理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

141 丹波・丹後の豪族


   <阿蘇海と天橋立>

 前回は日向諸県君氏について詳述しましたが、今回は、これまでも繰り返し触れてきた「丹波・丹後の豪族」を取り上げます(第69回・82回・95回・96回・110回ブログで言及した)。

 ただし過去の内容は、ヤマト王権の歴史に付随して言及したため、断片的で一貫性がありませんでした。今回、これらを連結して「丹波・丹後地域の豪族」として、3世紀頃から5、6世紀頃までを通史的に纏めなおしてみます。

丹波・丹後王国の勢力範囲
 丹後国は713年に丹波国から分離しますが、その丹波も当初は旦波(たにわ)と呼ばれていました。当ブログでは、学術的ではないが便宜上、大宮町を中心とし久美浜までを含む丹後半島のほぼ全域をカバーする範囲を丹後と呼ぶことにします。
 丹後には、弥生時代から発祥した幾つかの「クニ」を母体に、3世紀の終わりから5世紀にかけて、王国とも呼ぶべき一大勢力が確かに存在しました。その勢力範囲は下図の通り。


 <金久与市氏の著作に追記>

 

伝承にみる丹後の豪族
 まず『記・紀』の記事や伝承から確認してみます。
 第9代開化から第11代垂仁の時代に、ヤマト国と丹後国(丹波)との間にいくつかの婚姻譚四道将軍の物語が見られます。

 丹波の大県主(あがたぬし)由碁理(ゆごり)の女(むすめ) 竹野媛(たかのひめ)が第9代、開化の妃となっている。

 開化と竹野媛の子が日子坐王(ひこいますのきみ)。

 崇神が、日子坐王と子の丹波道主命(たにわのちぬし)を四道将軍として旦波国に派遣し、青葉山中に棲みつく玖賀耳之三笠(くがみみのみかさ)を首領とする土蜘蛛を討ち、玖賀耳之三笠は大江山に逃げ込んだ。

 タニワノチヌシ(丹波道主)が、丹波の河上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)との間にもうけた狭穂比売(さほひめ)は、垂仁の皇后となり、次いで狭穂比売の遺言によってタニワノチヌシの女、日葉酢媛(ひばすひめ)が第11代、垂仁の皇后となり、第12代、景行を生む(『記・紀』の間で記述に差異あり)。

 日子坐王の子の山代之大筒木真若王が丹波能阿治佐波毘売を娶り、その3世孫が神功につながる。この系譜は、丹波と南山城との濃密な関係を暗示している。

 以上のように、伝承では日子坐王を祖とする一族はヤマト国や南山城と深い姻戚関係をもち、丹波でも一大勢力を誇っています。先に述べた四道将軍の物語によれば、タニワノチヌシはヤマト国が派遣した後に丹波に定着したようにも思えます。

 しかし、むしろ「丹波道」という名を冠していることから、もともと丹波土着の有力な首長だったタニワノチヌシをヤマト王権の勢力拡大ストーリーの中に取り込んだものと考えた方が理屈にあいますが、真実は藪の中です。

 以上の伝承の内容はどこまでが史実なのでしょうか。
 開化・日子坐王という名前の人物が本当に実在したかどうか、これは誰にも証明できないでしょうね。
 そもそも筆者は、闕史八代(けっしはちだい)の存在に否定的(第81回ブログ)なので、開化から始まるこれらの系譜自体に疑問を持っています。四道将軍の物語も虚構と考えます(第96回ブログ)。
 ただ、これらの伝承に疑問を持ちつつも、3~5世紀の丹後地域に(名は知れずとも)大きな勢力が存在したことは確かでしょう。タニワノチヌシはそのような丹後勢力の伝説的な祖先と言えるのではないでしょうか。
 『記・紀』には丹後に関する記述がとりわけ多いことから、ヤマト王権と丹後の間に密接な関係があったことだけは間違いないでしょう。

 

