理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

124 「かづらき」地域集団と葛城氏(1)

 第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。

 今回は、南西部にゆかりの葛城氏・鴨氏、彼らの祖や、彼らにゆかりの遺跡群について確認してみます。

「かづらき」地域集団
 「葛城」は「かづらき」または「かつらき」と読むのが正しいようです。古代の音で、「城」の字に濁音が入ってくることはない、と門脇禎二氏の著作で知りました。そう言えば、筆者が以前、お稽古した「お能」の世界でも、「葛城」という曲は「かづらき」と発音していました。当ブログでも、カナ表記の時は「かづらき」としたいと思います。
 「城」の訓読みは濁音ではなく清音なので、本来は「かづらぎ」「かつらぎ」は誤りということになります。

 それはさておき、葛城勢力に言及する時は、葛城南部、言うなれば狭義の葛城地域(葛上郡・忍海郡・葛下郡南部地域)だけを取りあげる研究者が大半と思いますが、筆者は馬見古墳群と連動させて掘り下げてみたいと考えます。
 つまり言及の対象は、広義の葛城地域(葛上郡・忍海郡・葛下郡<葛城市北部・香芝市・大和高田市西半部・王寺町・上牧町>・広瀬郡<広陵町・河合町>)となります。
 なお、広瀬郡を含めるか否かは見解が分かれるようですが、筆者は含めます。何となれば、筆者は広瀬郡に存在する馬見古墳群を、5世紀になって隆盛する葛城氏の出身地と考えたいからです(第121回ブログ)。
 この場合でも、「葛城の中心的な勢力基盤」が葛城南部の葛上郡であったことは認め、これを「かづらき」地域と定義したいと思います。

 馬見古墳群は、4世紀中頃から5世紀前半にかけて築造されていますが、葛下川流域の上牧久渡古墳群では3世紀から存在する古墳も見つかっています。

 下図は、弥生時代の集落図「かづらき」地域(狭義の葛城地域)の北方に4~5世紀の馬見古墳群を書き加えたものです。
 高田川と、その西側を流れる葛下川(かつげがわ)に挟まれた位置に南北に長く並んで展開しています。


<弥生時代の集落図+馬見古墳群(坂靖氏の著作を改変加筆)>

 馬見古墳群は、古墳の分布から、北群()、中央群()、南群()の3グループに分けて言及されるようですが、馬見古墳群についてはいずれ掘り下げてみたいと思います。

 4世紀頃までの「かづらき」地域については、第110回ブログで言及しましたが、簡単にレビューしてみます。

 大和盆地の西側に連なる金剛山地をはさんで、その西側は瀬戸内に開けた河内で、東側が「かづらき」地域ということになります。同地域の歴史は古く遡りますが、葛城氏の先祖筋は4世紀後半から定住を開始したのではないかと考えます。

 そもそもこの「かづらき」の地には、後に鴨族と呼ばれる先住集団が住み、紀元後から大きな勢力を持ち始めた可能性があります(第79回ブログ)。他にも、後に尾張氏と呼ばれる集団も当地に関係したのかもしれません。

 鴨族が営んだと思われる鴨都波遺跡が纒向遺跡よりも早い2世紀から5世紀過ぎまで存在しています。 纒向遺跡からは南西方向へ20キロ弱の位置にあたり、葛城山麓より延びる丘陵状地形の東端で、柳田川と葛城川の合流点に面し、水に恵まれた絶好の場所です。
 また、鴨都波遺跡の南には、3世紀後半から5世紀過ぎまでが盛期とされる広大な秋津遺跡・中西遺跡が存在しました。
 紀元前の中西遺跡には紀元前から人の集積が始まり、緩斜面を利用した広大な水田跡(4万3000㎡)が発見されており、秋津遺跡では多数の竪穴住居跡や祭儀用と思われる独立棟持柱建物跡も出土しています(第85回ブログ)。

 当地域には、纒向遺跡よりも前から先進的な勢力があったことは間違いありません。
 後世(おそらく6世紀以降)のことになりますが、当地域に鴨都波神社高鴨神社が創建され、「鴨」の字が冠されていることもその傍証になりそうです。

