理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

122 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(1)


 <薬香草園>

 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログなど)。

 闕史八代に続く崇神・垂仁・景行の三輪山三代は、実在が不確かで人物が特定できませんが、同時期の遺跡は纒向ならびにその近辺に確認できます。おおやまと古墳群を構成する各古墳が『記・紀』のどの王を祀ったものなのか詮索することにあまり意味はありません。どうせよく分からないのですから(第83回ブログ)。ヤマト王権発祥の地であったことさえ確認できれば十分でしょう。

 そして、成務、仲哀、神功皇后の代になりますが、彼らの事績は伝説的・寓話的な内容で彩られていて、実在そのものが明確ではありません。
 では、続く応神、仁徳はどうなのでしょうか。

 応神、仁徳という名を持った王の存在や事績は『記・紀』でしか知ることはできません。他の古文献に記される内容は、すべて『記・紀』を出発点として膨らませ潤色を加えたものです。

 そこで、『記・紀』に記載された内容を改めて確認してみます。
 まずは応神の事績から。

 

『記・紀』から読み取れる応神の事績と実在性
 『日本書紀』の記載内容をかいつまんで記すと、次のような塩梅です。

 筍飯大神(けひのおおかみ)との名替えで、大神は去来紗別神(いざさわけのかみ)に、応神は誉田別尊(ほむたわけ)に。

 朝貢してきた蝦夷を使って厩坂道(うまやさかのみち)を造らせた。

 各地の漁民が起こした騒乱の収拾のため、安曇連の先祖である大浜宿禰を派遣して鎮め、彼を漁民の統率者とした。

 百済が、礼を失した辰斯王を殺害して陳謝、代わりに紀角宿禰らが阿花王を立てた(『百済記)からの引用)。

 海人部、山守部を定めた。

 伊豆国に枯野と呼ぶ巨大船を造らせた。

 阿花王が王子直支(せしむとき)を遣わして好を修めた(『百済記』からの引用)。

 武内宿禰(たけのうちのすくね)に弟からの讒言があり、探湯(くがたち)をさせて収拾。

 日向から髪長媛を召して仁徳に娶わせる。

 弓月君が渡来。百済の民を救出するため、葛城襲津彦を派遣した。

 阿直岐(あちき)、王仁(わに)が渡来。ウジノワキイラツコの学問の師とする。

 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)らを派遣して葛城襲津彦を帰還させた。

 阿知使主(あちのおみ)らが渡来した。

 難波に行幸し、妃の兄媛が吉備に帰るのを許す。

 吉備国を分割して御友別(みともわけ)の子たちに賜った。

 枯野の船材を薪として塩を焼き、諸国に施す。焼け残りの木で作った琴が良い音を響かせた。諸国から献上された多数の船が武庫で火災にあう。

 木満致(もくまんち)を日本に呼びつけ咎めた(『百済記』を引用)。

 3人の子のうち、ウジノワキイラツコを後嗣とする。

 

『古事記』では以下の通り。

 矢河枝比売(やかはえひめ)をみそめてウジノワキイラツコが生まれた。

 3人の息子である大山守命、オオサザキ(仁徳)、ウジノワキイラツコのそれぞれに対して、役割を授け「三分治」とする。

 髪長比売を召して仁徳に娶わせる。

 国主(くず)が産物を献上し、国主の歌を歌う。

 海部、山部、山守部、伊勢部を定める。

 剣池、百済池を造る。

〇 百済の照古王が、阿知吉師を遣わし馬を献上する。横刀、大鏡を献上。

 百済に要望し、和邇吉師、卓素などが渡来する。

 大山守命の反逆事件。ウジノワキイラツコが死亡し、オオサザキが大王になる。

 天之日矛(あめのひぼこ)の渡来物語。

 秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫の物語。

 以上、大雑把に纏めてみましたが、応神に関する多くの記事は、とても古代史の軸になりそうもない伝説的なもの。付随して歌謡の記事が多くを占めています。
 そして後世の事象を遡らせたものが大半であることが目につきます。