丹後地域と大和地域の繋がり
 判然としないことが多いのですが、これらの伝承は大和と丹後との古くからの結びつきを象徴する物語と言えそうです。
 6、7世紀頃の政権中央は、両地域の間には古くからの通交があり、丹後の文化・宗教・技術の影響を受けてきたことを認識しており、それが『記・紀』の記述につながったものと思われます。

 大宮売神社(おおみやめ)は、竹野川中流部の大宮・周枳(すき)の地に鎮座する古社で、弥生末期の遺跡の上に建つ神社であり、ひと言でいえば弥生遺跡を母胎にできた神社です。境内には「古代祭祀の地」の碑が建っています。
 大宮売神社の弥生遺跡からは桜井市三輪の山ノ神遺跡の遺物と近似する遺物が出土しています(第131回ブログ)。大和盆地と丹後地方の間では弥生時代から活発な通交があったことが分かります。
 こうしたことから、丹後は、大和盆地以外では、最も早くからヤマト国と結びついた地域国家と言えるでしょう。

 <大宮売神社の参道と拝殿、古代祭祀の碑>

 次に神々の世界を確認してみましょう。
 大宮売神社は大宮売神(おおみやめ)という女神を祀っていますが、この神は、859年の『三代実録』のなかで従五位上の位を与えられたと記され、927年の『延喜式神名帳』のなかでは「大宮売神二座」と記されています。
 おそらく、丹後国の本来の国魂の神、地主神という位置づけだったのでしょう。

 大宮売神は、丹後国の中核的な神というだけでなく、大和朝廷の宮殿にも「宮中の奉斎八神」として祀られるほどの神威があったようです。
 八神とは、神産日神(かみむすひ)、高御産日神(たかみむすひ)、玉積産日神(たまつめむすひ)、生産日神(いくむすひ)、足産日神(たるむすひ)、大宮売神、御食津神(みけつ)、事代主神(ことしろぬし)を指し、古来天皇を守護する神々とされてきました。

 これら考古学や神祇の世界のあり様は、平安時代に至るまで、大和政権が丹後を重視していたことを暗に物語っているのではないでしょうか。

 

4世紀に3つの巨大な前方後円墳を築造した大勢力
 3世紀の終わりから5世紀にかけて、竹野川流域・川上谷川流域・野田川上流域には継続した王の存在が認められ、3世紀の終わりから5世紀にかけて、王国とも呼ぶべき一大勢力が確かに存在しました。

 当ブログでは、この一帯に存在した謎の勢力を、便宜上、門脇禎二氏の説を借用して「丹後王国」と呼ぶことにします。

 門脇氏は、一つの地域の体制を「王国」と呼ぶには、その地域の中心をなす独自の王統が証明されることが必要と述べており、丹後には3ないし5代の伝承が認められ、地域独自の神話や文化が存在することを含めて、丹後王国と呼ぶべき勢力があったとしています(第96回ブログ)。

 門脇氏によれば、
1 その地域の中心をなす独自の王統が証明されるかどうか。
 ⇒ これについては竹野川流域の首長を中心にした約5代の男子系図が復元できる。
 排他的な支配領域を持っているか。
 ⇒ これについては、北方の竹野川流域の川上谷川流域・南方の加悦谷平野・野田川上流域にわたる、ほぼ丹後全域、銚子山古墳や神明山古墳の存在から日本海域にもわたる支配領域が考えられる。

 地域独自の神話や文化が証明できるかどうか。
 ⇒ 大宮売神や羽衣伝説などユニークな神話・文化が育まれている。

 以上をもとに門脇氏は、3世紀の終わり頃から5世紀の古墳時代に、独自の丹後王国の存在を認めてよいのではないかとしています。

 古代の大丹波の繁栄の中心は、宮津ではなく、京丹後市の峰山、大宮あたりを中心に竹野、網野を含む一帯で、そこには2つの巨大な前方後円墳が存在します。

 また、野田川中流域には蛭子山古墳があり、これら3つをあわせて、丹後三大古墳と呼ばれています。

 蛭子山一号墳(墳長145メートル、野田川中流域加悦谷の与謝野町)

 網野銚子山古墳(墳長201メートル、竹野川流域の京丹後市網野町)

