理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

69 海部氏と本系図・勘注系図

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 <丹後国一宮 籠神社の神門>

  前回・前々回は代表的な海人族の活躍についてレビューしたので、今回は丹後海部氏について言及することにします。
 筆者は、2011年、2013年の2回、海部氏が宮司を務める丹後国一宮「籠神社」に参拝しているので、その旅行記を兼ねて綴ってみます。


丹後国一宮「元伊勢 籠神社」
 「籠(この)神社」は、京都府宮津市に鎮座しています。日本三景の一つである天橋立は、古代、「籠神社」の参道でした。天橋立は砂嘴が両岸から伸びてきてつながったもの。
 宮津の市街地側から歩き始めれば、日本一素敵な参道であることを確信できます。社地の広大さから、かつての籠神社の勢力の凄さがしのばれます。

 古歌にも、
 <神の代に、神の通いし道なれや、雲居に続く天橋立>
とあります。
 『丹後国風土記』逸文では、天橋立はイザナキが真名井原のイザナミのもとに通った梯子が、神の寝ている間に倒れたものとしているのですよ。

 天橋立から参道が延び、国道178号線を渡った先に「籠神社」入口があります。駐車場がとにかく広い。旅行社の観光コースに入っているせいか参拝客も多い。太鼓橋、一ノ鳥居、ニノ鳥居を経て神門に至る。
 神門前の左右にある狛犬2基は、鎌倉時代の作で石造としては日本一の名作(重文)。神門をくぐれば拝殿正面だ。
 参拝を終えた大半の観光客は、左手にある土産店へ向かってしまう。実にもったいない。拝殿の右横から後ろに廻り本殿を確認しないことには当社の凄さは確認できません。

  f:id:SHIGEKISAITO:20200908172233j:plain <籠神社拝殿> 

 本殿は唯一神明造で、心御柱や棟持柱を持ち古式を残しています。しかも高欄上の五色の座玉妻飾りの鏡形木10本の堅魚木は「伊勢神宮」正殿と当社にしかないもので、「伊勢神宮」と同じ高い格式を表している。
 このハード面だけでも当社の特異性は明らかで、伊勢神宮に次ぐ高い格式を持つ社殿として各方面から注目されているわけです。
 しかし、古代史研究者から当社が注目されるのは、むしろ他の事象の方にあるので、後ほど述べることにします。

 宮司は代々、海部氏が務めています。
 海の民が住んでいたところを海部といい、全国に17ヶ所あるが、そのうち3ヶ所は丹後半島とその周辺です(第64回ブログ)。
 熊野郡(京丹後市久美浜)、加佐郡凡海郷(舞鶴市・大浦半島あたり?)、越前坂井郡海部郷で、海部一族は優れた航海力・海運力を持ち、漁撈に従事するだけでなく、大陸との交易を行ない、富を蓄積した模様。
 外洋航海に必要な天文知識、造船技術、航海技術に長けていただけでなく、水軍としても成長し、やがて近江・山城・大和にまで影響力を行使したようです。
 その海部一族の支流が現宮司家の海部氏と考えられます。

 現在の祭神は彦火明命(ひこほあかり)またの名は天照國照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)。
 ヒコホアカリはニニギの兄弟神とされている。
 社殿の右には「恵美須神社」があり、当社の元神(彦火火出見命と倭宿祢命)を祀っている。現祭神と元神との関係は諸説あって混沌としているが、いずれの説でも、現宮司家はヒコホアカリを祖としています。

 境内左手には、亀に乗った倭宿祢命(やまとすくねのみこと)像が立っている。
 ヤマトスクネは珍彦(うずひこ)や椎根津彦(しいねつひこ)とも呼ばれ、宮司家4代目の祖としています。説明板には「亀に乗ったお姿は海人族の始原の一面を語り、又海氏と天系との同一出自をも示唆するようである」とあります。
 実に意味深長な説明。後述するように宮司家で伝承されてきた秘密を恐る恐る開陳するような表現なのです。

 

元伊勢を名乗る籠神社
 当社は、単に籠神社ではなく、その前に「元伊勢」という言葉を冠しています。
 なぜなのか。
 当社で頂いた由緒書には、本宮の祭神より上位に、奥宮である「真名井神社」の祭神が記されていた。豊受大神と天照大神である。
 当社にあっては奥宮の存在が余程大きいのでしょう。伊勢神宮に鎮座する前は、この2神は真名井神社の地あったという伝えから「元伊勢」と名乗るわけです。

