前回ブログの続きです。
高句麗・三韓の合従連衡
391年に高句麗では広開土王(好太王とも、在位391~412年)が即位し、百済に占領(371年)された領土の回復を図り、396年には漢江以北の地を奪回します。そこに至る高句麗変貌の歴史を確認してみます。
4世紀初め、シナ大陸は激しい動乱の時期に入り、「五胡十六国」の時代が幕を開けます。北方ユーラシアの遊牧民が大量に侵入して引き起こされた動乱は、5世紀半ばまで続きますが、遊牧民フン族が引き金となったヨーロッパの民族大移動と連動しているようです。この動乱の余波は、すでに当時の先進国だった高句麗にも大きな影響を及ぼしました。
高句麗は、高度な文字文明をもつシナ王朝と交流して最新文化を吸収する一方、北方遊牧民からも大きな影響を受けました。
遊牧騎馬民族であった彼らは、文字を持たないものの、豊富な神話や天の祭祀を持っていたので、高句麗もそれらを取り込むことになります。これが高句麗を変貌させます。
高句麗は、天に由来する王権神話・建国神話を国家形成の基盤としてかかげ、戦時には全権を掌握する王のもと、勢力を飛躍的に拡大、半島南部を圧迫し始めるわけです(第14回ブログ)。
一方、4世紀半ば頃から勢力を拡大し始めたヤマト王権は、半島南部での鉄の確保や先進技術・先進文化の導入に支障が出ることに強い危機感を抱きます。
ちょうどそこに、南下する高句麗に危機感を抱いた百済が、ヤマト王権に軍事的支援を求め、この双方の思惑が日本と高句麗の戦争(400年、後述)に発展するわけです。
日本はこれに完敗します。騎馬民族との戦いはまったく勝負になりませんでした。日本は兵力・装備・兵站・戦法すべてにおいて劣っていたのです。
大規模な派兵ではなかったものの、完膚なきまでに叩かれたことによる衝撃はすさまじく、ヤマト王権が5、6世紀以降、天に由来する王権神話を取り入れ、官僚制を導入し、軍事力の近代化に邁進する契機となったのです(第14回ブログ)。
4世紀後半、高句麗の圧力に対抗するため、最も貧しかった新羅は高句麗に従属(377年、高句麗と共に前秦に朝貢)したが、百済はむしろ高句麗に反発し、遠交近攻の論理でヤマト王権に近づくという対照的な動きを見せます。
前回も触れましたが、奈良県の石上神宮に伝わる七支刀は、百済からもたらされたものとされ、泰和四年(369年)の銘が刻まれています。百済からヤマト王権に貢上したものか、それとも下賜したものかという議論がありますが、それよりも重要なのは、この遺物が日本と百済との王権同士の通交開始を物語っていることです。
それまで通交のなかった百済が、高句麗との対立を乗り切るために、ヤマト王権に軍事援助を求めてきたと推測できるわけです(第91回・115回ブログ)。
百済と日本との関係については『日本書紀』を中心に多様な記録が存在します。
『日本書紀』の記録によれば、百済と日本(ヤマト王権)の通交のきっかけとなったのは366年ということになります。
伽耶諸国の一つである卓淳国(とくじゅんこく)の王が、百済が日本との通交を求めていることを日本の使者に伝え、これを受けた日本側が百済へ使者を派遣したことから国交が始まったとされます(第112回ブログ)。
卓淳国を仲介にして百済との国交が始まったという記事は、どこまでが史実なのかという問題は残りますが、その地理的関係から伽耶諸国を介して百済と日本の関係が始まったことは概ね認めて良いと思われます。
現在残る記録から、日本は伝統的に朝鮮半島南部への勢力拡大を希求し、百済に対しても上位者として振る舞おうとした様子が汲み取れます。
こうしてヤマト王権は半島の争いに巻き込まれていくわけですが、反面、百済との交流で大和の文化・技術の水準は飛躍的に向上します。すなわち、半島での争いを通じて、半島から列島へ技術者たちが渡来し、日本に先進技術・文化が流れ込み、未曽有の技術革新の5世紀を迎えることになるのです。
前述の通り、4世紀末、ヤマト王権は百済の要請に応じて半島に出兵しますが、5世紀初めに広開土王に撃退されたと伝わるので、次節でその内容を確認してみます。
広開土王碑文
広開土王碑は、広開土王(好太王、在位391~412年)の死後にその功績を称揚する目的で建立されたものです。彼の諡号である広開土王(広く領土を開いた王)の名は、彼が各方面で大きな戦果を挙げ領土を拡大した事に因んでいます。
