理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

147 出雲大社と熊野大社

<左、宍道湖の夕日 右、宍道湖北岸の佐陀付近>

 今回は出雲国で大社と称される2社について言及します。
 出雲国には、東部の意宇地方に熊野大社西部の杵築地方に出雲大社と、一宮が2社鎮座しています。
 2011年、出雲大社は60年に一度の遷宮が、伊勢神宮の20年に一度の遷宮と重なり、神社めぐりの国民的一大ブームを招来したのは記憶に新しいところです。遷宮の費用は、「伊勢神宮」の550億円よりは少ないものの、80億円を要したというから、大変な額ですよね。新装なった本殿の千木や破風の「ちゃん塗り」、厚さ1メートルの檜皮葺も実に見事。
 現在の出雲では、遷宮も終えて蘇った出雲大社の方がはるかに有名で有力ですが、かつては熊野大社の勢力がはるかに高かった歴史があります。勢力の変遷は政治勢力の移動に伴なうものです。
 この勢力の移動は出雲の国譲りと連動していると思われ、すでに第145回ブログで言及しましたが、多少の補足もしてみたいと思います。

出雲大社


    <遷宮で一新した出雲大社>

 当社の名は正式には「いづもおおやしろ」と読みます。出雲大社は明治以後の呼称で、それ以前は杵築大社と呼ばれていました。
 祭神は大国主大神(おおくにぬし)で、『出雲国風土記』では「天の下所造らしし大神」と呼ばれています。
 オオクニヌシは、多くの神話とともに多くの異名を持っていますが、幾つかの英雄神の神話が統合されてオオクニヌシ神話が作られたものと思われます。 
 『記・紀』などの古文献では大己貴命(おおなむち)と呼ばれることが多く、オオクニヌシは、素戔嗚尊(すさのを)の課した試練を乗り越え、国づくりを完成したあとで使われる名です。

 本殿は高さ24メートルで、8回建てのビルに相当するらしい。大屋根の面積180坪という日本最大級の本殿で、切妻妻入で階が右側に寄った大社造(男造り)です。
 本殿を高層にして目立つようにするのは、「伊勢神宮」と好対照ですね。伊勢の正殿は四重の御垣に隠されていて容易に窺うことはできません。

 社殿は素木造ですが、以前は白い壁に朱の柱で構成されていたことが判明しています。素木造になったのは、1667年であり、意外と最近のことです。

 オオクニヌシは、南面している本殿の中で西に向いて鎮座しています。
 西面している理由について多くの見解(後述)があるが、出雲国造家の千家尊統が著した書籍には、オオクニヌシは海から渡来した神霊で、神無月に執り行われる神在祭で、稲佐の浜から八百万の神を迎えるために西向きになっているかのように記されています。
 しかし神無月は、「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」ということから、「神の月」が語源であって、「水無月」が「水の月」であることと同じ。

 神無月になると、「出雲大社」では、中旬から神迎えの神事が始まりますが、この行事が神在月として意味をなすのは出雲国だけです。「出雲大社」の他にも、出雲に鎮座する「佐太神社」、「万九千神社」、「日御碕神社」でも神在祭が執り行われます。全国的には神様が不在になってしまうということはなく、当然ながら神無月というのも暦の上でのことです。
 神々が出雲に集まって会議するというのは、平安時代以降の後づけで、出雲大社の御師が全国に広めた俗解と言えるのではないでしょうか。

 本殿内には、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒなど5柱の別天つ神が、オオクニヌシの傍の客座で南面していると言います。オオクニヌシにゆかりの深い他の神々が、瑞垣内とはいえ本殿の外に祀られているのに、「別天つ神」が本殿内に違う方向を向いて祀られているのは何とも不思議。
 「別天つ神」は『古事記』だけに登場する原初の神で、『日本書紀』には登場しません。当社が宇宙の始まりに関して『古事記』の伝承を重用しているというあらわれでしょうか。

 旧大社駅から続く神門通りは八雲山に向かってが緩やかに上り、途中に「宇迦橋の大鳥居」と呼ばれる一ノ鳥居が建っています。その突き当りの「勢溜」にはニノ鳥居が建ち、緩やかな下り参道を進むと、祓橋、三ノ鳥居、松の参道と続く。その先には四ノ鳥居に相当する「銅鳥居」が建ち、荒垣内となります。
 「宇迦橋の大鳥居」から「銅鳥居」までは約1キロで、中間の「勢溜」が最高点となります。「勢溜」から望む下り参道と松の参道は実に清々しい。昔はこの参道の両側には低い水田が広がっていたらしい。