 いずれにしろ、葛城氏鴨氏(という固有名詞)の具体的な事績は、4世紀にはまだ確認できません。彼らは、4世紀頃までの前身集団の隆盛を引き継ぐ形で、5世紀の歴史の舞台に華々しく登場することになります。

 4世紀半ば頃、秋津遺跡の南には「みやす古墳」(直径50メートルの円墳)が築造され、その後もずっと小規模古墳が築造されていました。しかし、突如として5世紀初頭、中西遺跡に大和盆地西南部で最大の室宮山古墳(238メートル)が築造されます。

 この不連続性をどのように捉えるべきか?
 筆者は、5世紀になって当地域に新たな勢力、つまり葛城氏が移り住んで大規模古墳の築造を始めたものと考えます。4世紀後半から5世紀前半にかけて大規模古墳を含む馬見古墳群を築造していた勢力の分派が南部(狭義の葛城地域)に移動して、「葛城氏としての活動」を始めたと考えたい。

 鴨氏は追われることなく、みずからの活路を高鴨神社や鴨都波神社の祭儀に求め、葛城の地で祭祀氏族として存続します(第79回ブログで言及したように彼らの分派がさらに山城の地に移ったとする説もある)。

 葛城勢力の隆盛を物語る巨大な南郷遺跡群は、技術革新が進む5世紀前半頃からの遺跡となりますが、室宮山古墳と合わせて今回のブログの後半で言及します。

 

葛城氏の栄枯盛衰
 5世紀より前、朝鮮半島との通交に瀬戸内海を使えないことはこれまでのブログでも再三言及してきました。したがって大和盆地と言う内陸に構えた地域国家にとって、日本海側に出ることは重要な政治課題でした。

 4世紀前半までのヤマト国(律令制下の「国」ではなく、第22回ブログで定義した「国」)は、大和盆地北部から日本海側へ出るルートを選択しました。これに対し、葛城国(この時期まではあえてヤマト国に対応して葛城国と表現したい!)は、西部の竹内道・水越道から大阪湾へ、垂水からは山越えないしは加古川を上り、遠坂峠を越えて朝来・但馬・円山川に至るルートを重視します。

 4世紀末以降5世紀にかけて、葛城勢力は但馬、丹後のほかにも出雲、紀、吉備東部(後の備前)ともつながりを持ち、また伽耶など半島南部との交易権を押さえ、ヤマト王権とは別に、連れ帰った渡来人を使って製鉄に注力します。これらのルート掌握と渡来人の活用が葛城氏隆盛の理由と言えるでしょう。

 4世紀末頃から、葛城襲津彦(実在は不確実?)が朝鮮半島との外交や軍事の面で活躍し、葛城氏繁栄の基礎をつくったとされています。
 5世紀初め頃から葛城氏は、ヤマト王権内で筆頭の存在として大臣(おおおみ、正確にはまだ制度として存在しないが)の地位を世襲します。この時期は、ヤマト王権の王と葛城の王による両頭政治の状態であったと言うべきかも。
 5世紀の葛城氏が、ヤマト王権を凌ぐほどに繁栄したもうひとつの大きな理由は、王権の外戚として、多くの后を出してきたことにあります。

 葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)が仁徳の后となり、履中・反正・允恭と続く3人の大王の母となった。

 允恭の後継は安康と雄略となり、葛城円大臣(つぶらのおおおみ)の娘は雄略本人に嫁ぎ、清寧大王を産んだ。

 葛城襲津彦の孫娘は履中に嫁ぎ、その孫の顕宗・仁賢の兄弟が大王になった。

 こうして葛城氏の権勢は王権を凌ぐまでなります。同じようにヤマト王権の姻族の地位を占めた和珥氏や息長氏が、政治権力をふるわなかったのと際立った違いを見せます。
 ついでなので、連(むらじ)姓の物部氏や大伴氏のような豪族は、どれほど強勢であってもヤマト王権の姻族になることはほとんどなかったことを確認しておきたいと思います。

 5世紀半ばになると、ヤマト王権は葛城勢力の拡大に危機感を抱き、王権の基盤を盤石にするため、葛城・吉備・紀の連携関係を次々と断ち切ります。
 日向色の強い(?)大日下王を殺害し、5世紀半ば過ぎの吉備内紛に介入して吉備東部を弱体化させた。外交を得意とした葛城氏は、航海技術に秀でた紀氏と良好な関係にあったが、雄略は、その紀氏とのつながりも断ち切った。