 その「真名井神社」は、「籠神社」から15分ほど上った高台に鎮座しています。
 当時は、ここまで上ってくる人は非常に少なかった。その後、「パワースポット巡り」とか「御朱印ブーム」とかで人出が増えたのだろうが、今はウイルス禍で人出が激減なのでしょうね。

 参道入口には一対の狛龍が構え、真名井の御神水が湧き出ていた。
 本殿後方には磐座主座(豊受大神、亦の名、天御中主神を祀る)と磐座西座(天照大神を祀る)があり、神が降臨したことを想起させる森厳な雰囲気が満ち満ちている。

 主祭神トヨウケとアメノミナカヌシを同一視しているが、これは鎌倉時代後期、「伊勢神宮」の外宮が、内宮と対等の地位を主張するため、外宮の祭神トヨウケを造化三神筆頭のアメノミナカヌシと同一だと宣言したことによるのです(第15回ブログ参照)。
 しかし、その割にアメノミナカヌシは、『延喜式神名帳』の中に神名や神社名は見当たらないし、「宮中の奉斎八神」にも入っていない。『古事記』で知るのみです。
 アメノミナカヌシは中国の天や天帝の観念に影響を受けた7世紀後半以降に編み出された後づけの神だと考えた方が良いですね(第11回ブログ参照)。

  

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   <奥宮の真名井神社>

 全国に元伊勢と称する神社は23カ所あるが、内宮と外宮双方の元宮とされるのは「籠神社」だけです。
 すなわち、当社奥宮の真名井原には神代の昔からトヨウケが鎮座していたが、崇神の時代にアマテラスが大和から移り輿謝宮としてトヨウケと一緒に祀られた。その後、垂仁、雄略の御代に、2神はそれぞれ伊勢の内宮、外宮に移ったというのですから。
 しかし実はこの伝承は新しい。鎌倉時代に『倭姫命世記』が著されて以降の説なのです。

 さらには、トヨウケは元々、伊勢土着の度会氏によって信仰されていた神ですよ(第15回ブログ参照)。元伊勢伝承は疑問だらけです。

 元伊勢伝承をひとまず置き「勘注系図(後述)」で確認してみると、719年にヒコホアカリを「籠神社」の主祭神としたと記載しています。それより前の648年には奥宮大神を真名井原(現奥宮)に祀り籠宮(このみや)と称していたようで、この時の祭神がヒコホホデミ(元神)だったようでもあります。

 実は丹後には元伊勢を名乗る神社が他にもあります。
 福知山にある皇大神社・豊受大神社などです。
 いずれも『倭姫命世記』の記事が丹後のあちこちの神社に影響を与え、中世以降に元伊勢を名乗る神社を増殖させたようです。それらのうち、由緒の古い神社が籠神社というわけです。

 籠神社と真名井神社に参拝した後、観光の定番に挑戦してみた。
 文殊山山頂のビューランドで股のぞきをやってみた。皆が同じ格好をしているので笑えてくる。飛龍観と呼ばれるが如何にもそれらしい。歩いた天橋立を天から眺めてみるのも悪くない……。古墳時代の頃の古代人も文殊山に登って眼下を見下ろしたのだろうか。
 以前に見たことがある雪舟の水墨画「天橋立図」を思い出した。天橋立を見事な鳥瞰図として描いてあった。「籠神社」のほか智恩寺、成相寺なども詳細に描き込まれている。飛行機のなかった時代にどうやって描いたのか、実は今でも謎らしい。


 参拝後、2014年の京都新聞の記事で、「真名井神社」が本殿より北を立入り禁止にしたことを知った。磐座の上によじ登る輩が後を絶たないことから、高さ2.5メートルの石柱と木の柵で玉垣を作り、地面に砂利を敷いたらしい。古代を偲ばせる景観が台なしだが、マナー違反も極まった感があり、この処置は致し方ないでしょう。


籠神社宮司家に伝わる謎の本系図・勘注系図
 宮司家には、古文献にも登場する「息津鏡と辺津鏡の二面の鏡」と『海部氏系図』が伝わっています。鏡は、地中からの出土ではなく人の手で伝えられてきた伝世鏡で、昭和62年に2000年前のものと鑑定され大反響を呼びました。

  

 f:id:SHIGEKISAITO:20200908172519p:plain      <海部氏本系図> 

 『海部氏系図』は「本系図」と「勘注系図」から成り、戦後になって初めて公開された。現存する最古の系図として国宝に指定されている。この系図には『記・紀』が伝えていない独自の内容も記載されています。

