磐座や神籬があるだけの簡素なものだったと思われます。
 やがて、4世紀後半頃からヤマト国がヤマト王権へと勢力を拡大するにつれ、三輪山を崇める神まつりは次第に磐座信仰という明確な形に変化していきました。

大神神社の創始に関わる三輪山祭祀の変遷
 考古学の知見から三輪山祭祀は4世紀後半から盛んになり、5世紀に停滞(?)するが、再び6世紀から隆盛になっているようです。
 繰り返しになりますが、4世紀以前は弥生から続く八百万神が横並びで共存する状態で、ヤマト国の王は三輪山の太陽神を崇めていました。

 4世紀後半からは、ヤマト国が勢力を拡大しヤマト王権へと変貌するにつれ、それまで執り行ってきた太陽祭祀を磐座祭祀の形で具体化し始め、三輪山祭祀は隆盛することになります。

 5世紀後半には最高神が作られ、ヤマト王権の時代(5世紀~7世紀)はタカミムスヒを祀ることになり、ヤマト王権は東西軸の神よりも天から降臨する至高の神を崇めるようになり、三輪山祭祀(東西軸)は一時途絶えます。これはちょうど雄略の頃でしょう。
 但し、最高神タカミムスヒの存在は、あくまで文献史学の検討から導き出された仮説であって、実証科学の面からの証拠があるわけではありません。筆者は、おさまりの良いその仮説を支持していますが……。

  6世紀前半、欽明の時代になると、一転して地場の守護神は祟り神としての神格が濃くなり、停滞していた三輪山祭祀を復活するため、オオタタネコを祖とする三輪君氏にそれを託すわけです。そして三輪山の磐座祭祀が再度始まり、最盛期を迎えます。この時にオオモノヌシという全国的に見ても大和にしか存在しない国つ神が生まれたというわけです。

 つまりオオモノヌシは有名古社の祭神としては極めて珍しく、あくまで三輪地方に特化した祟る神・地主神であって分霊が他地域には祀られていないのです。

 4世紀の河内進出後も、ヤマト王権は大和盆地内に本拠に構え、地場の太陽神を粗末に扱わず、三輪氏に託して三輪山祭祀は隆盛の時期を迎えたわけです。

 三輪氏の姓(かばね)は初め「君」だったが、684年11月に三輪高市麻呂ら一族が「大三輪姓」を賜り改賜姓52氏の筆頭となっています。飛鳥時代後半期の政権内では、氏族として最高位にあったと考えられます。

 このように、7世紀末の段階では大三輪氏の権勢は非常に高く、『記・紀』の編纂にあたって、崇神の頃の神話じみた筋書の構想に大きな影響を与えたと判断できそうです。
 691年8月、『日本書紀』編纂の中で、18の氏(うぢ)に対して、彼らの系譜や伝承を上進するよう詔が出されています。この時の伝承が、完成した『記・紀』にかなり盛り込まれたことは想像に難くありません。

 三輪山の神まつりがオオタタネコを祭主とすることで目的を果たしたという伝承がある以上、オオタタネコ自身を祀る大直禰子神社(おおたたねこ)に触れないわけにはいきません。
 大直禰子神社は大神神社の境内に鎮座しており、若宮とも称されています。奈良時代には大神寺、鎌倉時代には大御輪寺、明治の神仏分離以後は、大直禰子神社と名を変え、現在に至っています。
 オオタタネコは大田田根子とも表記され、「オオ」は「大きい」、「タタ」は「祟り」を意味し、「ネコ」は尊称なので、オオタタネコは「祟りを鎮める能力をもった偉大な人物」というような意味合いであるという説があります。

 大御輪寺は、大神神社にあった2つの神宮寺のひとつで、「おおみわでら」とも呼ばれていたようですが、明治の廃仏毀釈で本堂が大直禰子神社の本殿に転用されたという言い方が正しいのかも。その際、本尊だった十一面観音像は聖林寺に移され、国宝に指定されています。

 続いて石上神宮について確認していきます。

 

