理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

146 伊勢神宮と志摩国一宮

 <左、伊勢神宮内宮の神楽殿、右、瀧原宮の参道>             

 アマテラスと言えば伊勢神宮というくらい、両者は密接なつながりがあります。その伊勢神宮に筆者は3回、参拝しています。

 2008年8月10日
 2010年12月1日(御垣内参拝)
 2013年8月1日(御白石持行事)

 今回は、これらの体験の際に得た知見も思い起こしながら伊勢神宮ならびに同じ志摩国に鎮座する一宮2社について、その創始の事情や歴史について深掘りしてみます。

伊勢神宮とは
 正式名は神宮または大神宮で、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)、そして別宮14社、摂社、末社まで含めれば、総計125社から構成される全体を、通称「伊勢神宮」と呼んでいます。
 伊勢神宮は神社の中の神社で、日本全体のピラミッドの頂点に立つわけですが、時代とともに規模は拡大し神域も整えられてきました。特に明治維新後の整備拡充には顕著なものがあります。

 中世までの伊勢神宮は、民衆を寄せつけない天皇のための社でした。
 このことは、804年(桓武天皇の時)につくられた朝廷への上申書『皇大神宮儀式帳』の中で、「私幣禁断の制」として定められています。個人的に参拝すると遠流に相当するとみなされたようです。
 その後、律令制度が崩壊すると、貴族や武士階級の参拝が可能になります。私たち民衆レベルに身近な存在になるのは近世以降のことです。

 唯一神明造の御正殿をはじめとする社殿は、建築家の高松伸氏が「何も足せない、何も引けない」という名言で絶賛したと言われています。また、ブルーノ・タウトは「日本固有文化の精髄であり、世界建築の王座」と評しました。

 社殿の素晴らしさだけでなく、広さも驚異的です。内宮・外宮の神域のほか、神路山・五十鈴川(内宮)、高倉山(外宮)などもすべて神宮に所属します。全体面積の9割以上を占める神宮林は総面積5450ヘクタールと、鎮座地・伊勢市の面積の約4分の1にも達します。

 祭神は内宮が最高神であり皇祖神でもあるアマテラス、外宮がアマテラスに食を供するトヨウケです。

 古代からの長い伝統を持ち神社の頂点に立つ伊勢神宮ですが、アマテラスを祀るようになったのは7世紀より前には遡ることなく、神域・社殿が現在のような形に整えられてきたのはさらに新しい時期ですが、以下に詳述します。

 

伊勢神宮の歴史
 大王家が、本拠地の大和から離れ、しかもそれまで深い関係でもなかった伊勢の地に先祖神を祀るのは妙です。伊勢でアマテラスを祀るようになった契機は次のような経緯でなかったかと思われます。

 壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(後の天武)は伊勢北部を流れる朝開川のあたりで、南方の伊勢の神を遥拝して戦勝祈願をしました。壬申の乱に勝利した天武はこれに感謝して斎宮を伊勢に送り、それまで大和の地で祀っていた大神(太陽神オオヒルメムチか?)を伊勢の地に遷したという説が有力です。

 では、なぜ天武は伊勢に向かって遥拝したのでしょうか。

 伊勢は、大和盆地から比較的近く、太陽が海から昇る東の方角にあたります。
 伊勢から志摩にかけての沿岸地域には、度会氏(ルーツは海人族の磯部氏とも)による土着の太陽信仰がありました。伊勢には太陽神アマテルを祀る地方神社があったのです。
 7世紀以降のヤマト王権は当地に格別の想いを抱いていたと考えられます。

 伊勢の社は、それまで度会氏が一手に奉仕していましたが、天武は大神を伊勢に遷す際、中臣氏に近い荒木田氏を加えたため、荒木田、度会の両氏が祭祀を主導するようになります。

 このようにして、伊勢の太陽神アマテルがオオヒルメムチに合祀されて、最高神アマテラス(天照大神)が誕生したと考えられます。
 そこは、宮川の河口から40キロ遡った支流(大内山川)が流れる山間の地です。
 現在の「瀧原宮」のある場所で、度会(磯部)氏や荒木田氏の主導で祭祀が執り行われ、「多気大神宮」と呼ばれました。
 現在、「瀧原宮」は「伊勢神宮」の別宮の一つですが、神宮本体よりむしろ古式を残していて、参拝者も少なく静寂さが維持され森厳な雰囲気に満ちています。こういう場所こそ「神奈備」と呼ぶのではないでしょうか。