  <清々しさが感じられる松の参道>

 中世には、当社の祭神をスサノヲとする説が広く流布されました。
 現在、本殿の真後ろには「素鵞社」が鎮座していますが、その「素鵞社」は鎌倉時代から江戸時代までは本殿に祀られていたと伝わります。銅鳥居には今でも「当社大明神は天照大御神之弟、素盞嗚尊也」と刻まれており、中世から近世の一定期間はスサノオが祭神だったことは間違いないようです。
 これは、神仏習合時代の鰐淵寺の政治力によると思われますが、不思議なことに出雲国では、オオクニヌシよりもスサノヲの方が、おさまりが良いように思えます(出雲国の有名古社の祭神については、後述します)。


  <スサノヲの名が刻まれた銅鳥居>

 江戸時代の造営時に、「素鵞社」は、本殿内から本殿後方の一段高い現在地に移されたと言います。
 本殿に正対して参拝すれば、同時にその奥のスサノオに参拝出来ると書いてある本を読んだが、これはほとんど意味のない俗説でしょうね。


<本殿後方で修復中の「素鵞社」>

 また、オオクニヌシを大黒様と呼ぶのは、大国を「だいこく」と読むと、仏教の「大黒天」と読みが共通することから同一視されただけのことです。この馬鹿げた同一視はひろく一般化してしまいましたが、元々は出雲神と全く関連のない事ですよ。

 

熊野大社


 <森厳な雰囲気の中に鎮座する熊野大社>
 
 「熊野大社」は出雲国のもう一つの「一宮」です。
 当社の創始は、『日本書紀』に見える「出雲国造に命じて神の宮を修造した」とする659年説(斉明大王5年)が有力です。つまり、創建は出雲大社よりも早いということ。
 知名度から紀伊国の「熊野三社」と間違える人が多く、同じ「熊野」の名から、紀伊国の「熊野三社」との繋がりを説く論文も確かに存在しますが、創始の経緯からみてそれはあり得ないと断言できます。

 鎮座地は、島根県松江市八雲町熊野の静かな農村の中です。
 杉林がおおう境内は森厳な雰囲気を醸し出していて、神寂びた趣が感じられる。境内中央には入母屋吹抜構造の舞殿が建つ。元々拝殿だった建物を1973年に移築したものらしい。舞殿の先には拝殿、その奥には大社造の本殿がそびえる。

 付近には「風土記の丘」があるし、神魂神社須我神社もあって、いかにも出雲文化の発祥の地という感じがする場所です。特に須我神社は、ヤマタノオロチを退治したスサノヲが、妻のイナダヒメと暮らす新居を定めたという由緒ある地です。当地は、今はのどかな感じですが、昔は国府にも近く意宇の中心地でもあったのです。

 祭神は「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と、大変に長い神名を持っています。
 「イザナギノヒマナゴ」は、イザナギイザナミの可愛がられる御子の意、「カブロギ」は、神聖なる祖なる神の意、「クマノオオカミクシミケヌノミコト」は、熊野に坐します尊い神の意であり、スサノヲの別神名です。つまり、ここ意宇の地はスサノヲの本拠地と言えます。

 境内左端には「鑚火殿」が建っています。
 祭神のスサノヲは、この熊野の地で「檜の臼・卯木の杵」で火を鑚り出す法を教授したとの伝承があります。燧臼、燧杵で切り火して日本最初の火を用いた古事をもって、「熊野大社」を「日本火出初社」とも呼んでいます。この鑚火殿の内部にはその神器が奉安してあるそうです。毎年10月15日には、「出雲大社」の祭祀に用いる神火を、出雲大社の宮司自ら熊野大社で拝受する「鑚火祭」が行われます。
 熊野大社の序列が高かった時代の名残が今に伝わる神事と言えるでしょう。

 738年にできた『大宝令』の注釈書である『古記』には「天神は、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神らの類是なり、地祇は大神、大倭、葛木の鴨、出雲大汝神らの類是なり」との記載があります。
 「出雲国造の斎く神」とは熊野大神のことであり、「熊野大社」の祭神を指します。一方、「出雲大汝神」とは、杵築大神のことであり、「出雲大社」の祭神オオナムチを意味します。
 つまり、同じ出雲の有力古社でありながら、熊野は天つ神に、出雲は国つ神に分類されていたのです。
 この時期、「熊野大社」は、新たな律令制度のもとで、特別な領地である神領を持つことを許された「八神郡」の一つとされるほど、中央から認められた存在となっていたのです。