石上神宮(いそのかみじんぐう)


 <夕暮れ時の石上神宮楼門(奈良県天理市)>

 当社については第80回ブログで言及しましたが、その内容も思い起こしながら以下に深掘りしてみます。
 石上神宮は、天理市の東側の丘陵の林の中に鎮座しています。石段を登った左側に楼門があり、奥に拝殿があります。筆者は2009年11月に参拝に訪れましたが、夕刻だったため、すでに社務所が閉じたあとだった。楼門までしか確認できていません。
 以下は、実見ではなく、文献史料からの内容になります。

 

御神体は布都御魂
 楼門の奥にある拝殿は鎌倉時代の建築で、その背後の一区画が禁足地になっているようです。かつてはその中央が少し高くなっていて、土盛りの地下に御神体の刀剣が埋まっており、それが信仰の対象になっていました。
 明治時代に当時の宮司が禁足地を発掘したところ、3メートル四方ほどの石積みの部屋が現われ、中から刀剣、ヒスイの勾玉、銅鏃などが出土しました。鉄刀は素環頭内反太刀で、祭神の布都御魂(ふつのみたま)に相違ないということになっているようです。
 1913年には禁足地の後方に本殿が建立されますが、出土品を納めるという意味合いもあったようです。
 岡田精司氏によれば、祭祀遺物には3通りの残り方があって、祭りに用いた土器などをそのまま放置する場合、神に捧げるために供物を埋める場合、祭りのあと人目に触れないように穴を掘って埋める場合があるが、石上神宮の場合はこれらのどれにも当てはまらず、石積みの部屋を造ってご神体を埋め、そこが礼拝の対象になっていると言います。
 多くの神社と違って、太刀である布都御魂(つまりモノ)が神の依り代ではなく神そのものというのは面白いですね。

 この刀剣は、記紀神話では二度にわたって活躍します。一度目は出雲の国譲りの時にタケミカヅチがこれを持ち威嚇した時、二度目は神武東征の時に熊野で難渋した時に地上に投げおろした時で、石上のご神体の刀はヤマト王権にとって非常に重要な宝物ということになります。

出雲系の政治的な影響は?
 当地は大和にあって妙に出雲色が強く感じられる場所です。
 しばらく南方に位置する纏向地域では、高度な建物群遺跡が発掘されており、崇神・垂仁・景行という三代の天皇(三輪山三代)の拠点と考えるのが常識的ですが、大型建物の造りは出雲系の特色を残しており、古代出雲と政治的なつながりがあったとする識者も多いようです。
 石上神宮境内には出雲建雄神社が鎮座し、初瀬川沿いには桜井市出雲村の名前も残っています。他にも当地と出雲を結びつける事象は数多く、ヤマト王権の前に出雲政権があり「国譲り」が行われたのではないか、あるいは出雲が協力してヤマト王権を誕生させたのではないかともいわれます。

 しかし、当ブログでこれまで何度も繰り返してきましたが、交通インフラが不十分な時期に、遠隔地の地方政権がヤマト王権発祥に関与するとか、政治的な合従連衡をすることはあり得ません。
 現在の大和地域に出雲の地名が存在するのは、両貫制の名残?かも。

 また、摂社である出雲建雄神社の祭神は出雲建雄神(草薙剣の荒魂)とされますが、その割拝殿はつとに有名で、もとは内山永久寺の鎮守社にあったものを大正時代初めに現在地に移築したもので、内山永久寺の遺構としても貴重ということから国宝に指定されています。

石上神宮と物部氏の関係
 石上神宮は物部氏の氏神社かというと、否、当社は物部氏が最初から祀っていたわけではありません。

 『日本書紀』の崇神・垂仁紀には、物部氏の祖である五十瓊敷入彦命(いにしき)が和泉の川上宮に剣一千口を納めて神宝とし、その後も引き続いて管理していたという記事があります。これは武器の管理に関する王族奉仕の話ですね。
 その後、その剣を忍坂邑を経て石上神宮に移し、春日臣の一族である市河に治めさせた、市河は物部首の祖であるとあります。
 多少の変遷を経て、物部十千根大連を名乗る人物が石上神宮の武器庫を治めることになるが、物部氏と春日氏では系統が明らかに異なるし、これらの伝承がそのまま史実とは思えません。

