理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

154 氷川神社


  <氷川神社楼門>

 今回は、関東地方の在住者には馴染み深い武蔵国一宮の氷川神社について言及します。しかし関西などではほぼ無名に近いというから驚きです。

 その謎解きも含め確認してみたいと思います。

 

十八丁もの長い参道は旧中山道だった!
 「氷川神社」は武蔵国を主体に280数社社におよぶ氷川社の総本宮です。
 先に述べたように氷川大神はほぼ関東地方に特化した神です。恐らく関西や西日本の人々にはピンとこない神社でしょう。

 大宮駅の東、徒歩で15分ほどの大宮公園の一角に鎮座しています。大宮は昔から「氷川神社」に因み、「大いなる宮居」と称されてきました。今やその大宮は県庁所在地の浦和を大きく上回る都市となりました。

 これだけ発展した大市街地のすぐ脇に、緑濃い大宮公園と広大な神域を誇る「氷川神社」が残っているのは奇跡かも知れません。一ノ鳥居は、旧中山道の「さいたま新都心駅」付近にあります。そこから北へ向かう参道は、十八丁(約2キロ)に及ぶ。「一宮」としては日本一長い参道です。新都心合同庁舎のビルに登れば、その全長を眺めることが出来ます。


  <新都心のビルから望む氷川参道(ネットの画像を転載)>

 

 昔この参道は中山道そのものでした。しかし地元では参道を日常の交通路にしては畏れ多いとして、江戸時代初めに、並び立つ宿や家とともに西側に移転した。それが現在の中山道(国道17号線)で、今の大宮市街の始まりとなったらしい。神と地元の濃密な相互依存の歴史があったということになりますね。

 ふつう参拝者は大宮駅からニノ鳥居に至り、そこから表参道を進みます。三ノ鳥居をくぐると、神橋の先に朱も鮮やかな楼門と廻廊が見えてきます。その豪壮華麗な姿は、京都の「上賀茂・下鴨神社」を思わせます。

 楼門をくぐると姿の美しい舞殿があり、その背後に社殿が建っています。拝殿は入母屋造、本殿は銅板葺の流造です。拝殿前から振り返れば、抑制した色調の舞殿と派手な朱色の楼門・廻廊がつくる構図が実に美しい……。

 


  <舞殿、後方に楼門>

 

東国の地に出雲の神の不思議
 氷川神社の神社略記によれば、祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱となっていますが、主祭神はスサノヲでしょう。いずれも出雲系の神です。
 出雲から遠い東国の地に、何故出雲の神々なのでしょうか。

 実は出雲国と武蔵国は古くから強い繋がりがあったようです。

 『日本書紀』の成務天皇紀に「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置つ」とあり、この時に出雲族の兄多毛比命(千家家の祖である天穂日命から十数代の子孫)が武蔵国造となり当社を奉崇したという伝承があります。これは、諏訪を通り東山道から入った出雲族が当地を平定した史実であるとする説もありますが、真偽のほどは何とも……。

 おそらく真実は、奈良時代の後半に出雲出身の人物が国司として赴任したということでは。古代より武蔵国造は、出雲国造家の同族との伝承があり、当地の開拓に関わり当社を奉崇したとも伝わっています。
 そこで、出雲の斐伊川(肥河)と氷川の類似からスサノオが祭神として祀られたということでしょうかね(次節で言及)。

 出雲大社の第80代の宮司は千家尊福(たかとみ、1845年~1918年)で、貴族院議員になった後、埼玉県知事、東京府知事を経て最後は司法大臣にまで上り詰めています。彼は埼玉県知事時代に、氷川神社の地位向上に努力しました。出雲・武蔵両国の深いつながりが現代に投影しているかのようです。明治初めに、一旦は廃祀されたイナダヒメとオオナムチを、のちに合祀できたのは、彼の奔走によります。

 

氷川神社の社名の由来と「みぬま」について
 社名の「氷川」は出雲の斐伊川(肥河)に由来するという説がよく語られますが筆者が首肯するのは、「ヒ」は「氷」、「カハ」は「泉または池」をあらわす古語で、「ヒカハ」は霊験あらたかな泉を意味することから、見沼の水神ともされる自然神がベースにあったとする説です。
 鎮座地の高鼻は古代からの湧水地で原始の氷川信仰の対象でした。

 見沼は古くは「神沼」「御沼」とも呼ばれていました。縄文時代、大宮東部から浦和東部を通り東浦和の南部に至る大宮台地には、古代の川に沿って古東京湾が湾入していました。
 やがて海が後退し広大な沼沢池「見沼」が生まれます。

 そして江戸時代に入る頃から関東平野の湿地を乾燥地に変える一大事業が本格化します。当地も灌漑用水池に改造されました。さらに享保の改革で新田開発が奨励され、灌漑用水池は田んぼへと変化していきます。このような経緯を経て、現在の見沼田んぼは存在しています。