広開土王碑の碑文には以下のように記されています。
〇 391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民とした。
〇 393年、倭が新羅の王都を包囲した。
〇 395年、広開土王は北西の契丹を撃破した後、翌396年には百済の王都漢城に迫り、百済王を服属させた。
〇 399年にいったんは高句麗に従属した百済が、誓約を破って倭と通じたため、百済を再度攻撃すべく平壌まで進軍した。
〇 400年、倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、5万の兵を送り、新羅の王都を制圧していた倭軍を駆逐した。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那・加羅まで進軍し、倭人と共にいた安羅兵も討った。
〇 404年、倭が海路で帯方地方に侵入したが撃退した。
〇 407年、百済へ侵攻し、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った。
これに対応すると考えられる『三国史記』には、397年、阿莘王(あしんおう、)の時、百済から倭国へ王子の腆支王(てんしおう)を人質に送り国交を結んだという記事があります。
これに対し、『日本書紀』では、応神8年(397年)、『百済記』からの引用として、百済王(『日本書紀』では阿花王と表記)から倭へ王子直支(せしむとき、腆支)を遣わして好を修めたという記述がある。人質となっていた腆支王はその後、即位時、倭国から派遣された100人の護衛に伴われて帰国したという。
同じく『三国史記』では402年、新羅も倭国に奈勿尼師今(なこつにしきん)の子を人質に送り国交を結ぶ。404年には帯方郡との境まで倭が攻め込む記事があります。
これらの記録は、史実性を巡っては諸説ありますが、相互に整合性の高い記録を残していることもあり、ある程度の信頼性はあると考えられます。
広開土王碑の碑文をすべて読めば、この中で高句麗の敵として最も多く登場するのは「倭」であって、高句麗の南下を拒み続けたやっかいな存在こそが「倭」であったことが分かります。
対高句麗戦争の派兵規模
広開土王碑は、広開土王の子、長寿王が先王の功績を顕彰するために建てたものですが、その碑文には次のように日本からの派兵規模が大軍だったかのような記述があります。
〇 倭人は、新羅の国境に充ちあふれ、城や池を破壊した。
〇 400年に、広開土王は新羅を救援するため歩騎5万を派遣し、男居城より新羅城に至るまで充ちあふれていた倭賊を打ち破り、倭は潰滅した。
広開土王碑に記された「倭賊」という言葉は、百済の要請によって新羅に侵入した日本の軍勢と思われますが、「充ちあふれる」と表現されるような大軍ではありません。顕彰碑とは言え、誇大表現が過ぎるというものです。
399年から400年に、新羅の首都である慶州に日本の大軍勢が駐留していたとすれば、それを維持する兵站が必要ですが、慶州ではその兵站を裏づけるような遺跡・遺物は発見されていません。と言うことは、日本の軍勢は日本の総力を結集したような大規模なものではなく、小規模な集団に過ぎなかったことを示唆しています。
当時、大勢を運べる準構造船は発展途上で、軍船建造が容易ではなかったという技術面からの制約もありました(第55回ブログ)。
また、当時の海上航行能力・渡海技術からみても、派兵の規模が大きくなかったことは間違いないでしょう。
おそらく、日本からの派兵は百済の援護射撃程度の規模で、数百人レベルの小競り合いだった(第97回ブログ)が、広開土王碑の碑文では、「充ちあふれる倭」の大群を撃退したことになっているわけです。つまりこれは演出ですね。
戦時に5部族の全権を掌握する高句麗王
北條芳隆氏の著作に「高句麗5部族」に関する興味深い記事があるので、抜粋して、以下に引用します。
<高句麗は有力5部族からなる連合政体であった。王もこれら5部族のなかから選出された。階層間の序列は比較的厳格で、刑罰も即決主義に貫かれた>。
<対外的には国家として立ちあらわれる強国であった。とはいえ高句麗社会の内実は人類学でいうところの首長制社会だった可能性が高い。