 こうしてヤマト王権が葛城と諸豪族との関係を次々と遮断し、最後に眉輪王(まよわのおおきみ)をかくまった葛城円を倒したことで、葛城氏の嫡流が滅びます。ヤマト王権は、このような強硬手段で葛城氏を攻略して大和盆地内と河内(日本列島の広域ではない)を完全に支配します。

 結局、葛城氏は4世紀末から急激に勢力を拡大したが、隆盛は5世紀後半までの3四半世紀程度に過ぎなかったことになります。ヤマト王権が必要とし、そして捨て去ったとも言えそうです。
 これと軌を一にするように、葛城本拠の北部に位置する馬見古墳群も5世紀末以降、衰微しています。ただ、葛城は傍系まで含めれば6世紀前半まで命脈を維持しました。

 5、6世紀のヤマト王権で活躍する蘇我・平群・巨勢などの豪族はいずれも葛城氏の統括下にありました。葛城氏の没落後、雄略は王権内で平群・大伴・物部の各氏を重用していきます。

 葛城氏の栄枯盛衰についてはこの先のブログで逐一追いかけていきます。

 

葛城襲津彦という人物の実在性
 4世紀末になると、葛城氏の祖とされる葛城襲津彦の伝承と共に葛城氏の実像が見えてきます。
 『日本書紀』には、葛城襲津彦の名が神功・応神・仁徳の三代にわたって登場します。登場する場面は次の通り。

神功皇后摂政5年
神功皇后摂政62年(382年)
応神天皇14年
応神天皇16年
仁徳天皇41年

 しかし、これだけの長期にわたって登場する葛城襲津彦がすべて同一人物とは考えにくいですね。

 通説では、葛城氏の始祖は葛城襲津彦とされていますが、『古事記』の孝元天皇記では、襲津彦の父は建内宿禰(たけのうちのすくね)と記されています。
 タケノウチノスクネは景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の大王に仕えて異常な長寿を保っていることから、理想的な忠臣として造作された実在性の薄い伝説的な人物と言えるでしょう。おそらく7世紀後半になって創出されたのでしょう。

 一方、葛城襲津彦は、タケノウチノスクネや大彦命(おおひこのみこと)のような伝説的な人物と違って、具体的な事績が伝わっているので、一般的には実在性が高いとされているわけです。
 しかし、神功・応神・仁徳の3代にわたって活躍した葛城襲津彦というのも現実的とは考えられず、何人かの伝承をまとめた象徴的な名前ないしは称号のようなものとも考えられます。

 これに対して、『日本書紀』神功皇后摂政62年に引用した『百済記』には、沙至比跪(さちひこ、さちひく)の名があり、名前はもとより年代も事績も似通った所伝を残しているので、葛城襲津彦と沙至比跪は実在の同一人物とみて差し支えないという論考もあります。
 『日本書紀』の編纂者も、そう考えたからこそ『百済記』をわざわざここで引用したのでしょう。

 しかし、同じ神功皇后摂政62年では異説として、沙至比跪は天皇の怒りを苦にして自殺したと紹介しながら、襲津彦はその後の応神・仁徳の代に活躍したという大きな矛盾もあり、沙至比跪の存在はあまり信用できるものでもありません。

  さらに、5世紀代には、血縁者を軸とする氏(うじ)のしくみ・組織はまだ成立しておらず、『記・紀』が葛城襲津彦とする人物も、『記・紀』編纂時の氏姓制度の知識からそのように記されているのであって、本来は「葛城地域の豪族、襲津彦」といった意味に過ぎないということは確認しておきましょう。
 氏姓制度が整うのは6世紀になってからなので、当ブログでも5世紀代の豪族の氏名はそのような背景を確認したうえで使用していきます。

  筆者は、長期にわたって登場する襲津彦という名は、個人に特定せず、4世紀後半から5世紀前半にかけて、ヤマト王権における朝鮮半島との外交・軍事を主導した「葛城勢力そのもの」を指すと考えて以下の論考を進めます。

 では、葛城襲津彦の記事からは得るものがまったくないのかというと、そんなことはありません。以下、言及します。

 