 筆者が後世の事象と考える項目は次の通り。

 蝦夷を使って厩坂道を造らせたというのは後世の出来事を無理やり4世紀半ば頃に遡らせた『日本書紀』の造作(第44回ブログ)です。
 安曇族が海の民を束ねるようになるのは6世紀以降です(第67回ブログ)。
 海部・山部などの部民制は6世紀からです(第22回・67回ブログ)。
 準構造船の建造技術は存在しません(第58回ブログ)。

 こうしてみると、百済から何某かの技術者・学者を招いた以外に、応神の事績はほとんど何も残らない。朝鮮半島への派兵、百済との通交・往来や渡来人の記事も『百済記』からの引用がベースになっているようです。
 伝説に彩られたような応神は本当に実在したのでしょうか。母親の神功の実在は完全否定に近いので、応神の実在にも疑問符がついてしまいます。

 

『記・紀』から読み取れる仁徳の事績と実在性
 仁徳についても、『記・紀』に記された事績は根拠が薄弱で、徳のある聖人として崇める伝説的なものが大半です。

 『日本書紀』では以下の通り。

 ウジノワキイラツコは、大山守の企みを封じて殺害し、即位辞退の後に自殺。

 大和・摂津の屯田(みた)と屯倉(みやけ)の支配をめぐる諍い。

 生き返ったウジノワキイラツコと言葉を交わす。

 高津宮で即位。オオサザキの名の由来譚。

 民の竈の煙。課役の免除。聖帝と崇められる。

 壬生部、葛城部を定める。

 堀江、茨田の堤、大溝など、池・堤・水路の築造。

 京の南門から河内を縦貫して丹比邑に至る難波大道を敷設。

 八田皇女(やたのひめみこ)をめぐって皇后と不仲に。

 皇后磐之媛の死去とヤタノヒメミコの立后。

 鳴く鹿と佐伯部の由来譚。

 雌鳥皇女(めとりのひめみこ)をめぐり隼別皇子(はやぶさわけのみこ)と対立、二人を殺害。

 新羅が朝貢しないので討伐した。

 蝦夷の叛乱を鎮圧。

 和珥臣の先祖の難波根子武振熊を派遣して飛騨国の両面宿儺を征伐。

 河内の石津原に出向き、みずから百舌鳥耳原に陵墓を定めた。

 他は、朝鮮半島との通交、往来に関する記事。

 

 次は『古事記』の内容。

 御名代として、さまざまな部を定めた。

 茨田堤、依網池、難波の堀江、墨江の津など、多くの池、堤、港を築いた。

 国見をして、民の竈の煙が見えないので課役を免除する。聖帝の世。

 皇后が吉備の黒日売(くろひめ)に嫉妬する。

 皇后が紀国に出かけている間に、八田若郎女(やたのわきいらつめ)と結婚。皇后は怒って難波の皇居に戻らず、葛城高宮に向かう。

 蚕を見るために皇后と再会。ヤタノワキイラツメのために八田部を定める。

 女鳥王とハヤブサワケが反逆し、倉橋山、宇陀と逃げて殺害される。

 枯野という大船の巨木説話。

 

 このように、仁徳の女好き、磐之媛の嫉妬、地名の由来譚に加え、多くの歌謡を差し挟んで、歌物語的に語られた伝説(伝承ではない)が多いのが特色です。肝腎の事績についても下記のように史実とは考えられないことが多く記されています。

 民の竈に煙が立たない様子を高殿から見た仁徳が税の徴収を免除したという逸話については、5世紀の一般層に竈が普及していたという史実はなく、5世紀に税を徴収していたという事実もないので、徳に満ちた聖帝であることを強調したものと考えられます。

 『記・紀』には難波堀江、茨田の堤、大溝や依綱池などの築造記事が載っていますが……。
 鉄の供給が十分でなかった時代にこれだけのインフラ工事が出来るはずがないので、これらの多くは仁徳の時代よりもかなり下り、早くても5世紀後半、おそらく6、7世紀頃までの築造・築堤だったのではないか。