ただし首長制社会にも全権を掌握する存在があったことが知られている。臨戦時に選ばれる戦時の首長がそれである。だとすれば高句麗王も、実質的には戦時首長としての性格を帯びる存在だった可能性が高い>。
<さらに重要な点は、高句麗は東アジアで最も早く律令制を整備し、仏教を受容したことである(前回ブログ)。律令制を導入するためには官僚の存在と官僚制の確立が不可欠である>。
<官僚制も仏教も首長制社会とは異質な存在である。なぜ受容し得たのかというと、どちらもお仕着せの状態で移植されたからである。その機会は楽浪郡・帯方郡を滅ぼした時点に訪れた。西晋が江南への撤退を余儀なくされた際にも、また前秦が瓦解し中原・華北が動揺した際にも訪れた。流民や亡命者の受け皿だったからである>。
彼らは部族のしがらみに囚われることがなかったということでしょう。
こうして、官僚制も仏教も、漢字文化でさえ、本来は異質な首長制社会・部族連合の中に共存でき、臨時に全権を掌握する戦時首長には官僚制を付随し、5部族のなかの特定部族がそれをリードすることが許容されたということでしょう。
以上の内容は、4、5世紀のヤマト王権の構造を考える時の大きなヒントのなると思います。
高句麗戦争と渡来した半島人
4世紀末、ヤマト王権は百済の要請に応じて半島に出兵しますが、5世紀初めに広開土王に撃退されます。騎馬民族との戦いはとても勝負にならなかった……。
日本は、百済の援護射撃程度の参戦で、数百人レベルの小競り合いでしたが、兵力・装備・兵站・戦法すべてにおいて劣っていました。
日本は短甲と太刀で武装した歩兵が接近戦で挑んだのに対し、高句麗軍は熟練騎兵を組織して馬上から矛で蹂躙し、歩兵は鉞を持ち、強力な彎弓を携えた弓隊が活躍したようです。
ヤマト王権はいまだ勢力基盤を整える途上であり、支配体制も盤石ではなかったこの時期に、海外派兵をするのはいかにも性急過ぎで無謀な戦争だったというしかありません。
兵の出身地は西日本が主体だったが、ヤマト王権の外交・軍事を掌っていた紀ノ川河口部の豪族や葛城氏などが派兵をリードしたと考えられます。
この戦いを通じて、半島から列島へ技術者たちが「渡来人」として移住し、日本に先進技術・文化が流れ込み、未曽有の技術発展の5世紀を迎えることになります。
ところで「渡来人」という言葉ですが、珍妙な言い回しと言わざるを得ません。戦乱を避けてみずから日本へ逃れたという説もありますが、略奪して連れてきたのかもしれず、実態は定かではありません。
『古事記』には「阿知吉師(あちきし)、和邇吉師(わにきし)、韓鍛(からかぬち)の卓素(たくそ)、呉服(くれはとり)の西素(さいそ)、秦造(はたのみやつこ)の祖、漢直(あやのあたへ)の祖、仁番(にほ)が来日した」とあり、
『日本書紀』の応神紀には、阿直岐(あちき)、王仁(わに)の来日を伝える他、「弓月君(秦氏の祖)が120県の人民を率いてやってきた。倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖である阿知使主(あちのおみ)が子の都加使主と17県の自らの輩を率いてやって来た」とあります。
しかし、4世紀後半から末の時期は、ヤマト王権と百済が国交を開いてから間もないので、このような大量の渡来は考えられません。このように多くの人民を従えてやって来たというのは、多数の部民を持つようになった6世紀以降の状態の反映と考えられます。
いずれにしても、渡来の規模は東漢氏(やまとのあや)や秦氏(はた)など帰化系の先祖で、高々100人程度に過ぎなかったと考えるのが合理的です。大勢が渡来したという論者もいますが、海上交通の不便なことを考えればあり得ません。
古代の文献には、帰化系を名乗った豪族が大勢見えますが、これは大和政権内で帰化系を称することが、一族の地位を高めることに有利に働くという現実があったという側面を無視してはいけません。
秦氏や東漢氏については、いずれ詳述してみたいと考えています。
5世紀半ばには半島南部の任那(伽耶)を日本が支配したとするシナの文献もありますが、どの程度の支配であったのかも含めて定説にはなっていません。このあと詳述します。
高句麗の全盛期と百済への圧迫