 ただ、石上神宮が物部氏の氏神社であっては、このような王族奉仕の話は成立しません。石上神宮はヤマト王権にとって格別重要な神社であり、物部氏は管理し奉仕したに過ぎません。

 神話や伝承を離れて石上神宮がらみの史実を確認してみます。
 物部氏の活動が実態を伴なうのは6世紀代以降です。それまで河内にあった物部氏(の祖)が大和盆地に進出した4、5世紀頃から布留地域に武器が集積され、それを6世紀の物部氏がみずからの祖先のものとみなし、天武天皇以降に後裔の石上氏が石上神宮の神宝として管理するようになったというのが事実のようです。

 石上神宮の名はすでに『記・紀』の時代に登場していますが、平安時代の『延喜式神名帳』では石上布都御魂神社に変わり、中世以降は地域の鎮守神としての性格を強め、名称も布留大明神・岩上大明神などと呼ばれるようになり、永久寺・石上寺などの神宮寺と結びつくようになります。明治維新後の1883年、古代の名称を復活して、現在の石上神宮の名に至っています。

 それでは物部氏の氏神は何かというと、天から降臨したニギハヤヒということになるのですが、その前に石上神宮に関係の深い七支刀について言及します。

七支刀と石上神宮
 石上神宮の宝庫には、前例のない七枝の剣の形式とともに、重要な銘文が刻まれた七支刀(しちしとう)などが神宝として所蔵されて伝わっています。
 第91回・第115回ブログで詳細に言及しましたが、ここではポイントだけ確認しておきましょう。

 現在の石上神宮には古いものはあまり残っておらず、七支刀と鉄盾くらいしかありません。なぜ七支刀が石上神宮にあるかというと、幸い、錆の塊で財宝にはならないので略奪を免れたということでしょう。現在の刀は、錆落としをして磨ぎ出したことで、古代史の上で重要とされる銘文が現われ、国宝に指定されました。

 七支刀の銘文からは、泰和4年(369年)につくられ、百済王世子から倭王に贈られた舶載品と判読できます。
 一方、『日本書紀』神功皇后摂政52年には、
 <百済人の久氐(くて)等、千熊長彦(ちくまながひこ)に従ひて詣り、則ち七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び種々の重宝を献る>
とあり、百済と倭国の同盟を記念して、百済から七枝刀・七子鏡が贈られたとの記述があります。この年が紀年論では372年にあたるので、年代的に『日本書紀』の記述と七支刀の銘文の対応関係は一致するようです。

  4世紀後半、百済の近肖古王が高句麗の故国原王を討った頃に日本(ヤマト王権)との通交も始まり、372年に七支刀(七枝刀、ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国王へ贈られたということでしょう。高句麗と対峙するために日本との通交の端緒を開いたということでしょうね。一般的に七支刀は百済王が服属の証として献上したと解釈されますが、銘文のどこにも献上を意味する文言はありません。献上説に対して百済王からの下賜説も主張されています。

 七支刀が物部氏ゆかりの石上神宮に所蔵されていたことから推すと、北部にあった王権とともに「ふる」地域の集団(のちの物部氏)がその外交的役割を負ったものと考えられます。あるいは、ヤマト王権が河内に進出したのちの5世紀以降、河内にあった物部氏が大和盆地の布留の地に持ち込んだものかもしれません。

 七支刀本体の製作についても、泰和4年(369年)に百済で製作されたという解釈が定説となっていますが、他にも様々な解釈があります。もともと東晋から百済に贈られた原七支刀があり、それをもとに百済で鋳造されたものがヤマト王権の王に贈られたという説や、表の銘文は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれたという説など……。
 このように解けない謎はたくさんあります。