 神明山古墳(墳長190メートル)

 丹波・丹後の全域、否、出雲を含む日本海側全域を見渡してもこれらの規模の巨大さは際立っており、日本海側の三大古墳とも呼ばれ、被葬者たちが丹後の広域に勢力を張っていたことを物語っています。

 これら三大古墳を含むわずか10基ほどの古墳には丹後型円筒埴輪が並べられています。4世紀末から5世紀前半の丹後地域の首長墓を中心に並べられたもので、丹後王国独自の文化・イデオロギーを示すものとも言えそうです。

 丹後に、これらの巨大古墳や多くの注目すべき遺跡・遺物が存在する背景として、後述する潟湖の存在が挙げられます。潟湖は天然の良港として、朝鮮半島や日本各地との交易拠点としての役割を担い、これによって丹後王国が発展したものと考えられます。

 網野銚子山古墳、神明山古墳は、福田川河口、竹野川河口の日本海を望む高所に築造されており、当時は両古墳から見下ろす位置に潟湖(浅茂川湖、竹野湖)が存在していました。

 京丹後の網野銚子山古墳が、「さき」地域にある4世紀後半の佐紀陵山古墳と相似形であることから、ヤマト王権の統治が丹後に及んでいたとする論考がありますが、筆者は統治の範囲文化・技術情報の伝播とは切り分けて考えるべきと考えます(第92回ブログ)。ただ、両地域が深い関りを持っていたことは間違いないでしょうね。

 丹後には、「丹後王国」が隆盛する前から弥生時代の優れた文化・技術が花開いていました。
 流水紋土器で有名な竹野遺跡は竹野川河口右岸の砂丘上にあり、竹野湖に面しています。
 他にも、日本最古の玉つくり工房として知られる奈具丘遺跡(弥栄町)や、国内最大級の弥生墳墓で、ハンブルー(漢青という顔料)のガラス管玉が出土した赤坂今井墳墓(峰山町)があります。
 また、与謝野町の大風呂南墳墓群は弥生時代の典型的な遺跡で、大風呂南一号墓からは、ガラス釧(くしろ)、銅釧、鉄剣などの多くの副葬品が出土しています。
 このように花開いた弥生文化の延長線上に3~5世紀の「丹後王国」が出現したのでしょう。

 この他にも、5世紀初頭頃の大谷古墳(竹野川上流の丘陵上)では保存状態の良好な熟年女性の人骨が出土しており、当時、当地域で女性首長が支配していた可能性を示しています。
 ニゴレ古墳(弥栄町)からは舟形埴輪などが出土しています。
 また、6世紀後半のことになりますが、弥栄町では製鉄遺跡である遠所遺跡が見つかっています(第30回ブログ)。製鉄技術は社会変革をもたらす最先端技術で、古代の丹後地域が工業先進地域であったことを裏づけます。

 峰山、大宮あたりを中心に勢力を張った「丹後王国」は、5世紀初頭頃から衰退するようです。5世紀に入ると、丹後国の中心は竹野川流域から野田川上流域の加悦谷(かやだに)に移り、籠神社にゆかりの海部氏がヤマト王権の一翼を担う勢力に成長します。
 5世紀以降に海部直一族が台頭したように見えるのはどう解釈したら良いのでしょうか。
 京都府宮津市には丹後国一宮の「籠神社」(この)が鎮座しています。
 出自が海の民と思われる海部氏は5世紀頃から台頭して海民族を率い、7世紀後半以降は名前の下に「祝」字をつけ籠神社の祝(ほうり)として奉祀した可能性が高いと考えられます。


 <丹後国の一宮、籠神社>

 宮司家には有名な国宝『海部氏系図』(本系図と勘注系図)が所蔵されています。系図については今回の最後の節で言及します。

 