広開土王によって拡大された領土を引き継ぎ、高句麗の全盛期をもたらしたのが長寿王(在位413~491年)です。その諡号の通り、79年にわたって在位したとされます。彼は即位直後の413年、東晋に初めて朝貢しています。この時、日本が一緒に朝貢したという説もありますが、当時、高句麗と日本の関係は良好ではなかったため、筆者は否定的です。
長寿王はその後、南北に分裂したシナの両朝(420年建国の宋と423年建国の北魏)に遣使を行なうが、特に国境を接する北魏との関係構築に腐心します。南北両王朝とも高句麗の存在を高く評価し、424年には宋から、435年には北魏からそれぞれ冊封を受けます。高句麗に授けられた将軍号、官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位のものでした。
長寿王は、427年には奪回した平壌へ遷都し、朝鮮半島における勢力拡大に本格的に乗り出します。この時遷都が行われた平壌城は現在の平壌市街ではなく、そこから6キロメートルほど北東にある大城山城一帯にあったとされています。
高句麗は、もともと広域寒冷化のもと、朝鮮半島を舞台に南下を始めた好戦的で機動性に富む国家ですが、対北魏関係の安定とともにさらに南方へ勢力拡大を続け、長寿王の時代に高句麗の版図は最大になります。
5世紀の朝鮮半島情勢は、まさにこの長寿王の勢力拡大に対して、百済・新羅・伽耶諸国がどう対応したか、そこに日本もどのようにかみ込んだのかに尽きると言っても良いでしょう。
南進路線をはっきりさせた高句麗は、455年以降、長期にわたり繰り返し百済を攻撃します。
これに対して百済は、高句麗からの圧力を嫌っていた新羅と結び、472年には北魏にも高句麗攻撃を要請した。しかし、高句麗によるそれまでの親善策が功を奏し、北魏が介入することはなかった……。シナの南北朝時代当時、百済は伝統的に南朝と通交していたが、北魏は高句麗がより熱心に遣使していることを高く評価したようです。
新羅が国力を増し、高句麗からの自立を図るようになるのは5世紀の半ば頃からです。
450年、新羅が高句麗の辺将( 辺境を守る将軍)を殺害する事件が起きます。高句麗は新羅征討を計画したが、新羅が謝罪したためいったん事態は収拾された。しかし454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘となり、翌年の高句麗と百済の戦いでは、新羅は百済へ援軍を送るなど次第に高句麗に対して自立姿勢を明確にしていきます。
475年、長寿王(在位413~491年)は百済の首都漢城を襲い、時の百済王を殺害し、事実上百済を滅亡させた。漢城陥落は『三国史記』のほか『日本書紀』の雄略紀でも言及されています。
この時、一度、百済は滅亡したと評する研究者もおり、この歴史的な事象をもって475年を百済史の区切りとしているようです。
475年当時、百済王子は救援を求めるために派遣されていた新羅から、新羅軍を伴なって帰還したが、既に漢城は陥落しており、翌月に文周王として即位します。
文周王は都を遠く離れた南方の熊津(ゆうしん)に遷し百済を再興したが、百済の領地はそれまでの五分の三までに減少します。以降しばし暗殺や内乱が続き、漢城周辺を失った百済は相当弱体化してしまった……。
またシナの史書にも、日本と朝鮮半島との関係をうかがえる記事が載っています。
〇 438年、日本の「珍」が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」の承認を要求。
〇 451年にシナは日本の「済」に対して「倭本国、新羅、任那、秦韓、慕韓の軍事権」を承認したが、シナと国交のある百済だけは承認せず。
〇 「武」は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されています。
「倭の五王」の最後である「武」(雄略か?)は、恐らく475年の高句麗による漢城の占領と百済の滅亡に関連して、南朝の宋に高句麗の非道を訴える上奏文を送っており、『日本書紀』は熊津での百済の復興に当たって「武」がこれを支援したと記しています。
当時、ヤマト王権は独自の天下観念を発達させつつあり、この倭王「武」の行動は百済の一時的な滅亡に伴う混乱の中で、百済を服属下に置き、独自の秩序の構築を目指していたのかもしれません。
百済による伽耶地域への圧迫