 ちなみに、垂仁の時代に造られたと伝わる狭山池(第102回ブログ)については、20世紀末のダム化工事の際に古墳時代の遺構が見つかり、約1400年前に造られたのではないかと推定された。たまたま見つかった樋の年輪年代測定の結果だけなので確実とは言えないが、どうやら7世紀初めの築造だった模様。

 もっとも、同時期に巨大古墳がたくさん築造されているので、鉄の供給が不十分でもこれらの土木工事は可能だったという論考もあります。
 しかし筆者は、「技術革新の5世紀」の意味を「5世紀から始まる技術革新」と捉え、池溝の大規模土木工事が本格的に軌道に乗るのはむしろ6、7世紀と考えています。いずれ「5世紀の技術革新」に言及する時に詳述します。

 日本の文献で、最初に現れた直線道路の記録は、仁徳紀14年の<是年、大道を京の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑に到る>ですが、5世紀前半に河内平野を南北に縦貫する難波大道が実在した可能性は低いでしょう。
 通説では、608年にシナの煬帝(ようだい)によって派遣された裴世清が、難波から飛鳥まで大和川を遡上します。この時の大和の道路は貧弱で、それを気に病んだ推古が道路の整備に本腰を入れ、613年の難波から飛鳥に到る大道(今の竹内街道か)の啓開に繋がったと思われます。
 また孝徳の653年に<処処の大道を修治(つく)る>とあり、これらの一連の大道工事が仁徳の大道啓開に仮託されたのではないかとされます(第43回ブログ)。

 以上、仁徳の時代に河川の氾濫に苦しむ河内平野に、大規模土木工事を行い、茨田の堤や大溝を築き、直線道路を通すなどの開発記事が集中していますが、これは聖帝として位置づけるために後世の事績を遡らせて挿入した説話とみることができます。

 一方、遺跡・遺物などの状況から、5世紀のうちに河内平野で生産基盤の配置や難波津の整備など、大掛かりなインフラ整備が進み始めたことは事実でしょう。しからば、仁徳は政治拠点を河内に移していたのかどうか……。

 第100回ブログで言及したように、4世紀末にヤマト王権は、朝鮮半島との外交・通交に便利な河内に進出し、応神は難波に行幸して大隅宮(おおすみのみや)を設け、一説ではそこで崩御し、仁徳は5世紀初めに難波高津宮を本拠としたと伝わります。
 しかし、『古事記』に記された雌鳥女王・隼別王の伝承では、仁徳に背いた二人が東方の宇陀に逃げる起点が磐余の倉橋山とされており、仁徳の王宮が磐余にあることが前提として描かれています。

 したがって、5世紀にヤマト王権は河内に進出したと言われますが、全面的に大和盆地から河内へ政治拠点を移動したのではなく、大和盆地東南部にも政治拠点があったと考えるべきでしょう。

 闕史八代(けっしはちだい)は事績がなく、つまり歴史がない8代なので実在が疑わしいとされたわけですが、このように見てくると、応神・仁徳の記事も伝説的なものが多く、後世の事績を遡らせたものが大半で、闕史八代よりも内容は充実しているものの心もとない感が残ります。

 

応神・仁徳同一人物説
 下記のように、応神と仁徳の事績には多くの共通点があります。

 大和や河内での池や大溝の大土木工事。

 部制(べせい)の設置。

 枯野という大船を建造。

 百済をはじめ朝鮮半島との通交、渡来。

 事績に多くの共通点があることに加えて、『古事記』応神記の国主(くず)歌の中で「品陀(ほむた)の日の御子、大雀(おおさざき)」とあることから、ホムタノヒノミコであるオオサザキという解釈が可能で、同一人格ではないかという論考も出てくるわけです。

 直木考次郎氏はホムタワケが本来の名であり、やや時代を経てオオサザキの別称が生じたとしています。さらに時代が降って、二人の大王に分化し、ホムタワケが始祖として神秘的・神話的性格、オオサザキは現実的な性格をそれぞれ担ったとしています。