物部氏の祖神「饒速日命」(にぎはやひ)の謎
 大和地域で大王家の祖神より先住神だったとも言われるニギハヤヒについて言及します。
 ニギハヤヒは「饒速日命」「邇藝速日命」「櫛玉命」「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)といろいろに表記されます。

 なお、アメノホアカリとニギハヤヒを同一とし、その子がウマシマヂとアメノカゴヤマで、ウマシマヂの子が物部氏につながり、アメノカゴヤマの子がアメノムラクモに、さらにその子らが尾張氏・津守氏・海部氏につながるという説が先代旧事本紀などを根拠に語られますが、第80回ブログで詳細に言及したので、今回は次のような見解にとどめます。
 当ブログでは、3世紀以前に、広域のクニ連合や国家レベルの征服戦争はなかったという立場なので、ニギハヤヒを軸とする大和と尾張・丹後の連合説には同意しません。しかし7世紀頃までにはこれら3~4氏族の政治的連携が進み、様々に反映されたのではないでしょうか。

 偽書とされる先代旧事本紀ですが、そこに描かれたニギハヤヒの東遷物語は神武東征に酷似しています。
 森浩一氏によれば、むしろ神武東征の方がニギハヤヒの東遷をなぞったのではないかといいます。神武東征物語は大雑把な記述が多いが、ニギハヤヒの東遷物語は具体的で細部にも言及していてオリジナルらしさが感じられると……。
 同じく森浩一氏の見解ですが、ニギハヤヒを祀る古社は畿内に多く存在するが、神武を祀る古社はないようです。神武を祀る橿原神宮は明治以後に造られたもので論外だし、福岡県遠賀郡の神武天皇社も古代には遡らない。
 ニギハヤヒは古社に祀られているだけでなく、9世紀初頭の『新撰姓氏録』にも多出するが、神武を始祖とする氏は見当たらない。
 こうしてみると、神武の実在に疑問符がつくのは当然だが、ニギハヤヒの方は実在のモデルがあったようにも思えてしまいます。
 もちろん当ブログでは、弥生末期にクニの規模の広域移動は不可能という立場をとるので、ニギハヤヒの東遷物語も史実として認めるわけにはいきません。

 本来、『記・紀』編纂時に没落していた豪族であれば、それを大和の地の先住者として描くと、神代からの一貫した統治を強調したい大和政権の権威を弱めることになるでしょう。しかし編纂時には、物部氏の後継氏族である石上氏が台頭していたことや、ニギハヤヒ伝承が畿内の広域に消すことができないほどに拡がっていたとも考えられます。むしろ物部氏の方が、ヤマト王権の祖先筋よりも大和における認知度が高く、ニギハヤヒ神話が畿内一円で広がっていたのではないでしょうか。ヤマト王権が物部氏の祖先筋の伝承を取り込んで、自らの権威付けをしたと考える方が、神話の理解としては理屈に合いそうに思います。

『記・紀』に登場した先住神ニギハヤヒ
 『日本書紀』には、日向の地でシオツチノオジが即位前の神武に向かって、「東(ひがしのかた)に美(よ)き地(くに)有り。青山四周(よもにめぐ)れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り」、「その飛び降るといふ者は、是饒速日と謂ふか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざむ」とわざわざ言及する場面があります。
 2世紀前半の時期、九州の地からはるか離れた大和の状況がわかるはずがないから、これは後世の創作と考えるべきです。
 でも8世紀初めの『日本書紀』にわざわざ記されたこの言葉は軽んじることはできません。おそらく『記・紀』の編纂当時、大和にニギハヤヒを奉じた先住者がいたと考えざるを得ない政治的状況があったのでしょう。

 神武東征物語では、神武一行は、河内の日下の蓼津(くさかのたでつ)と大和の鳥見(とみ、外山)の二度にわたり、ニギハヤヒの部下であるナガスネヒコらに抵抗されますが、主戦派を抑えて帰順した融和派ウマシマヂの力で、神武は大和進攻を果たします。
 ウマシマヂは、ニギハヤヒがトミヤスビメ(ナガスネヒコの妹)との間に設けた長子で、物部氏の祖とされています。
 これをもって、ニギハヤヒ政権から神武への国譲りと考える研究者もいますが、これは大和盆地の中のさらに局所的な争いを描いた物語(神話)なので、国譲りの物語にはなり得ないし、無論史実として扱うわけにはいきません。

