理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

86 ヤマト国の発祥(2)地勢上の優位、交通・交易面での優位

なぜ大和盆地が、なかでも纒向の地(それに続く続くヤマト国)が広域的な地域関係の中心として大きく飛躍する起点になったのでしょうか。 地勢面に関しては、次の3項が飛躍の要因になったと考えられます。1. 広大な平地の存在2. 海・川・湖を結ぶ多方面…

85 ヤマト国の発祥(1)無主の地に忽然と出現?

第70回から75回のブログで、邪馬台国がヤマト国に連続しないことを確認しました。よって纒向集落はヤマト国(ヤマト王権の初期状態)の前段階のクニの姿と位置づけられそうです。 考古遺跡・遺物の存在から、(仮に崇神が3世紀末に実在したとすれば)崇神以…

84 箸墓古墳の築造は4世紀?

3世紀の大和盆地に邪馬台国の存在を思わせるものは皆無 第82回ブログで言及した通り、近畿の主要な遺跡を確認してみると、やはり邪馬台国近畿説は否定せざるを得ません。中でも大和盆地の唐古鍵や纒向には邪馬台国につながるような証拠(3世紀半ば頃までの…

83 古代国家成立プロセスと万世一系の捉え方

当ブログは、この先、「ヤマト王権の発祥と成長」について筆を進めていくことになりますが、その前に明確にしておきたい点を2つばかり述べておきます。 古代国家成立プロセスに関する2つの捉え方 3世紀から6世紀末にかけての古代国家成立プロセスに関し…

82 3世紀頃までの近畿のクニ・ムラ

第60回ブログで確認したように、最近の学説では、日本の水田稲作の開始時期は紀元前10世紀頃まで早まり、水田稲作は列島各地にゆっくりと拡散し、東北北部には紀元前4世紀、関東南部には紀元前3世紀に到達したと考えられています。 大阪湾沿岸、大和盆地、…

81 神武天皇陵と闕史八代の虚実

神武が実在した人物でないことは、これまで度々論じてきました。 しかし、『記・紀』の編纂時点では神武が日本の始祖とされていた、これは疑いようのない事実です。また7世紀後半に、畝傍山の周辺に初代神武の宮がおかれ、陵が築造されていたのは間違いあり…

80 神武東征(4)先住の神ニギハヤヒ

大和の先住者は出雲の勢力? 奈良盆地の東南部に位置する纏向地域では、高度な建物群遺跡が発掘されています。崇神・垂仁・景行という三代の天皇(三輪山三代)の拠点と考えるのが常識的ですが、大型建物の造りは出雲系の特色を残しており、古代出雲と政治的…

79 神武東征(3)大和への進入ルートについて

神武東征物語は虚構とは思うものの、1~2世紀頃に大和へ軍事進攻する場合、どのようなルートが現実的だったのか検討してみます。古代史としてはお遊び程度に過ぎませんが……。 熊野からの大和入りは可能だったのだろうか はたして2世紀前半頃に、神武一行…

78 神武東征(2)九州北部から瀬戸内海東進

神武東征はフィクションなので古代史研究の対象外ですが、それでも7、8世紀の政権中央が神武東征の行程をどのように構想していたのか、子細に検討してみればいろいろと面白いことがわかります。 神武東征の出発地は九州北部かも? 日向から難波までの行程…

77 神武東征(1)日向からの旅立ち

邪馬台国の存在は信じても、神武東征を史実とみなす研究者はさすがに少ないようです。 筆者も神武東征物語や神武天皇の実在をベースとした古代史には与しません(第76回ブログ)。 それでもこの物語を無碍に扱わずに紐解いてみれば、さまざまな発見があって…

76 神武天皇の実在性と建国神話 

ヤマト王権誕生に言及する手始めとして、「神武天皇」を取りあげてみます。 神武は『記・紀』では、「神々の世界」と「人の世界」をつなぐ位置に存在する人物です。 大東亜戦争敗戦前には、神武は建国の英雄として崇められていたことは誰しもが知るところで…

75 なぜ『記・紀』は近畿の銅鐸に触れないのか?

邪馬台国については、九州北部から東遷してきて大和の地に定着したとか、最初から大和の地にあったとも言われています。いずれの場合も大和の旧勢力を倒した後は、新たな祭祀を軸に大和政権につながったと。 その根拠としてよく取り上げられるのが、3世紀前…

74 邪馬台国大和説と銅鏡

考古学界では、三角縁神獣鏡に関する次のような説が根強く語られてきました。 畿内で集中的に出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡100枚に違いない。したがって邪馬台国は畿内にあったに違いない……と。 しかし近年、三角縁神獣鏡は下賜され…

73 『魏志倭人伝』と『記・紀』から読み解く邪馬台国

第71回ブログで言及した「古代シナ人の世界観」からすれば、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国までの距離や方角にとらわれることは、全く意味のないことになってしまうのですが……。 そうは言っても、(距離や方角の記事以外で)所在地の推定に有効と思われる…

72 倭国大乱の実像

「倭国大乱」はどの程度の規模だったのだろうか。これについては諸説あり、見解が分かれています。 九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは、矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡で…

71 古代シナ人の世界観

前回、邪馬台国の所在地の謎を解明するには、『魏志倭人伝』が書かれた当時のシナの地理観・世界観・天下観を確認してみる必要性に触れました。 筆者は、邪馬台国の所在地を検討する場合は、これから述べる内容を一丁目一番地として、すべての研究者が共有す…

70 邪馬台国はどこにあったのか?