 文化庁のデータベースは、『海部氏系図』について、おおむね次のように説明しています。
 <丹後宮津の籠神社の宮司家海部氏に歴代相承の秘巻として伝来した籠名神社祝部氏系図である。本文の体裁は竪系図の古態をよく存し、縦に継いだ料紙の中央に薄墨一線を縦に引き、線上に適宜間隔を置いて始祖以下直系の子孫のみを掲げており、その書写年代は9世紀後半と認められる。歴代の記載は「始祖彦火明命」から「孫健振熊宿称」に至る上代、「児海部直都比」から「児海部直勲尼」に至る海部管掌時代および「児海部直伍百道祝」以降の祝部の時代に大別される。その内容は海部氏の歴史的推移のみならず、正史に埋もれた古代地方豪族の変遷のあり方を伝えて注目され、わが国歴史上にその価値は高い>。

 「本系図」によれば、始祖ヒコホアカリは、神武に大和を譲ったと伝わるニギハヤヒと同神であるとし、天孫であるニニギの兄としている。すなわち宮司家と天皇家は共に同じ祖先(アマテラス)から発し、万世一系と言われていた天皇家と海部家が親戚関係になるわけです。
 大東亜戦争前は、皇室を中心とした国家の歴史の考え方が主流であり、皇室の系図に少しでも抵触するような系図は不敬罪の対象になるので、大東亜戦争後まで永く公表さえ出来ない状況だったという。
 以下、もう少し詳しく確認してみます。

 まず「本系図」ですが、9世紀後半の書写
 応神の時に、上代最後の建振熊宿禰(たけふるくま)が「海部」姓を賜り国造として仕え奉ったとあるが、タケフルクマは近江・山城・大和に勢力を張った和珥氏の祖であるし、応神の時代に国造制はなく、史実とは考えにくい。
 一方、上代の歴代の名前など不明部分があったとしても、最初に「海部直」が付せられる海部直都比以降は伴造(とものみやつこ)として海民族を率い、7世紀後半以降は名前の下に「祝」字をつけ籠神社の祝(ほうり)として奉祀した可能性が高いことなどを汲み取ることができ、ある程度史実を伝えている可能性があるのかもしれません。
 当系図が当時の丹後国庁が公認したのもそのせいか……。

 

 「勘注系図」の方は江戸期の作成ないし書写です。原本は全く不明。
 「勘注」とは、諸資料を勘(しら)べあげて注記するという意味ですが、尾張氏系図などの知識を加えて「本系図」に欠けている情報を大幅に補充したということらしい。
 しかし、読み込んでみると、「本系図」に記載のない系譜(6世建振熊宿禰以降19世まで)に、尾張氏、和珥氏など他氏族の系図を勝手に接合・混合させていて、内容は支離滅裂、古代史の検討にはむしろ有害かも。

 「勘注系図」の上代部分には独自の天孫降臨神話も載せています。
 ヒコホアカリ(別名ニギハヤヒ)が天命を受けて、2面の鏡(息津鏡と辺津鏡)を持って大和に降臨して大八州を治め、ウマシマヂ(物部氏の祖)をもうけた。その後、丹波の息津嶋(冠島・沓島)へ降臨し、地震で息津嶋が海中に没した後に籠宮に降臨した、というものです。

 物部氏(か?)によって編纂された『先代旧事本紀』でも、アメノホアカリ(ヒコホアカリのこと)とニギハヤヒを同一神とし、その長子がウマシマヂ(物部氏の祖)、次子アメノカゴヤマ(高倉下)の孫が倭宿禰命で、さらにその子孫が尾張氏・津守氏・海部氏につながるとしています。
 ニギハヤヒ系が大勢力を誇る図式です。

 『先代旧事本紀』にある天照国照彦天火明櫛玉饒速日命というニギハヤヒの長い神名は血族・氏族の統合を体現するという意味合いがあるのだろうか。
 アマテラス・ニニギの系統(天照国照彦天火明)に、ニギハヤヒ(櫛玉饒速日)という自らの祖を連結したいという物部氏の意志が働いたのだろうか。

 あるいは尾張氏・津守氏・海部氏らと物部氏が広域にわたる近親的な国造氏族であることをアッピールする狙いがあったのか。奇しくも継体天皇が都入りする際に、反対勢力と思われる葛城系に対抗して、サポート側に回ったのは、これらの氏族ですね。
 7世紀頃までにはこれらの氏族の政治的連携が進み、『先代旧事本紀』などに反映されたと考えることもできますね。

 『海部氏系図』も『先代旧事本紀』も、ヒコホアカリ(アメノホアカリ)とニギハヤヒを同一神とする点で一致しています。
 しかし新撰姓氏録』では、各姓氏は皇別・諸蕃・神別と分類され、さらに神別は天神・天孫・地祇に明確に分類されている。
 神別としてのニギハヤヒは天神(高天原出身、皇統ではない)、アメノホアカリは天孫(アマテラスの系統)として両者を別の分類にしているので、ヒコホアカリとニギハヤヒは別神と見たほうが良いのではないか。

