理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

137 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文解釈

<クレマチスの丘(静岡)> 第135回ブログで言及した隅田八幡神社(すだはちまん、859年創建)所蔵の人物画像鏡について深掘りしてみます。 隅田八幡神社の人物画像鏡は、青銅製で径19.9センチ。正確な出土年代や出土地は定かでないが、古代史を検討する際…

136 王権内部の対立と葛城勢力の衰退

第124回~127回ブログで「葛城氏の盛衰」について確認しましたが、ヤマト王権との確執については中途半端のままでした。しかも「吉備勢力の弱体化(第133回ブログ)」と相前後してしまったので、改めて「ヤマト王権の内部対立と葛城勢力の衰退」について言及…

135 王族間の対立伝承

<満開の桜(紀三井寺)> 10年ほど前に読んだ森浩一著『敗者の古代史』が本棚の奥から出てきた。懐かしさでパラパラとめくってみたら、このところ論じている4、5世紀の王権にまつわる敗者の物語なので、これは捨ておけないと思った。 そこで今回は、同書…

134 雄略大王とシナ・朝鮮半島

<上田城の桜> 雄略大王のイメージ 雄略のイメージは、ひと言で言えば、カリスマ性と暴虐さを併せ持つ気性の激しい大王だったということでしょう。 権力を握るまでの血塗られた蛮行(か?)には、常人には推し量りがたい残忍、冷酷な面が見られます。 でも…

133 吉備勢力の弱体化

<北信濃の春> 5世紀半ばまでに先進的な生産基盤を築き、3つの巨大古墳を築造した吉備の王は、5世紀後半には没落してしまいますが、その経緯を紐解いてみます。 まず、該当する『日本書紀』の記事を確認してみます。 『日本書紀』にみるヤマト王権(雄略…

132 5世紀の吉備勢力

<偕楽園の梅> 吉備地域は、3世紀頃から5世紀にかけて、政治的にも文化的にもヤマト王権(ヤマト国)に対峙する勢力圏を形成していました。もちろん、それ以前からの蓄積があったからです。例えば水田稲作の開始時期です。 岡山市の旭川右岸に広がる津島…

131 ヤマト王権の祭祀

<大神神社拝殿> 前々回から2回にわたって、河内平野を主体とした技術革新について言及したので、5世紀のヤマト王権の本拠地は河内の難波であったかのようにも思えてしまいます。 ヤマト王権は河内平野へ進出したことによって、産業基盤を強化し、瀬戸内…

130 ヤマト王権主導の技術革新(2)

<真山神社> 5世紀には様々な分野で技術革新がありました。 そのうち前回までに、古墳築造や池溝開発などの大規模土木工事に言及したので、今回は産業・手工業面での技術革新について確認したいと思います。 ここでは、窯業生産(須恵器、埴輪)、鍛冶生産…

129 ヤマト王権主導の技術革新(1)

<入道崎灯台と北緯40度モニュメント> 今回は、第102回ブログで予告した「河内平野における土木工事」について言及します。ヤマト王権が主導した「5世紀の技術革新」のなかでも代表的な事績と言えるでしょう。 もっともベーシックな土木技術 巨大古墳をは…

128 5世紀のヤマト王権のかたち(ここまでのまとめ)

<柊家旅館> ここまで何回かにわたって「5世紀のヤマト王権のかたち」に言及してきましたが、錯綜し煩雑なブログの連続となってしまいました。 新年を機に、ここで一旦まとめてみます。

127 馬見古墳群

<ブナ林> 今回は謎の多い馬見古墳群について概括します。第121回・124回ブログでも少々触れてはきましたが……。 馬見古墳群の立地 馬見古墳群は、4~5世紀の葛城氏が支配する「狭義の葛城地域」の北方にあり、そこは第124回ブログで確認したように、葛下…

126 「かづらき」地域集団と葛城氏(3)

<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏> 前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。 今回は外戚と…

125 「かづらき」地域集団と葛城氏(2)

大和盆地という内陸に拠点を置いた葛城氏にとって、瀬戸内海の自由往来が困難だった5世紀までは、日本海側に出ることや九州北部地域に到達することは重要な政治課題でした。 彼らは、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることでこの障害…

124 「かづらき」地域集団と葛城氏(1)

第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。 今回は、南西…

123 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(2) 

前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。 5世紀の大王の政治拠点 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ…

122 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(1)

<薬香草園> 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログな…

121 大王墓から5世紀のヤマト王権のかたちを推理する!