 この間の経緯は、上田正昭氏らの次のような見解に説得力があると思います。

 「神の分類は、天つ神系が征服民族の反映、国つ神系が土着民あるいは被征服民族の反映である、と説かれたりするが、そういう一般解だけではとけない問題がある。出雲氏の場合も土着的性格が濃厚なので、熊野と出雲ともに国つ神に加えるべきだが、8世紀前半の認識では、別々の分類に同種の神が分けられていたことになる」。

 これは、大和政権によって新たに郡司が派遣され、政治権力を失った出雲氏が意宇から杵築へ移動し、神祇の権能に特化せざるを得なくなった史実が投影する。すなわち、大和政権の権力に包摂された「熊野大社」の神は天つ神に、祭祀に特化した出雲氏が奉斎する「杵築大社」の神は国つ神に分類されたのだ。

 国造の杵築への移動は出雲臣果安が国造となった708年以降と想定されています。
 また、太安万侶が『古事記』の筆録を開始した711年を是とすれば、その時には既にオオナムチがモデルとして存在していたので、遅くとも711年までに「杵築大社」の大神殿が造られていたと考えられますね(実は、原古事記はそれ以前の7世紀後半にはつくられていた可能性が高いと筆者は考えています。しかもその大神殿が48メートルもの高層本殿であったことに疑念を抱いており、後述します)。

 4世紀頃の祭祀遺跡が現在の出雲大社の敷地から出土していますが、これをもって出雲大社が4世紀頃から存在したと考えることはもちろん出来ません。どのような勢力の祭祀遺跡だったのか、東部の意宇を発祥とする出雲氏とも関係しませんし、7、8世紀につながる氏族との関係もまったく不明です。

 ともあれ、平安中期以降、「杵築大社」はますます隆盛し、「熊野大社」は衰微の一途をたどります。

 国造の杵築移動後の中世、熊野大社は当初の意宇川上流の天狗山(熊野山)から里に分祀し「上の宮」「下の宮」の2社となった。上にはイザナミ、コトサカノヲ、ハヤタマを祀って熊野権現とし、下にはアマテラスとスサノヲを祀って伊勢宮とした。これにより祭祀と尊崇に混乱が生じ、中世以降ますます衰微した。

 1542年に大内・尼子の兵火にあい社殿を焼失し、明治になるまで仮殿で通した。明治になって2社を合祀し、大東亜戦争後になってようやく再興されたが、往古の壮大な姿からは程遠い状況です。

 前述したように、同じ「熊野」の名から、紀伊国の「熊野三社」との繋がりを説く論文もありますが、中世の一時は別として、創始の経緯は全くの別物です。

 ともかく、当社は出雲国の「一宮」であるにもかかわらず、全国的にはなじみが薄い。「出雲大社」の方がはるかに有名で有力ですよね。しかし以上のようにかつては「熊野大社」の神威の方がはるかに高かった時代があるのです。

 古来、出雲国の政治の中心は東部の意宇地方だったが、8世紀初頭、新たに定められた国司・郡司制度によって、それまでの出雲国造が政治権力を失い、出雲は完全に大和朝廷に取り込まれてしまいます。出雲氏は西部に移り、それまでに創建されていた「杵築大社」を拠点に祭司者に特化していった。その神殿は大和にも存在しなかった立派な神殿ですが、大きな謎を秘めていますね。

 

出雲大社の高層本殿の謎
 往古の出雲大社本殿の高さは、現在の24メートルよりもはるかに高い48メートルが有力説となっています。
 本殿48メートル説は長い間虚構であると考えられてきました。
 十数年前に、「金輪御造営差図」に描かれた通りの巨大柱根(1248年完成の本殿)が出土したため、高層本殿の神話が虚構ではなく事実であったという論調が一挙に有力になった。
 そして、巨大神殿の神話が虚構だという論調はすっかり影をひそめてしまい、今や高層本殿説が大手を振ってまかり通っています。
 本殿の高さがさらに高い100メートルだったという伝承もあるが、さすがにこれは構造的に無理でしょう。

