理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

151 鹿島神宮・香取神宮

<香取神宮の拝殿と御神木> 今回は、出雲の国譲りの際、高天原から派遣された武神タケミカヅチとフツヌシの来歴と、二神を主祭神として祀る鹿島・香取の両神宮の謎について言及します。 まずは、古文献に記された祭神について確認してみます。 『記・紀』『…

150 住吉大社・住吉4社

<住吉大社第二本宮・第三本宮> 今回は、三韓征伐で活躍したと伝わる神功皇后ゆかりの住吉大社と各地の住吉神社について言及します。 上町台地と住吉大社境内 「住吉大社」は、大阪市南西部に南北に長い舌状の上町台地の南のつけ根部分にあります。そこから…

149 賀茂別雷神社と賀茂御祖神社

<瀬見の小川> 神武東征の場面には八咫烏(やたがらす)が登場します。 今回は、ヤタガラスにゆかりがあるとされる賀茂大神や賀茂社の創始事情について言及します。 神武東征と八咫烏 八咫烏(やたがらす)は、神武東征の途中、熊野の地で神の毒気に接して…

148 大神神社と石上神宮

<注連柱の先に大神神社の拝殿> 今回は、5世紀以降、ヤマト王権のお膝元で隆盛した大神神社と石上神宮に光をあて、その創始と変遷ならびに伝承について言及します。両社は古代のハイウエイ「山の辺の道」で結ばれていました。 筆者は、全国の一宮103社を参…

147 出雲大社と熊野大社

<左、宍道湖の夕日 右、宍道湖北岸の佐陀付近> 今回は出雲国で大社と称される2社について言及します。 出雲国には、東部の意宇地方に熊野大社、西部の杵築地方に出雲大社と、一宮が2社鎮座しています。 2011年、出雲大社は60年に一度の遷宮が、伊勢神宮…

146 伊勢神宮と志摩国一宮

<左、伊勢神宮内宮の神楽殿、右、瀧原宮の参道> アマテラスと言えば伊勢神宮というくらい、両者は密接なつながりがあります。その伊勢神宮に筆者は3回、参拝しています。 2008年8月10日 2010年12月1日(御垣内参拝) 2013年8月1日(御白石持行事) 今…

145 古代出雲の実像と出雲神話

<青蓮院門跡跡> 古代出雲については、第65回・第98回ブログで少しばかり言及しました。 今回、5世紀の状況を中心に、1世紀頃から7世紀頃までを通史的に深掘りしてみます。 過去のブログで言及した出雲関連記事の一部について、その後の検討の結果、不具…

144 大仙古墳の築造

<大仙陵の完成時の姿(『よみがえる古代 大建設時代』から転載)> 以前のブログで、大仙古墳(仁徳天皇陵)については「5世紀のヤマト王権」に言及する時に詳しく触れると予告しました。また、第107回ブログでも築造技術については少々触れました。 今回…

143 古代国家は専制君主制が継続したのだろうか?

<近江八幡堀> 第135回・136回・138回ブログを振り返ると、ヤマト王権は雄略の時代に専制化したかのように思えます。しかし前回のブログでは、雄略以後の王権内は大混迷であったと綴りました。混迷の後、7、8世紀にかけてヤマト王権(大和政権)の政治体…

142 雄略後のヤマト王権は大混迷

<母と子の森(京都御所)> 今でこそ私たちは「ヤマト王権」という言葉を当たり前に使い、王権の順調な成長隆盛を思い描きますが、これは後世の歴史を知っているからそう呼ぶのであって、5世紀後半から末にかけての古代史の理解には慎重さが必要と思います…

141 丹波・丹後の豪族

<阿蘇海と天橋立> 前回は日向諸県君氏について詳述しましたが、今回は、これまでも繰り返し触れてきた「丹波・丹後の豪族」を取り上げます(第69回・82回・95回・96回・110回ブログで言及した)。 ただし過去の内容は、ヤマト王権の歴史に付随して言及した…

140 日下宮王家・髪長媛伝承と日下部連氏

<行田古代蓮の里> 今回は、第111回・第136回ブログで言及したものの、詳しい論考を先延ばししてきた件について言及します。 「日向諸県君が娘を仁徳の大王妃にする物語」と、「その後、河内日下を基盤とした日向の勢力(日下宮王家とも)が王権内で一定の…

139 稲荷山鉄剣と江田船山大刀は雄略による広域支配の証拠?