479年、東城王(在位479~501年)が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めます。一つは漢城時代に権勢をふるった伝統的中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに王権が強化され、王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり、今一つは南方地域への拡大があげられます。
東城王は新羅と結んで高句麗からの軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地域への拡大を図ったわけです(これが比自㶱(ひしほ)など七国平定のモデルになったのだろうか?)。
この後、東城王は暗殺されますが、501年に即位したのが武寧王(在位502~523年)で、武寧王陵からは多様な副葬品が出土した事で有名です。
熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王はシナ南朝および日本との関係を深め、更に領内の支配強化を目指し、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、特に南西方面での勢力拡張を図ります。
この動きに対応して、『日本書紀』継体紀には、512年、日本から百済へ任那四県を割譲したという記事があり、翌513年から516年には伽耶地方の伴跛(はえ)から帯沙(たさ)、己汶(こもん)を奪い、百済に与える記事が続きます。
しかし、実際に日本が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方があります。
第79回・111回ブログでは、「任那四県割譲問題で大伴金村が失脚する件」を取りあげました。筆者は文字通りに軽く捉えていたのですが、今回、任那四県割譲問題にはややこしい背景があることが分かりました。次回のブログで「栄山江流域の前方後円墳」について詳しく言及します。
武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝に新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を保護し支配していると語り、ヤマト王権に対しては、南方(栄山江流域は後述)進出の了解(?)を取りつけたり、軍事支援を得る見返りとして五経博士らを派遣した。以後、日本への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対日政策となっていくのですが、この先は6世紀以降の継体・欽明を論じる時に言及します。
伽耶系陶質土器が物語る伽耶4地域について
伽耶系陶質土器は日本の須恵器の手本となる、高温で焼成した上質の土器で、5世紀後半には4つの系統があり、それぞれが独自の勢力圏に対応していました。
陶質土器に言及する前に、朝鮮半島の土器が日本へもたらされた歴史を振り返ってみます。
紀元前1世紀頃から朝鮮半島と対馬・壱岐・九州北部のクニグニの間で交易が盛んになり、楽浪郡からは大量の楽浪系土器が、馬韓・辰韓・弁韓からは三韓系土器がもたらされます(第63・64回ブログ)。
ヤマト王権と百済・新羅の通交は4世紀後半に始まったと考えられますが、ヤマト王権の発祥地である3世紀の纒向遺跡でも楽浪系土器が出土しています。これは九州北部を経由してもたらされたものと考えられます。
3世紀後半になると、朝鮮半島との交易は三雲(伊都国)から西新町(博多)を窓口とする交易に移行し、楽浪系土器が激減し、三韓系土器が主体となります(第64回ブログ)。
このような経緯を経て、三韓時代のあとの4世紀から6世紀にかけて、伽耶地域では4つの地域ごとに独自色の強い文化が栄えます。
5世紀には、日本にも陶質土器がもたらされ、ほぼ同時期に生産技術も伝わり、須恵器生産が始まったようです(陶邑など)。
須恵器は土師器(はじき)とは異なり青灰色で硬いため、明瞭に区別できます。
縄文土器から土師器までは日本列島古来の、ひも状の粘土を積みあげる「輪積み」で成形し「野焼き」で作られていました。
これに対し、須恵器は、轆轤を用いて成形し、斜面に穴(ないし溝)を掘ってトンネル状にした窖窯(あながま)の中で1100度以上の高温で還元焔焼成するものです。