 直径1.35メートルの巨木を3本組にして1つの柱とし、この巨大柱を9本建てれば、48メートルの高層本殿は理論的に成立するとの建築専門家(大成建設のプロジェクトチーム)によるシミュレーションもありますが、それに対する見解は様々で、今なお賛否両論があります

 その一つは「金輪御造営差図」に記された柱の径に拘り過ぎるのは疑問ということ。 

 そもそも出雲大社の祭祀は殿内祭祀が前提で、広い空間の本殿が必要、ならばそれを支える柱は必然的に太くなると……。
 第一、天つ神側との約束とはいえ、敗者のための社としては立派で巨大すぎる。どこかおかしくないか。

 さらに、48メートル本殿では、階段(引橋)が長くなりすぎ、境内を突き抜けてしまうし、角度がきつければ昇降に差しさわりが出てしまう。
 最も長い棟持ち柱や最大径を持つ柱は1本の自重が200トン内外にもなる。しかも鉄製金輪の継手を使うので、それだけで総重量は50トンにものぼり、建築は相当に難儀である。
 また梁は厚さ1.1メートル、幅1.3メートルの角材、桁は厚さ0.9メートル、幅1.3メートルの角材で、桁1本の自重は17トンほどになってしまう……。
 とにかく、とんでもない難工事ということです。

 プロジェクトチームも、「考古学として考察したものではなく、建築の世界の広がりとしてアプローチした。最初に高さ48メートルありきという前提を演繹的に、建築上のものとしてその可能性を追究した」として、弁解じみた解説を付けています。
 つまり、建築学的には成立するが、本当に48メートルの高層本殿が存在したかどうかは考古学にゆだねたいということ。

 柱根は、あくまでも地下の残存部分が発見されたのであって、当初の柱の全長は判明していません。48メートル高層本殿が確実に存在したと断定するのは勇み足と言えないでしょうか。

 平安時代の『口遊』(くちずさみ)にある「雲太、和二、京三」は、高さを競ったものではなく、あくまでも権威や大きさの順であって、2位の東大寺大仏殿の高さが45メートルなので、出雲大社の本殿はそれ以上だったと即断することはできないという研究者もいます。また、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順をあらわしているとの見解もあります。

 そもそも、「金輪御造営差図」に記された寸法を鵜吞みにして良いのでしょうか。
 柱の径が太すぎる。また階段(引橋)の部分は明らかに短縮して描かれている、等々……。
 むしろ寸法は正確に描かれていないと見るべきではないでしょうか。

 また「金輪御造営差図」は13世紀後期以降、14世紀中期以前のある時点で作成されたものであり、12世紀やそれ以前の古代の本殿を描いたものではなく、16丈(48メートル)という本殿の高さを示す数値も必ずしも信頼できる数値ではないとも思われます。

 

出雲大社本殿の殿内祭祀
 本殿内のオオクニヌシが西向きの出雲の神について多くの謎解きがされているが、情緒的な見解が多いですね。
 出雲神が稲佐の浜で遊びたいからとか、出雲は日の沈む国なので西向きなのだとか、オオクニヌシを封じ込め参拝者に拝ませないようにしたとか、当時、参拝者が神に正面から対峙しないようにする思想があったとか、当時の先進文化であった朝鮮半島への尊崇の念から西向きになっている、等々……。

 しかし、一般人の参拝などというのは後々のことで、そもそも昔は参拝という概念が存在しなかった。外から内に向かって参拝することを前提とするなら、本殿は偶数柱になるはずだ。しかるに「出雲大社」はど真ん中に宇豆柱があって、外からの参拝には具合が悪い構造になっている。本殿は真ん中に心御柱があって4分割され上下2段となっていて殿内祭祀が前提の構造だ(黒田龍二氏)。

 これは、昔から出雲大社で「殿内祭祀」が行われていたことを構造面から示す証拠といえるでしょう。

 当社では、神と正対したい参拝者に便宜を図るため、瑞垣西側に簡素な拝所を設けた。そこに大勢が行列して参拝しています。しかし殿内祭祀の歴史を知ると、この便宜は馬鹿げて見える。そこまで迎合することはないだろう。

 さて、その殿内祭祀ですが……。
 本殿内部は、上段で直接に出雲神をお祀りする造りになっています。
 上段右側に鎮座する神は西を向き、上段左側に神に奉げられる御饌が並べられる。祭司である国造も神の側から西を向いて座り、神に成り代わって御饌をいただくらしい。