5世紀以前は交易の中継地・生産拠点だった丹後
 何故、この地域が隆盛したかと言えば、丹後は朝鮮半島から、あるいは九州北部や出雲方面からの通交の便が良く、竹野川を遡上し丹後半島を横断すれば阿蘇海に出られ、大和地域や近江、越前との繋がりが容易です。
 この仮説は長野正孝氏によって提唱されたもので、既に当ブログでも触れてきました(第44回ブログ)が、「丹後王国」の盛衰を語るには重要なので改めて確認してみます。
 長野氏は珍妙な説をしばしば打ち上げるので筆者はあまり好みませんが、この丹後半島横断説は大いに頷けます。少し長くなるが、氏の論考を纏めてみます。

 古代の手漕ぎの丸木舟では一所懸命に漕いでも時速3キロくらいの速度なので、1日に進める距離は高々20キロに過ぎない。つまり20キロごとに停泊して体を休め、水分や食料の補給をするための港の存在が不可欠(第57回ブログ)。

 日本海側には潟湖が発達しており、ほぼ20キロごとに、唐津、博多、温泉津(ゆのつ)、神西湖、東郷池、湖山池、久美浜湾、浅茂川湖、竹野湖、三方五湖、敦賀、河北潟、羽咋の邑智潟(おうちがた)と続き、尺取虫のように東西を行き来することができる。湾内は波も穏やかで舟を停泊させるには絶好の条件をそなえている(第40回ブログ)。

 しかし山陰を出雲方面から東へ進んでくると、手漕ぎの舟では丹後半島を廻るには地図上で7日かかるが、その日の停泊地が存在しない。特に丹後半島の先端部40キロは、丹後松島や経ヶ岬、蒲入の海のように、岩が切り立っており、舟を停泊できる場所が東側の伊根(舟屋で有名)までない。

 岩稜だらけの海岸に沿って40キロ漕ぎ続けることは不可能ではないが、体力には限界があり、東風と西風が吹くと、舟は沖に流されるか崖に叩きつけられ、大変危険である。


<国土地理院デジタル標高地形図を加工>


<長野正孝氏の著作を加工して転載>

 筆者は2011年6月に宮津から伊根、経ヶ岬、琴引浜、久美浜までをドライブしていますが、丹後松島まではリアス式地形が連なり、人力の小舟が接岸することの困難さを実感しました。

<神明山古墳から立岩(左)、丹後松島(右)>

蒲入の海(左)、経ヶ岬灯台(右)>

 

 東進してきた交易者は、竹野川河口から遡り、大宮売神社の先で標高60~70メートルほどの丘を山越えし(船曳道)、野田川に下りれば阿蘇海に出られる。阿蘇海からは若狭・越前方面、山城・近江・大和方面に向かうことが容易になる。
 京丹後市の中心の網野町・弥栄町・峰山町のそれぞれの間は小河川が四通八達し、舟を曳いても1日で行ける。丹後の中心部には船曳道が縦横に発達していた可能性がある。

 重要なポイントは、これらのルートに沿うように、網野銚子山古墳、神明山古墳、竹野神社、大宮売神社、翡翠や水晶の研磨加工、鉄製品の加工遺跡などが集積していることです。


 <長野正孝氏の著作を加工して転載>

 出雲・九州北部・朝鮮半島から 鉄を始めとする先進的文物や技術・文化が流入し、近江・越前・越中からは翡翠た玉などが流入し、一部は追加工されたりして、若狭・越前・能登・近江・畿内各地・大和盆地へと運ばれていったと思われます。
 このように鉄や翡翠、その他の文物の交易の中継地・生産拠点となり得たことが、5世紀頃まで「丹後王国」が隆盛した理由でしょう。

 少なくとも3、4世紀代の大和勢力は、情報と交通掌握の点で優位に立っていたわけではありません。むしろ、瀬戸内海や大和川を経由する交易が容易でなかった4世紀には、もうひとつの日本海ルートを掌握する丹波・丹後・北陸および近江の勢力を軽視できなかった
 4世紀半ばから、大和では海外志向の強い「さき」地域集団が強大化してヤマト国を代表するまでに成長し、先進的な文物を求めて丹後地域へ積極的にアプローチします。したがってヤマト王権の鉄などの調達に関しては、近江から木津川流域の勢力が、鉄の供給基地としての役割や、出雲・丹後方面からの中継基地の役割を果たしたということになります。