<佐賀平野を吉野ヶ里遺跡へ向かう(前方は脊振山地)> 令和3年になりました。 初夢というわけでもないですが、正月にふさわしく、「楽しい?」テーマを取り上げてみようと思います。 筆者は、日本の古代史を俯瞰する際、邪馬台国の所在地はもちろんのこと…

69 海部氏と本系図・勘注系図

<丹後国一宮 籠神社の神門> 前回・前々回は代表的な海人族の活躍についてレビューしたので、今回は丹後海部氏について言及することにします。 筆者は、2011年、2013年の2回、海部氏が宮司を務める丹後国一宮「籠神社」に参拝しているので、その旅行記を兼…

68 古代のダイナミズムを生んだ海の民(2) 

<住吉大社 第二本宮本殿> 前回に続いて、海の民について言及します。 津守氏について 安曇氏や宗像氏は、先進地域であった朝鮮半島から鉄器をはじめとする文物の輸入に深くかかわることでヤマト王権の権力基盤の強化に貢献してきました。 しかし6世紀にな…

67 古代のダイナミズムを生んだ海の民(1)

弥生時代末期から3世紀頃までの日本海側の交易について概括したので、今回は、第52回・53回ブログで予告した「海の民の活躍」について考えてみます。 チャレンジ精神で交易を担った海民集団 現在の日本は、4つの大きな島を含め合計6852もの島から成りたっ…

66 3世紀頃までの九州北部・山陰の交易(3)

前回の続きとして、四隅突出型墳丘墓と青谷上寺地遺跡について補足します。 四隅突出型墳丘墓 ヒトデのような格好の四隅突出型墳丘墓ですが、これら出雲の墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓は、ほぼ同時期に存在したと推測されています。 そして、西谷3号墳丘墓の埋…

65 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(2)

<宍道湖北岸の蕎麦畑> 前回の続きですが、古代の出雲と因幡について補足します。 出雲政権はあったのか? 古代史を検討する際に避けて通れないのは、「出雲の隆盛と国譲り」に関する論考です。 まずは、「3~4世紀の大和政権誕生に先立って、西日本全域…

64 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(1)

<大社湾越しに三瓶山遠景> 第38・40回ブログで、日本海側における「広範囲にわたる潟湖の存在は、朝鮮半島との南北交易を地域間の東西交易に転換でき、古代の日本海文明において重要な結節点の役割を担ってきた」と記しました。 今回は、紀元前1世紀頃か…

63 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(2)

<平原1号墓(福岡県糸島市)> 前回の続きです。 2世紀頃の九州北部 玄界灘沿岸のクニグニは、朝鮮半島との交易によって栄え、2世紀に向けて伊都国を中心にまとまっていきます。 その中心的な集落は、まず紀元前後の三雲南小路遺跡で、続いて1世紀頃の…

62 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(1)

<着陸寸前の機内から海食崖の続く対馬を望む> 紀元前の古代シナや朝鮮半島の人びとが、九州北部を「倭国」や「倭人のクニ」と認識していたかどうかに関係なく、九州北部にムラが生まれ、やがてクニに成長し、それらのクニグニが朝鮮半島と交易をしていたこ…

61 クニの始まりと倭人について

<鏡山頂上から虹の松原を望む(唐津市)> <夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ>。 これは『漢書地理志』に記された有名なフレーズですね。シナの史書における「倭人」という言葉の初出とされます。 多くの古代史…

60 水田稲作の伝来・伝播 

弥生時代とは? 藤尾慎一郎氏による『弥生時代の歴史』は、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までの日本列島の状況を知ることができる良書です。 今回は、同書からの抜粋を中心に、池橋宏氏の稲作渡来の論考も加味して、九州北部と本州における弥生時代の景…

59 当ブログのこれから

前回までで、「古代史に向き合うスタンス(第1~10回)」、「神話や考古学に向き合うスタンス(第11~24回)」、「人・モノ・情報のネットワークと古代の技術・交通インフラ(第25~58回)」について、ひと通り言及しました。ブログをスタートしてから既に…

58 『記・紀』に登場する船・舟

<磐船神社・社殿に覆い被さる巨岩> 「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。古代日本にとって海は重要な交通路だった。海に囲まれた日本は、外国との往来は船に頼るしかない。日本列島を取り囲む海や、強い流れの海流・潮流は自然の障壁でもあったが、古…

57 古代の瀬戸内海航行

実に多くの研究者が、瀬戸内海は古代から(研究者によっては縄文時代からとも)「歴史的な物流ハイウエイ」だったと述べています。 確かに多くの文物が行き来し、文化が伝播したことは間違いありません。 しかし、5世紀以後ならともかく、それよりも前の時…