葛城襲津彦と朝鮮半島
 『日本書紀』に葛城襲津彦が登場する場面は、内容や順序に混乱が見られるため、時系列を補正してみると次のようになりそうです。

 382年(神功皇后摂政62年の記事に相当)
 新羅が朝貢してこないので、襲津彦を派遣して新羅を討った。一方、『百済記』の引用として次のような記述がある。

 壬午(みずのえうま)の年に、新羅が従わないので沙至比跪を派遣して討とうとしたが、新羅の美女2人に誘惑されて、新羅ではなく加羅を討った。加羅の王や民は百済に逃亡し、王の妹が天皇に言いつけた。天皇は怒り、木羅斤資(もくらこんし)を派遣して加羅を回復させた。
 この記事は神功皇后摂政62年のものですが、壬午の年は382年にあたります。

 以下はトリビア的な内容になりますが、気になったので記します。
 木羅斤資は、369年、日本と百済が新羅を撃破し加羅7国を平定した時にも、百済側の将軍として登場します。この時、百済軍を指揮したのが百済の木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)の2人です。
 応神紀25年には木羅斤資の子の木満致(もくまんち)が、年若い百済王を支えて国政を執ったが、王の母と密通したことを咎めた天皇が呼びつけたと記されています。
 どうみても木羅斤資と木満致は百済人です。とすれば、天皇が怒って木羅斤資を派遣して加羅を回復させたり、木満致を咎めて日本に呼びつけたという表現は少々おかしなことになります。
 百済を臣下のように描きたい『日本書紀』特有の史観のせいでしょうか。

 第112回ブログで、日本による7国に及ぶ広域の平定は実際にはとても考えられず、この軍事行動の主体は日本ではなくあくまでも百済であった可能性があると述べたのは以上のような背景があるからです。木羅斤資が指揮した百済軍に対して、日本側は何らかの関与をしたというくらいが真相でしょう。
 この『百済記』の引用記事は、新羅を討ちたいヤマト王権の意向に反して、葛城氏が独断的に新羅と内通して加羅(大伽耶)に攻勢をしかけた戦闘を意味していると考えられます。

 403(応神紀14年の記事に相当)
 百済から来日した弓月君から、新羅の妨害で弓月の民が加羅から動けないとの報告あり。応神は葛城襲津彦を派遣して打開しようとしたが、襲津彦は3年経過しても戻って来なかった。

 405(応神紀16年の記事に相当)
 襲津彦の帰国を妨害している新羅を討つため、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)らを加羅に派遣。平群木菟らは弓月の民を率い、襲津彦を連れ帰った。

 4世紀末から5世紀頃(順が異なるが、神功摂政紀5年の記事に相当)
 襲津彦は新羅の人質の送還に付き添って渡海したが、対馬で人質を逃亡させた新羅の使者を殺害し、新羅の欺計を咎めて草羅城(さわらのさし)を攻略し捕虜を連れ帰国した。彼らは桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)の四邑の漢人(あやひと)の始祖である。

 この記事の神功摂政紀5年は325年に相当するが、葛城の勢力はこの時期に台頭しておらず、渡来人を葛城の地に住まわせた時期ともずれるので、4世紀末から5世紀頃の事象と思われます。
 しかも、四邑の漢人は必ずしも新羅人とは言えず、葛城氏の滅亡後は彼らが東漢氏(やまとのあやし)の統率下に置かれることからも、史実ではない可能性があります。

 四邑の範囲は5世紀を通じて葛城氏が支配していた地域と考えられています。
 高宮は室宮山古墳や南郷遺跡群のある地域、忍海は葛上郡の北に接する忍海郡にあたる地域で脇田遺跡があり、佐糜は紀ノ川に近い東佐味・西佐味あたりを指し鴨神遺跡のある地域です。四邑の範囲はちょうど狭義の葛城地域にあたりますね。
 佐糜・佐味(さび・さみ)は刀剣を意味し、そこには渡来系金属工人集団が居住していたようです。

 


 <かづらき王の支配地域と関連遺跡>

 以上のような『日本書紀』の記載内容からは、次のようなことが読みとれます。

 襲津彦という人物の存在を完全否定はできないが、記載内容は特定のひとりの人物の事績をもとにまとめ上げられたものとは考えられない。むしろ伝承上の祖である襲津彦の名のもとに、4世紀後半から葛城勢力と朝鮮半島との深い関りが示されたものと解釈したい。