 その「丹後王国」も5世紀中頃から輝きを失ってしまいます。
 準構造船の登場により、交易ルートは丹後・若狭をスキップし、敦賀から琵琶湖、近江、大和へと向かうようになり、竹野川流域の交易中継点としての役割が薄れてしまったこと、6世紀の継体の登場で王権の関心が敦賀から近江・尾張・淀川流域に変わってしまったこと、瀬戸内海航路へのシフトなどによると思われます。

 

ヤマト王権中心勢力の移動が引き起こした4~5世紀の地殻変動
 今までのブログで縷々述べてきたように、4世紀から5世紀にはヤマト王権の勢力の中心が、「おおやまと」地域から「さき」地域へ、さらに河内地域へと移動します。
 4世紀半ば過ぎには、おおやまと古墳群を築造した王族の一部が分派して「さき」地域に移動して佐紀古墳群と王宮を形成します。
 両古墳群は一時期併存しますが、分派した勢力は4世紀後半になると、それまで主流派であった本家を上回って隆盛し本家の方は衰退してしまったと考えられます(第95回ブログ)。
 同様に、4世紀末頃から5世紀初頭にかけては、「さき」の王権の一部が河内に進出し、百舌鳥・古市古墳群を築造したと考えられます(第101回ブログ)。
 各地域の古墳群は一時期併存しますが、この現象をうまく説明できるのは清家章氏の王権分派説です。

 清家章氏は、古墳時代の埋葬原理に着目して独自の論考をまとめています。
 同氏によれば、首長層の埋葬原理として、兄弟が独立して新たな墳墓を営むことがあり、兄弟間で首長位が継承されることもあり、兄弟のそれぞれの子が首長の継承候補者ともなり得るといいます。
 5世紀になれば首長層が父系化するが、父子の間で安定して首長位が継承されるとは限らず、兄弟間の格差が小さいので、兄弟間で首長位が継承されることもあり得たといいます(第101回ブログ)。
 しかも、これらの古墳群の間では、旧勢力からの墳墓要素を多分に引き継いでいるし、新たに加わる墳墓要素を分派の証と考えれば合理的に全体を説明できます。さらに、新たな古墳群の場所に、その前身となる勢力が存在しないことも、清家説でうまく説明できます。

 このうち、「さき」王権は、「おおやまと」の王権に比べて軍事・交易・先進文化に強い志向があり、勢力基盤は大和盆地北部だけでなく、南山城、摂津、河内北部までをも含む広域政治集団で、その影響力は丹波まで及びました。
 「さきの王」が出現した4世紀後半という時期は、朝鮮半島への出兵が開始された時期に当たり、木津川・淀川水系の勢力や丹後王国と連携する意味がいちだんと重要性を帯びたことは間違いありません。

 やがて、4世紀末から5世紀初頭には王権の一部が河内に移動しますが、その際、円満な分派ではなく、多少の諍いがあったかもしれず、これが忍熊王の反乱伝承にも関係しているのかもしれません。忍熊王の名は4世紀後半にヤマト王権を掌握していた佐紀西群集団の後継王を象徴化した名であった可能性もあります。

 「さき」の王権が朝鮮半島に向かう時のルートとして重視したのが、潟湖という天然の港(津)に恵まれた丹後半島でした。
 「さき」の王権は、交易に有利な「丹後王国」と深く関係し、両者は依存関係にあったと考えられます。

 このルートは河内に王権の重点が河内に移ってからも、もちろん利用されていたが、河内に進出した王権が最も重視したのは、瀬戸内海ルートでした。
 5世紀には瀬戸内海ルートを積極利用するため、ヤマト王権は葛城氏・紀氏・吉備氏らとの連携を強めていきます。

 この地殻変動は「丹後王国」を直撃しました。
 当然ながら、4世紀に隆盛していた「丹後王国」は地盤沈下していきます。
 5世紀前半には百舌鳥・古市古墳群や吉備地域の古墳が巨大化するのに対し、丹後の古墳の規模は縮小し、丹後独自の丹後型円筒埴輪も見られなくなってしまいます。しかも小さくなった首長墓は、丹後半島ではなく、篠山盆地東部に移ってしまいます。「丹後王国」の衰退を象徴的に物語っていますね。

 海部氏が台頭するのはそのような時期、つまり5世紀前半なのです。さて海部氏台頭の謎を紐解くには?