 『続日本紀』文武天皇の時(698年)に、
 <多気大神宮を度会郡に遷す>
とあり、現在の内宮が鎮座する宇治の地に遷されたようです。そして、荒木田氏が内宮の祭祀の主導権を握ることになります。

 奈良時代はじめになると、土着の度会氏は山田の地でトヨウケ(豊受大神)を祀るようになり、これが後に外宮となりました。

 内宮と外宮は起源も性格もまったく異なります。外宮はもともとヤマト王権の大王家とは関係なく、度会氏の祖先神を祀る社だったのです。

 

 『皇大神宮儀式帳』と同じ804年に作られた『止由気宮儀式帳』には、雄略の在位中、アマテラスの望みによりトヨウケが鎮座したと記されています。
 大和から遷してきた大王の神アマテラスに対して、土着の神が食物供献という形の服従をすることで王権の祭祀体系に組み込まれます。これが、外宮のトヨウケが内宮のアマテラスに神饌を奉仕する形として現在に伝わっているのです。

 本件、この後の節で、さらに言及します。

 太陽神を祀る伊勢の社が、伊勢神宮として皇室の氏神社の地位に昇りつめたのは奈良時代初期前後であり、持統が伊勢行幸をした692年の時点では、最高神を祀る社として認識されていたことは確実と思われます。
 もっとも、正確に言うと持統は、行幸したものの参拝まではしなかったようですが……。

 別宮は現在14社を数えますが、804年の『皇大神宮儀式帳』には別宮は5社と記されています。
 内宮の別宮としては荒祭宮、月読宮、瀧原宮、伊雑宮の4社、外宮の別宮は多賀宮の1社、合わせて5社だけが古代から存在した別宮です。その後、蒙古襲来や明治維新などを機に別宮は増加し、倭姫宮はなんと大正になってからつくらたものです。
 摂社、末社のレベルになると、中世にかけて衰微・退廃したものが、近世になってから、考証によって復興したものも数多く含まれます。

 

伊勢神宮の神仏習合
 古代史とは離れますが、意外なことに伊勢神宮にも神仏習合の時期がありました。天平年間に伊勢の神宮寺が造営されたようです。

『続日本紀』766年には、
 <使いを遣はして、丈六の仏像を伊勢大神宮に造らしむ>
とあります。

 しかし897年に伊勢は「神郡」となり、いち早く伊勢大神と神宮寺を分離し、神仏習合を脱した歴史があります。

 

由緒とさまざまな伝承
 伊勢神宮の起源について、伊勢神宮の由緒書「御鎮座の歴史」の中で、「皇大神宮御鎮座の歴史は2000年前にさかのぼる」と紹介しています。額面通りだとすると創建は紀元前後になりますが、これはあり得ません。
 宗教や信仰の一環と考えれば、そんなに目角を立てることでもないのですが、これを歴史の事実と捉えてしまうと、おかしなことになります。念のため。

 伊勢神宮の起源については、いくつかの説があります。前項で述べた天武の時代の他に、『日本書紀』の記述などを根拠に垂仁の時代雄略の時代継体の時代とする説があります。

 『日本書紀』本文には、伊勢への鎮座を暗示する次のような説話が記載されています。
 <崇神は、天皇の大殿に祀っていたアマテラスとヤマトオオクニタマの2神(同床共殿)を、畏れ多いとして、アマテラスをトヨスキイリヒメに託して大和の笠縫邑に祭った。次の垂仁は、アマテラスをトヨスキイリヒメから離してヤマトヒメに託し、ヤマトヒメは鎮座地を求めて、宇陀、近江、美濃を巡幸して伊勢の地に到った。>

 804年の『皇大神宮儀式帳』には詳しい巡幸路が記され、14ヶ所の比定地が示されています。しかし、この巡幸はもちろん歴史的事実ではありません。
 鏡を抱いて巡幸したという研究者もいますが、『日本書紀』本文のどこにもそんなことは書いてありません。

 鎌倉時代に外宮の度会氏が著した『倭姫命世記』では、トヨスキイリヒメとヤマトヒメの巡幸先はさらに数多く広域になります。紀伊、吉備から丹後まで27ヶ所を数える壮大なドラマに発展しています。

