古代史本論・5世紀まで
<青蓮院門跡跡> 古代出雲については、第65回・第98回ブログで少しばかり言及しました。 今回、5世紀の状況を中心に、1世紀頃から7世紀頃までを通史的に深掘りしてみます。 過去のブログで言及した出雲関連記事の一部について、その後の検討の結果、不具…
<大仙陵の完成時の姿(『よみがえる古代 大建設時代』から転載)> 以前のブログで、大仙古墳(仁徳天皇陵)については「5世紀のヤマト王権」に言及する時に詳しく触れると予告しました。また、第107回ブログでも築造技術については少々触れました。 今回…
<近江八幡堀> 第135回・136回・138回ブログを振り返ると、ヤマト王権は雄略の時代に専制化したかのように思えます。しかし前回のブログでは、雄略以後の王権内は大混迷であったと綴りました。混迷の後、7、8世紀にかけてヤマト王権(大和政権)の政治体…
<母と子の森(京都御所)> 今でこそ私たちは「ヤマト王権」という言葉を当たり前に使い、王権の順調な成長隆盛を思い描きますが、これは後世の歴史を知っているからそう呼ぶのであって、5世紀後半から末にかけての古代史の理解には慎重さが必要と思います…
<阿蘇海と天橋立> 前回は日向諸県君氏について詳述しましたが、今回は、これまでも繰り返し触れてきた「丹波・丹後の豪族」を取り上げます(第69回・82回・95回・96回・110回ブログで言及した)。 ただし過去の内容は、ヤマト王権の歴史に付随して言及した…
<行田古代蓮の里> 今回は、第111回・第136回ブログで言及したものの、詳しい論考を先延ばししてきた件について言及します。 「日向諸県君が娘を仁徳の大王妃にする物語」と、「その後、河内日下を基盤とした日向の勢力(日下宮王家とも)が王権内で一定の…
<須賀川牡丹園(福島)> 稲荷山古墳出土の鉄剣と江田船山古墳出土の大刀は、雄略の時代におけるヤマト王権の版図を判断する大きな根拠とされてきました。 この2つの考古物によって、5世紀後半のヤマト王権の支配が関東北部から九州中部までの広域に及ん…
<須賀川牡丹園(福島)> ヤマト王権の版図拡大に関連して、今まで言及した内容も含めて、古代の戦争の実態について整理してみます。さらに5世紀のヤマト王権の軍団がどのようなものだったのか掘り下げてみます。 古代の日本では戦争がすべて 大東亜戦争後…
<クレマチスの丘(静岡)> 第135回ブログで言及した隅田八幡神社(すだはちまん、859年創建)所蔵の人物画像鏡について深掘りしてみます。 隅田八幡神社の人物画像鏡は、青銅製で径19.9センチ。正確な出土年代や出土地は定かでないが、古代史を検討する際…
第124回~127回ブログで「葛城氏の盛衰」について確認しましたが、ヤマト王権との確執については中途半端のままでした。しかも「吉備勢力の弱体化(第133回ブログ)」と相前後してしまったので、改めて「ヤマト王権の内部対立と葛城勢力の衰退」について言及…
<満開の桜(紀三井寺)> 10年ほど前に読んだ森浩一著『敗者の古代史』が本棚の奥から出てきた。懐かしさでパラパラとめくってみたら、このところ論じている4、5世紀の王権にまつわる敗者の物語なので、これは捨ておけないと思った。 そこで今回は、同書…
<上田城の桜> 雄略大王のイメージ 雄略のイメージは、ひと言で言えば、カリスマ性と暴虐さを併せ持つ気性の激しい大王だったということでしょう。 権力を握るまでの血塗られた蛮行(か?)には、常人には推し量りがたい残忍、冷酷な面が見られます。 でも…
<北信濃の春> 5世紀半ばまでに先進的な生産基盤を築き、3つの巨大古墳を築造した吉備の王は、5世紀後半には没落してしまいますが、その経緯を紐解いてみます。 まず、該当する『日本書紀』の記事を確認してみます。 『日本書紀』にみるヤマト王権(雄略…
<偕楽園の梅> 吉備地域は、3世紀頃から5世紀にかけて、政治的にも文化的にもヤマト王権(ヤマト国)に対峙する勢力圏を形成していました。もちろん、それ以前からの蓄積があったからです。例えば水田稲作の開始時期です。 岡山市の旭川右岸に広がる津島…