 大王家でも、アマテラスを象徴する鏡の祭祀は、古くは「同床共殿」として宮殿内での直接祭祀が行われていた。やがて鏡は宝庫で保管され「御饌殿祭祀」「庭上祭祀」に移行した。
 「伊勢神宮」では外から内を拝む「庭上祭祀」が継続しています。
 「出雲大社」では、国造が本殿内で直接に神を祀る「殿内祭祀」が継続したが、今はさすがに行われていません。
 古い形態である「殿内祭祀」を今でも行っているのは、全国で唯一、皇居内の天皇陛下だけです(新嘗祭として引き継がれている)。
 こうしたことからも、「出雲大社」の大社造は「伊勢神宮」の唯一神明造よりも古く、神社建築の最古の形式とみなせる。

 江戸時代の記録図「座配の図」によれば、上段右側に鎮座する神は西向きに鎮座。
 上段左側には神に捧げる御饌が並ぶ。祭司である国造も神の立場で上段左半分に西向きに座り、下段や庭上に座る上官に向かって対峙し、神に成り代わって御饌をいただいた。つまり出雲大社では殿内祭祀が行われていたということ。ならば48メートルもの高層本殿は意味のないことになります。

 殿内祭祀は多くの神職が参加するため、本殿は10メートル四方のかなり広い空間になっている。太い柱が建てられたのは、高所に本殿を設けるためではなく、異常に広い空間を支える必要があったからかもしれない(島田裕巳氏)。

 以上のように、高層本殿の存在は歴史的ロマンを掻き立てるが、さらなる発見がないと確信は持てないのでは。

 

杵築大社の創始
 出雲神話と出雲の国譲りについては、第145回ブログで詳しく言及しましたが、その中から、神社の創始に関係する部分のみ引っ張り出してみます。

 造化三神のうち高御産巣日神が大和系であるのに対して、神産巣日神は出雲の神々の御祖とされています。『古事記』では、タカミムスヒ、アマテラス、ニニギの流れとカミムスヒ、スサノオ、オオナムチ(オオクニヌシ)の流れが対になるように描かれています。
 『記・紀』に描かれた「国譲り」は、現世の統治権と引き換えにオオクニヌシに神事を委ね、その代償として天にも届く神殿が築かれたことになっています。
 しかし、『記・紀』の記述と『出雲風土記』の出雲神話の間には、第145回ブログで言及したような大きな違いが見られます。

 「国譲り」とは、一地方豪族の出雲氏がヤマト王権(大和朝廷)の支配下に入り、杵築大社の祭司者に特化していったという史実に、4世紀以降のヤマト王権が各国の豪族を支配下におさめた歴史が複合したものと考えるべきでしょう。日本の大半(葦原の中国)を支配した「出雲政権」がヤマト系に置き換わったことでは決してない……。8世紀初頭に、大和側の正当性を主張するために、考えられ作り上げられた出来の良い物語です。
 オオナムチの後世の名であるオオクニヌシは「国譲り」に際して、わざわざ作り出された名前です。人畜無害の国つ神の代表としてオオクニヌシを仕立て、国土開拓・民生複利・平和の神として、以後の大和朝廷はむしろ利用して行ったように思えます。

 杵築大社は、高天原側の神話(『記・紀』)ではタカミムスヒが建造を指令したことになっていますが、『出雲国風土記』では、オオナムチが天下を造ったのち、カミムスヒが国の皇神たちを参集してオオナムチの宮を築いたことになっています。現実の世界でも、杵築の大社はおそらく7世紀後半には完成していたのではないでしょうか。

 大和側が高層神殿を建造すると言っても、当時の大和にはそのような高層建築の技術があったどうか定かではなく、逆に出雲には日本海側に広がる巨木の文化を背景にした高層建築技術が存在した可能性さえあります。

 出雲国造が政治を離れて神事を担当するという祭政の分掌は、8世紀初頭には行われていて、オオナムチが現実世界の政治を譲り、神事を担当するという祭政の分掌は、出雲側にとっても決して不利な形での「国譲り神話」ではなかったのでは……。

 

出雲国の有名古社
 出雲国の有名古社を参拝してみると、意外にも祭神の名にオオクニヌシは登場せず、スサノオや熊野大神が色濃く投影しています。やはりオオクニヌシは比較的新しい時代に作られた神であったのかと納得してしまう現実があります。
 以下、主に各神社の祭神と建築様式を確認してみます。