 見沼があったとされる一帯には、氷川神社のほかに、イナダヒメを祀る氷川女體神社、オオナムチを祀る中山神社(簸王子社)が鎮座しています。
 つまり昔の広大な見沼まわりに鎮座する男體社・女體社・王子社は夫婦・親子という家族関係になるので、この3社の総称が昔の「氷川神社」であったという説もあるのです(後述)。

 出雲族の影響を受ける以前には、見沼を御神体とする素朴な原始信仰があったと考えられます。

 「氷川神社」の境内に密かに鎮座する摂社「門客人神社」は、江戸時代までは「荒脛巾神社」と呼ばれていた。アラハバキは縄文の神を意味することから、出雲系の神々が当地に進出する前の先住の神を祀ったものと考えられます。
 原初の地主神が地位を奪われ、本殿内から門前へと移される場合に、門客神という表現をとることが多い(大林太良氏)ようです。

 見沼に面していた当地(ヒカハ)が太古の信仰の場であったことは間違いなく、そこに出雲系の武蔵国造が、出雲で崇敬されているスサノヲを重ねていったのではないでしょうか。

紀元後まで残った縄文海進の影響
 縄文海進は約1万年~5500年前にあった海進です。
 最終氷期(7万年~1万年前)終了後の世界的に温暖化が進んだ時期(完新世の気候最温暖期)に相当します。

 日本ではちょうど縄文時代前期にあたり、具体的には、約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。
 沖積層の堆積よりも海面上昇の方が速かったので、最終氷期に侵食された河谷の奥深くまで海が湾入し、日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたようです。

 当時の海岸線にあたる場所に多くの貝塚が存在することが知られています。地形と標高を見ながら貝塚遺跡のある地点を結んでみれば、縄文時代の海岸線を見事なくらいに復元できます。下図(ネットから転載)の小さな「•」は貝塚の分布を示しています。


  <関東平野の縄文海進領域>

 縄文海進は、もともと貝塚の存在から仮説の提唱が始まったようです。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部奥深くに分布することから、関東大震災後に海進説が唱えられたのです。

 関東平野は、紀元後しばらくの間は、縄文海進の名残でその広域が水没するか、沼地または湿地となっていたとされます。

 

縄文海進がよくわかる関東平野
 最終氷期の後、関東平野では古鬼怒川や、荒川や江戸川の谷に沿って内陸部まで海が浸入し、南北に細長い古東京湾が形成されていました。
 荒川沿いでは今の埼玉県川越付近、江戸川沿いでは同じく栗橋付近まで海が浸入していた。大宮台地などは半島状となっていました。

 縄文時代の海は武蔵野台地・下総台地・多摩丘陵などの洪積台地や山地を残して低地を浸したため、今は海のない県である埼玉・栃木・群馬も、縄文人が住みついた頃は海に面していたわけです。その後は沖積層の堆積が追いつき、縄文時代の湾は現在の低地平野となりました

 他にもいくつか象徴的な事例をあげると、
 市原市にある上総の国府・国分寺・国分尼寺跡は東京湾に面した高台にある。
 石岡市にある常陸の国府・国分寺・国分尼寺跡も霞ヶ浦に面した高台にある。
 行田市のさきたま古墳群の将軍塚古墳の石室には房洲石が使われているが、その石は(すでに古墳時代には後退していた古東京湾を経由し)河川を遡って行田市まで運ばれたと推測されている。

 近世までの関東平野は、複雑に絡み合う原始河川と、点在する沼沢を抱えた巨大な三角州でした。海岸線はすでに後退していましたが、海だった跡地には土砂が堆積し広大な葦原を形成していたと思われます。しかし平野のほぼ全体が低湿地であるため、ひとたび大雨が降れば増水し、洪水が発生し、何か月間も浸水状態が継続したのです。

 

氷川神社の立地から見えてくること
 スサノヲを祀る氷川神社は、今でこそ内陸の大市街地の一角にありますが、そこは昔、古東京湾が大きく湾入した水際の地でした。
 そこから産業道路を南に走ると、「見沼田んぼ」に突き出した舌状台地の先端部分にイナダヒメを祀る氷川女體神社が鎮座しています。
 そして、2社のほぼ中間にあって、見沼の対岸に鎮座する「 中山神社」は 、スサノヲとイナダヒメの子とされるオオナムチを祀っています。つまり昔の広大な見沼のまわりに鎮座する男體社・女體社・子社は、夫婦・親子という家族関係だという面白い説(前述した)があり、思わず納得してしまいます。
 しかしはるか昔に思いをはせれば、氷川大神は「ヒカハ」にちなむ極めてローカルな神であって、全国区の神ではなかったということですね。

 このようにセットと考えられる神社は他にもたくさん見られますが、関東地方では、鹿島神宮・香取神宮は古香取海を挟んで相対するように鎮座しており、一対の神社とされます。