<大神神社拝殿> 前々回から2回にわたって、河内平野を主体とした技術革新について言及したので、5世紀のヤマト王権の本拠地は河内の難波であったかのようにも思えてしまいます。 ヤマト王権は河内平野へ進出したことによって、産業基盤を強化し、瀬戸内…
<真山神社> 5世紀には様々な分野で技術革新がありました。 そのうち前回までに、古墳築造や池溝開発などの大規模土木工事に言及したので、今回は産業・手工業面での技術革新について確認したいと思います。 ここでは、窯業生産(須恵器、埴輪)、鍛冶生産…
<入道崎灯台と北緯40度モニュメント> 今回は、第102回ブログで予告した「河内平野における土木工事」について言及します。ヤマト王権が主導した「5世紀の技術革新」のなかでも代表的な事績と言えるでしょう。 もっともベーシックな土木技術 巨大古墳をは…
<柊家旅館> ここまで何回かにわたって「5世紀のヤマト王権のかたち」に言及してきましたが、錯綜し煩雑なブログの連続となってしまいました。 新年を機に、ここで一旦まとめてみます。
<ブナ林> 今回は謎の多い馬見古墳群について概括します。第121回・124回ブログでも少々触れてはきましたが……。 馬見古墳群の立地 馬見古墳群は、4~5世紀の葛城氏が支配する「狭義の葛城地域」の北方にあり、そこは第124回ブログで確認したように、葛下…
<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏> 前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。 今回は外戚と…
大和盆地という内陸に拠点を置いた葛城氏にとって、瀬戸内海の自由往来が困難だった5世紀までは、日本海側に出ることや九州北部地域に到達することは重要な政治課題でした。 彼らは、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることでこの障害…
第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。 今回は、南西…
前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。 5世紀の大王の政治拠点 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ…
<薬香草園> 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログな…
<薬香草園> 第118回ブログでは、「倭の五王」を『記・紀』の大王に比定することがいかに困難か確認しました。その「五王」による王権は、実は唯一の「王の中の王」ではなく、「複数の王」によって構成されていたのかもしれません。 今回は第90回・101回ブ…
<田野倉の棚田> 河内平野の変遷については、第78回ブログで神武東征を論じる時に言及しました。5世紀頃までの河内には、大阪湾から切り離された河内湖がまだ存在していましたね。 河内は上町台地を除いては概して低地で、河内湖に向けて、北東から淀川・…
「5世紀の日本」を紐解くに当たって、まずは今までのブログで確認できたこと、今後言及したいことについて列挙してみます。 〇 4世紀半ばに、ヤマト王権は「おおやまと」地域から「さき」地域へ重心を移し、「ふる」「わに」の勢力を前面に立てて金官伽耶…
3回にわたって古代朝鮮半島の状況を確認してきましたが、三韓やシナの史料には「倭」「倭王」という言葉が頻出します。 筆者は「倭」という言葉が嫌いなので、「日本」「日本列島」「九州北部」「ヤマト王権」などと適宜置き換えています。そして海外の史書…
前回からの続きです。 栄山江流域の前方後円墳 朝鮮半島南西部の栄山江流域(えいさんこう)には、日本の古墳と酷似する前方後円墳が13基確認されています。これらの前方後円墳は突然出現して、急速に姿を消しています。5世紀後半から6世紀前半に成立した…
前回ブログの続きです。 高句麗・三韓の合従連衡 391年に高句麗では広開土王(好太王とも、在位391~412年)が即位し、百済に占領(371年)された領土の回復を図り、396年には漢江以北の地を奪回します。そこに至る高句麗変貌の歴史を確認してみます。 4世…