 アマテラスが巡幸の途中に立ち寄ったという伝承が元になり、「元伊勢」と称する神社が23か所あります。
 なかでも丹後国の一宮である「籠神社」の元伊勢伝承は有名で、同社には内宮と外宮双方の元宮であるという由緒が伝わっています。
 籠神社の奥宮がある真名井原には、神代の昔からトヨウケが鎮座していたが、崇神の時代にアマテラスが大和から遷り、トヨウケと一緒に「與謝野宮」として祀られた。その後、垂仁、雄略の御代に、2神はそれぞれ伊勢の内宮、外宮に遷ったというのです。
 この伝承はあまねく知れ渡り、これをモチーフにした古代史もたくさん見受けられます。しかし、この伝承は新しいのです。『倭姫命世記』が著された鎌倉時代以降の説に過ぎません。

 真名井神社(籠神社の奥宮)の磐座主座には「豊受大神、又の名、天御中主神を祀る」という説明がつけられています。主祭神トヨウケをアメノミナカヌシと同一視しているのですが、これは鎌倉時代後期、伊勢神宮の外宮が、内宮と対等以上の地位を主張するため、外宮の祭神トヨウケを造化三神筆頭のアメノミナカヌシと同一であると宣言したことによるのです。

 度会氏が主導した伊勢神道では、外宮の祭神トヨウケは「記紀神話」におけるアマテラス以前の、宇宙創造神アメノミナカヌシやクニノトコタチと同一であるから、アマテラスをしのぐ絶対神であるとしています。長い歴史の中で、このように内宮と外宮はしばしば主導権争いを繰り返し、一時は外宮の方が上位で繁栄した時期もありました

 

 『日本書紀』には、雄略の時代や継体の時代に、斎宮を伊勢神宮に派遣したかのような記事もあります。

 雄略紀===<稚足姫皇女 更の名は𣑥幡姫皇女。是の皇女、伊勢大神の祠に侍り。> 

 継体紀===<息長真手王の女を麻績娘子と曰ふ。荳角(ささげ皇女を生めり。是伊勢大神の祠に侍り。>

 しかし、ヤマト王権と伊勢の親密な交流は壬申の乱のあとに始まったのであって、「伊勢大神の祠」は伊勢神宮ではなく、大和笠縫邑の聖地を指していると解すべきでしょう。
 歴史として確実な起源とされるのは、前項で述べた通り、天武の時代であると断言して良いでしょう。

 その他にも、伊勢神宮をめぐる伝承には謎深く興味をそそられるものがたくさんあります。アマテラスは当初、男神として祀られていたが、持統と藤原氏の手で女神に変えられてしまったとか、アマテラスと大神神社のオオモノヌシは一体であるとか……、しかしいずれも確たる裏づけがあるわけではありません。

 以上見てきたように、はるか昔から存在したかに思える伊勢神宮ですが、実際は7世紀末から8世紀初頭にかけてその体裁を整え、その後も、神仏習合、内宮と外宮の対立や、衰亡の時期、そして明治以後の大拡充など幾多の変遷を経て、今のような隆盛を見せているのです。

 

天照大御神は巫女から皇祖神に昇格した!
 祭神は天照大神ですが、アマテラスはそのはじめから皇祖神として存在した神ではなかったようです。
 アマテラスの原初的な神名は大日靈貴命(おおひるめむち)です。ヒルメムチとは日の妻で、太陽神に仕える巫女を意味します。すなわち、まつられる神というよりはまつりをする神としての性格が強かったと考えられます。

 高天原の世界では、高御産巣日神こそが主宰神と仰がれた段階が確かにあった。タカミムスヒは宮中八神や大嘗祭の八神にも含まれているし、出雲国造神賀詞では「高天の神王タカミムスヒノミコト」と称されていること、神武みずからがタカミムスヒを顕斎する説話が残っていることなどが、その傍証です。

 そのタカミムスヒに仕える巫女のオオヒルメムチが、タカミムスヒと合一化しながら、のちにアマテラスとして、皇祖神の首座を占め、高天原を主宰する神に昇華したと考えられます。日の神に奉仕する女神が、のちには皇祖神アマテラスへと変貌したというわけです。

