理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

139 稲荷山鉄剣と江田船山大刀は雄略による広域支配の証拠?


 <須賀川牡丹園(福島)>

 稲荷山古墳出土の鉄剣と江田船山古墳出土の大刀は、雄略の時代におけるヤマト王権の版図を判断する大きな根拠とされてきました。
 この2つの考古物によって、5世紀後半のヤマト王権の支配が関東北部から九州中部までの広域に及んだという見解が定説化しているわけです。

 しかし、古代史の定説といわれているものには、目的のためには多少の矛盾には目をつぶり、各々の資料・史料の都合のよいところだけ利用するという傾向が多々あるようです。
 2つの考古物は、大和政権中心史観(第18回ブログ)に沿って、都合よく、安易に解釈されてしまったのではないだろうか。加えて『記・紀』の解釈にも恣意的なものが見られます。もしそうだとすると、雄略の時に日本列島の大半を支配したという通説はたちまち瓦解してしまう……。

 今回はこの定説にメスを入れてみます。

稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文
 第134回ブログで言及したように、「獲加多支鹵大王(わかたける)」が『宋書』の「倭王武」を指し、『記・紀』の雄略大王であるとする見方は、今や学界の定説となっています。
 このような見方が有力となったのは最近のことで、1978年、行田市の稲荷山古墳の後円部礫槨内で見つかった鉄剣の銘文に「獲加多支鹵大王」(わかたける)の名が記されていたことによります。
 これが本当に妥当な見方なのか、今までも何度か言及してきました(第118回・134回ブログ)が、再度検証してみます。
 まずはその銘文を確認します。

表面の銘文
 「辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比」

<大意>
 辛亥の年の七月に記す。(私の名は)ヲワケの臣。先祖の名はオホヒコ。その子はタカリのスクネ。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカヒシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。

裏面の銘文
 「其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀 記吾奉事根原也」

<大意>
 その子の名はカサヒヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の首(大王の親衛隊長)として仕え今に至っている。私は、シキの宮にいるワカタケル大王を守衛し大王が天下を治めるのを助けた。百回も叩いて鍛えた刀を作らせて、私(の一族)が大王に仕えてきたことを記しておく。

 この銘文が語っていることは、辛亥年に、ヲワケの臣杖刀人の首としてシキの宮にいたワカタケル大王天下を治めるのを助けてきたこと、オオヒコから続く先祖が代々大王に仕えてきたということです。要するに「奉事根原」を記したに過ぎません。

 意富比垝(オオヒコ)は、崇神天皇が日本各地に派遣したという四道将軍の一人、大彦命を指している可能性がありますが、第96回ブログで言及したように四道将軍の遠征は史実ではなく、これによってオオヒコの存在が証明されたわけではありません。
 しかも氏姓制度が整うのは6世紀になってからなので、このような系図の概念そのものが5世紀に存在したのかどうか。
 系図が創作だとしても、それをわざわざ記すということは、鉄剣が作られた時代には大彦命が伝説上の英雄になっており、彼につながる系譜こそが誇りであり、自分の出自が由緒あるものだと宣言したかった可能性があります。

 それにしてもオオヒコから続く先祖が7代も続けて大王に仕えてきたということは、その起点は3世紀からということになるので、大和地域からはるかに離れた関東北部では、どの道あり得ないことです。

 

江田船山古墳から出土した大刀の銘文
 一方、明治はじめ頃、熊本県玉名郡にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を持つ鉄製大刀が出土しています。
 江田船山古墳は墳長62メートルで、5世紀後半から6世紀初頭に築造されたと推定されているようです。
 古墳の周りには、短甲を着けた武人姿の石人が配置されていますが、この独特の型式は、石人山古墳に始まり、6世紀前半の岩戸山古墳で最盛期を迎え、以後、消滅します。この岩戸山古墳は527~528年にヤマト王権と闘って敗北した筑紫君磐井の墓(第111回ブログ)と目されており、江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なる中規模首長の墓であったと考えられます。なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は3名であると考えられているようです。

 発見当時、大刀の銘文には大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していました。
 この銘文は、かつては「治天下〇〇〇大王」と読まれ、「多遅比宮(蝮宮)で天下を治めた瑞歯大王」と解釈し、長い間、この大王を反正にあてる説が有力でした。高校の日本史教科書にも記されていたくらいですから、定説だったのでしょう。

 しかし稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文が発見されたことにより、現在では「蝮(たじひ)」が、「獲」のことだとされ、「治天下獲〇〇〇鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略)」にあてる説が有力となっています。