 

海部氏系図から「丹後王国」の衰退を読み解けるだろうか?
 籠神社所蔵の『海部氏系図』について、筆者が第69回ブログで言及した内容をダイジェストすると、以下の通りです。
 『海部氏系図』のうち、9世紀後半に書写された「本系図」は、始祖彦火明命(ひこほあかり)から「建振熊宿禰」に至る上代、「海部直都比」から「海部直勲尼」に至る海部管掌時代、「海部直伍百道祝」以降の祝部の時代の3つに大別される。
 都比以降は伴造として海民族を率い、さらに7世紀後半以降は籠神社の祝として奉祀した可能性が高く、ある程度の史実を伝えている可能性がある。

 一方の「勘注系図」は江戸期の作成ないし書写で、造作の可能性が考えられる。
 
上代部分には独自の天孫降臨神話を載せ、「倭宿禰命から健振熊宿禰を経て海部直都比に至る十数代の系譜」には天皇家や尾張氏・和珥氏など他氏族の系図を接合・混合させていて、内容は支離滅裂で古代史を紐解く大きな手掛かりにはなりにくいと筆者は酷評しました(第69回ブログ)。

 ですが、今回、塚口義信氏の論考に接し、海部氏系図に対する氏の説にも一理ありと考えます。鍵は健振熊宿禰の存在ですが、順を追って同氏の説を確認してみます。

 塚口氏の著作から転載(一部加筆)した「本系図」を見ながらの確認です。

 「本系図」で注目されるのは、健振熊宿禰以前と次の海部直都比以後とで、記載の形式に大きな違いが見られる。都比以下はすべて「児…、児…」の記載になっているが、健振熊宿禰以前は何代かが省略されている。

 都比以下は海部直氏の伝承に依拠して書かれているが、それ以前は他氏の伝承に基づいて書かれた可能性が高い。ほかの系図からの援用ないしは省略を意味する記号がしっかりと書かれている。

 注目すべきは海部直氏の事実上の始祖とされる都比の父が健振熊宿禰とされていること。健振熊宿禰の注釈には、品田天皇(応神)の世に「海部直」の姓を賜り、国造として仕えたと記されている。海部直氏が応神の御世を自氏の歴史においてエポックメイキングな時代と位置づけていた可能性がある。

 海部直氏が応神の御世を自氏の歴史においてエポックメイキングな時代と位置づけていた可能性がある。

 『記・紀』によれば、和珥氏祖先の健振熊宿禰は、神功・応神側にあって忍熊王の乱を鎮圧した将軍とされている。つまり、海部直一族は4世紀末頃の内乱の際に、和珥氏の前身一族とともに応神方に加担して戦っていたとも考えられる。
 この内乱(紛争)以降、海部直氏が台頭し、その後の丹後半島の主導勢力になった可能性がある。

 以上が、塚口義信氏の説をダイジェストしたものですが、この系図からは、始祖は彦火名命(ひこほあかり)という尾張氏系だが、その後は和珥氏系に、さらには海部直氏へと変化していることが分かると言うことでしょう。
 もちろん、血縁関係を意味するものではなく、多分に政治的な思惑から作られた系図ですね。

 「さき」の王権と密接な関係を維持し、守旧派であった「丹後王国」が5世紀初頭頃から衰退してくのと入れ替わるようにして、和珥氏とともに「河内に重心を移した王権」を支援した海部直氏が5世紀頃から台頭したということでしょうか。
 ヤマト王権が河内地域へと重心を移動したのに呼応するように、丹後地域では「丹後王国」と呼ぶべき勢力から海部直氏への勢力交替という地殻変動が確認できるというわけです。