 襲津彦に関する記事はすべて朝鮮半島での活動であって、国内での活動記事が皆無という特徴がある。
 これは、まだ中央政府の組織化が未熟で、必要な職務を各豪族に分掌していた当時のヤマト王権にあって、葛城氏の職掌が対外交渉で、それも朝鮮半島に赴いての交渉であったことを示唆しています。

 これら襲津彦の記事は新羅と加羅国の交渉に限られているが、葛城氏はヤマト王権とは別に独自に、百済と繋がりつつも加羅や新羅にまで進出したと捉えるべきでしょう。百済との濃密なつながりは南郷遺跡群などから出土する建物跡や遺物などからうかがえます(次の節で言及)。

 神功皇后摂政62年(382年)の記事は、370年頃に百済との通交が始まった(第91回・115回ブログ)ことを受けて、葛城の勢力が朝鮮半島に渡航したものと考えられます。 

 また、400年、404年の二度にわたって広開土王によって撃退された対高句麗戦争(第116回ブログ)に、葛城氏がまったく無関係だったとは考えられません。むしろ葛城氏を中心とした動きだったのではないでしょうか。

 

南郷遺跡群と渡来人の活用
 ここまで、葛城氏が朝鮮半島との外交・軍事を主導したことに言及しましたが、必然的に葛城氏と渡来人との関係は濃密となり、先進的な文物・文化が優先的に導入されて、葛城氏自身の隆盛に貢献したのはもちろん、ヤマト王権に対しても大きなプレゼンスとなったと考えられます。

 四邑の漢人の記事はその意味でも象徴的です。四邑の範囲は5世紀を通じて葛城氏が支配していた地域で、百済・加羅・新羅からの渡来人をその地域に住まわせたものと思われます。

 なかでも葛城氏が営んだ南郷遺跡群は5世紀の古代史を語る際に欠かせない重要な遺跡なので、その中のいくつかをピックアップしてみます。


 <南郷遺跡群と名柄遺跡>

 5世紀当時の葛城氏の実像を把握できる格好の遺跡が南郷遺跡群です。
 2平方キロに及ぶ当遺跡内群にはさまざまな遺跡が集中していますが、葛城氏の正殿があり、まつりごとが挙行されたのが、極楽寺ヒビキ遺跡、南郷安田遺跡、南郷大東遺跡の3ヶ所と思われます。
 また、渡来人を住まわせ彼らの指導の下に行われた手工業生産基地が、南郷角田遺跡、下茶屋カマ田遺跡、南郷柳原遺跡です。
 以下、言及します。

 極楽寺ヒビキ遺跡
 南郷遺跡群の南西高台に位置する。大型掘立柱建物や楼閣状の高層高床建物がそびえる首長の居館跡と考えられます。大型建物の規模は220平方メートルで、板柱が用いられていたらしい。
 葛城高宮跡とされますが、その遺構の柱穴部分の土が赤くなっており、焼け跡の可能性があります。葛城円大臣と眉輪王が大臣の邸宅もろともに焼き殺された証拠という見立てもあります。

 南郷安田遺跡
 極楽寺ヒビキ遺跡から北東に500メートルの位置にある。祭殿と考えられる大型掘立柱建物が検出された。この規模は289平方メートルで、5世紀半ばの建物としては日本最大。
 極楽寺ヒビキ遺跡と同様に、日常生活の痕跡がなく、板柱を使用した建築様式などから、葛城氏の正殿であった可能性が高い。

 南郷大東遺跡
 極楽寺ヒビキ遺跡の北東300メートルに位置する。小河川から聖なる水を汲み上げ、石貼りのダムに溜めた水を木樋で流し、浄水を得る祭祀のための施設が検出された。儀礼用と思われる多様な品々が出土している。

 南郷角田遺跡
 南郷遺跡群の西中央部高台にある。出土物から、武器・鉄・金銀銅器・ガラスなどの複合的な生産工房があったと考えられる。刀剣・甲冑や帯金具などを生産した特殊工房が存在したのかも。