<薬香草園> 第118回ブログでは、「倭の五王」を『記・紀』の大王に比定することがいかに困難か確認しました。その「五王」による王権は、実は唯一の「王の中の王」ではなく、「複数の王」によって構成されていたのかもしれません。 今回は第90回・101回ブ…

120 古市古墳群と百舌鳥古墳群

<田野倉の棚田> 河内平野の変遷については、第78回ブログで神武東征を論じる時に言及しました。5世紀頃までの河内には、大阪湾から切り離された河内湖がまだ存在していましたね。 河内は上町台地を除いては概して低地で、河内湖に向けて、北東から淀川・…

119 5世紀の日本を紐解くにあたり……

「5世紀の日本」を紐解くに当たって、まずは今までのブログで確認できたこと、今後言及したいことについて列挙してみます。 〇 4世紀半ばに、ヤマト王権は「おおやまと」地域から「さき」地域へ重心を移し、「ふる」「わに」の勢力を前面に立てて金官伽耶…

118 「倭の五王」は誰のこと?

3回にわたって古代朝鮮半島の状況を確認してきましたが、三韓やシナの史料には「倭」「倭王」という言葉が頻出します。 筆者は「倭」という言葉が嫌いなので、「日本」「日本列島」「九州北部」「ヤマト王権」などと適宜置き換えています。そして海外の史書…

117 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(3)

前回からの続きです。 栄山江流域の前方後円墳 朝鮮半島南西部の栄山江流域(えいさんこう)には、日本の古墳と酷似する前方後円墳が13基確認されています。これらの前方後円墳は突然出現して、急速に姿を消しています。5世紀後半から6世紀前半に成立した…

116 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(2)

前回ブログの続きです。 高句麗・三韓の合従連衡 391年に高句麗では広開土王(好太王とも、在位391~412年)が即位し、百済に占領(371年)された領土の回復を図り、396年には漢江以北の地を奪回します。そこに至る高句麗変貌の歴史を確認してみます。 4世…

115 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(1)

第97回ブログで朝鮮半島の古代史を概括しました。 また、4世紀における日本と百済・伽耶の関係については第111回ブログでやや詳しく言及しました。しかし、それでもまだ足りません。 今後、5、6世紀までの日本の古代史に触れるには、遠交近攻が渦巻く朝鮮…

114 謎の4世紀 ヤマト王権 vs 九州王権

4世紀と言えば、古代天皇の在位(第19回ブログに準拠)でみれば垂仁から応神までに相当しますよね。 この間、『記・紀』では、景行の西征、ヤマトタケルの征討、朝鮮出兵、応神による政権奪取などが記されていますが、どうして「謎の4世紀」と呼ばれるので…

113 トンデモ古代史

今まで、4世紀の遠征物語は虚構(第98回ブログ)などと述べてきましたが、過去の事象が書かれた文献を調べる時は慎重であるべきとつくづく思います。 過去の人が、さらに過去の事象を記録した文献には、過去の人の歴史感覚や価値観にマッチしたものだけが反…

112 神功皇后の三韓征伐について

神功皇后伝説が生まれたバックグラウンド 第98回ブログでは、神功皇后の三韓征伐を虚構であると断じました。4世紀半ばという時期に着目すれば、まだメジャーになっていない敦賀から出発する不自然さや、準構造船(第54・55回ブログ)が存在しないのに三韓征…

111 4世紀における列島各地の政治勢力(その2) 

前回の続きです。 吉備地域 古代、吉備の穴海が存在した吉備地域は、地政学的に陸上・海上交通の要の位置にありました。このため、紀元前から人が集住し独自の文化を築いてきました。 水田稲作の開始(第60回ブログ)は、九州北部が最も早く紀元前10世紀頃で…

110 4世紀における列島各地の政治勢力

前回のブログに関連しますが、4世紀におけるヤマトタケルの全国制覇が虚構ならば、この時期の列島各地は、実際にどんな状況だったのか、今回はその真の姿を確認してみようと考えました。 第100回ブログの最後に、「3、4世紀の列島全体を見渡すと、今なお…

109 ヤマトタケルの全国制覇物語

第98回ブログで少し触れましたが、改めて4世紀頃に全国制覇したとされる「ヤマトタケル伝承」について掘り下げてみたいと思います。

108 特殊壺・特殊器台から円筒埴輪、形象埴輪へ

前回のブログで埴輪の起源に触れましたが、折角なのでもう少し掘り下げてみます。 論考の重点を「古代の交通インフラ」に置いている筆者にとって、もっとも身近な埴輪は舟形埴輪です。第54回ブログの中で、二股構造形式の準構造船埴輪(高廻り2号古墳出土)…