 この銘文には、王権に仕えた文官を意味する「典曹人」(てんそうじん)という語が記されており、稲荷山古墳の鉄剣銘文に記された「杖刀人」とともに、5世紀後半に王宮に詰めた職能集団が存在した証拠とされています。
 しかし、「獲〇〇○鹵」については、どのように読むのがよいのかまだ一定の結論に至っていないのも事実です。
 逆に言えば、考古遺物では長い間にわたって定説と言われていたことでも根拠の薄弱な場合のあることを物語っています。

 ともかくも今では、関東北部、九州中部の古墳から出土した銘文のどちらにも「獲加多支鹵」の名が存在した(と見なされた)ことから、5世紀後半の雄略の時代にヤマト王権の支配が日本列島の広域に及んでいたに違いないとして、これが定説となっているわけです。

 

学界の定説
 「獲加多支鹵大王」が『宋書』の「倭王武」を指し、『記・紀』の雄略大王であるとする見方は、今や学界の定説となっています。
 おおよそ以下のような理屈がその根拠となっていますね。

 『記・紀』は雄略を大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)や大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけるすめらみこと)と記しており、名の一部にいずれも「ワカタケル」が含まれている。

 銘文の冒頭の「辛亥年」を471年と考えれば、『宋書』478年の倭王武の遣使に重なり、奉献した上表文に記された列島支配の情勢(関東北部から九州中部まで)と符合する。

 銘文には「治天下」の語が記されており、478年の遣使を最後にシナの冊封体制を脱する「武」の独自の統治観念が現れている。

 銘文の「斯鬼宮」が雄略の長谷朝倉宮の所在地を含む大和国磯城郡内に設けられた王宮と推定できる。

 稲荷山古墳の築造年代が6世紀前半頃であり、ワカタケルに仕えた杖刀人が死に際して鉄剣を副葬した年代と齟齬しない。

 関東北部、九州中部の古墳から出土した銘文に、どちらも「獲加多支鹵」の名が存在し、しかも「典曹人」「杖刀人」というヤマト王権に上番したことを意味する言葉が存在したことから、雄略の時代にヤマト王権の支配が日本列島の広域に及んでいたのではないかという学説に発展していくわけです。

 

大和政権中心史観が安易な定説を形成してしまった!
 鉄剣と太刀の二つの考古物は、雄略の時代におけるヤマト王権の版図を見極めるのに大きな影響を与えてきました。しかし、早期にヤマト王権の専制化が進んだとみなす大和政権中心史観(第18回ブログ)のもとで、資料・史料を良いところ取りして安易に解釈されたように思われます。
 以下にその理由を述べます。

 『記・紀』では、雄略の名は大長谷王子、大長谷王、大長谷天皇、大泊瀬皇子、大泊瀬天皇などと記され、「オオハツセ」を省いて単独に「若建」とか「幼武」と称されることはない

 雄略と長谷(泊瀬)の地の間には切っても切れない繋がりがある。文献や歌謡にも長谷を舞台にしたものが多い。
 銘文の「斯鬼宮」については、雄略の宮は「泊瀬朝倉宮」(はつせのあさくらのみや)であり、厳密には「磯城」にある宮ではありません。斯鬼は磯城・志貴と同じ三輪山南西麓の古い地名で、古代の地名は狭い範囲から次第に広がっていくわけです。斯鬼が長谷朝倉を包摂する地域なので結局は同じ宮のことと解するのは、厳密性を欠くまさに牽強付会のご都合主義です。
 一方、欽明の宮は「磯城嶋金刺宮」(しきしまのかなさしのみや)であり斯鬼・志貴の地にあったことは明らかです。

 銘文の「治天下」の解釈については、「武」は478年に宋へ遣使しており、「武」と思われる雄略はシナの冊封体制に今なお依存していたことは疑いようがない。したがって雄略が「治天下」や「大王号」に強い政治意識を持っていたとは思えない。雄略の治世は、葛城・吉備・紀・筑紫などの豪族が割拠しており、また王族の間でも確執と抵抗に苦慮した時期で、政治的安定には程遠かった

 「治天下」は、天上世界から降臨した神の子孫である天皇が国を統治することの正当性を意識した言葉で、神の子孫が地上世界を統治する物語を記した『記・紀』において初めて具象化される。その原型とされる『帝紀・旧辞』は欽明の時代の産物とされる。
 一方、欽明の諡号は「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」で、天と国の双方を支配する概念が反映されていると考えられる(第134回ブログ)。まさに欽明こそが「治天下」や「大王」号を名乗るに相応しいといえます。