 

日御碕神社


 <日本海を背に日御碕神社の華麗な社殿群>

 島根半島の西端に鎮座。同一境内に上宮と下宮を配置する珍しい社殿配置。上の本社(神の宮)にはスサノヲを祀る。「日沈の宮」と呼ばれる下の本社は日本海に沈む荘厳・美麗な夕陽を崇拝する経島(ふみしま)の小詞がアマタラス信仰と結びついて発展し、平安時代に両者を合わせて日御碕大神宮とし、明治維新後に日御碕神社と改称された。
 元来は島根半島の突端にある浦(日御碕の東)は舟の停泊に好適で、海を生活の舞台とする人びとの守り神という一地方神を祀る神社だった。
 平安時代後期、後白河上皇の撰による『梁塵秘抄』では、「聖の住所(すみか)は何処何処ぞ、箕面(みのお)よ勝尾よ播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日御碕、南は熊野の那智とかや」と謡われ、12世紀後半の聖地として、播磨や熊野とならんで、鰐淵や日御碕が挙げられるほど、修験道を中心に、出雲大社と深い関係をもった寺院勢力の地として隆盛した。
 「日沈の宮」の名は、「日の本の夜を守れ」との勅命を受けたことに由来し、昼を守る「伊勢神宮」に対応しているようです。

 

佐太神社


  <佐太神社の三殿並立大社造本殿>
 出雲国ニノ宮である。中世には「出雲大社」に匹敵するほどの社地を保有していた。大社造の豪壮な本殿が三殿も並ぶ。正殿、北殿、南殿から成る三本殿の千木が並ぶさまは実に美しい。主祭神は佐太御子大神で、『出雲国風土記』では四大神の一柱である。

 

美保神社


 <美保神社拝殿と二連の本殿>

 島根半島東端に鎮座し、全国えびす社3千社の総本社である。社殿は、二連大社造本殿の前に吹き抜け拝殿が連結する美保造だ。右殿に事代主神を祀り左殿に妻の三穂津姫命を祀る。
 青柴垣神事(あおふしがき)、諸手船神事(もろたぶね)で有名。
 『出雲国風土記』では、オオクニヌシと越のヌナカワヒメとの間に生まれた御穂須須美命(ミホススミノミコト)一柱を祀るとしている。国引き神話で最後の国引きとなった美保地域全体を治め、かつ信仰の対象とされた神と思われるが、江戸時代には祭神の交代があったらしい。

 

神魂神社


 <神魂神社の国宝大社造本殿>

 古代出雲の中心地に鎮座する。我が国最古の大社造本殿(国宝)を有する。高天原から遣わされたアメノホヒが最初に天降って創建したとされる。アメノホヒの子孫が25代まで出雲国造として当社に奉斎した。現在の祭神はイザナキ・イザナミであるが、中世以前は熊野大神であった。

 

須我神社

<奥宮の夫婦岩(本殿から2キロ離れた高台)>

 ヤマタノオロチを退治したスサノオが妻の稲田比売命と新居を定めた地で「日本初之宮」とされる。この時スサノオが詠んだ歌が日本初の和歌ということで、和歌発祥の地ともされる。奥宮にある巨岩の磐座(夫婦岩)で有名。

 

八重垣神社


<スサノヲとイナダヒメ(八重垣神社宝物殿内の板絵着色神像)>

 スサノオとイナダヒメを祀る。当初「須我神社」の地に創建されたが、後に当地に遷座した。スサノオの日本初の和歌が神社名の由来とされる。

 

須佐神社


 <須佐神社の大社造本殿>

 スサノオが御魂を留めおいた終焉の地とされる。スサノオが色濃く投影し、スサノオは須佐の男を意味するという見解すらある。樹齢1300年超の大杉でも有名。

 

 これら有名古社の間では、スサノオは「須我神社」「八重垣神社」の地でイナダヒメと仲良く暮らし、「須佐神社」で一生を終えたと伝わっています。スサノオは一生のあいだに、東部の意宇地方から西部の出雲平野に移動しており、興味深い伝承と言えます。八重垣神社の境内にはスサノヲが詠んだと伝わる日本最古の和歌の碑が建っています。出雲国のロマンを感じます。


 <日本最古の和歌の碑(八重垣……)>