 神武東征物語は大和政権の先祖と大伴氏・物部氏の先祖が協力して大和朝廷を開いたとする物語が原形であって、これにさまざまな伝承が加わったものです。
 事実、物部氏は祭政的な役割を負った軍事氏族で、大伴氏とともにヤマト王権を支えたとされています。
 もっと明確に言えば、両氏ともヤマト王権の軍事氏族ですが、大伴氏は大王や御所を守る、言うなれば大王の側近の護衛で親衛隊長、近衛師団のような存在です。これに対し物部氏は、遠国を征討する時に出かけていく、言うなれば遠征軍を率いた将軍ということになります。
 6世紀の継体の時期に、大連(おおむらじ)の地位にあった大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかい)の意向が、この神武東征物語の構想に大きく影響したということでしょう。ヤマト王権としても自らの王権神話の中に、物部氏・大伴氏を王権確立の立役者として顕彰する形で取り込んだと言えそうです。

 物部氏の祖先筋は長らく大和の地にあって、ヤマト王権よりも長い歴史を持ち、勢力も拮抗していた可能性があります。

河内と大和の双方に拠点があった物部氏
 河内を本貫の地とした物部氏が、3~5世紀の政治の中心地である大和盆地内に設けた拠点が石上です。つまり物部氏の拠点は河内と大和の双方に存在したのです。


 <物部氏の拠点(菱田哲郎氏の著作を改変転載)>

 神話では、ナガスネヒコ(トミビコ)が、大和の鳥見(外山とも?)で神武によって滅ぼされますが、これはウマシマヂを祖とする勢力が河内(本願の地)の他に大和にも拠点があったことを反映したものでしょう。
 このことは、『先代旧事本紀』に、ニギハヤヒが天磐船に乗って河内国河上哮峯(かわかみいかるがのみね)に降臨し、後に大和国鳥見白庭山(とみのしらにわやま)に遷ったと記されていることからも、そういう伝承があったことが読み取れます。

 この河上哮峯は、生駒山系の北端、交野市にある垂直の岸壁にあたるようです。近くには、ニギハヤヒが乗ったという天磐船をご神体とする磐船神社があります。
 東大阪市・八尾市・交野市は物部氏やその支族にゆかりの土地柄で、大阪湾と大和盆地をつなぐ交通の要衝地でした。
 また、鳥見白庭山は今の生駒市にあたりますが、『古事記』では、忍坂(土雲八十建)の戦いと磯城(エシキ・オトシキ)の戦いの間に、トミビコとの戦いが挟まれているので、鳥見は桜井市の外山(とび)近くの鳥見山を指しているとも考えられます。

 いずれにしろ、大和川下流の河内と、上流の石上の、その双方に拠点のあった物部氏は、大和川の物流を優先的に利用できたため、大和盆地内でのプレゼンスは飛躍的に高まりました。このことは大和盆地で発祥したヤマト国にとって魅力的で、物部氏が王権内で重要な位置を占める大きな誘因(インセンティブ)となったのです。

 物部氏の本家筋は、587年の丁未(ていび)の乱で蘇我氏に敗北し、『記・紀』編纂時点では没落していますが、部民としての物部は尾張・下総・石見・備前など全国に分布し、また後裔の石上麻呂が708年には左大臣にまで進んでいます。

 九州北部にも物部氏の痕跡がありますが、これはむしろ磐井の乱(527年)の前後に大和から移った一派が定着した可能性の方が高いです。この九州物部の存在がニギハヤヒ東遷物語の根拠になったりしますが、これでは時間軸の流れが逆です。

 物部の一族は、したたかに生き抜いたといえますが、平城京へ遷都の際は旧都(藤原京)の留守居役を命じられ、以後は第一線から消えていきます。