 継体の子は3代続けて大王(安閑・宣化・欽明)になっていますが、欽明は継体の最晩年に生まれた皇子です。40歳以上も年上の2人の兄の和風諡号は、安閑が広国押金日(ひろくにおしたけかなひ)、宣化が小広国押盾(たけおひろくにおしたて)といずれも「武」の字を「たけ」と訓読みさせている。天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)という和風諡号を持つ欽明が、武(タケル)兄弟に対してワカタケル(若い武)と呼ばれたとしても不思議ではないかも。
 和風諡号は、6世紀前半の安閑期以降に、殯宮儀礼の挙行に際して捧呈されるようになった可能性が高い(第19回ブログ)。

 鉄剣銘の乎獲居(おわけ)が地方豪族であるか、中央豪族であるかの判断も、研究者のあいだで意見が分かれている。
 獲加多支鹵大王はヤマトでなく関東地方の大王だとの説も有り、それを是とすればヤマトの支配権は関東に及んでいなかったことになります。
 古代日本では、各地の英雄にクマソタケル、イヅモタケル、キビタケル、ヤソタケルなどと「タケル」の尊称を用いています。ワカタケルはタケルの子であって、ヤマト王権でも地域の豪族であってもワカタケル(若い勇者)という普通名詞的な呼び方に過ぎない。
 こうしてみると、関東に獲加多支鹵大王がいて、九州に蝮○多支鹵大王がいたとしても決して不思議ではないでしょう(第109回ブログ)。

 「大王」という言葉は気になるが、森浩一氏が網野善彦氏との対談で次のように語っています。
 <古代史学者や考古学者は、大王は日本列島に一人しかいない、後の天皇と同じ役割で、呼び方が違うだけという前提で使っている。しかし本来の大王には最高の権力者という意味はない。漢代の銅鏡に美人と対句で使われているものがあり、自分のお仕えしているよき人の意味だ>。
 そして、「大王」は、一般的な「大君」(おおきみ)の使い方に似ているといいます。
 このように、獲加多支鹵大王を雄略に比定することについては、多くの研究者からさまざまな疑義も呈されているのです。

 

稲荷山古墳の考古学
 鉄剣銘文には、「辛亥年」とあり、531年または471年の両方の可能性があるのに、471年の方が定説となっている。この「辛亥年」は5世紀末の雄略につながる有力な根拠とされるのだが、稲荷山古墳の築造年代が6世紀前半の可能性を残していることに大きな問題があります。雄略とのつながりを確実にするためだろうか、「埼玉県立さきたま史跡の博物館」は、その解説の中で「5世紀後半に造られた前方後円墳」と断定し切っている。さしたる根拠もなく古墳の築造年代まで遡らせてしまうのは方法論としてはおかしいのではないか。
 稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた「辛亥年」471年説について考古学面から確認してみます。

〇 稲荷山古墳の埋葬主体部は別にある可能性が高いようです。つまり、古墳の主は他にいて、必ずしも乎獲居臣のために造られたものではないと考えられるのです。
 稲荷山古墳の中央に埋葬された「主」である大王に対して、脇の方に埋葬されたヲワケは、その大王の従属者という関係ですから、銘文の中の大王は、この古墳の中央にある「主」であると考えられます。古墳の状況は、鉄剣銘文の大王について、雄略ではなく、関東の大王を指しているとも考えられるわけです。

 乎獲居臣が眠っていた墳頂の礫槨は、稲荷山古墳本来の被葬者を埋葬した後の時代の追葬遺構であることが分かっています。追葬の年代確定は非常に難しいと思いますが、乎獲居臣が眠っていた礫槨(れきかく)からはさまざまな副葬品がみつかっています。
 白石太一郎氏などは、鉄剣が出土した墳頂部の礫槨には、さまざまな副葬品が含まれており、確かに5世紀後半のものもあるが、馬具のセットには6世紀初頭と思われるものがあった。埋葬時期は、副葬品の中で最も新しいものに求めるのが考古学の常道であると述べています。

 稲荷山古墳のあるさきたま古墳群は埼玉県行田市にあり、前方後円墳8基と円墳1基を中心に構成されています。
 5世紀後半の築造とされているのは稲荷山古墳だけで、6世紀前半には二子山古墳、丸墓山古墳(円墳)、瓦塚古墳、奥の山古墳、6世紀後半には鉄砲山古墳、愛宕山古墳、将軍山古墳、中の山古墳が築造されたとしています。