 古代の水際に立地していた神社としては、大阪の枚岡神社や住吉大社、岡山平野の吉備津神社などがあり、福津平野の宗像大社、福岡平野の住吉神社も海に面していました。これら有名古社は、交易に都合のよい海辺や水辺に面した集落の紐帯として創始されたといえるでしょう。
 例えば、古代の岡山平野は、今よりもはるか内陸まで海が入り込んでいました。岡山市の市街地にある児島湖は海につながる内海ですが、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、今よりも海が内陸まで入り込んでいた名残です。吉備津神社は瀬戸内海の海岸から遠く離れたところに鎮座していますが、かつては境内の際まで海が入り込んでいました。
 また、河内平野の大部分は、かつて河内湖と呼ばれる広い内海となっていて、その奥まった水際に枚岡神社は鎮座していました。そこは『古事記』の神武東征物語に登場する白肩津で、今は現在の海岸線から十数キロも離れた東大阪市の日下にあたります。

 

スサノヲを祀る有名古社の来歴
 一般的にスサノヲは暴れ神のイメージが強く、どちらかと言えば人気がないように思えます。したがってスサノヲを祀る神社の数は、出雲地域はともかく、全国レベルで見ると非常に少ないのが現実です。
 氷川神社の他にも牛頭信仰系の神社がスサノヲを祀っており、代表的な神社として、八坂神社と津島神社があります。この数少ないスサノヲを祀る神社は、古くから一貫してスサノヲを祀っていたのでしょうか

〇 八坂神社
 現在の祭神はスサノヲ、イナダヒメ、八柱御子(やはしらのみこ)ですが、6世紀半ば頃には地域の農耕の神が祀られていました。その後、牛頭天王が合体し、さらにその後、スサノヲが重なったようです
 牛頭天王もスサノヲも疫神ですが、丁寧に祀れば病から守ってくれる神になるという共通点があります。869年には疫病の蔓延を鎮めるために祇園祭が始まっています。
 明治までは「祇園社」「祇園感神院」を名乗っていた。つまりスサノヲ信仰は牛頭天王信仰に乗っかる形で浸透していったということになります。

〇 津島神社
 社伝によれば、韓国から戻ってきたスサノヲが対馬に留まり、6世紀頃に当地に移ってきたので、これを祀ったことが創始とされています。
 しかし、平安時代中期の『延喜式』にその名はなく、大きな勢力となったのは牛頭天王信仰が高まった12世紀以降で、当時は「津島牛頭天王社」と称されていました。八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社とされ、一時期は「全国天王総本社」と称されたが、明治の神仏分離で祭神がスサノヲと定められました。

 武蔵国一宮は氷川神社のほかに氷川女體神社と小野神社がありますが、長い間にわたり、氷川神社と小野神社は熾烈な勢力争いを繰り広げたのは有名で、武蔵国一宮を「小野神社」とする説もあるので、これにも若干触れてみます。

 

小野神社との一宮争い
 氷川神社が現在に至る一宮として確定したのは江戸時代後期からであって、それまでは、小野神社との一宮の地位をめぐる攻防がありました。
 小野神社は東京都の聖蹟桜ヶ丘駅近くにひっそり佇んでいます。余程詳しい地図でないと見つかりません。

 現在「氷川神社」は文句なしの武蔵国一宮ですが、756年の太政官符には「小野神社」の名はあるものの「氷川神社」はなく、「氷川神社」の社名が古文献で確認できるのは8世紀後半になってからと言います。
 その後、927年の『延喜式』では「氷川神社」は最高位の「名神大社」に位置づけられましたが、逆に「小野神社」は「小社」にとどまり、この時点では「氷川神社」に分があったようです。
 「氷川神社」の国家的地位は極めて短期間に上昇しました。この背景については、宮瀧交二氏の説に納得性があります。「武蔵国で生まれた丈部直不破麻呂が、氷川神社の祭祀権を獲得すると同時に中央でも活躍し、朝廷に対する働きかけが功を奏した」と言います。事実、『続日本紀』には同時期、不破麻呂が活躍した記事が載せられています。

 しかし地元では、中世の長い間にわたって、「小野神社」を「一宮」とする空気が強く、「小野神社」が一宮、「小河神社」が二宮、「氷川神社」は三宮とされてきました。つまり中央と地元で認識のずれが生じていたわけですね。

 実際、「小野神社」に軍配を挙げたくなる客観的な条件は揃っています。

 「小野神社」の近く、多摩川を挟んだ反対側には、国府が置かれ、国分寺総社もありました。総社であった「大国魂神社」は今でも崇敬を集めています。
 この一帯は立川段丘上で、都から東海道を下ってくると、東京湾から多摩川を遡り直接アクセス出来ます。また東山道との連絡も容易でした。当地は交通の要衝地として大いに繁栄したわけですね。こうしてみると、中世においてはどうみても「小野神社」の方が「一宮」に相応しかったようです。

 時が経過し江戸時代後期以降は、「氷川神社」が徳川政権から篤い崇敬を受け、「一宮」という社格を与えられ現在に至っています。一方の「小野神社」は度重なる戦乱や多摩川の氾濫で衰微し、宮司も常駐しない小さな神社となってしまいましたが、今でも武蔵国一宮を名乗り続けています。