 5世紀、雄略の頃の最高神はタカミムスミで、その後、8世紀初めの『記・紀』の完成時までに、アマテラスが皇室の祖神と信じられるに至ったのでしょう。遠い過去から現在までずっと最高神と仰がれているかに見えるアマテラスですが、その最高神としての来歴は意外に新しい時代のことなのです。

 

志摩国一宮・その1「伊雑宮」

一宮に頓着しない伊勢神宮の別宮
 「伊雑宮」は、内宮から15キロほど東南の上之郷に鎮座しています。伊勢磯部道路で南下、国道167号線に合流して北へ回り込むと、左側に高い石垣に囲まれた森が広がっており、そこが「伊雑宮」の境内になります。
 小さな神社という印象だが、「伊勢神宮」の別宮とされるだけあって格調の高い雰囲気を醸し出しています。
 正殿の形式は「伊勢神宮」と同様に唯一神明造で、祭神は瑞垣、玉垣と二重の垣の中に鎮座しています。

 「瀧原宮」とともに当社は、皇大神宮遥宮と呼ばれたが、肝心の祭神については変遷があるようです。
 当社由緒書では天照坐皇大御神御御魂としています。804年の『皇大神宮儀式帳』でも天照大神御魂と表記されています。

 しかし中世から近世にかけては祭神に諸説あって混沌とします。
 当社宮司家であった磯部氏の祖先、伊佐波登美命と玉柱屋姫命の男女2神を祀っていたという説は有力です。『延喜式神名帳』には志摩国答志郡の「粟島に坐す伊射波神社二座」としてイサワトミとタマハシラヤヒメの二神の名が記載されています。しかし、そこに「伊雑宮」の名はなく「伊射波神社」(いさわ)という名があるので混線するわけです。

 「伊雑宮」も「伊射波神社」も読みにくく珍しい社前です。「いざわ」も「いさわ」も伊雑宮鎮座地の磯部の「いそ」から派生したともいわれる。祭神の「いさわ」も漢字は異なるが同根なのでしょう。この点からは『延喜式』の「伊射波神社」は、磯部にある「伊雑宮」を指すようにも思えてきます。
 紆余曲折の末、明治維新後に現在の祭神に定められています。

 当社を志摩国一宮だとする識者は多いが、肝心の当社の由緒書や境内の中にも「一宮」を感じさせる表現は何一つなかった。「伊勢神宮」は神社の中の神社で、日本全体のピラミッドの頂点に立つ。各国の「一宮」とは別格の位置にある。その「伊勢神宮」は125社から構成されその中の一社が当社である。伊勢神宮グループの構成員たる当社を、国の「一宮」と考えるのは、客観的にも無理があると思う。

 当社のすぐ近くに伊雑浦があり、的矢湾を介して太平洋と繋がっている。当社は海に関係が深い神社であった。しかし農耕神としての要素もあるらしい。古式ゆかしい当社の御田植式の様子をテレビで見たことがある。「住吉大社」、「香取神宮」とともに「日本三大田植え祭り」とされています。

 このような民間信仰的な神事が継続されてきたことから、筆者は「伊勢神宮」の別宮とされる以前は磯部の土着神(男女2神)を祀っていたのだと考えたいですね。

 

伊勢三宮説を打ち出し日本最古の社を標榜した「伊雑宮」
 「伊勢神宮」は125の神社から構成されるが、その中にひときわ重要な別宮が14社ある。 
 「伊雑宮」はその中でも最重要のランクに位置付けられている。かつては神宮本体との相克の歴史があり、別宮14社の中でも一目置かれているのだろう。

 これには謎の文献とされる『先代旧事本紀大成経』をめぐる事件が大きくからむ。
 『大成経』は1679年に江戸の書店で発見された。内容は「伊雑宮は日神を祀る社で、内宮・外宮は星神・月神を祀る」というもので、江戸幕府はこれを偽書とし関係者を処罰した。しかし幕府の目をかいくぐって「大成経」は出回り神道界に大きな影響を与えた。

 その20年前には伊雑宮事件が起きている。伊雑宮神職が「伊雑宮こそが日本最初の宮で、のちに分家として内宮、外宮が出来た」として、「伊勢三宮説」を打ち出した。内宮は自らの地位を危うくするものだとして反撃した。その後朝廷は「伊雑宮」を内宮の別宮とし、祭神を伊射波登美命と裁定した。そして伊雑宮の神職らは伊勢志摩から追放されて終結したという。