 井戸太田台遺跡
 複数の大規模な高床倉庫跡が出土しており、葛城氏の物流センターだったと想定される。

 下茶屋カマ田遺跡
 南郷遺跡群の中央部。ここの竪穴住居跡からは北陸産の緑色凝灰岩の原石や管玉の未製品が出土しており、付近で玉生産をしていたと推定される。

 南郷柳原遺跡
 石垣の基壇を構え、専有面積が600平方メートルに及ぶ大壁建物跡が見つかっている。

 これらの各遺跡は、5世紀前半以降、急激に規模が拡大し、5世紀末には衰退してしまいます。

 南郷遺跡群の各所から鞴の羽口が多量に出土しており、遺跡群内でさかんに鉄器生産が行われていたと考えられます。

 また、各所から陶質土器韓式系軟質土器も出土している。陶質土器は高霊型(第116回ブログ)で、大伽耶との密接な交流があったと思われます。
 韓式系軟質土器は日本在来の土師器にはない甑(こしき)や平底壺・鉢などの土器を格子タタキの技術で作っている。
 ちなみに、竈(かまど)に鍋と甑をのせて米を蒸す習慣が近畿地方で導入されたのは5世紀以降のことです。これらの韓式系軟質土器には栄山江流域や伽耶諸国の影響が認められ、百済中心部や新羅とつながる洛東江以東の土器の出土は少ない。
 これらから、葛城氏の隆盛の基盤に渡来人集団の存在があったことは間違いありません。

 南郷遺跡群には、竪穴住居を主体とした小規模集落が点在しており、一般層が竪穴住居に住んで盛んな生産活動を行っていたと思われます。
 一方、大壁建物が遺跡内の各所で分散して見つかっています。
 大壁建物は、掘った溝の中に細い柱を建て、壁の中に柱を塗り込めるという独特な建築工法をとっていて、百済系渡来人の家として注目されています。

 これらはすべて渡来人を定住させて技術革新を進めた証拠と言えるでしょう。

 最近、奈良県明日香村の市尾カンデ遺跡(4世紀半ば)でも渡来人のものと思われる大壁建物跡(国内最大級)が発掘されています(第9回ブログ)。

 

名柄遺跡
 南郷遺跡群のすぐ北で、水越峠と室宮山古墳を結ぶ交通の要衝地に位置しています。新羅系の韓式系軟質土器が出土していることから、新羅系渡来人が居住していたのでしょう。
 南郷遺跡群と名柄遺跡のある辺りが葛城氏の王の支配拠点だったと考えられます。

 

室宮山古墳
 南郷遺跡群の東、葛城川を挟んだ対岸には室古墳群巨勢山古墳群が展開しています。このうち室古墳群の盟主墳として、5世紀初頭、遅くとも420年頃には宮山古墳(238メートル)が築造されます。ちょうど、中西遺跡の南部に接する位置にあたり、大和盆地西南部では最大の前方後円墳になります。
 そこは、水越峠を越えて河内方面へ向かう道と、五條市から紀ノ川方面へ向かう道の交点で、交通の要衝地でもあります。

 室町時代には伝説上の人物であるタケノウチノスクネの墓域という伝承があったとされますが、現在は葛城襲津彦の墓とする研究者が多いようです。

 しかし、今まで見てきたように、襲津彦という個人が確実に存在したかどうか極めて不確実なので、当ブログでは、地域支配を実現し朝鮮半島にまで雄飛した「かづらき」の王が被葬者という抽象的表現にとどめたい。

 宮山古墳の埋葬施設からは、船形陶質土器の破片が出土し、咸安型(第116回ブログ)のもので、安羅国から持ち込まれたとされています。

 室宮山古墳の後は、掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづか、150メートル、5世紀半ば過ぎ)、屋敷山古墳(145メートル)、北花内大塚古墳(90メートル、6世紀初頭)などが築造されています。5世紀後半頃から次第に小型化していくが、これはもちろん葛城勢力の衰微を意味しますが、古墳の全国的な小型化傾向も反映していると捉えれば良いでしょう。

 次回は、葛城氏が隆盛した最大の要因ともいえる「交通インフラをおさえた葛城氏」について言及します。

 

参考文献
『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『倭国の古代学』坂靖
『その後の古代豪族』長谷部将司
『葛城氏はどこまでわかってきたのか』小野里了一
『ヤマト王権の謎』古川順弘
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
他多数