陶質土器の代表として、脚をつけた円形の深皿に円形の蓋をつけた有蓋高坏に着目すると、4つの系統・地域で、際だった違いが見られます(武光誠氏の著作を参考)。
<高田貫太氏の著作から転載>
〇 高霊伽耶国を中心とする地域(A、短く太い脚の高霊型)
〇 久嗟国を中心とする地域(B、短い脚の底がラッパ状に開いた固城型)
〇 安羅国を中心とする地域(C、長い脚の咸安型)
〇 金官伽耶国を中心とする地域(D、新羅系陶質土器)。比自㶱、星山を含む地域も新羅系陶質土器の分布圏とされる。
これら4つの地域にも栄枯盛衰があります。次項で言及します。
新羅と日本の通交、金官伽耶の衰退と大伽耶の躍進
4世紀半ば頃、弁韓では小国の中から興った狗邪韓国が金官伽耶国(任那)として勢力を拡大します。
4世紀末には、卓淳国、安羅国などからなる「伽耶南部諸国連合(南加耶連合)」を結成してその盟主を務めるようになることは前回のブログでも言及しました。
しかし、金官伽耶の地位は400年の広開土王の侵攻をきっかけに大きく低下します。
5世紀後半には伽耶地域の東部は新羅系陶質土器の分布圏に組み込まれ、その時期に新羅は急速に成長します。そして金官伽耶の王家は532年、新羅に降伏して滅びます。
一方、久嗟(小伽耶)ですが、その中心地にある固城の古墳は、新羅や伽耶の他の地域とは異なる独自のつくりで、まず墳丘を造り、墳丘の完成後、その頂上に浅い墓穴をつくり、その中に石室をつくって王を埋葬しています。これはヤマト王権の3、4世紀頃の古墳築造と共通します(第104回ブログ)。さらに、魔除けのために赤色顔料を用いており、古代日本に特有の習俗が取り入れられています。
4世紀頃、久嗟の王家とヤマト王権はさかんに交易を行なっていたようですね。
こうしたことから、3世紀頃にさかんに使われた狗邪韓国・金官伽耶国から対馬や九州北部に至る航路に加えて、4世紀になると、久嗟国から対馬に至る航路が開拓されたと考えて良いのではないか……。
金官伽耶国の衰退とともに、ヤマト王権の地位も友連れで低下しますが、久嗟経由で高霊伽耶国や安羅国とも通交して地位の回復を図ったと思われます。
咸安型陶質土器の分布圏は、安羅国を中心とする狭い領域ですが、後年、日系の住民組織(任那日本府とも呼ばれる)が置かれ、ヤマト王権との繋がりを背景に、伽耶諸国の政治にさまざまな影響を及ぼします。安羅国の勢力が後退する頃、漢氏(あや)の祖先が数十人程度の規模で渡来した可能性があります。「あや」の名は「安羅」に基づくという説があります。
5世紀初め、金官伽耶の勢力が下降した後、伽耶諸国の指導的地位を務めたのは高霊伽耶国です。伽耶南部諸国連合(南加耶連合とも、第115回ブログ)に代わるのは大伽耶連盟(高霊伽耶連盟とも)です。
大伽耶連盟の最盛期は、高霊型陶質土器が伽耶北西部を含む広い範囲(前節のA領域)に広がった5世紀後半のことです。
拡大した伽耶北西部には己汶(こもん)、さらには西部には帯沙(たさ)などが含まれます。479年、シナの宋が滅んで南斉(なんせい)が建った年ですが、高霊伽耶国がその南斉に通交しています。百済のアシストなしに独自に使者を送ったようです。これ以後、大伽耶連盟は百済と対立する方向へ舵を切っていきます。
470年代に顕在化した百済の弱体化に続く一時滅亡ならびに大伽耶の独自の動きは、それまで鉄などの素材・先進技術・文化などの獲得を百済・大伽耶に頼っていた日本に大きな打撃を与えることになります。
5世紀末から新羅が朝鮮半島を統一する676年に至る約200年間は、新羅と百済が食うか食われるかの争いを展開し、伽耶諸国はその草刈り場となるのです。
洛東江を境にして東側は新羅、西側は伽耶として異なる政治的・文化的な領域を明確に形成し始めますが、その最後の生き残り策が大伽耶連盟だったということになります。
そして6世紀初めになると、新羅と百済による伽耶分割が始まります。
次回は栄山江流域の前方後円墳について言及します。
参考文献
『ヤマト政権と朝鮮半島』武光誠
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『倭国の古代学』坂靖
『戦争の古代史』倉本一宏
『前方後円墳はなぜ巨大化したのか』北條芳隆
他