 一連の事件は『日本書紀』の記述内容が曖昧であることから発した伊勢神宮本体と「伊雑宮」の宗旨争いであった。「伊雑宮」は「一宮」に無関心のようだが、「一宮」という国中一番にとどまらず、日本の一番たらんとした過去のプライドが今も生きて続いているのかも知れない。

 

志摩国一宮・その2「伊射波神社」

アプローチの最も困難な一宮
 鳥羽市内から加布良古崎方面に向かうと鳥羽市安楽島町である。安楽島舞台のある広場が「伊射波神社」参拝の出発点となる。バスもこの安楽島が終点で、徒歩ではここから40分もかかるようだ。けもの道のような参道が峠を3つばかり越えて続く。一旦海辺に降りたあと最後の急登が285メートル続き、ようやく社殿に達する。日本一アプローチの困難な「一宮」であろう。海辺までの車道はあるが、道幅が狭いので軽自動車しか通れない。
 過日、筆者は伊勢市でレンタカーを借り、4か所の分岐に立つ「右一宮」の標識に従って社殿を目指した。竹林や畑に囲まれた細い山道を脱輪しないようローギヤで上る。海辺に下りて2台分位の僅かなスペースに駐車した。
 眼前に広がる安楽島の海は紺碧でキラキラ輝いていた。海辺には誰もいない。聞こえるのは波の音だけで、まるで無人島にいるようだった。
 浜鳥居の立つ場所からは登山である。

 社殿は標高86メートルの加布良古崎山頂に鎮座していた。無人である。椎や椨の巨木に覆われた境内には簡素な拝殿と本殿が建っていた。拝殿の中からガラス戸越しに本殿が望める。垣の中に建つ本殿は小さいながらも棟持柱を持つ神明造だ。

 拝殿の中には、参拝者記帳ノートが置いてあり、パラパラとめくってみる。日本全国から来ていることが一目瞭然だ。数えると日に1~3名くらいだった。なんと参拝者の少ないことか……。

 ところで、こんな不便なところに何故社殿があるのだろうか。しかも、とても「一宮」と思えない質素な佇まいである。この謎解きは参拝後のことになる。

 

かつては朝廷から尊崇された偉大な贄持つ神だった
 陸上交通が主流の現在では参拝すら困難な神社だが、調べてみると往古は、歩くのが困難な陸路よりも海上交通が発達していて、志摩の各地と海上交通で結ばれた当社は隆盛を誇ったようである。

 当社の鎮座する安楽島から磯部にかけての一帯を往時は粟島と呼んでいた。
 先に述べたように『延喜式神名帳』には「粟島に坐す伊射波神社二座」 とある。そのうち一座は伊佐波登美命を祀った「本宮」で、当地より3キロほど南の安楽島町字二地の贄にあったという。

 昭和47年から14年かけて発掘調査をしたところ、縄文中期から平安中期に至る各時代の膨大な遺物が発見されたという。皇族や貴族が往来した痕跡も見つかった。

 こうしたことから古代の「伊射波神社」は、政権中央から崇敬された「贄持つ神」だったという説が有力だ。その後、「本宮」の衰退により、祭神は加布良古崎の「伊射波神社」に遷座されたという。

 他の一座は稚日女命を祀る加布良古崎の「伊射波神社」である。地元では加布良古大明神とも称され「かぶらこさん」の愛称で親しまれてきた。外宮摂末社神楽歌の中に、朝廷に奉げる鮑を採る加布良古崎の神事が歌われる場面があるようだ。「伊勢神宮」とは浅からぬ関係にあったことが考えられる。

 志摩国は非常に国土が小さく平地の少ない国だった。当然稲の収穫量は少なく海産物が主要な資源だ。小さいながらも一国を維持できたのは、海産物を皇室に奉げる「御食国」だったからに他ならない。

  筆者は「伊射波神社」の方が本来の「一宮」だと確信した。官制神社の匂いがプンプンする「伊雑宮」よりも、安楽島の青い海に面している「伊射波神社」の方が、古代の御食国の「一宮」に相応しいと思ったからです。

 「伊勢神宮」も、伊勢神宮と関係が深かった「伊雑宮」「伊射波神社」も、その創始は7世紀から遡ることはない、これだけは確かでしょう。