 筆者は、神功の実在に疑義を呈してきたので、どちらかと言えば応神の実在に疑問符をつけたくなります。
 対する仁徳の方は、実在の確証はないのですが、河内に親和性がありそうに思えます。

 応神と仁徳は史上何本指かに入る立派な天皇とされていますが、『記・紀』編纂当時の扱いについては、第98回・112回ブログでも述べました。

 応神は『記・紀』の中では特別な扱いを受けておらず、母親の神功(実在に疑問符がつくが)に大きな政治的・軍事的業績があったのと比較すると、如何にも物足りません。したがって、応神が当初から高い格を持っていたとは考えにくいわけです。

 8世紀以降、「宇佐神宮」の神威が高まり、5世紀初めの応神が、5~6世紀も後の平安時代になってから、八幡信仰がらみで人気が高まったものと考えるべきでしょう。平安時代になって、規模の大きな誉田御廟山古墳が応神の陵墓に比定され現代に至ったと言えそうです。

 後づけで名声が高まるのは、仁徳についてもあてはまります。
 仁徳在位のかなりあとになってシナから持ち込まれた儒教の影響で、「仁政思想」の象徴としてその事績が誇張して語られたというのが真相です。古代シナの「堯」や「舜」のような儒教的聖天子として描こうとしたのでしょう。

 「応神」や「仁徳」という高い格を意味する漢風諡号も、「記・紀」の編纂よりもずっと後の760年代になって、淡海三船によってつけられたものですよね。

 以上のような事情から、応神・仁徳に関する『記・紀』の記述は、後世の事実を繰り上げた事績や、寓話的・伝説的な内容が多く、あまり信用できるものではありません。

 ヤマト国(初期ヤマト王権)が纒向で発祥後、実在が確かな雄略、継体までを繋ぐ王が存在したことは当然ですが、それが応神・仁徳として記された人物であるかどうかは疑問が多いと言えそうです。

 応神・仁徳の二人は同一人物だったかもしれず、二人とも実在しなかったかもしれず、大山守命やウジノワキイラツコが大王だった可能性も排除できず、もしかしたら『記・紀』には全く登場しない大王がいたのかもしれません。それを知る手立ては今のところありませんね。

 

履中系vs允恭系の血を血で洗う対立
 これに対し、『日本書紀』に描かれた仁徳の息子たちから始まる骨肉の争いは、物語的な要素が少なく、描写が細部にわたっていて、すべてを事実とすることは出来ないまでも、ある程度史実を反映していると考えることが可能です。

 それに加えて、『記・紀』における仁徳までの大王系譜は、みな一代前の大王の子供という父子相続(第81回ブログ)となっていますが、平均寿命も短い古代において、父子相続が何代にもわたって安定的に続くことは、とても理解できませんね。

 ところが、仁徳以降の5世紀代の大王には兄弟相続が多く見られるので、それ以前に比べて大王系譜の史実性が高まっていると思えます。

 ということで、仁徳の代から始まる骨肉の争いを『記・紀』から確認してみます。


<倭の五王の表記は坂靖氏によるもので、筆者は同意せず>

 『日本書紀』によれば、応神の没後、3人の王位継承者がいたが、ウジノワキイラツコが兄の大山守命を殺したあと自殺したため仁徳が王位を継ぎます。その仁徳が没した後、仁徳の子と孫の世代で、さらに激しい身内争いが始まります。

 仁徳が亡くなると、葛城氏系の平群(へぐり)の木菟宿禰と結んだ履中と、難波に本拠をおく阿曇連浜子に推された住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)との間で、羽田八代宿禰の娘の黒媛をめぐって争いが起こる。
 住吉方に加担した阿曇連は海民集団を統率する立場(第67回ブログ)にあったし、同じく加担した倭直も、拠点は大和盆地にあったが海の民との関係は密接だった。
 つまり、履中と争った住吉仲皇子は、海民集団に支持されていたといえる。