 さらに「勘注系図」の中からいくつか気になる疑問点を記すと……。
 始祖を除く歴代17名の中には、「亦名」を併記して古代天皇(安寧・孝元・崇神・開化・景行)の和風諡号に紐づけしている。
 14世孫の川上眞稚命のまたの名を丹波道主(たんばみちぬし)命と記し、海部氏の先祖であることを示唆している。
 16世孫の大倉岐命(おおくらき)からは丹波国造となり、18世孫の建振熊宿禰(たけふるくま)から「海部」姓を名乗るとしている。
 これらは『記・紀』や『先代旧事本紀』の記事の混入で、系図にまったく一貫性がありません。


 7、8年前、「一宮めぐり」に精を出し、その体験記を出版した頃の筆者は、これらの『海部氏系図』に古代史の謎を紐解く大きな可能性があるのではないかと期待していた。解読が進めば『記・紀』が伝えない古代史の真実に迫れるのかも知れないと……。

 その後、金久与市氏や伴とし子氏の著作、その他の関連書籍や文献で研究を重ねた結果、現在、「勘注系図」の内容は支離滅裂で古代史を紐解く大きな手掛かりにはなりにくいと判断しています。よくぞ国宝の指定を受けたものだ……。

 「勘注系図」に登場する始祖以外の歴代17名については、他の史料にまったく所見がなく傍証もないと切って捨てる識者もいますし、「勘注系図」に書かれている9世孫の妹、日女命を卑弥呼とみなして邪馬台国は丹後にあり、と飛躍させる一部の研究者には仰天するしかありません。丹後地方の町おこしとしか考えられません。

 平成28年11月、東京都の文京シビック小ホールで、伴とし子氏による「海部氏系図に秘められた卑弥呼」と題する講演を聞く機会があった。
 卑弥呼のような出で立ちで登壇した伴氏は、丹後地方の観光大使、いな、邪馬台国の回し者かという雰囲気で、講演内容も実に空疎なものでした。この時、長野正孝氏が登壇し応援の弁を述べたのにもビックリ。
 今の筆者は「本系図」と「勘注系図」に必要以上の期待をしていません。


丹波道主命と丹波国造家
 海部氏系図のマイナス面を縷々述べましたが、これによって現宮司の海部家が貶められることはもちろんありません。
 古代においては陸上の道よりも海上の道がはるかに利便性に優れ、これを特権的に利用する海洋民族はダイナミックな国際性を身につけていた。陸が繋がっていなくても、海が繋がっていれば一つの経済圏を形成できた。その海人族は「あま」の名で全国にちらばっている。
 その代表格が籠神社宮司家の海部氏で、古来、「海部直(あたい)」と呼ばれてきた。古社の宮司家が連綿として今日に至っている点では、「出雲大社」の千家家、「阿蘇神社」の阿蘇家、「日前・国懸神宮」の紀家等に匹敵するまさに名門なのです。

 海部氏を丹波国造家とする見解もありますが、崇神の時代に丹波に派遣されたと伝わる彦坐王の子である丹波道主命(たんばみちぬし)の子孫が「丹波国造家」に繋がる見る方が妥当。
 タンバミチヌシの子である淡谷別が今の京丹後市に定着し、その子、オオクラキが初代丹波国造になった。そちらが本家筋で、海部氏は丹波国造家の支流だったと思われます。 
 古代の大丹波の繁栄の中心は宮津ではなく京丹後市の峰山、大宮あたりを中心に竹野、網野を含む一帯なのですから。

 そこには、4世紀からの古墳時代に3つの大きな前方後円墳が存在し、ヤマト国(初期ヤマト王権)との結びつきが指摘されています。
 加えて、大谷古墳、奈具岡遺跡、大風呂古墳、赤坂今井墳丘墓など、弥生後期の繁栄を実証するような遺物も出土しています。

 古代の丹後地域については、竹野川流域を中心とする独自の王国(丹後王国)が存在したとする説があります。ヤマト王権の版図拡大に言及する時に、再度詳しく掘り下げてみるつもりです。


 次回の投稿は令和3年になってしまいそう。
 ウイルス騒動がおさまり、災害が頻発することのない新年を迎えたいものですね。


参考文献
『古代日本の地域王国とヤマト王国 上』門脇禎二
『ヤマト政権誕生と大丹波王国』伴とし子
『古代海部氏の系図』金久与市
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
他多数