 塚口説はうなずける部分も多々ありますが、忍熊王の乱の扱いを含めて疑問点も多々残っており、全面的には同意できません。

 筆者は、ヤマト王権の重心が河内に移動したことにより、竹野川流域の交易拠点としての役割が大きく低下し、「丹後王国」を形成した勢力が衰退し、それまで陰に隠れていたが、宮津・加悦を中心に堅実に地歩を固めていた海部氏が浮上したものと考えます。

 

海部氏と安曇氏
 ところで、ここまで記してきて多少釈然としないのは、7、8世紀の大和政権に4、5世紀の「丹後王国」との通交の記憶が濃密に伝わっているのに、『記・紀』が編纂される時期には丹波の国造として重きをなしていたはずの海部氏に関する記事がまったく見られないことです。
 おそらく丹波国造の海部氏は大和政権の中に完全に組み込まれてしまい、もはや政権の重要な関心事ではなくなっていたのでしょう。

 むしろ海の民の集団を統括する海部としては、丹波・丹後よりも尾張国・紀伊国・淡路国・阿波国・吉備国の方が代表的です。
 部制(べせい)成立の6世紀以降、多くの海人は海部に改組され、ヤマト王権の直属組織となって政権に取り込まれていきました。
 10世紀編纂の『和名抄』には、海人の住んだところは海(あま)または海部(あまべ)として記されています。安芸・阿波・淡路・紀伊・尾張など9ヶ所の他、九州北部に宗像・那珂など4ヶ所、日本海側に丹波・丹後など4ヶ所、合計17ヶ所が確認できます(第67回ブログ)。

 安曇氏は、海人の暴動を抑えた功績によって「海人の宰」となり、海人を統制する動きの中心的役割を担ったとされていますが、海の民がすべて安曇氏のもとに組織化されたかというと、実態は少々違うようです。安曇氏と海部氏の関係や棲み分けについては不明な点が多く断定的なことは言えそうにありません。

 その後、海部氏は中央政界における活躍が見られず、丹波・丹後の一豪族として継続するが、安曇氏は、ヤマト王権の海外進出や交易に貢献して中央政界で活躍します。

しかし663年、安曇連比羅夫を総大将として臨んだ白村江の戦いで大敗し、安曇氏の勢力は一挙に衰える。
 それでもなお海部の統率者として水産物供給の機能を束ね続け、海人族として皇室の食膳に関わりを持ち続ける。7世紀から8世紀にかけて天皇の奉膳(ぶうぜん)をめぐり、高橋氏と確執が続いたが、これに敗れ中央政界から完全に姿を消してしまうのです(第13回・67回ブログ)。

 これまでのブログで、海の民を統率する立場にあったとして、難波の阿曇連浜子について言及していますが、彼は淡路の海人を率いているものの、海部ではありません(第122回・128回・135回ブログ)。念のため。

 

むすび
 第69回ブログで、筆者は、「丹波国造家は、崇神の時代に丹波に派遣されたと伝わる彦坐王の子である丹波道主命(たにわのちぬし)の子孫の系統と見る方が妥当で、宮津にあった海部氏は丹波国造家の支流と思われる」と記しましたが、今回の検討を経てみれば、丹波国造家は当初から海部氏とすべきでしょう。

 5世紀まで隆盛したタニワノチヌシの子孫の系統(丹後王国)は勢力が衰えてしまい、名も伝わらない謎の勢力となって丹後各地に定着した。
 やがてその一部が、宮津を中心に海部氏として成長し、5、6世紀以降に整備される国造制度において、丹波国造の地位に就くことになった。
 あるいは、与謝野町に4世紀の蛭子山古墳が存在することから、「丹後王国」が地盤沈下するにつれ、野田川中流域の加悦や与謝野・宮津あたりに雌伏していた海部氏の前身集団が5世紀以降に丹後地域の表舞台に躍り出たという可能性も考えられます。

 以上が今回の結論です。

 

参考文献
『古代丹後の原風景』京丹後市教育委員会
『丹波の首長層の動向とヤマト政権の内部抗争』塚口義信
『古代海部氏の系図』金久与市
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『よみがえる古代の港』石村智
他多数