 稲荷山古墳は1968年の発掘当初は、6世紀中頃から7世紀初頭に築造された横穴式石室を持つ古墳であると想定されていたようです。
 当初、石室を発見できず、続く墳頂部の発掘によって乎獲居臣の埋葬されていた礫槨と埋葬者不明の粘土槨が発見されました。この2人は稲荷山古墳の本来の埋葬者ではなく、後に追葬された人たちであると推測されているようです。
 ということは、稲荷山古墳は誰か他の権力者のために築造されたものであり、乎獲居臣は稲荷山古墳の築造時期よりも新しい時期の人であると言えそうです。

 それにしても、なぜ稲荷山古墳の築造は5世紀後半~5世紀末まで早められてしまったのでしょうか。
 築造が5世紀後半と推定された考古学的な理由の一つは、古墳自体から発掘された須恵器の比定年代にあります。
 稲荷山古墳から出土した須恵器が、田辺昭三氏が陶邑窯跡群の須恵器を分析して編み出した須恵器編年でTK47型だと判定され、稲荷山古墳自体の築造時期が5世紀後半~5世紀末と推定されたのです。
 しかし、須恵器編年については、畿内、河内を基準とした陶邑編年をそのまま東国に当てはめて差し支えないのか、伝播に要する時間を想定しなくてよいのか。同型式の須恵器が全国で同時多発的に出現することはあり得ないので、河内の陶邑窯跡群の須恵器より、さきたま古墳群での同型式の須恵器はある程度新しい実年代を与えるべきと思います。

 もう一つ、稲荷山古墳の築造年代の決め手とされたのが、榛名山の噴火による火山灰です。榛名山の二ツ岳は、5世紀末から6世紀初頭の時期と、6世紀前半の2回にわたって噴火したと推定されています。1回目は渋川噴火、2回目は伊香保噴火と呼ばれています。
 稲荷山古墳出土と類似した須恵器・土師器が、近隣の鴻巣市にある新屋敷遺跡の古墳周濠から出土しましたが、それらはすべて渋川噴火の火山灰の下の層にありました。これは、遅くとも6世紀初頭以前に埋まったことを意味するので、類似の土器が出土した稲荷山古墳も6世紀初頭以前に築造されたものであるとされたのです。
 しかし、このような年代推定についてはどの程度の信憑性があるのでしょうか、大いに疑問です。古墳築造時期を推定する際、離れた地域の古墳周濠から出土した土器を根拠にするのは無茶と思います(第92回・113回ブログ)。

 以上、土器編年による稲荷山古墳の年代推定も、榛名山の火山灰による年代推定も、もっぱら「辛亥年471年説」と「ワカタケル雄略説」を強固にするための理屈となっているのではないでしょうか。

 第22回・67回ブログでは、ヤマト王権が、海の民に人制(ひとせい)を導入して海人として組織化したのは5世紀後半の頃であろうとしましたが、この時期に大阪湾沿岸や瀬戸内海東部地域の海の民を海人として組織化したことは様々な文献からみて間違いないでしょう。
 しかし、たった2つの稲荷山鉄剣と江田船山大刀が5世紀後半のものでないとすると、王の警備を司る職能集団「杖刀人」と王権中枢の文書を扱う職能集団「典曹人」が5世紀後半に存在したとする論拠は失われてしまいます。

 仮に「典曹人」「杖刀人」は、5世紀後半のヤマト王権が直接的に掌握していたとしても、筑紫・吉備・出雲・尾張・毛野などの有力地域国家が上番した証拠はなく、この時期にヤマト王権の広域支配があったと断定するには不十分と言えます。

 

 「辛亥年471年説」や「ワカタケル雄略説」は定説といえるほどのものではないと思われてなりません。強いて言えば「一つの可能性」に過ぎないのではないでしょうか。

 筆者は、ワカタケルは欽明を指すと断定できるほどの材料を今のところ持ち合わせていません。しかし、以上のように不都合な事実がたくさんあるにも拘わらず、ワカタケルを雄略であると決めつけて平然としている多くの古代史研究者の安易な姿勢を、ここでは指摘しておきたいと思います。

 

参考文献
『古代史おさらい帖』森浩一
『理系の視点から見た考古学の論争点』新井宏
『ワカタケル=雄略天皇論争』前田晴人
『古代史の定説を疑う』水谷千秋
『騎馬文化と古代のイノベーション』
他多数