 この争いは結局、履中の弟の瑞歯別皇子(みつはわけ、後の反正)が近習の隼人を使って住吉仲皇子を殺害したことにより、履中が王位を継承した。

 履中の没後、長男の市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)は未だ幼いため、王位を継承しなかった。『記・紀』は反正が継いだとしますが、やがて反正が亡くなると、弟の允恭(いんぎょう)は王位に就くのをいったんは辞退した。その後、妃の忍坂大中姫(仁徳の弟の娘)の熱心な勧めを受けて結局大王となった。

 さて、允恭の子の世代になると、次のような事件が相次ぎます。

 允恭の崩御に伴ない、長男で皇太子の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)が即位すべきだったが、キナシカルノミコは同母妹と関係する禁忌を犯したため、群臣が心腹せず弟の安康の側についたため対立。キナシカルノミコは物部氏を頼ったが安康の兵に囲まれ、物部氏に説得されて自殺した(または伊予に流された)。

 安康が、叔父で仁徳と日向髪長媛との間に生まれた大日下王(大草香皇子)を殺害し、若日下女王を雄略后妃とする。

 安康はわずか3年の在位で大日下王の子の眉輪王(まよわのおおきみ)に殺害される。

 安康の弟である雄略(まだ皇子)が眉輪王と彼を庇護した葛城円大臣(つぶらのおおおみ)を殺害する。

 雄略(まだ皇子)は、安康が履中の子で従兄弟の市辺押盤皇子に王位を譲ろうとしていたのを恨んで、市辺押盤皇子を殺害して(雄略として)即位。

 これによって履中の系統は実質的に断絶してしまいます。

 この後、『日本書紀』では、履中の孫(つまり市辺押盤皇子の子)に顕宗仁賢飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ)がいたとしていますが、いかにも物語的で真実味に欠け、万世一系を成立させるために後世の編者が工夫した産物とも言えそうです。

 これらの伝承からみて、5世紀の大王家は、仁徳の長男の大日下王(大草香皇子)や履中から繋がる王族と、允恭の子孫にあたる王族との2系統に分かれて対立していたと考えるほかはありません。

 両系統が血で繋がっていたかどうかも定かではありませんが、短期間に対立・抗争を繰り広げ、殺害を繰り返す異常な状況が生じているのは事実で、とりわけ允恭系から履中系への殺害が目立ちます。
 親和的関係であったとはとても考えられず、対立関係にあったことは確かでしょう。

 この対立を加速し複雑にしたのは葛城氏と考えられます。

 仁徳から始まる履中系では、仁徳は磐之媛を、長男の履中は黒媛を、その息子の市辺押盤皇子は荑媛(はえひめ)を娶り、三代にわたって葛城氏と姻戚関係を結んでいます。
 これに対し、允恭系は、どういうわけか葛城氏と姻戚関係にありません。雄略が娶った韓媛は不始末の詫びとして献上されたものなので、別物です。

 この允恭系と葛城氏のあいだで、紛争(眉輪王と葛城円大臣の殺害など)が起こるわけです。この詳細は、葛城氏に言及する時に再度、取り上げます。

 5世紀の大王は、百済や伽耶諸国との交易で得る利益をほぼ独占できるので、海人(海民)集団の支持を得た王族間や、さらに海人(海民)集団によって支援された豪族も交えて、大王位が争われたという背景も考えられます。

 いったい彼らは、どこに政治拠点をおいて争っていたのでしょうか。また彼らを祀る陵墓はどこに存在するのでしょうか。そこから「5世紀のヤマト王権のかたち」を読み取れないでしょうか。次回に続きます。

 

参考文献
『倭国 古代国家への道』古市晃
『倭国の古代学』坂靖
『古代日本 国家形成の考古学』菱田哲郎
『古墳解読』武光誠
『古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎』古川順弘
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『謎の豪族 葛城氏』平林章仁
『古代天皇陵の謎を追う』大塚初重
『天皇陵古墳への招待』森浩一
『天皇陵の謎』矢澤高太郎
他多数