<須賀川牡丹園(福島)> 稲荷山古墳出土の鉄剣と江田船山古墳出土の大刀は、雄略の時代におけるヤマト王権の版図を判断する大きな根拠とされてきました。 この2つの考古物によって、5世紀後半のヤマト王権の支配が関東北部から九州中部までの広域に及ん…

138 古代の戦争とヤマト王権の軍団について

<須賀川牡丹園(福島)> ヤマト王権の版図拡大に関連して、今まで言及した内容も含めて、古代の戦争の実態について整理してみます。さらに5世紀のヤマト王権の軍団がどのようなものだったのか掘り下げてみます。 古代の日本では戦争がすべて 大東亜戦争後…

137 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文解釈

<クレマチスの丘(静岡)> 第135回ブログで言及した隅田八幡神社(すだはちまん、859年創建)所蔵の人物画像鏡について深掘りしてみます。 隅田八幡神社の人物画像鏡は、青銅製で径19.9センチ。正確な出土年代や出土地は定かでないが、古代史を検討する際…

136 王権内部の対立と葛城勢力の衰退

第124回~127回ブログで「葛城氏の盛衰」について確認しましたが、ヤマト王権との確執については中途半端のままでした。しかも「吉備勢力の弱体化(第133回ブログ)」と相前後してしまったので、改めて「ヤマト王権の内部対立と葛城勢力の衰退」について言及…

135 王族間の対立伝承

<満開の桜(紀三井寺)> 10年ほど前に読んだ森浩一著『敗者の古代史』が本棚の奥から出てきた。懐かしさでパラパラとめくってみたら、このところ論じている4、5世紀の王権にまつわる敗者の物語なので、これは捨ておけないと思った。 そこで今回は、同書…

134 雄略大王とシナ・朝鮮半島

<上田城の桜> 雄略大王のイメージ 雄略のイメージは、ひと言で言えば、カリスマ性と暴虐さを併せ持つ気性の激しい大王だったということでしょう。 権力を握るまでの血塗られた蛮行(か?)には、常人には推し量りがたい残忍、冷酷な面が見られます。 でも…

133 吉備勢力の弱体化

<北信濃の春> 5世紀半ばまでに先進的な生産基盤を築き、3つの巨大古墳を築造した吉備の王は、5世紀後半には没落してしまいますが、その経緯を紐解いてみます。 まず、該当する『日本書紀』の記事を確認してみます。 『日本書紀』にみるヤマト王権(雄略…

132 5世紀の吉備勢力

<偕楽園の梅> 吉備地域は、3世紀頃から5世紀にかけて、政治的にも文化的にもヤマト王権(ヤマト国)に対峙する勢力圏を形成していました。もちろん、それ以前からの蓄積があったからです。例えば水田稲作の開始時期です。 岡山市の旭川右岸に広がる津島…

131 ヤマト王権の祭祀

<大神神社拝殿> 前々回から2回にわたって、河内平野を主体とした技術革新について言及したので、5世紀のヤマト王権の本拠地は河内の難波であったかのようにも思えてしまいます。 ヤマト王権は河内平野へ進出したことによって、産業基盤を強化し、瀬戸内…

130 ヤマト王権主導の技術革新(2)

<真山神社> 5世紀には様々な分野で技術革新がありました。 そのうち前回までに、古墳築造や池溝開発などの大規模土木工事に言及したので、今回は産業・手工業面での技術革新について確認したいと思います。 ここでは、窯業生産(須恵器、埴輪)、鍛冶生産…

129 ヤマト王権主導の技術革新(1)

<入道崎灯台と北緯40度モニュメント> 今回は、第102回ブログで予告した「河内平野における土木工事」について言及します。ヤマト王権が主導した「5世紀の技術革新」のなかでも代表的な事績と言えるでしょう。 もっともベーシックな土木技術 巨大古墳をは…

128 5世紀のヤマト王権のかたち(ここまでのまとめ)

<柊家旅館> ここまで何回かにわたって「5世紀のヤマト王権のかたち」に言及してきましたが、錯綜し煩雑なブログの連続となってしまいました。 新年を機に、ここで一旦まとめてみます。

127 馬見古墳群

<ブナ林> 今回は謎の多い馬見古墳群について概括します。第121回・124回ブログでも少々触れてはきましたが……。 馬見古墳群の立地 馬見古墳群は、4~5世紀の葛城氏が支配する「狭義の葛城地域」の北方にあり、そこは第124回ブログで確認したように、葛下…

126 「かづらき」地域集団と葛城氏(3)

<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏> 前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。 今回は外戚と…

125 「かづらき」地域集団と葛城氏(2)

大和盆地という内陸に拠点を置いた葛城氏にとって、瀬戸内海の自由往来が困難だった5世紀までは、日本海側に出ることや九州北部地域に到達することは重要な政治課題でした。 彼らは、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることでこの障害…

124 「かづらき」地域集団と葛城氏(1)

第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。 今回は、南西…

123 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(2) 

前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。 5世紀の大王の政治拠点 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ…

122 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(1)

<薬香草園> 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログな…